夜の工業区画に、黒い霊圧が──降っていた。
廃棄された倉庫群。錆びついたフェンス。ひび割れたアスファルト。昼間でさえ人の気配を拒むその区画は今、死神たちの結界によって現世から「完全に隔絶」されている。
結界の、内側。
───“それ”は、湧いていた。
一体や二体ではない。
倉庫の影から。屋根の上から。引き裂かれた空間の「黒い裂け目」から。白い仮面を被った異形どもが、泥のように次々と這い出してくる。
個々の霊圧は低い。席官に満たない一般隊員であっても、呼吸を整え、一対一で向き合えば容易に斬り伏せられる、その程度の「雑魚」だった。
───だが、数が違った。
「東側───防衛線、抜かれます……!!」
「結界班、霊圧補填が追いつきませんッ!!」
「負傷者を下がらせろ! 前衛、絶対に穴を埋めろ───ッ!!」
死覇装を血と泥に染め、一般隊員たちは、すでに限界の底にいた。
一体を斬れば、二体が飛びかかる。
二体を払えば、引き裂かれた虚空から、さらに三体が這い出る。虚の群れは、まるで黒い泥の波となって隊列へ押し寄せ、死神たちの封鎖線を確実に、そして冷酷に削り取っていく。
このままでは、結界が破れる。
結界が破れれば───現世が、喰われる。
それが分かっているからこそ、彼らは退けない。だが、退かない意志と、押し返せる力は、決して同義ではなかった。
「くそっ……! この数は、俺たちだけじゃ───」
隊員の一人が、絶望を口にし掛けた、その瞬間。
───す、と。
白い羽織が、夜の底へ降りてきた。
霊圧の揺らぎすら無い。
誰も、その「到来」に気付けなかった。
気付いた時には───彼女はすでに、防衛線の最前に立っていた。
護廷十三隊十番隊隊長───蒼星乙女。
背に「十」の文字を背負う女は、血生臭い工業区画には酷く不似合いなほど、静かに、ただ佇んでいる。
深い「赤」の髪。
丸みを帯びた短めのそれは、夜風に煽られるたび、まるで燻る炎の残光のような艶を帯びた。
大きく分かれた前髪。その片側から肩先へと垂れる一房の三つ編みと、その先端を結ぶ黄色いリボンだけが───戦場の死気の中で、場違いなほど軽やかに揺れていた。
整った目元には、焦りも、怒りも、無い。
ただ、その口元に。
刃のように薄い、笑みがある。
それが強者の余裕なのか。
異形への興味なのか。
それとも、ただの───“癖”なのか。
眼前に蠢く、虚の群れ。
血を流し、地に伏せる隊員たち。
今にも引き裂かれんばかりに軋む、結界
すべてが壊壊の危機に瀕しながらも、なお───蒼星乙女という死神は、読めない。
「……蒼星……隊長……!」
最前線の隊員が、喉を鳴らして息を呑む。
「───申し訳、ありません……ッ!我々だけでは……処理が……追いつきません……!」
詫びる隊員の言葉を、蒼星はただ、静かに聞き流している。
その凛とした瞳が、潮のように押し寄せる異形の群れを───淡々と、眺めていた。
仮面の群れ。濁り、腐った霊圧。獣じみた、不快な唸り声。
数だけは、確かに多い。
───だが。それだけ、だった。
蒼星は、わずかに首を傾げた。
その口元に浮かぶ薄い笑みのまま、ひどく軽い調子で───言葉を、零す。
「そうなんや。なら、私が出るしかないねぇ」
まるで、少し面倒な雑用を頼まれた時のように。
あまりにも軽い、平坦な声。
けれど───隊員たちは、誰も笑わなかった。
知っているからだ。十番隊隊長・蒼星乙女が、そのような聲音で話す時ほど。
その本質が───底知れない“本気”にあるのだということを。
「負傷者は後ろ。結界班は出力を落として維持だけにしとき。無理に押し返さんでええよ」
「ですが……! それでは虚が───」
「ええよ」
重ねられた言葉の重みに、隊員は息を詰まらせ、言葉を失った。
蒼星は、す、と一歩、前へ出た。
虚の群れが───彼女を見た。
蒼星の瞳が───虚の群れを捉える。
「数が多いだけなら、ただの掃除やね」
───シャ、と。
無造作に、斬魄刀が鞘から引き抜かれる。
その刃に。
ぽぅ、と、赤い火が灯った。
まだ、解放すらしていない───ただの、火。
しかしその緋色の火の粉は、夜の闇を無慈悲に侵食し、散る。
蒼星の赤髪を。黄色いリボンの影を。
そして迫り来る異形たちの白い仮面を───不気味なほど鮮烈に、照らし出した。
最初の虚が───跳んだ。
蒼星は、半歩だけ身体をずらす。
爪が白い羽織の端を掠める、その刹那。
赤い火を帯びた刃が、白い仮面を縦一文字に斬り裂いていた。
断末魔すら無く、虚が燃え落ちる。
続けて、二体。三体。
蒼星は大きく動かない。
無駄を極限まで削ぎ落とした足運びで、肉薄する虚の首だけを正確に、冷酷に、毟り取っていく。
刃が奔るたび、緋色の火が一瞬だけ鮮烈に咲き、異形の黒い身体を内側から焼いて消した。
───隊員たちの間に、微かな安堵が広がる。
『隊長が、来てくれた』
『これで───持ち直せる』
だが、当の蒼星乙女は、退屈そうにその瞳を細めていた。
「うーん」
迫る虚の脳天を断ち割りながら、蒼星は小さく息を吐く。
「ほんまに、数だけやね」
赤い火が、また一体の絶望を焼き殺す。
「焼くだけの仕事かぁ。まあ、楽でええんやけど」
そう言いながら、蒼星は笑っていた。
人を、喰ったような笑み。
戦場に蠢くあらゆる生命の、誰一人として───その笑みの真意を、測り知ることはできない。
虚が迫る。
蒼星は、刀を軽く一閃した。
赤い炎が綺麗な弧を描き、三体同時に仮面を圧し折る。
燃え盛る虚が霊子へと還るよりも早く、その奥の闇から、さらに新たな虚が這い出した。
数は減っている。
───しかし、終わらない。
黒い裂け目から虚が湧き出る速度の方が、僅かに、早い。一般隊員たちの防衛線が削り切られた「理由」が、そこにあった。
蒼星は、刀を肩に乗せるように───無造作に、構えた。
「しゃあないね」
その声は、やはり、どこまでも軽い。
「少しだけ───咲かせよか」
───ドッ…!!!
空気の密度が、爆発的に変わる。
蒼星から放たれた霊圧の変貌に、隊員たちが総毛立ち、息を呑んだ。
刃の上で燻っていた赤い火が、一度だけ、大きく揺れる。
そして───ふっと、消えた。
訪れる、完全な、無音。
世界を焦がす言葉が、その薄い唇から零れ落ちる。
「───咲き攤け」
「『瑠璃緋』」
───始解。
世界が、白に染まる。
引き抜かれていた斬魄刀が、その
無機質な鉄の輝きは消え去り、刀身は雪のような「白」へと染まった。
その刃の中ほどを、一本の薄い「赫」の線が、まるで脈打つ血管のように真っ直ぐに走っている。
白い刃の表面に、静かに、炎が灯る。
先刻までの赤い火のような、荒々しく爆ぜるものでは、無い。
音も無く。熱も撒かず。
ただそこにあるだけで、周囲の霊圧の奥底へ深く、深く沈み込むような、底冷えのする
「白い炎」
───始解能力。
『白華』
「オォォォォ───ッ!!!」
本能的な恐怖に駆られたか、虚が絶叫し、飛びかかった。
蒼星は、音も無く一歩を踏み込む。
白炎を纏った刃が、異形の肩口を無造作に、深く、深く滑り落ちた。
───その、傷口に。
ぽう、と、瑠璃色の火の華が咲いた。
一瞬、誰もが美しい「花」だと思った。
だが───その花弁のすべてが、冷徹な「炎」だった。
「ガ、アッ……!!」
異形が、苦し紛れに自らの霊圧を爆発的に膨らませる。
傷を強引に塞ぎ、その不気味な炎を内側から押し潰そうと抗う。
───けれど。
その悍ましき抵抗の意志こそが、この『白華』の最高の餌に他ならない。
膨れ上がる虚の霊圧を喰らい───
瑠璃色の火の華が、絶望の真ん中で、ぱっと鮮烈に、開いた。
傷口から漏れ出る霊圧に───深く、深く根を張り、異形の内側へと燃え広がる。
肉を焼くのでは、ない。
血を焦がすのでも、ない。
ただ純粋に、奴らの持つ「霊圧」そのものを燃料に変え、内側からすべてを
「ギ……ガ、アアアアアアアアッッ!!!?」
虚が、この世の終わりのような悲鳴を上げた。
「力を入れたら、もっと咲くよ」
蒼星は、嗤った。
酷く、軽い声音。
「ほら───綺麗やろ?」
刹那、次の一太刀。
別の虚の腹に、美しい瑠璃の火の華が咲き誇る。
さらに、一体。
また、一体。
雪のように白い刃が夜の闇を切り裂くたびに、戦場に瑠璃色の火の華が乱れ咲いていく。
虚たちは狂ったように暴れ、抗い、己の霊圧を高めて炎を消し去ろうとする。
だが───抵抗すればするほど、火の華はその毒々しい花弁を、より大きく、残酷に開くのだ。
蒼星乙女にとって、これは未だ「戦い」の
虚を、斬る。
華が、咲く。
霊圧が、燃える。
───終わる。
ただ、それだけの、無機質な反復。ひどく退屈な「お掃除」だった。
───少なくとも。
“その瞬間”までは。
「……ん?」
蒼星の瞳が、僅かに、細くなった。
虚どもの「動き」が、変わった。
先刻までの獣どもは、ただ本能のままに襲いかかってきていた。斬られれば無様に暴れ、燃えれば叫び、霊圧を膨らませては『白華』の餌食となっていた。
しかし───今は違う。
瑠璃色の火の華を体中で咲かせ、爛れながら
───奴らは、互いに、寄り集まり始めていた。
一体の虚が、隣の虚の肉へと喰らいつく。
喰われた虚が悲鳴を上げるより早く、背後から別の異形がその二体へと覆いかぶさる。さらに奥の闇から、焼け崩れかけた虚どもが、磁石に引き寄せられる泥のように群がっていく。
───喰い合い。
───融合。
───霊圧の、強制収斂。
それは本来の進化ではない。
ただ、燃やされる恐怖と、眼前の死神への敵意だけが、虚たちの霊圧を歪に束ねていた。
奴らは互いの魂魄を喰らい、焼け爛れた霊圧を無理やり一つへと押し固めていく。
互いの魂魄を無理やり一つへと押し固めていた。
「た、隊長……!! 虚の霊圧が、融合しています……ッ!!」
結界班の悲鳴のような叫び。
「そうみたいやねぇ」
蒼星は、微笑った。
先ほどよりも、ほんの僅かに───愉しそうに。
「焼かれたくなくて、みんなで大きくなるんや」
ドロドロと虚の群れが潰れ、絡まり合い、やがてひとつの「巨大な影」へと変貌していく。
仮面が幾重にも重なり合い、悍ましい腕の群れが夜空へと伸びる。
足元のアスファルトが爆砕し、倉庫の壁が、その歪んだ霊圧の圧力だけで軋みを上げて崩落していく。
『白華』の火の華は、未だその肉体の随所に咲き誇っている。
だが───奴らはその炎ごと己の霊圧の海へと抱え込み、より巨大な「進化」へと至ろうとしていた。
───ドガアアアアアアンッッ!!!
大気が、一瞬で重度を増す。
一般隊員たちの膝が、突如として降り注いだ圧倒的な霊圧の質量に耐えかね、地面へと沈んだ。
蒼星は、白い炎を揺らす『瑠璃緋』を無造作に下ろし、眼前に生まれ落ちた「絶望」を見上げる。
幾百の仮面が、ひとつに。
濁り、沸き立つ、悍ましき霊圧。
虚の群れが、蒼星乙女を殺すために寄り集まった───「
その異形が、夜の底から、地鳴りのような咆哮を上げた。
「へえ」
蒼星の口元に、刃のような笑みが戻る。
「退屈な仕事で終わってくれたら、楽やったんやけどなあ───」
その奥底へ、おぞましい速度で赤黒い霊圧が収斂していく。
───“
放たれれば、結界ごと後方の隊員たちを塵ひとつ残さず呑み込む───決定的破壊の質量。
「くっ……!!」
「来るぞ、身構えろ───ッ!!」
死を覚悟し、隊員たちが身構えた。
だが───蒼星は、ただ静かに振り返る。
いつもと変わらない、酷く軽い調子で、彼女は言った。
「下がりや」
「た……隊長……?」
「こっから一歩でも入ったら───なんもかんも、燃やすよ」
冗談のような、声音だった。
けれど。
そこにいた全員の脳裏に、決定的な
蒼星乙女は、本気だ。
この女は───“守る”という目的のためならば。
眼前の敵も。この戦場も。
そして、後ろにいる
隊員たちが、恐慌を孕んで後退する。
結界班が出力を限界まで絞り、負傷者がさらに後方へと引き摺られていく。
蒼星はそれを横目で確認すると、雪白い『瑠璃緋』の柄を、無造作に握り直した。
───ふぅ、と。
刃に灯っていた白い炎が、逆流するように───蒼星自身の五体へと移る。
彼女の、霊圧そのものが、燃え始める。
圧倒的な「蒼炎」の気配が、夜の底で、静かに、深く、息を吐いた。
「さて」
蒼星は、中級大虚を見上げた。
凛と整ったその貌に、やはり、人を喰ったような笑みを湛えて。
深い赤髪が、狂い咲く霊圧の暴風に激しく揺れ───片側の三つ編みの先で、黄色いリボンが軽やかに跳ねた。
「大きくなったなら───燃えがいもあるねぇ」
背後で。
白い炎が、深い「蒼」の底へと、完全に沈む。
そして───蒼星乙女は、静かに、その二文字を告げた。
「───卍解」
その、二文字が落ちた瞬間。
───夜が、沈んだ。
音が、消える。
風が、止まる。
中級大虚の咆哮すら、遠い水底で響く残響のように───鈍く、霞んでいく。
白く燃えていた『瑠璃緋』の刀身が、ぎしり、と軋むように
雪白の刃が、伸びる。
厚みを、増す。
細身の斬魄刀であったそれは、蒼星の身の丈すら遥かに越える───巨大な大太刀へと変じていく。
だが、その刀身は。
黒でも、白でも、赫でもない。
深い、深い───「蒼」。
夜の底そのものを鍛え上げたような、澄み切った瑠璃の刀身。
刃の輪郭には、揺らぎの無い不気味な蒼炎が、静かに、ただ静かに纏わりついていた。
同時に、蒼星乙女の身体へと流れ込んだ白い炎が───その色を変える。
白から、蒼へ。
それは、外を焼く炎では、ない。
敵を炙るための火でも、ない。
蒼星自身の霊圧を
血肉ではなく。
魂魄ではなく。
己の持つ「霊圧そのもの」を薪にする、狂気の火。
蒼炎が、蒼星の肩を、腕を、隊長羽織の裾を───深い赤髪の輪郭を、薄く、鮮烈に縁取っていく。
炎に包まれているというのに、熱は、無い。
ただ、近寄る者の霊圧を根から灼き尽くすような、底冷えのする気配だけが戦場を支配していった。
そして───
蒼星の背後に、“日輪”が開いた。
最初に現れたそれは───赫かった。
燃え盛る夕陽のような、赫。
命を、燃やし始めた証。
まだ完全なる蒼炎へと至る前の、緋色の炉。
蒼星は、蒼い大太刀を片手で無造作に下げたまま、薄く、嗤う。
「───『瑠璃緋天燼』」
その名が告げられた瞬間。
圧し潰されていた隊員たちの背筋に、世界そのものが拒絶を起こすような───圧倒的な戦慄が走った。
『助かった』
───そう、安堵した者は、誰一人としていなかった。
ただ、冷静に。
その場にいる全員の脳髄が、ひとつの決定的な破滅を理解した。
ここから先は、敵も。味方も。関係、無い。
この戦場に存在するすべての命が───蒼星乙女という“例外”の火に晒されるのだと。
───“
決定的破壊が放たれる、その寸前。蒼星が、静かに一歩を踏み込んだ。
───消えた。
誰も、その
次の刹那。赫い日輪が、中空に裂けるような残像を刻みつける。
気付いた時には───蒼星乙女は、
「───『赫輪・暁華』」
背負いし日輪が、赫く、脈打つ。
蒼星の纏う蒼炎が一瞬だけ「緋」を帯び、大太刀の澄み切った蒼い刀身へと逆流した。
その斬撃は、火柱では、無い。
爆炎でも、無い。
ただ───夜明け前の
すでに『白華』によって咲いていた瑠璃色の火の華が、赫輪の出力に、呼応する。
ぽつり。
ぽつり。
異形の肉体のあちこちで、埋め込まれていた瑠璃の華が───再び、目を覚ます。
焼け爛れた霊圧の奥底で、眠っていた『白華』の火種が、一斉に孵化していく。
「ギ、ギィィィィイイイイイイッッ───ッッッ!!!!!?」
中級大虚が、夜を引き裂くような咆哮を上げた。
だが、それは痛みでは、無い。
……ましてや、恐怖でも、無い。
己の
だが。その拒絶の意志は、新たな霊圧を生む。
生み出された霊圧は、すべて『白華』の餌に墜ちる。
「そうそう」
蒼星は、嗤った。
「抗うなら、ちゃんと強く抗い。弱い火やと───すぐ消えてまうからねぇ」
剥き出しの、挑発。
それに呼応するように、
幾百の虚を無理やり束ねた歪な魂魄が、蒼星乙女という存在を圧殺せんと蠢いた。
───臨界。
赤黒い“
後方の隊員たちが、絶望に息を呑んだ。
しかし───蒼星は動かない。
逃げない。
避ける素振りすら、微塵も見せない。
───す、と。
背負いし日輪が、赫から─────「白」へと変じた。
それは、燃焼の純化。
緋色の不純物をすべて灼き尽くし、白い臨界へと至った証。
蒼星の五体を纏う蒼炎が、さらに、静まり返る。
音も無く。温度も無く。
ただひたすらに「霊圧だけを無に帰す」冷徹な気配が、戦場を濃密に支配していく。
「白輪・散華」
白い日輪が、彼女の背後で眩く、冷酷に開いた。
瞬間───。
花弁の形をした炎が、風も無い夜空へ、美しく舞い上がる。
ひとつひとつの、冷たい花弁。
それが異形の霊圧の流れに沿って滑り込み───内側へ、奥へ、さらに魂魄の深淵へと沈み込んでいく。
───轟ッッ!!!
ついに放たれた“
結界ごと、後方にいるすべてを呑み込み、消滅させるはずだった破壊の光。
だが。
その凶悪な奔流の表面に、舞い散る瑠璃の花弁が、触れた。
───ぽぅ。
触れた箇所から、霊圧が、燃える。
赤黒い破壊の光が、内側から白く濁っていく。
蒼星は、そこへ───蒼い大太刀を、無造作に振り下ろした。
───ザッ。
蒼い刃が、虚閃を、両断する。
爆ぜるのでは、ない。
弾けるのでも、ない。
「な─────」
後方の隊員が、声帯を失ったように愕然とする。
虚閃を、防いだのではない。
受け流したのでも、ない。
───燃やしたのだ。
破壊のために練り上げられた、あの膨大な霊圧を、花のように散らして、自らの「燃料」へと変えてみせた。
だが。その絶大な「理不尽」の代償は、蒼星自身にも、等しく訪れていた。
「……っ」
ほんの一瞬。
蒼星の整った眉が、微かに、動く。
胸の奥が、灼ける。
霊圧の通り
纏う蒼炎は、敵だけを灼いているのでは、ない。
『白輪』へと出力を跳ね上げたことで───蒼星自身の霊圧もまた、より速く、より深く、自らを薪にして燃え始めていた。
───それでも。彼女は、その口元から、人を喰ったような笑みを決して消さない。
むしろ───口元の笑みは、僅かに深くなった。
「ええやん」
蒼星は、囁くように言った。
「よう燃える」
幾本もの腕がグロテスクに重なり合い、
蒼星は、蒼い大太刀を握り直した。
その指先が、僅かに、震える。
疲労では、ない。
恐怖でも、ない。
自分自身の霊圧を
───それでも。一歩。
蒼星は、前へ出た。
迫り来る巨腕を、正面から一刀のもとに斬り上げる。
蒼い刃が硬質な肉を割き、『白輪』によって散った瑠璃の花弁が、その切断面へ磁石のように吸い込まれていく。
───その、斬られた腕に。
再び、毒々しい火の華が咲き誇る。
今度は、一輪ではない。
傷口のすべてを埋め尽くすほどの瑠璃の華が、腕の内側から───肉を破って咲き乱れる。
「ガアアアアアッッ!!!」
暴れ狂うほどに、その霊圧が乱れる。
乱れ、剥き出しになった霊圧へ、さらに花弁が貪欲に喰らいつく。
「ほら」
蒼星は、穏やかに言った。
「そんなに暴れたら───散った華が、奥まで入るよ」
返答など、無い。
あるのは、狂乱の咆哮だけ。
異形の霊圧が、さらに肥大していく。
『白華』に内側を焼かれ、『散華』に霊圧の巡りを侵されながら───それでも、眼前の死神を圧殺するためだけに、より巨大に。より醜悪に。より歪に、膨れ上がっていく。
その悍ましき進化を見上げ、蒼星は小さく息を吐いた。
「まだ、大きくなるんや」
白い日輪が、彼女の背後で軋みを上げる。
蒼星の足元───ひび割れたアスファルトに、蒼い火の粉が落ちた。
その火の粉は、地面を焼かない。
ただ、そこに残留する「霊圧」だけを喰らい、淡く、消える。
───後方の隊員たちは、さらに距離を取った。
『近づけば───確実に巻き込まれる』
その言葉が、決して誇張でも、脅しでも無かったことを、誰もが細胞レベルで理解していた。
蒼星乙女の卍解は、守るための力では、無い。
守るべきもの、それ以外を───すべて燃やし尽くして「完全な空白」を作る力。
だからこそ、彼女は誰よりも前に立つ。
誰も近づけない奈落に、自分だけを置く。
体躯に蠢く無数の仮面が、一斉に口腔を開く。
複数の、悍ましき“
隊員たちの顔から、完全に血の気が引く。
破滅の光を見据え、蒼星は無造作に肩をすくめた。
「なんや。まとめて撃つん?」
あまりにも軽い、声音。
「せっかちやねぇ」
蒼星は、大太刀の切っ先を、地面へと下げた。
深い赤髪が、蒼炎に照らされて暗く、深く沈む。
三つ編みの先、黄色いリボンだけが、逆流する霊圧の風に揺れていた。
凛と整った顔には、相変わらず底の読めない笑みがある。
───だが。
その額を、ひとすじの汗が伝い落ちた。
背負いし白い日輪が、激しく、揺らぐ。
次へ進めば、もう戻れない。
『蒼輪』へと至れば───蒼星乙女の霊圧は、完全燃焼の領域へと突入する。
敵を灼く炎は、己をも灼き殺す。
分かっている。
すべてを分かっていて、なお───彼女は嗤った。
「しゃあないね」
彼女は、背後の隊員たちを───振り返らない。
守るべきものを見る必要など、無い。
守ると決めたその瞬間に、もう答えは出ている。
「なんもかんも燃やすって───言うたし」
白い日輪が、一瞬で、深い「蒼」へと変じた。
赫でも、ない。
白でも、ない。
完全燃焼の───「蒼」。
その瞬間。
戦場から、あらゆる「熱の気配」が消滅した。
蒼炎は、激しく燃え上がらない。
むしろ世界は、不気味なほどに静まり返った。
───だからこそ、恐ろしい。
蒼い日輪を背負い、佇む女。
それはまるで───夜そのものを刃に変えた「死神」だった。
「
声は、酷く静かだった。
けれど───その名が告げられた瞬間。
『白華』で咲いた華。
『暁華』で目覚めた華。
『散華』で霊圧の巡りへ深く潜り込んだ、無数の華。
そのすべてが───完全燃焼の「蒼い炎」へと、一斉に反転した。
「ガ……ッッ……!!?」
放たれようとしていた複数の“
いや───静止したのでは、無い。
練り上げられた霊圧の「構造そのもの」が、内側から瞬時に灼き換えられていく。
赤黒き決定的破壊の質量が───無慈悲な「蒼」に、染まる。
それはもう、怒りでは、無い。
抗うための、抵抗でも、無い。
ただ、燃え尽き、存在そのものが無へと還る者が上げる─────最期の「音」だった。
蒼星は、静かに、一歩を踏み込む。
───一歩。
その足元に、淡く、蒼い火の粉が散る。
───二歩。
背負いし蒼い日輪が、ぎし、と音を立てて僅かに欠けた。
───三歩。
蒼星の凛とした唇の端から、鮮烈な赤い血が、一筋、零れ落ちる。
それでも。その両腕に握られた蒼き大太刀は、微塵もぶれない。
「咲いたなら」
蒼星は、低く、低く呟く。
「
大太刀が、無造作に振り下ろされた。
その斬撃は───あまりにも、静かだった。
轟音も、無い。
爆発も、無い。
ただ、一本の冷徹な「蒼い線」が、夜の工業区画を縦一文字に断ち切る。
その線に沿って、
割れた断面から、瑠璃色の火の華が───最期に一度だけ、狂い咲く。
満開に開いた花弁は、次の刹那、すべてが蒼炎へと還り、異形の霊圧の残滓ごと、この世界から悉く燃え尽きた。
幾百の白い仮面が、音も無く、粉々に砕け散る。
黒く濁りきった霊圧の塊が、蒼い炎に呑まれて「灰」となり、夜の底へと霧散していった。
───結界の内側に、完全な静寂が戻る。
あまりに遅れて、倉庫の壁が崩落する音が響いた。虚の霊圧によって引き裂かれ、歪んでいた空間の裂け目が、ひとつ、またひとつと───拒絶を終えるように、閉じていく。
蒼星は、大太刀を振り下ろした姿勢のまま、しばらくの間、微動だにしなかった。
背後を浮遊していた蒼い日輪が、
ひと欠片。
また、ひと欠片。
美しくも恐ろしい蒼い光が砕け、夜の闇の中へ、静かに溶けていく。
───卍解、解除。
蒼き大太刀は、元の無機質な斬魄刀へと姿を戻し、蒼星の五体を縁取っていた蒼炎もまた、頼りなく薄れていく。
───そして、その、瞬間。
「……っ、」
蒼星の膝が、激しく地面へと崩れ落ちた。
「隊長───ッッ!!」
生還の歓喜から一転、隊員たちが血相を変えて駆け寄ろうとする。
だが───蒼星は、細い片手を小さく上げて、それを冷徹に制した。
「まだ───あかん」
その声は、掠れ、酷く傷ついていた。
先刻までの、あの人を喰ったような軽さは、僅かに残っている。けれど、その声音の奥底には───自らの霊圧の通り道を内側から焼き焦がされたような、凄絶な痛みが混じっていた。
「残り火がある。……近づいたら、ほんまに燃えるよ」
その絶対的な拒絶に、隊員たちは、一歩も動けず足を止めた。
蒼星の周囲には、未だ、薄い蒼の火の粉が漂っている。
それは地面も、倉庫の壁も、焼かない。
ただ、空気中に色濃く遺された「残留霊圧」だけを見つけ出し、静かに、執拗に燃やして消えていく。
蒼星は片膝を突いたまま、ゆっくりと、深く、息を吐き出した。
胸の奥が、痛む。
喉が、酷く焼けている。
両の腕が、鉛のように重い。
全身の霊絡へ霊圧を通すたびに、内側を無数の剃刀で擦られるような、凄絶な激痛が走った。
敵を燃やした炎は、等しく、蒼星自身をも燃やしていた。
───それが。
卍解『瑠璃緋天燼』の、絶対的代償。
勝利の対価として、無傷で済むことなど決して許されない、呪いにも似た力。
「……蒼星……隊長……」
隊員の一人が、戦慄に震える声でその名を呼んだ。
蒼星は、ゆっくりと顔を上げる。
凛とした顔立ちは死人のように青ざめ、口元には未だ鮮血が滲んでいる。
───それでも。彼女は、嗤っていた。
いつもの。あの底の知れない、人を喰ったような笑みで。
「ほら」
蒼星は、ひどく軽く、零す。
「ちゃんと───お掃除、終わったやろ?」
誰も、笑えなかった。
けれど、その場にいる全員が、細胞レベルで理解していた。
蒼星乙女は─────護り切ったのだ。
結界を。
現世を。
そして、自らの背後にいた、すべての隊員たちを。
そのために、彼女は虚を灼き。
戦場を灼き。
そして───自分自身の
蒼星は、雪白から戻った斬魄刀を、静かに鞘へと納める。
───カチャ…と。
ただそれだけの無造作な動作の最中、彼女の肩が、微かに、けれど確かに震えた。
「負傷者の確認。結界班は残留霊圧の処理。空間の裂け目が全部閉じたか、最後まで見とき」
声は、掠れ、弱り切っている。
けれど、その言葉に宿る「絶対の重み」は、間違いなく───隊長のものだった。
「私は少し、休むわ。……ちょっとだけ、燃やしすぎたみたいやし」
そう言って、蒼星はまた、薄く微笑う。
夜の工業区画に、白い灰が、静かに降っていた。
それは、霧散した虚の残骸か。
燃え尽き、融解した霊圧の名残か。
あるいは─────蒼星自身が内側から燃やし尽くした、命の
誰一人として、それを知る術は無い。
ただ───ひとひら、だけ。
瑠璃色の火の華が、蒼星の足元で小さく、美しく咲き誇り。
次の刹那。
冷徹な蒼へと還って、静かに燃え尽きた。
護廷十三隊十番隊隊長─────蒼星乙女。
その斬魄刀の名は─────『瑠璃緋』。
白い炎で、絶望に華を咲かせ。
蒼い炎で───終いまで、すべてを燃やし尽くす。
それは。
護ると決めたものの為ならば、文字通り『なんもかんも』を灰燼に帰す───孤高の死神の、刀だった。