目を開けた瞬間、視界が真っ白に染まった。物の輪郭がぼやけて何を見ているのか分からない。
……眩しい。
何度か瞬きする内、霞む視界の中に黒い影があるのが見える。視線をそこで留めると、その影がゆっくりと揺れた。
……ダークライ……?
「私の声が聞こえるか?」
……知らない声。
「聞こえていたら手を握ってくれ」
言われるがまま、手を握ろうとした。
けれど、身体が重くて動かない。指先を僅かに揺らすだけで精一杯だった。
「……充分だ。よく頑張った」
思考が追いつかない。
誰だ……?
ここは……?
声を出そうとしても、喉が渇ききっていて言葉にならない。
目の前の男が誰なのかも、ここがどこなのかも、何一つ分からない。
だが、この泥のように重い身体の感覚だけは、拒みようもなく確かな現実を突きつけていた。
……まだ、生きてる。
「……なん……で……」
漸く絞り出した声が、掠れて消える。
たった一言口にしただけなのに、酷く息が上がった。同時に、刃物を飲み込むような鋭い痛みが喉に走る。
胸が浅く上下し、視界の端がまた白く滲んでいく。
「もう喋るな。今はまだ身体が保たん」
知らない声が、今度は少し近くで聞こえた。
返したい言葉はいくつもあるのに唇が上手く動かない。
霞む視界の向こうで、黒い影だけがじっとそこに在った。
……まだ、いる。
そう思った途端、張り詰めていたものが僅かに緩む。
重たい眠気が、抗うすべなく意識を包み込んだ。
瞼が落ちる。
今度は闇に引き摺られるというより、深い水の底へ静かに沈んでいくようだった。
でも、不思議と怖くはなかった。
──遠くで声が聞こえる。
「……無理もない」
『……ネムッタ、ダケカ……』
聞き覚えのある声。
……ああ。やっぱり、きみなんだな。
ダークライが生きている。
今はただ、その事実だけで充分だった。
────────────
その後も、少年は目を覚ましてはすぐに眠ることを繰り返した。
熱に浮かされ、苦しげにうわ言を呟く様子も見られた。
定期的にぬるま湯を絞ったタオルを少年の額や首筋に滑らせ汗を拭き取る。
つい先ほどサーナイトにやり方を教えてもらった。男には散々小言を言われたが、関係ない。
こういった行為に適した手ではないことは、自分でも分かっている。癒やすにはあまりにも不向きで、他者を傷つけることしかできない手。
それでも、黙って見ているだけでは落ち着かなかった。その代わり、鋭い爪で傷つけてしまわないよう細心の注意を払った。
少年は時折目を覚ますものの、起きていられる時間は短い。最初の内は殆ど会話にならなかったが、呼びかけには徐々に反応を返すようになっていった。
水を飲み、男の質問に数語だけ答え、再び眠る。
そんな日々が数日続いた。
そうして五日ほどが過ぎた頃には、少年は短い会話なら辛うじて交わせるようになっていた。
ただ、まだ自力で起き上がれる程ではない。寝台の力を借りて身体を起こすのがやっとのようだ。
食事も摂れるようになった。時間になるとスープなどの液状の食べ物が運ばれる。
しかし、男やサーナイトがスプーンを口元に寄せても、少年はなかなか口を開けない。小さく首を振り、拒絶を示すだけだ。
「これは食事じゃない、治療だ。少しでいい、飲め」
男はもう一度スプーンを口元へ運ぶが、少年は逃げるように顔を逸らした。それでも引かないのを見て、漸く掠れた声が漏れる。
「……いらない」
「……生きる気はない、か」
「死にたいのであれば構わん。……が、ここまで繋いだ命を、今は勝手に捨てさせるつもりはない」
「無駄にするなら、せめて自分で歩けるようになってからにしろ」
優しく慰めるでもなく、怒るわけでもない。ただ淡々と男は告げる。少年は男に顔を向け直し、少し視線を落としていたが、やがて諦めたように僅かに口を開けた。
喉が上下する度にその表情が歪む。痛むようだ。息も上がっている。この日は2、3度スープを口にして食事を終えた。
その後更に数日が経つと、少年は自分で食べようとするようになった。
だが、そこに「生きたい」という感情は感じられない。世話をかけることへの負い目だけで、身体を動かしているように見えた。
「まだ無理だ」
男の制止も聞かず、少年は震える手でスプーンを持とうとする。数口食べることはできたが、途中で息が上がってそれ以上動かせない。結局手伝われる形で食事が進む。
そんな状態ではあったが、着実に回復はしているようだ。少年が起きていられる時間も、少しずつ長くなっていった。
しかし、少年がこちらを見たことは一度もない。
存在は認識されている。気にかける気配も感じる。
それなのに、頑なにこちらを見ない。
男が席を外せば、重苦しい沈黙が空間を支配した。
僅かに流れてくる感情は、困惑と、罪悪感。
時折、苦しそうに胸を押さえる仕草を見せることもあった。
……言いたいことは、たくさんあったはずだ。
だが、実際向き合ってみると、何から話せばいいのか分からない。
思考が巡るばかりで、時間だけが過ぎていく──そんな時だった。
「治療に必要なものを切らした。私は手が離せん。サーナイトと一緒に採取してきてくれ」
ある日、不意に男からそう告げられる。
「何を採ればいいかは彼女が知っている。行ってこい」
予想外の言葉に反応できずにいるとサーナイトが隣に立った。ちらりと少年の方を見やるが、相変わらず俯いたままだ。
……今は、そういう時間も必要なのかもしれない。
様子を見ていたかったが、従うことにした。
無言で頷くと、サーナイトが先導して歩き出す。その後について部屋を出た。
────────────
目を覚まして何日経ったのかは分からない。
身体中が痛い。最初は何も考えられなかった。すぐ眠くなって、起きてもぼんやりと天井を見る時間が多かった。
でも、意識がハッキリするようになって、少しずつ思い知らされる。自分がまた生きてしまった現実を。
熱に浮かされていた時、一瞬だけ見えた。
傷だらけのダークライの手と、身体。
自分がここにいる理由が、それだけで理解できてしまった。
どうして。
一歩間違えてたら、死んでたかもしれない。そうまでして、なんで助けた。
オレは、きみが自由になってくれればそれだけで良かったのに。
結局オレのせいで傷ついてるじゃないか。
──それなのに、どうして世話までしようとしてる。
オレのことは放っておいて休んでくれよ。
思考だけは働くのに身体が追いつかない。一言、言葉にするだけでも苦しくて、思い通りにならないのがもどかしい。
ダークライが生きて施設を出られたのは良かった。
でも、オレが生きているのは良くない。
最後のわがままさえ通らなかった。
……何もかも、全部見られた。
今更どんな顔をしてダークライと向き合えばいいのか、分からない。
その現実から、目を逸らすことしかできなかった。
ダークライだけじゃない。
澄んだ空気。清潔な寝具。温かい食事。
施設の独房とは真逆の環境。
落ち着かなくてざわざわする。ひどく居心地が悪い。
コラッタ、ロコン、ラルトス。洞窟のポケモン達、ゾロアとゾロアーク達、リオルとルカリオ達、任務で眠らせたり、倒したポケモン達……。
彼らの姿が次々と頭の中に浮かぶ。
あれだけのことをしておいて、自分だけ生き残った挙句、こんな贅沢な環境でのうのうと生きることが許されるわけがない。
呼吸が浅くなる。苦しい。
胸の奥で暴れるように脈打つ心臓を押さえ、俯いた。
「……まだ痛むか」
不意に落ちた声に顔を上げる。
いつの間にか、男がこちらを見ていた。
「胸だけじゃないだろう。考え込むとすぐそうなる」
返す言葉が見つからない。
男は咎めるでもなく、手元の器具に視線を落としながら淡々と続けた。
「身体が回復しきっていない内は、思考もまともに働かん」
「今のお前が抱えている結論の半分は、衰弱と痛みに引きずられたものだと思っておけ」
「……忘れることなんて……できない」
漸く絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
男は否定も肯定もせず、ただ短く息を吐く。
「なら、少しずつ整理することだな。一度に全部抱え込めば、また同じことになる」
その言葉の直後、男が扉の方へ視線を向けた。
「治療に必要なものを切らした。私は手が離せん。サーナイトと一緒に採取してきてくれ」
部屋の隅で気配を潜めていた黒い影が、僅かに揺れる。
そちらを見ないまでも、誰に向けた言葉なのかは分かった。
思わずそちらに視線がいきかけて、寸前で俯く。
その暫く後、サーナイトとダークライが部屋を出ていく気配がして、扉が閉められた。
残された室内に再び重い沈黙が走る。
「……私も何度も寝ろと言ったんだがな。一向に聞かんものだから、搦手を使わざるを得なかった」
少しの間を置いて男が口を開く。なんのことかと見ていると、ベッドの横辺りに指を指すのが見えた。それを追った先には背もたれ付きの椅子がある。
「“ねらいのまと”を仕込んだ。サーナイトのわざを通し、動きを封じて眠らせたんだ。もっとも、一度しか通じない手だったがな。あれ以降、二度と座ろうとしなかった。……まったく、頑固なところもそっくりだ」
「……安心しろ。あっちも傷は残ってはいるが、回復はしてきている」
返事はできなかった。
安心しろと言われて安心できるなら、こんなに苦しんではいない。だが、胸の奥を締め付けていたものが少しだけ緩んだのも事実だった。
「お前が眠っている間、あいつはずっとお前の傍にいた。目を覚ましてからも、寝る時以外はほぼ離れなかったな」
思わず息が詰まる。
「……何故そんな顔をする」
繋がりを絶った。
攻撃して、傷付けた。
置いていこうとした。
見せたくなかった記憶も、全部見られた。
酷いことをしたんだ。
それなのに──
「……どう、して……」
吐き出したかった。けれど、口から出たのは、その僅かな言葉だけだった。
「さあな。それは直接、本人に聞いてみることだ」
「少なくとも、一人で結論を出せるほど情報は揃っていない。……違うか?」
「……」
答えられない。
男は責めるでもなく、ただ静かに言った。
「考えるなとは言わん。だが、お前の思い込みだけで決めつけるな」
◇◇◇
いつの間にか岩肌にかけられた時計が、夕刻を指していた。
あれからずっと、男の言葉が頭に残っている。
扉が僅かに音を立てた。ドアノブを回す音。思わず肩が跳ねる。
そっと開かれた扉からサーナイトが顔を出した。その後に黒い影が続く。きのみや葉っぱがたくさん入った籠を両手に抱えていた。一瞬、視線がぶつかってすぐに逸らす。
「……帰ったか」
男が椅子から立ち上がり扉の方へ向かう気配がする。
「上出来だ。この量なら暫くは困らんだろう」
「調合に入る。何かあればコールを鳴らせ」
慌てて顔を上げるが、男はそれだけ告げてサーナイトと一緒に部屋を出て行ってしまった。
ダークライと二人、部屋の中に残される。
男の言葉が、頭の中で何度も反芻していた。
このままじゃいけないことは、自分が一番分かってる。
だけど……。
「……ッ」
音と空気が漏れるだけで、肝心の言葉が出てこない。
痛くて出せないのとは違う。
……怖い。
布団を握る手が震える。
『……ヨカッタ』
不意に聞こえた声に一瞬、肩の力が抜けた。
でもすぐに、胸の奥が強く締め付けられるような感覚に襲われる。
返さなければ。そう思うのに、喉の奥で言葉が絡まって出てこない。
どうして。
何度同じ問いを繰り返したか分からない。
けれど、さっきまでのように目を逸らしたままではいられなかった。
震える指先に力を込める。
恐る恐る、ほんの少しだけ顔を上げた。
黒い影がそこにいる。
傷を負ってなお、消えずに。
置いていこうとしたのに、今も。
「……なんで……」
掠れた声が、今度は途切れずに落ちた。
黒い影が揺れるのが見える。
その問いの答えを、今すぐ聞けるとは思わない。
それでも、もう逃げるだけでは終われなかった。