そっと視線を辿った先で、静かに目が合った。
深い空色の眸。その奥にあるものを、どう言葉にすればいいのか分からない。
けれど少なくとも、そこには拒絶はなかった。
それだけで、胸の奥がひどく痛んだ。
どうしてそんな顔をする。
どうしてそんなことを言う。
「だって、オレは……」
そんな感情を向けられていい人間じゃない。
生きていること自体が、間違いなのに。
『チガウ』
落ち着いた、けれどもハッキリとした声が耳を打つ。形を成さなかった言葉を遮るように。受け止められず視線が落ちる。
「……なに、が……」
『チガウ』
もう一度。怒声とは違う。けれども、心を直接揺さぶるような、硬く、熱い響きを含んだ声だった。
思わず顔を上げると、一片の迷いもない眼差しが待っていた。
こちらの卑下を跳ね除けるような強い視線が突き刺さる。その瞳は、微かに揺れているように見えた。
喉の奥がじわりと熱を帯びる。問いたいことは一つしかないはずなのに、声がそこまで辿り着かない。
──いや、聞かなければならない。
噛み締めた奥歯を緩め、掠れた声をどうにか絞り出した。
「なんで……助けた」
ダークライの瞼が閉ざされるのと同時に沈黙が訪れる。
伏せられた瞼の奥で、昏い影が静かに揺れる。暫くの後、落とされた視線が、躊躇いを払い落とすようにもう一度こちらを捉えた。
『……ウシナイタク、ナカッタ』
『オマエニ、イキテホシカッタ』
『……ソレデハ、フフクカ?』
喉の奥を何かがせり上がってくる。呼吸を止めて、漏れてしまいそうなそれを必死に抑え込んだ。
──そんなわけ、ない。
不服なわけがない。嬉しいなんて思っちゃいけないのに、胸の奥が痛いほどに熱い。
泣きたくないのに、視界が涙で急激に歪んでいく。目の前の澄んだ空色が滲んで見えなくなっていくのが悔しくて、何度も小さく首を振った。
けれど、全てを受け止めきれない。
そんな言葉で、自分を許していいはずがない。
『キメルノハ、オマエデハナイ』
それを聞いた瞬間、男の言葉が頭の中に響く。
──お前の思い込みだけで決めつけるな。
毛布を握る指先が白く強張った。
何も言い返せない。頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回されて、呼吸の仕方さえ分からなくなる。
それでも、この胸にずっとこびりついている罪悪感だけは、吐き出さずにはいられなかった。
「……きみを……傷付けた」
攻撃して、突き放して、消えない傷を負わせた。その事実だけは、どんなに優しい言葉をかけられても消えはしない。
『オナジダ』
言葉を紡ごうとした喉が、その響きに容赦なく塞がれる。
「……違、っ」
オレが一方的に酷いことをしたんだ。きみとオレとじゃ、傷の深さも、罪の重さも違う。
そう拒絶しようとした、その一瞬。
『チガワナイ』
ぴしゃりと、けれどどこか慈しむような響きを含んだ声が、心の奥に残っていた言い訳を完全に終わらせた。
ダークライの瞳が、こちらを捉えて離さない。
……逃げ場なんて、もうどこにもなかった。
「っ……あ、……っぅ、く……」
反論の言葉を探して、震える唇を開く。けれど、そこから漏れ出たのは、醜く引き攣った呼吸だけだった。
張り詰めていた最後の防衛線が、音を立てて崩壊していく。
──ダメだ、泣くな。これ以上、情けない姿を見せるな。
必死に止めようとしても、溢れ出しそうになる熱い塊を今の身体で堰き止めることは、もう不可能だった。
ボロボロになった喉の奥からしゃくり上げるような、酷く不恰好な嗚咽が、静かな部屋に次々と零れ落ちていく。
「……ご、め……ッ」
何に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。
守れなかったことか、傷付けたことか。
生き残ってしまったことか。
それとも、今こうして泣いてしまっていることそのものか。
『……イイ』
短い声。
許すとも、責めないとも言わない。
ただそれ以上何も言わせないように、静かに落ちてきた。
俯いた視界の端で、黒い影がすぐ傍まで寄るのが見えた。逃げることもできず、咄嗟に身体を強張らせる。
直後、毛布を握る拳にダークライの手が重なった。影の持つ不思議な熱が手の甲を介して広がっていく。
『モウ、イイ』
その一言がとどめだった。
抑え込んでいたものが完全に決壊して、喉の奥から途切れ途切れの嗚咽が漏れ始める。
肩が震える。息がうまく吸えない。喉も、胸の傷も痛むのに、涙も嗚咽も止めることができなかった。
──どれだけそうしていたのか分からない。
泣き疲れて呼吸だけが細く乱れ、漸く嗚咽が遠のいた頃には全身から力が抜け切っていた。
瞼が熱い。身体が痛い。頭の奥がぼうっとする。
けれど、胸の奥にこびりついていた何かが、ほんの少しだけ形を変えた気がした。
次に言葉を探そうとした時には、もう意識が保たなかった。深く息を吸うこともできないまま残った力ごと静かな眠りへと沈んでいく。
すぐ傍には、相変わらず黒い影が佇んでいた。
重なった手をそっと握り返す。
その指は長く、骨ばっていて、人の手よりずっと硬質に感じた。
でも伝わる熱は穏やかで握る力には痛みを与えまいとする気遣いがあった。
溶けていくような心地よさの中で、視界は優しい夜の色に染まっていった。
──────────────
眠りに落ちた後も、少年の睫毛には涙の跡が残っていた。
荒れていた呼吸が少しずつ落ち着いていく。しかし、まだ深く安らいでいるとは言い難い。時折、胸の奥で何かを堪えるような細い息が震えた。
重なった手をそのままに、その寝顔を見つめる。
先ほどまで取り乱していた少年が、今はひどく静かだった。
……ようやく、自分の為に泣けたのだ。
それが救いになるのかどうかは分からない。だが少なくとも、独りで抱え込んだまま壊れていくよりは、よほどましだと思えた。
岩壁に掛けられた灯りが、夜の静まりと共に小さく揺れる。外の森を渡る風の気配が微かに岩の隙間を鳴らした。
この静けさが、朝まで続けばいい。
そう願いながら、重なったままの手に僅かに力を込めて目を伏せた。
──────────────
岩の隙間をすり抜けてくる風の匂いが、心なしか夜よりも冷たく澄んだものに変わっていく。
頬を撫でる微かな冷気に押し上げられるように、意識がゆっくりと浮上した。
「……ッ、」
目を開けようとするが、激しく泣いたせいか瞼が重い。頭の奥もズキズキと痛んでいる。
だけど、右手に残る穏やかな熱が自分の感覚をはっきりと現実に繋ぎ止めていた。
──夢じゃ、ない。
視線を手の方に向けると、夕べと変わらない位置にあの黒い影が在った。違うのは、その身体が少しだけ前に傾いていることだ。空色の瞳は瞼の裏に隠れている。互いの手を重ねたまま寝息に合わせるように、静かに影が揺れていた。
どうやら眠っているようだ。
施設に入り込んだあの日以降、こんなふうにまともにダークライの顔を見たのは初めてかもしれない。
……ずっと、手を繋いでくれてたのか。
無防備な姿をぼんやりと見つめている内に、黒い瞼が震えるのが見えた。ゆっくりと空色の瞳が姿を現す。昨日の出来事を思い出して思わず視線を落としかけたその時。
『……オキタ、カ』
低く柔らかな声が耳に届いた。その一言が肩の強張りを解いていく。
「……ぅ、──ッ」
返事をしようと口を開くものの、出てきたのは乾いた咳だけだった。喉の痛みと枯れが酷くて、思うように声が出ない。
「…………だ、いじょ…うぶ。……傍、に……いてくれ、て……ありが、とう……」
ダークライが手を伸ばすのが見えて制止の手をかざす。その一言だけはどんなに無様な形になっても、ちゃんと言葉で伝えたかった。
ダークライが小さく頷く。相変わらず表情は分かりにくいが、その影は穏やかに揺れているように見えた。
その直後硬い岩肌を靴底が叩く、規則正しい足音が近づいてくるのが聞こえた。続いて扉が静かに開く音と共に温かな光が部屋の中に広がる。
「……少しは頭が冷えたようだな」
呆れたような、けれどもどこか安堵を含んだ声だった。
男の手には新しく火の入ったランタンが握られている。男は入るなり壁に掛けられた古いランタンを外し、手元のそれと交換した。慣れた手つきだった。
サーナイトの方は、スープと液体の入ったカップが乗せられたトレイを持っている。
「……ッぁ、……」
「喋らなくていい。喉が痛むんだろう」
開きかけた口を男が制した。喉の奥がまだ焼けるように痛む。男はベッドの横まで来ると、サーナイトからカップを受け取り、口元にそのふちを寄せた。
「……薬湯だ。喉の炎症を抑える効果がある」
差し出されたそれをほんの少しだけ口に含む。程よく冷まされてはいるものの液体が喉に触れた瞬間、鋭い痛みが走った。ひび割れた傷口をなぞるような激痛に思わず眉を顰める。
「辛いだろうが、治す為だ。飲め」
「ミツハニーの蜜を混ぜてある。多少は飲みやすくなっているはずだ」
男の言う通り苦くて癖のある液体だったが、後からほんのりと優しい、濃厚な蜜の甘みが追いかけてくる。
とろみのある温かいそれがじわじわと喉に絡みつき、荒れ狂っていた痛みをゆっくりと宥めていくのが分かった。
時間をかけながらカップの中の液体を飲み終えると、男は胸元や首筋の様子を確認し始めた。
「熱は昨日より少し下がった。泣いたせいで呼吸は荒れたが、致命的な乱れにはなっていない」
「今日は無理をするな。話すにしても少しだけだ」
「……はい」
薬湯のおかげか、掠れた声がどうにか形になった。男は手を止め、僅かに目を細める。
「随分と素直になったな」
嫌味とも冗談ともつかない口調。どう受け取ればいいのか分からず、ただ唇を引き結ぶしかなかった。実際のところ、目の前の男のことは助けてくれたこと以外、何も分かっていない。
知ってか知らずか、男が小さく笑った。
「少なくとも、止まったままでいたい顔ではなくなったように見える」
その一言に、胸の奥が小さく波打つ。
言葉にはならない。まだ自分でも形にできていない。
ただ昨日までとは何かが違ってしまったことだけは、否応なく分かっていた。
沈黙が落ちる。
その静けさの中で、右手に残る熱だけがはっきりと存在を主張していた。
視線を向けなくても分かる。
ダークライは、まだそこにいる。
逃げるように逸らしていたはずのその事実が、今は不思議と重さだけではなかった。
「スープはここに置いておく。飲めそうならこっちも飲んでおけ。また様子を見に来る」
男がこちらの肩を軽く叩いて立ち上がる。サーナイトも静かにそれに続いた。扉が閉まり、室内に静寂が戻る。
寝台に凭れたまま、浅く息を吐く。
身体はまだ重い。全身の痛みも消えていない。けれど、胸の奥に沈んでいたものは、夕べよりほんの少しだけ輪郭を変えていた。
──────────────
それから少年は食事を拒むことがなくなり、少しずつ回復に向かっていった。ひどく枯れていた喉も元の声を取り戻し、今では普通に会話を交わせるようになった。
食事も液状のものだけでなく、固形のものを口にできるまでになっている。
骨の浮き出た身体はまだ殆ど変わっていなかったが、顔色は随分良くなった。
私が傍にいても、数日前のように目を逸らすことはない。朝晩の挨拶は必ず交わすほどだ。
だが、全ての問題が片付いたわけではない。
少年の表情には、まだどこか影が残っている。
度々、何かを考え込むように俯き、黙る。
言葉はなくとも何を考えているのかは想像できた。
それは恐らく、あの男も同じなのだろう。分かっていながら少年が切り出すのを待っている。
私も、決めた。
その為に必要なものは、もう持っている。
「胸、首、腕、共に傷口は塞がっている。……順調だな。そろそろ歩く練習をしてもいいだろう」
男の口からそう告げられたこの日、少年の周りの空気が少しだけ変わったのを感じた。
「歩く……か」
少年が小さく呟く。私も、男とサーナイトも、少年に視線を向ける。
「……なんだ、まだ無駄にする気でいるのか」
吐息混じりに紡がれた男の言葉に少年は静かに首を振る。
「…………ずっと、考えてた」
「オレが生きている理由、生かされた理由……」
少年は毛布を握り締めていた手を離し、自らの手のひらへと視線を落としていた。昨夜、繋いでいた手。その温もりの名残を確かめるかのように緩く拳を握る。
「オレはずっと、自分は生きてちゃいけない人間だと思ってた。その考えは、今でも捨てきれない」
「……でも、ダークライは……違うと言った」
私の名を呼んだ瞬間、少年の肩から微かな震えが消えた。ゆっくりと顔が上がる。その碧い瞳が真っ直ぐにこちらを捉え、それから男たちへと移っていく。
「コラッタも、ラルトスも、ロコンも……オレを生かそうとしたんだ。──どうしてだって、ずっと思ってた」
彼らの名を紡ぐ声が小さく震える。拳を握る手に力がこもり、喉が引き攣るのが見えた。あの夜の、今にも消えてしまいそうな少年の姿が浮かぶ。
しかし、少年は泣かなかった。奥歯を噛み締め、さらに言葉を続ける。
「オレはあの子達に……あいつらに、生きて欲しかった。……“同じだった”なんて、おこがましくて言えない。……でも──」
「もう、無駄にはできない」
少年は静かに目を閉じ、言葉を止めた。
喉の奥で、覚悟を形にするように、深く、確かな息を吸い込む。
再び開かれたその瞳には、昨日までの迷いや、自身を呪う影はもうなかった。ただ真っ直ぐに男を見据える空色の瞳が、鋭い光を宿していた。
「……オレの命を、奴らを潰す為に使いたいんだ」