#13 境界に揺れる灯火
意識が浮かび上がった瞬間、腕の中を探った。
──ない。
心臓が冷えるような感覚を覚える。
慌てて身体を起こそうとしたものの、全身に走る痛みに思わず表情が歪んだ。
『……ッッ』
少年は……どこだ。
辺りを見渡してみる。
見慣れた天井ではない。岩肌に囲まれた空間。
しかし、ただの洞とは違う。ひどく静かで、空気は澄み、外の森とは違う気配に満ちている。
地面の岩は平らに加工され、生活に適した環境に整えられていた。岩壁に設置された松明の灯りが、柔らかく室内を照らす。
自分の身体は人間の使うベッドというものの上に寝かされていたようだ。
少年の姿はない。
不意に何者かの気配を感じてそちらを見る。
「起きたか」
男だ。
淡々とした、だが落ち着きのある声。
露草色の髪に薄紫のメッシュが入った長めの前髪。襟足は首筋にかかる程度の長さ。黒いスラックスと紺色のタートルネックの上に、白衣に似たライトグレーのロングコートを羽織っている。
年齢は30代半ばといったところか。
『…………』
敵意は感じない。しかし、簡単に信じることもできない。
それでも今は……自分の感情より優先すべきことがある。
意を決して目の前の男に声をかけた。
『……ショウネン、ハ……』
「別室で治療している。手は尽くしているが、容態は悪い。数日が山だろう」
『……ッ』
それを聞いて動かずにはいられなかった。
痛む身体を起こしてベッドを降りる。
が、姿勢を保てず床に敷かれた敷物に手をついた。
「まだ万全じゃない、無理するな」
構うものか。この程度の痛み、少年に比べれば些末なものだ。
無理矢理身体を浮かせる。
ふらつきはするが、どうにか移動はできそうだ。
『……ツレテ……イケ』
暫しの沈黙の後、大きな溜め息が響く。
「……分かった。案内しよう」
◇◇◇
狭い通路を、男の後を着いて進む。
浮いて移動する自分には関係ないが、ここも歩きやすいように地面は均してあるらしい。
暫く進むと木の板で作られた壁と扉が見えてきた。
男がドアノブを掴み、扉を開く。
その先には見慣れぬ寝台に横たえられ、幾つもの管に繋がれた少年の姿があった。
心臓が早鐘を打つ。
寝台の横にはサーナイトが立っており、少年の身体に手を翳している。その掌が温かな光を発しているのが見えた。
その反対側、少年の顔が見える位置まで慎重に近付く。
上半身の衣服は処置の為に切り開かれたのだろう、胸元から脇腹にかけて白い包帯が幾重にも巻かれている。拭い取られた血の痕が、髪や肌、布の端に薄く残っていた。
片腕には細い管が繋がれ、透明な雫が一定の速さで落ちていく。胸元には電極のような板が貼られ、指先には小さな器具が挟まれている。首には首枷に焼かれた痕が痛々しく横たわっていた。
顔の半分はマスクのようなもので覆われている。その奥で続く呼吸は浅く、弱い。胸は僅かに上下しているが、その動きはあまりにも頼りなかった。
それら全てが、少年の身体が自力だけでは保てない均衡の上にあることを示している。
生きてはいる。
だが、その事実は奇跡というより、辛うじて引き留められている結果にしか見えなかった。
「サーナイト、様子はどうだ」
サーナイトは男に視線を向け、無言で首を振った。
「そうか、ありがとう」
「……彼女には治療の補佐を担って貰っている。容態はさっき伝えた通りだ。なんせ特殊な身体だからな。ポケモン用の治療は中途半端。人間用の治療だけでは足りない。合わせて漸くといったところか」
男がこちらに向かって口を開く。一度視線を向けるが、すぐに少年に戻す。
その口振りに違和感を覚える余裕はなかった。男の言葉は鼓膜を震わせるだけで、頭の中で霧のように消えていく。
少年から目を離せなかった。
血の気のない、青白い顔。漸くまともに見れたというのに、その瞳は固く閉ざされている。
手を伸ばしてそっと頬に触れた。
指先から伝わるのは、生きているのが不思議なほど冷たい体温だった。かつて繋がった時に感じた、痛いほどの感情の奔流はどこにもない。
ただ、空っぽになった身体が形を保とうと喘いでいるような、乾いた熱だけが指先を刺した。
『……ワタシ、ガ……』
──代わってやれればよかった。
行き場のない言葉が、喉の奥で震えた。
指先を頬から首筋へと滑らせる。自分を縛っていた「枷」は、少年の首に醜い火傷の痕となって焼き付いていた。
自分が自由を得た代償が、この無残な姿なのだと、否応なく突きつけられる。
「……メガエネルギーによって無理に引き出された力は、彼の神経を焼き、細胞を崩壊寸前まで追い込んだ。今はその反動で、生命活動そのものが極限まで低下している」
男が淡々と、残酷な事実を告げる。
「本来なら、エネルギーを使い果たした瞬間に心臓が止まっていてもおかしくなかった。……彼を繋ぎ止めているのは、もはや医学的な理由じゃない」
『……ナニガ……』
自分でも驚くほど掠れた声が漏れた。
男は一瞬だけ沈黙し、眠る少年に視線を落とす。
「さあな。意志か、執着か……それとも、まだ切れていない何かとの繋がりか……」
「生きようとしている、とは少し違う。だが完全に手放してもいない。……そんなふうに見える」
……繋がり。
かつてこの少年の傍にあった、小さな温もりが脳裏を過った。
真っ直ぐに見上げてきた瞳。
怯えを抱えたまま、それでも傍を離れなかった鼓動。
最後の瞬間まで、何かを託すように遺された映像。
その身を寄せ、共に飢え、共に在ろうとした者たち。
森の中で見た、月明かりに透ける小さな影が、彼らの姿と重なる。
……死してなお、引き留めようとしているのか。
──同じだ。私も。
自由になれと言い残し、命を投げ打った少年を──私もまた、無理矢理この世に繋ぎ止めた。
少年が望んでいないと知りながら。
……目を覚ましたとしても、少年が正気でいられるか分からない。
今度こそ、拒絶されるかもしれない。
それでも……。
もう、覚悟はできている。
「今日はここまでだ。お前も戻って休め」
『……』
戻る気など、最初からない。
男の言葉に答えない代わりに少年の真横に陣取った。
そのまま少年の影に、自分の輪郭を重ねていく。
「お前が倒れれば、彼の苦労も水の泡になるぞ」
『……タオレナイ。……ダカラ、ココニイサセテクレ』
少年が目覚めるまで、或いは、その灯火が消えるまで。
ここを離れない。
誰の為でもない、自分の意志でそう決めた。
組織の命令でも、少年のわがままでもない。
この少年を独りで地獄へ行かせないと決めたのは、私だ。
視界の端で男とサーナイトが顔を見合わせる。
部屋に響く規則的な機械音。
サーナイトが放つ静かな光。
その狭間で、少年の影に寄り添うように、深く、静かに目を閉じた。