施設に帰る頃には、もう空の色も分からなくなっていた。
外に出る時と同じく、ダークライの部屋の前を通らされる。窓越しに見える影に視線が引き寄せられた。
……今は落ち着いているようだ。
無事を確かめたくて、縋るようにその姿を追っていた。
それなのに、ふとダークライと視線が合って、すぐに逸らす。
目を合わせていられなかった。
自分の行動が、彼を傷付けてしまった。
その負い目に耐えられなかった。
引き摺られるように風呂に連れて行かれる。
研究員曰く病気を防ぐために身体を清潔に保っておく必要があるから……らしい。
普通であれば、心を安められる時間であるはずだ。
だが、ここではそうではない。
監視は常に二人以上。
風呂から出ればタオルや着替えだけ投げて寄越される。髪を乾かす時間は与えられない。
その後研究室で軽く検査を受けて、濡れたまま独房に戻される。冷たい水滴が肌を伝っていくのに、拭おうとは思えない。ぽたぽたと床に落ちる雫を、ただ茫然と眺めていた。
扉が荒々しく閉まる。組織員の足音が遠退くと、コラッタが駆け寄ってきた。首に埋められた装置が僅かな光を反射して鈍く煌めくのが見える。
その瞬間、電撃で苦しむダークライの姿が浮かんでその場にしゃがみ込んだ。
触れて確かめたい。
でも、怖い。
ロコンの恐怖に歪んだ瞳が、ダークホールを命中させた時の感覚が、脳裏にこびりついて離れない。
汚れた手でこの子に触れていいのか分からなくて、伸ばしかけた指先が空中で止まる。
「……酷いこと、されてないか?」
コラッタが首を傾げて見つめてくる。
それから自分の身体を見せるかのように、その場でくるりと回ってみせた。長い尻尾を小さく振って鳴く。いつもと変わらない、無邪気で元気な姿。
……どうやら、大丈夫みたいだ。
その純粋さに、張り詰めていた心の糸が漸く緩んでいくのを感じて、肩の力が抜けた。
「……そっか……良かった……」
空中で止まっていた手をそっと下ろし、立ち上がってマットまで歩く。
身体が重い。
辿り着くなり、糸が切れたようにマットに身体を沈ませた。
◇◇◇
暗い……。
光の届かない暗闇で、影が揺らぐ。
目を凝らしてしばらく見つめていると、ぼんやりと姿が見えてくる。
……ダークライだ。
表情には出てないけれど……代わりに感情のようなものが流れ込んでくる。
「…………ごめん」
謝るしか、出来なかった。
ダークライは何も言わない。ただじっと、こちらを見つめる視線を感じる。
顔を上げられずにいると、聞き覚えのある掠れた声が耳に届いた。
『……ナゼ、キラワナイ』
質問の意図がわからない。
『ニクク……ナイノカ』
思わず顔を上げる。
「……どういう……?」
『……コノ、チカラノセイデ、クルシム』
──ああ。
今まで見ていた夢の正体は、やっぱりこれだったんだ。
暗くて、苦しい。
でも、そんな状況の中でも、
その内側にある心は……温かい。
伝えなければ。
そう思った。
「…………それは違うよ」
「この力……オレは嫌いじゃないし、憎くもない」
「嫌いなのは……この力じゃない。これを利用する奴らと、利用される状況だけだ」
『…………ナゼダ』
「……きみの一部だから」
そう言い切ってから、
僅かに息を呑む。
『ナニヲ……』
「これがきみを苦しめてるのは、分かってる。……でも、それでも」
「この力も、優しいきみの一部だ」
「だから、嫌いたくない。嫌いにはなれない」
『……………』
ダークライはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、周囲の影が一瞬だけ震えたような気がした。
◇◇◇
…………何かが顔に触れる感触があって目を覚ます。
ぼやけた視界の中にこちらを覗き込むコラッタの顔が映る。
まだ眠い……。
再び瞼を閉じようとすると、今度は頬を舐められた。
火傷を負った部分だ。
舐めにくいだろうに、前歯が当たらないように何度も。
目頭が熱くなる。
……けれど、涙は一滴もこぼれなかった。
小さく声をかけて身を起こす。
食事は既に運ばれており、すっかり冷めてしまっているようだ。
「……先に食べてて良かったのに」
そう呟くとコラッタは小さく首を横に振った。
いつものように、二人で分け合って食事をする。
少しだけ、コラッタの分を多めに。
捕まったロコン達の事を考えると、食事が喉を通らなくなる。あのロコン達にも、こんなふうに食べ物を分け合って生きる仲間や家族がいたかもしれない。その日常を壊してしまった事実が重くのしかかる。
……もう選んだんだ。
そう自分に言い聞かせて、味のしなくなった食べ物を無理矢理水で流し込んだ。
……それから数日経った。
任務はない。だが、いつ駆り出されるか分からない。
その不安と恐怖からか、深く眠れない日が続いた。
コラッタはいつの間にか、常に隣に来るようになっていた。
けれど、すぐ隣にある温もりにまだ手を伸ばせずにいる。
この日──
恐れていた任務がやってきた。
護送車に乗せられて来た先は、森の中だった。
移動時間から見てそんなに遠くない。
車から降りてすぐ、鎖が外される。
「逆らえば……分かってんだろ?」
リモコンさえ奪えば……。
一瞬、そんな考えが頭を掠めるが、行動には移せなかった。
紫髪が満足そうに口端を吊り上げる。
「今回のターゲットはラルトスだそうだ。この地方でも滅多に見つからねェが、上は複数体ご所望だ。期待通り働いて貰うぜ」
拒否権は、ない。
分かってはいても、返事をする気はない。
黙って進もうとしたその瞬間、首枷が唸る。
強い電流で全身の筋肉が硬直する。
「──〜〜ッッ!!!」
背中が弓形に反って、両膝が崩れる。
いつもならここで止まる電撃が止まらない。
目の前が白く弾ける。意識が飛ぶ──
その寸前で漸く止まった。
「……返事は?」
地面に伏した視界に男とリモコンが見える。
「…………は……い……」
引き攣った喉で漸く言葉を絞り出した、その時だった。
近くの草むらが音を立てた。
そこから顔を出したのは……ラルトスだった。その場にいた全員の視線が、小さな体に向けられる。
怖がる気配はない。
いや、一瞬男と組織員を見てそこからは慌てた様子で離れたが、こちらに近寄ってくる。
さっきから、微かに視線のようなものを感じてはいた。
──でも、なんで……
痺れの残る身体を起こして距離を取ろうとしても、詰められる。
その子は足元まで来ると真っ直ぐ顔を向けてきた。
髪の隙間から覗く瞳が揺れる。
怯えとは違う。
まるで何かを読み取ったように。
アカデミーで学んだ、ラルトスというポケモンの生態を思い出す。
……見透かされるような感覚が走り、無意識に後退りしてしまっていた。
駄目だ、来るな。
こっちに来たら……。
──お願いだから、やめてくれ。
どれだけ願っても、ラルトスは逃げようとしない。
助けを求めるでもなく、ただ静かにこちらを見上げている。
「──く、ハハッ!コイツぁイイ!!」
「こんだけ懐かれちゃあ、捕まえるしかねェよなァ?」
不快な笑い声が頭に響く。
《奴》は空のモンスターボールを投げて寄越してきた。
早鐘を打つ心臓の脈動が手元に伝う。
だが動かなければダークライが攻撃される。
──ここで止まる資格は、もうない。
転がったボールを手に取り、無抵抗のラルトスの頭に近付ける。ボールの無機質な感触が自分の手の震えを余計に際立たせていた。
その子は逃げる素振りすら見せない。開閉スイッチを押し当てると、じっとこちらを見つめたまま、光と共にボールの中へと吸い込まれていった。
手のひらの中で、ボールが小さく揺れ、そのまま捕獲完了を示す音が聞こえた。あっけないほど簡単に、その信頼ごと、暗闇の中に閉じ込めてしまった。
ラルトスが入ったボールは即座に《奴》にひったくるような勢いで取り上げられた。
「一匹目がこんな楽に捕まっちまうとは…ラッキーだったな。このまま二匹目だ。立て」
……裏切った。
信じて近付いてくれた存在を、この手で。
向けられた純粋な瞳が、瞼の裏から離れない。
考えるのをやめて、無理矢理足を前に出す。
一歩進むたびに、心臓を直接握り潰されるような激痛が襲う。
それを無視して強引に視線を上げた。
──その後、森の中を探し回って見つけた別のラルトスをダークホールで眠らせた。この日捕獲されたのは2体だった。
「……2匹か。上の要求ラインは満たしたな」
それ以上の指示はなかった。
鎖が繋がれ、再び護送車へ押し込まれる。
帰路の記憶は曖昧だった。
揺れと、鉄の音と、
……ボールの中に閉じ込めた感触だけが、
指先に残っていた。
施設に戻った時には、辺りはすっかり闇に包まれていた。
いつものように風呂、
いつものように検査、
いつものように独房。
鎖が外され、扉が閉まる。
……その直後だった。
閉まったはずの扉が再び開く。
と、同時に何かが放り込まれた。
白い物体が床を転がる。
「……っ」
それが何なのか、理解するまで時間がかかった。
白い体に緑色の頭部──ラルトスだ。
さらにもう一つ、
今度はボールごと投げ込まれる。
光が弾け、中から姿を現したのはロコンだった。
狭い独房の中に、
三つの小さな命が揃う。
「……なんの……つもりだ……」
組織員は答えない。
そのまま乱暴に扉が閉まった。
顔を上げたラルトスが真っ直ぐにこちらを見る。
先程と同じように。
ロコンはボールから出てすぐ独房の隅に行ってしまった。
『コラッタ!』
『ラル……』
コラッタが鼻を動かしながらラルトスに近寄る。
ラルトスはコラッタに応えるように小さく鳴き声を上げた後、立ち上がってこちらに歩いてきた。
……やめろ。
来ないでくれ……。
その資格は、オレにはないんだ。
そう思っても、足が動かない。
足元に来たラルトスが、ズボンの裾に手を添える。
指先がわずかに震える。
触れられない。
でも、振り払うこともできなかった。
──────────────
……少年が連れて行かれた後の事だった。
何度か“あの違和感”が走った。
その直後、装置から放たれた電流が身体を焼いた。
理由が分からなかった。
が、少年が戻って来た時になんとなく理解できた。
……強く、なっている。
これは……気のせいではない。自分と少年を隔てていた霧のようなものが、薄くなっている。
感情が流れ込んでくる。
痛み。
罪悪感。
自己否定。
少しずつ、ヒビが入っていく。
あれほど強固だった内側の光が、弱々しく揺らいでいる。
……それなのに、
拒絶がない。
…………何故だ。
拘束された影の奥で、
行き場を失った悪夢が滲む。
……流れた先は、一つだけだった。
暗闇の先に、もう一つの鼓動がある。
……触れるつもりはなかった。
……何故、繋がる。
「嫌いじゃない」
「きみの一部だから」
静かに影が揺れる。
『……ヤサシイ……ワタシノ……イチブ……』
理解は、できない。
だが、その言葉が頭から離れない。
……消そうとしても、消すことができなかった。