最初の数日は予断を許さない状況が続いた。
少年の呼吸は何度も途切れそうになり、脈も不安定だった。時折肩や指先が思い出したように痙攣し、唇は紫がかっていく。
手足は氷のように冷え切っているのに包帯の下だけが傷んだ熱を抱え、止まったはずの血が薄く滲んでいた。
幾度となく、手を伸ばして触れる。少年の影から出て実体を現していても、男とサーナイトはもう何も言わなかった。
少年の身体に大きな変化が訪れたのは、二日目のことだった。
浅く弱い呼吸が数秒止まり、頭を後ろに反らしたかと思えば喘ぐような呼吸を繰り返した。顔や胸、全身が汗で濡れるのが見える。
甲高い警告音が室内に響き、サーナイトと男が慌てた様子で寝台に駆け寄った。少年の顔を覆っていたマスクが外され、ベッドの脇へ放り出される。
男が腰に下げたボールに手をかけ、その中から飛び出したポケモンにすぐさま指示を飛ばした。
「まずいな……!ポリゴン2、でんきショックだ」
『クエッ!クエーーッ!!』
丸みを帯びた体から少年の心臓に向かって電撃が放たれる。
『ナニヲ……!!』
「説明は後だ、今は戻す方が先だ!!」
電撃を受けた少年の身体が操り人形のように大きく跳ねた後、糸が切れたように寝台へと崩れ落ちた。
全ての音が消え、ポリゴン2の電子的な駆動音だけが残った。
男は間髪入れず少年の胸元へ飛び込み、両手を重ねて圧迫を始める。そこで漸く、心臓が止まったのだと理解した。
時間が経つにつれ、男の呼吸が荒くなっていく。
「……10分。まだ戻らないか」
その額から汗が滴り落ちる音と、少年の胸を突く音が、ポリゴン2の駆動音に混じって虚しく響く。
思考が働かない。ただ茫然とその光景を見ていることしかできなかった。
規則的なマッサージの合間にサーナイトも必死に生命エネルギーを送り続けているが、少年の胸は板のように固く沈黙したままだ。
「……死ぬな。戻ってこい」
囁くような小さな声が、男の口から溢れるのが聞こえた。
影が揺れる。
覚悟はしていたつもりだった。
しかし、生きた心地がしなかったのも事実だ。
────駄目、か……。
絶望に耐えかねて目を伏せた時だった。
少年の喉の奥から、ヒュッ、という細い糸のような音が漏れた。
その細い呼気音に、男の動きが止まった。
だが、二度目が来ない。
部屋を支配するのは、再び訪れた死のような静寂。
男も、サーナイトも、ポリゴン2も、祈るように少年の唇を見つめる。
私もまた、目を逸らせなかった。
──数秒、或いは永遠にも思える空白の後、今度は深く、肺の奥底を削り取るようなゴホッという湿った音が響いた。
止まっていた時間が、音を立てて動き出す。
肺に空気が流れ込んだ衝撃で、少年の身体がビクンと大きく震えた。紫に沈んでいた唇が、僅かに色を変える。
男がベッド脇に放り出されていたマスクを拾い上げ、再び少年の口元へ被せた。白く曇り始めたマスクの奥で、必死に命をかき集めるような呼吸が繰り返され始める。それまでフラットだったモニターが、不規則に、しかし確実に波形を刻んでいた。
「心拍再開……。血圧も、まだ低いが上がってきている」
男がそう呟き、ようやく手を離した。その手のひらは少年の胸を押し続けた為か、真っ赤に充血し小刻みに震えている。
それまでエネルギーを注ぎ続けたサーナイトも、疲労の為か膝をつく。
男が乱れた呼吸を整えながら口を開いた。
「……さっきのは死戦期呼吸ってやつだ。直ちに処置をしなければ、助かる可能性が低くなる」
「人間用の除細動器では間に合わなかった。彼の身体は普通の人間とも、完全なポケモンとも違う。電流の通り方も反応も不安定だ」
「だからポリゴン2のわざを制御して使った。賭けではあったが、他に方法がなかった」
その説明を聞きながら、サーナイトとポリゴン2の頭を撫でる男の姿を見つめる。
相変わらず淡々としているが、その目にはポケモン達に対する労いの色が宿っていた。
……信じていいのかもしれない。少なくとも、今は。
『……スマナイ。……カンシャ、スル』
男とサーナイトの目が丸くなるのが見えた。
しかし、その表情はすぐに無機質なものへと戻る。
「それはこの少年が目を覚ますまで取っておいた方がいい。安心するにはまだ早いからな」
「私とサーナイトは少し休む。補助はポリゴン2に任せておくから、何かあれば呼べ」
◇◇◇
それから、小さな乱れはあっても、大きな危機が訪れることはなかった。
それでも機械音が鳴り響く度に影が震えた。
怖かった。今度こそ失うのではないかと。
……ここに残ると決めて四日目の朝。
少年の容態を確認した男がほんの少し、柔らかな息を吐いた。
「ひとまず山は越えた。呼吸、脈ともに持ち直している。……ただ、目を覚ますかどうかは別問題だ」
その言葉の通り、少年は死線を越えた。
だが、目を覚ますことはなかった。
二週間経っても、少年の意識は戻らないままだ。
男とサーナイトは交代しながら、今も少年の命を繋いでくれている。
「……お前もいい加減休め。この二週間、まともに寝てないだろう」
『……』
「自分が今、どんな顔をしてるか分かってるか。彼の目が覚めた時、その姿を見てどう思うか考えろ」
そう言う男の横からサーナイトが顔を出す。休憩を終え戻ってきたらしい。そのすぐ横に、浮いた椅子。サイコキネシスで動かしているようだ。
その椅子は寝台の横に静かに降ろされた。男が指を指す。
「そこでいい。寝ろ」
二人の視線が刺さる。
『……ワカッタ……』
ひとまず、形だけでも従っておくとしよう。
そう考えて椅子に身体を降ろす。背もたれに体重を預けると、何か固いものが当たる感触がする。
違和感を覚えながらも正面を向いたその瞬間、淡く光るサーナイトの視線が静かに絡みついた。
『──』
唐突に、身体の動きが封じられた。全身が縫い付けられたように動かない。
彼女の目を見てはいけない。そう思うのに強制的に視線を固定され、瞼も眼球も微動だにしない。サーナイトの瞳が脳を揺らす妖しい波紋に変化する。直後、猛烈な眠気が意識を攫っていく。
『……ッ、シマ……ッ……』
少年の寝台に伏せる形で身体が崩れた。力が入らない。遠くで男の声が聞こえる。
「悪いな。元医者として放っておくわけにはいかんのだ」
抗えず、そのまま意識が落ちていく。
暗い。
その闇はどこまでも沈んでいけそうな静けさを纏っていた。
────────────
気付いたら、暗闇の中にいた。
ひどく静かで、何もない。
記憶はないのに、長い時間ここにいるような気がする。
ふと自分の傍に、小さな熱が在ることに気付く。
微かな鼓動。
小さな体温。
忘れたくても忘れられない温もり。
まるで寄り添うように、そこにいた。
……夢……?それとも……。
傍の小さな熱が、徐々に輪郭を持ちはじめる。
薄く透けるような体をしているが、その姿は間違えようがなかった。
守れなくて、ごめん……。
恐る恐る手を伸ばす。そっとコラッタの頭を撫でると甘えるような声が聞こえた。続けてロコン。目を閉じて小さく喉を鳴らしている。
最後にラルトス。触れた瞬間彼女の口元が穏やかに緩んだのが見えた。
どれだけ痛かっただろう。
どれだけ怖い思いをしたのだろう。
こんなふうに迎えてもらう資格はない。
それなのに、ずっとここで待ってくれていたのだろうか……。
そう思ったのも束の間、ポケモン達が走り出す。
思わず手を伸ばして追いかけた。でも、どれだけ走っても追いつけない。
苦しい。膝に手をついて乱れた呼吸を整える。
置いていかれたかと思ったが、顔を上げた先でコラッタ達が座って待っているのが見えた。
再び歩き出すと彼らも同じ速度で動き出す。
隣に立つことはない。
一定の距離を保ちながら先を進む。
どこかに案内しているみたいに。
やがて暗闇に浮かぶ一際大きな熱に辿り着いた。
影のような、
夜のような。
けれど、どうしようもなくあたたかい。
この暗闇に溶け込んで見えなくなりそうなのに、それは確かに、そこに在った。
ロコン達と同じようにその熱が形を成していく。
……ダークライ。
名前を呼んだつもりだった。
声にはならない。
ゆっくりと、ダークライがこちらを向く。
視線が合ったその瞬間、ラルトス達の姿が消えた。
直後、沈んでいた意識が細い糸で引かれるように浮かび上がる。
暗闇が、静かに軋み始めた。
──────────────
思わず手を伸ばしたところで目が覚めた。
目の前には、まだ眠ったままの少年の顔。
「……目は覚めたか」
声が聞こえた方に顔を向ける。
男を捉えた瞳が無意識に鋭くなっていたようだ。
「そう睨むな。スッキリしたようで何よりだ」
動じるどころか余裕さえ感じさせる態度。
癪に障るが、一応こちらを思っての行動だと分かっている以上何も言えなかった。
……それより。
一瞬だけ、繋がったように感じた。
確かに少年の姿を見たのだ。
しかし、手を伸ばした時には夢が崩れてしまっていた。
もしかしたら……。
淡い希望を胸に少年に視線を戻した、その時だった。
不意に、指先が動いたのが見えた。
『……ッ!』
見間違いではない。
ほんの僅かに、少年の手が震えた。
呼吸が変わる。
浅く弱いままだが、これまでとは違う。
沈んだままだった胸が、苦しげに空気を求めるように上下した。
『……モドッタ、カ……』
掠れた声が漏れる。
その直後、固く閉ざされていた瞼がゆっくりと震えた。
何度か弱々しくまばたいた後、少年の瞼が僅かに開く。
視線は定まらず、天井と、灯りと、影を曖昧に映している。
目を開けたというだけで、まだ何も安心できない。
それでも──
消えかけていた灯火は、確かにこちら側に戻ってきた。