沈黙が部屋を満たす。
男はこちらの言葉を鼻で笑うことも、遮ることもせず、ただその覚悟の重さを測るようにじっと見つめ返していた。やがて、短く息を吐き出す。
「……命を『捨てる』ではなく、『使う』か。少しはマシな頭になったようだな」
呆れたような口調と裏腹に、男の瞳には明らかな満足の色があった。
「だが、お前が歩もうとしているそれは荊の道だ」
「それこそ、無駄死にに終わる可能性も捨てきれん。それに──」
「分かってる」
理解はしている。それは、単に《奴ら》を潰すことが難しいというだけじゃない。
自分がしてきたこと。
その結果と、向き合わなければならないことも。
……それでも。
「……これ以上、犠牲になるポケモンや人を増やしたくないんだ」
そこまで言い切ったところで、黒い影が傍らに寄るのが見えた。顔を向けた先には、あの日と同じ、曇りのない深い空色の瞳があった。じっと、こちらを捉える視線を受け止める。
……目は、逸らさない。もう決めたのだから。
数秒の後、ダークライの眸が微かに和らいだように見えた。目の前にそっと、その拳が伸ばされる。
意図を汲めず呆然と見ていると、ダークライの拳が上に向けられた。続けてゆっくりと三本の指が開かれる。
その手のひらには──
「……モンスター……ボール……?」
ポケモンについて、充分な知識を得るまで持たないと決めていた、赤と白の丸いカプセル。
だが、ダークライの手のひらにあるそれは、自分の知るものとは異なっていた。
色も模様も見たことがない。下部の白い部分は一般的なモンスターボールと同じだが、上部は開閉スイッチを境に青緑と黒にギザギザに塗り分けられている。最も特徴的なのは、真上に大きな三日月の模様が施されていることだ。
『……ツレテイケ』
「……え、いや……でも……」
突然の出来事に頭が追いつかない。
嬉しくない、と言えば嘘になる。……でも、連れていく気なんてなかった。命の保証ができないからだ。
『……』
ダークライも目を逸らさない。ただ静かに、こちらの答えを待っている。
グッと唇を引き結んで視線を落とす。裏切るようで胸が痛んだ。
「……気持ちは、嬉しいけど……駄目だ。きみまで危険な目に遭わせたくない」
「せっかく自由になれたのに、それをわざわざ捨てるようなものじゃないか……」
そこまで言って、気付く。
……ダークライにとって、自由とはなんなのか。
夢で見た、ダークライの過去。
ただ生きているだけで拒絶の対象とされる。その結果、たった独りで眠る道を選ぶしかなかった。
それは到底、自由と呼べるものではないのかもしれない。
『ジユウ』
「……そうだよ」
言葉を紡ぐ声が小さくなる。
もしも、彼にとってそれが最善なのだとしても、やはり生命に関わる旅に同行することを簡単には認められなかった。
しかし、差し出された手が退く気配はない。それどころか更にこちらへ差し出してきた。視界がボールと爪で塞がれて思わず顔を上げる。
『ナラバ、コレモ、ワタシノ、ジユウダ』
『ワタシノ、イバショハ、ワタシガキメル』
いつもの低く、掠れた声。けれども、どこか凛とした力強さを感じさせる。魂を震わせるその声が、深く心に響いた。途端に目頭が熱くなるのを感じる。
様子を見ていた男が小さく溜め息を吐く。
「お前の負けだ、諦めろ。そいつが相当頑固なのは、お前もよく知っているだろう」
分かっていても、すぐには手を伸ばせなかった。
指先が、触れようとするたびに僅かに震える。
目の前のボールが、ひどく重いもののように見えた。
……自分のポケモンを持つということは、その命の責任を最後まで負うことなのだと教わった。
それは正しいと思った。
だからこそ、ちゃんと学んでから旅に出たかった。
その為に、生まれ育った町を出てまでアカデミーに入ったのだから。
オレはまだ、ダークライというポケモンの全てを知っているわけじゃない。だから、一緒に生きる資格が果たして自分にあるのか、自信がない。
──でも。
目の前の、まっすぐにこちらを見つめ続ける眼差し。そこにあるのは資格なんて言葉よりも、ずっと強い確信だった。
……だったら、オレがすべきことは一つだけだ。
もう、この手を拒んで独りにすることなんて、できない。
震える手で黒い手のひらにあるボールを掴み、そっと持ち上げる。
「…………本当に、いいんだな」
大きく、確かにダークライが頷く。心なしか、その瞳の奥で、小さな歓びが波打つように揺れた。
「……分かった」
開閉スイッチを、ダークライの胸元──赤い飾りの先端に緩い力で押し当てる。たちまち黒い影が光に包まれ、ボールの中へと吸い込まれていく。
程なくして捕獲完了を示す音が、静かな室内に響いた。
組織にいた時、何度も聞いた音。ロコンが捕まった時も、ラルトスを捕まえた時も。嫌というほど聞いた、あの音だ。
けれど、あの時とは違う。
この重みは、誰にも、絶対に奪わせない。
きみを守れるくらい、強くなってみせる。
震えを堪えて瞼を伏せると、掌の中の球体を介して、ダークライの静かな鼓動が自分の心臓へと伝わってくるような気がした。
オレたちはもう、独りじゃない。
その繋がりを、魂の境界線を埋めるように、両手で大切に包み込んだボールをそっと額に宛てがった。
「……よろしく、ダークライ……」
きみがそう望んでくれるなら、オレもそれに応えたい。
どんなことがあっても見捨てない。
きみの痛みも苦しみも、一緒に背負っていきたい。
……だから、オレからも。
「……居場所に選んでくれて、ありがとう」
その瞬間、ボールの中の気配が優しく揺れるのが分かった。
────────────
……心にこれほどの凪が訪れたのは、生まれて初めてだ。
球体を介して少年の額の温もりと、彼の魂の決意が真っ直ぐに伝わってくる。
──居場所。
かつて世界から拒絶され、孤独の闇に潜むしかなかった私に、この少年は確かに新しい光を、生きる場所をくれたのだ。
その愛おしさと誇らしさに、ボールの中に満ちる影が、優しく、けれど激しく歓びに揺れるのが自分でも分かった。
──『オレの命を、奴らを潰す為に使いたいんだ』
脳裏に木霊する、少年のあの言葉。少年が、自らの足で歩み出す為に掴み取った、黒い炎のような凄絶な決意。
その行く末がどれほど過酷なものであろうとも。
この絆に応える為に、もう二度と、この少年を独りにはしない。
そう、強く誓ったその時だった。
不意に、ボールが宙に浮くのを感じた。本能的に呼び出されたのだと認識して外に飛び出すと、一瞬三日月のような光が散るのが見えた。縮んだ身体を瞬時に元の大きさに戻し、少年の傍らに立つ。
「どうした?」
こちらの疑問を代弁するかのように男が訊ねた。
「いや、その……、なんとなく落ち着かなくて……」
「……寂しいと」
「……あ、あなたに言われたくない……!」
ぽつり、と呟いた男に対して少年が珍しく声を張り上げる。
図星のようだった。少年の顔がほんの僅かに赤みを帯びているのが分かる。
気恥ずかしさ、というのだろうか。今の自分にはまだ理解のできない感情だが、好都合だ。ボールの中の居心地も悪くはない。しかし、こちらとしても少年の傍にいられる方が有難い。
「ふむ、冗談のつもりだったんだが。まあ、今はボールから出して連れ歩くトレーナーは多い。コミュニケーションを図るにはうってつけだからな。──それより」
「お前の名前を聞いていなかった。今更だが」
「……え?」
男の突然の問いに、少年は虚を突かれたように目を丸くした。
過去を暴かれる恐怖に怯えているのではない。ただ、思いもしなかった角度から問いを投げられ、戸惑っているように見えた。
「名前、は……」
「あった、けど。……もう、名乗れない」
消え入るような響き。だがそこには、確かな断絶の意志があった。
罪も汚れも知らなかった過去の自分と、今の自分を地続きにはしておけない。
犯した罪と向き合い、修羅の道を歩むと決めたからこそ、少年はかつての名前を、自らの手で封印したのだ。
それ以上を問うのは違うと、男も分かっていたのだろう。間をひとつ挟み、やがて視線だけを少年に向けた。
「なら、どう呼ぶべきか……。いつまでもお前や少年で呼ぶわけにもいかんだろう」
男の言葉には、追求するような冷たさはなかった。
これから先、この少年を一人の人間として扱い、呼ぶ為の純粋な疑問。
再び沈黙が落ちる中、少年は何かを深く決意したように、こちらをじっと見つめてきた。
「……その、良かったら……だけど」
「ダークライ。きみの名前の一部を、オレに貸してくれないか?」
思いもしなかった言葉に、思わず身がすくんでしまう。
『……ナマエ』
少年は深く頷き、自らの胸に手を当てる。それからどこか愛おしむような、けれどひどく真剣な光をその目に宿して微かに微笑んだ。
「施設に入り込んだあの日までの自分は、もういない。……この身体と──きみと一緒に生きていく為に、きみの名前を背負いたいんだ」
『…………』
すぐには答えを出せなかった。驚きもあったが、何より忌むべき対象として呼ばれるこの名を、一部とは言え貸し与えるのは躊躇いがあったのだ。
だが少年が私に向ける瞳には、軽蔑も恐怖も微塵も感じさせない。
ただ真っ直ぐに、私を唯一無二の半身として受け入れた、澄んだ光だけがそこにあった。
……私のわがままを、少年は受け入れた。ならば私も、その想いに答えなければならない。
静かに目を閉じて、思考を巡らせる。
ダーク……は駄目だ。クライ……もネガティブな意味合いが強くなってしまう。ダーやクーでは、人間には似合わない気がする。……と、すれば、これしかあるまい。
『…………デハ』
『“ライ”トイウナハ、ドウダ』
開いた視界に少年を映して、紡ぐ。
「ありがとう……!」
「──ライ。……ライか。うん、カッコいい……!」
途端に、少年の碧い瞳が輝きを増した。
与えられた名を噛み締めるように呟いた後、声を弾ませる。その姿からは、年相応の子供の一面が垣間見えた。
そうまで喜ばれるとは思わなかったが、少しだけ、自分の名前に誇りを持てたような気がする。
「……決まったようだな。よく似合っている」
「──それでは、ライ。具体的にはどうするつもりだ」
「……それは、まだハッキリと決まってないけど……」
男の放った現実的な問いに、少年──ライの顔つきが引き締まった。先ほどまでの無垢な姿は影を潜め、代わりに真意を探る眼差しが男に向けられる。
「……その前に、あなたの名前も聞かせてください」
「それと……あなたを味方だと、信じていいのか」
「……ほう」
それを聞いた瞬間、男は興味深げに口角を上げた。
試すような男の視線に、ライは一歩も退かない。だが、その碧い瞳の奥が、ほんの僅かに微震しているのを私は見逃さなかった。
目の前の男を信じたい。自分たちを救ってくれたその手を、本心では信じきってしまいたいのだ。
しかし、信じた先にあるのが裏切りだとしたら──その恐怖を、この少年は誰よりも知っている。
自らの願望を警戒心で捩じ伏せるように、ライの手が布団を握った。
「ずっと気になってたんだ。オレやダークライを見ても驚く様子もないし、そもそも、普通の人が知らないはずのことを、知りすぎてるような気がして」
「……ダークライとオレを助けてくれたことは、感謝しています。動けるようになったら、自分にできる恩返しはさせてもらうつもりです。でも──」
そこで言葉を区切った少年の眼光が鋭さを増す。
感謝を告げながらも、一線も退かないその姿勢は、すでに修羅の道に踏み入れた者のそれだった。
「もしあなたが、今も奴らと関わりがあるのだとしたら、下手に喋るわけにいかない」
室内に緊張が走る。
ライの言うことは尤もだ。私もまた、この男の正体を薄々感じてはいた。そして──。一足先に、私はその解答を得ていた。
寄り添うように少年の傍らに佇んだまま、男の言葉を待つ。
男はしばらく何も言わなかった。
試すような沈黙が続く。
その静けさの中で、ライの呼吸だけが浅く小さく揺れている。
やがて男は耐えかねたように、喉の奥で低く笑い声を漏らした。
「……面白い」
「確かに私はお前の言う普通の人ではない。……私の名はクローウェル。組織では“ヘリクス”のコードネームで呼ばれていた、元研究員だ」