Somnia   作:hakumei

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#6 蹂躙

目を閉じても、意識が落ちない。

鎖の音が聞こえた気がして何度も目を開ける。

辺りを見渡しても……音はない。

それなのに、鼓動だけがやけに速く感じた。

 

視界がボヤけて、夢なのか現実なのかも分からない。

 

……でも時々、気付いたら暗闇に立っていることがある。

 

その時だけ、ダークライの姿が見える。

会話もできる。あの時と同じように。

 

とはいっても、会話自体はほとんどない。

ただお互い、そこにいる。

 

ダークライにはオレが見ている景色が見えているようだった。

オレがやっていることも……。

 

姿を見ると強く感じる。

……無力感と、深い悲しみ。

反対に、怒りや憎しみは感じられなかった。

 

目を逸らしても、見られている感覚は消えない。

 

いっそのこと憎んでくれたら……。そう思うのに。

ダークライの姿を見ると、どこか安心してしまう自分がいる。

 

……手を伸ばせば、触れられそうな距離だ。

 

ふと、触れたいと思ってしまう自分に気付く。

手を伸ばしかけて……止める。

触れてしまえば、戻れなくなる気がした。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

独房の冷えたコンクリートの匂いが鼻を掠める。

 

……少し、眠っていたみたいだ。

 

ロコンとラルトスが独房に入れられてから、何日経った……?

 

任務に駆り出された回数と内容は覚えてる。

でも、日にちの感覚は相変わらず曖昧だ。

 

気付けば、隣に座る気配が増えている。

 

コラッタと……あのラルトス。

拒むこともできず、ただ、そこにいることを許してしまっていた。

 

ロコンはまだ一定の距離を保っているが、逃げることはなくなった。

 

いつも通り食事が届く。人数が増えたからだろうか……少しだけ量が増えた。

でも、四等分するには足りない。

トレーの中身をそれぞれ四つに分ける。均等に並べるように見せて、自分の分を減らした。

 

気付かれないように、素早く皿に乗せてそのまま差し出す。

……それで済むはずだったのに。

 

コラッタが自分の皿を押し返してきた。

 

ラルトスは皿を見て、それからこちらを見る。

裾を掴む指先が、ほんの僅かに強くなるのを感じた。

 

ロコンも食べずに様子を伺っている。

 

「……いいから、食べろ」

 

それだけ言って、目を逸らす。

 

体力は自分が削ればいい。

ポケモン達を飢えさせたくない。

 

そのまま黙って自分の皿に手をつける。

しばらく視線を感じていたが、遅れてポケモン達も食べ出す音が聞こえた。

 

そこで顔を上げる。

コラッタは出会った頃と変わらない。

ロコンの毛並みは、来たばかりの頃より艶が出ている。

ラルトスの動きも軽い。

 

それだけで幾分か心が軽くなる気がする。

最近袖の内側が余ってきたように感じるのは、たぶん気のせいだ。

 

 

 

……これまでにあった任務は、捕獲だけじゃなかった。

 

 

 

その日連れて行かれたのは、洞窟だった。

いつものように、車から降ろされてすぐ鎖が外される。

 

「先に行け。飛び出してくるポケモンがいたら眠らせろ。……どうせお前、殺せねェだろ」

 

《奴》が持つリモコンに目を向ける。

次は直接、彼らに危害が及ぶかもしれない。

そう考えると口を動かさずにいられなかった。

 

「…………はい」

 

両腕を変化させて細い洞窟内を歩く。

ダークライの力の影響だろうか……。すぐ先は暗闇なのに、こうなる前より見える気がする。

時折飛び出してくるズバットやコロモリ、オンバット達を眠らせて進む。抵抗する力を奪われ、洞床に転がる彼らを組織員の投げたボールが次々に捉えていく。

 

「眠ってると捕まえやすくて助かるぜ」

 

死なせてはいない。そんな最低な免罪符の裏で、その命は確実に組織の檻へと送られていく。カチリ、カチリと、背後から捕獲音が聞こえる度に激しく胸が軋んだ。

 

少し開けた空洞を通り、更に奥に進むと広々とした巨大な空間に出た。

組織員が明かりを灯す。

まず見えたのは、地下水の湧き出る泉。

岩壁には金色の筋が走り、天井からは結晶が突き出している。それらは光を反射して煌めいていた。

 

《奴》の口笛が反響する。

 

「こりゃあ上が欲しがるわけだ」

 

すると、洞窟内のあちこちからポケモン達が出てきた。

 

ヤミラミ、ガバイト、メレシー。空中にはズバット達。

いつの間にか周りを囲まれていた。

 

「……が、モノにするには先住ポケモンが邪魔だな。売れそうなのは捕獲。他は追い出せ。一匹も残すなよ」

 

紫髪の指示を受けて組織員達が動き出す。それぞれポケモンを繰り出して洞窟内のポケモン達を攻撃し始めた。

 

「お前もさっさと加勢しろ」

 

組織員に背中を蹴られ、その勢いのまま前に出る。

胸の前で両手を構え、エネルギーを収束させる。

ダークホールを作るのも慣れてしまった。

 

……慣れてはいけないはずなのに。

 

一度に一発分しか生成できなかった球体。

身体の芯を削られるような感覚と引き換えに、複数発分生成できるようになった。

 

向かってくるポケモン達に対し、それを放つ。

外れたものもあったが、ポケモン達の攻撃がこちらに届くことはなかった。

 

その後も組織と洞窟のポケモン達の攻防は暫く続いた。

 

命令には従った。

従うしか……なかった。

 

ただ、やり過ぎる組織員を見た時は黙っていられなかった。倒れたポケモンに対して、トドメを刺そうとする組織員がいたからだ。

野生のポケモンに撃つと見せかけてダークホールの軌道を組織員のポケモンに向け、眠らせた。上手く騙せたのかは分からない。だが組織員は大きく舌打ちしただけで、その場から離れていった。

他にも、当てるふりをしてわざと外したり、逃げる隙を与えたりもした。

 

上手くいくこともあったが、

……結局、紫髪や他の組織員に追撃されてしまうこともあった。

 

 

 

全てが終わった時には、洞窟は静まり返っていた。

あれだけいたポケモン達も……もういない。

 

「お前のダークホール、便利だよなァ。コイツら起きた頃には住処なくなってビックリだろうよ」

 

《奴》が顔を覗き込んでくる。

直視できずに顔を逸らした。握った拳に力が籠る。

 

「相変わらずいい顔するじゃねェか。“アイツ”に見せてやったらどんな顔するだろうなァ」

 

不快な笑い声が、洞窟内に響き渡る。

住処を守ろうと向かってくるポケモン達の目が、忘れられない。

 

……これが、初めての制圧任務だった。

 

 

 

 

もう一つの任務は、運搬。

捕獲したポケモン達を、纏めて実験棟に連れていく。

 

思い出したくもない……あの場所だ。

 

すぐに終わるような任務。

何故やらされるのかも分からない。

 

それでも逆らえなかった。

 

実験室の、白い扉の前で立ち止まる。

 

ポケモンの……悲鳴のような声が聞こえた。

 

途端に、両腕に抱えた複数のボールから震えるような気配が伝わってくる。

思わず腕に力が入った。

 

「お前が眠らせたんだ。今更どうなるか知りませんでした、なんて言わねェよな?」

「さっさと置いてこい」

 

──オレが彼らから奪ったのは、自由だけじゃなかったんだ。

 

助けを求めるようなボールの細かな震えが、非難の声のように響いて、強い吐き気がせり上がってきた。

酸っぱい塊を強引に喉の奥へ押し戻し、扉の横に置かれた回収箱に、一つずつボールを落としていく。

 

すると、扉の小窓の向こうで白衣が動く気配がした。

 

反射的に目を逸らす。

……見てはいけない。そんな気がした。

 

 

 

 

この後、更に制圧任務が1回、捕獲も2回あった。

向かってくるポケモンも、逃げ惑うポケモンも眠らせた。

彼らの姿は、忘れようとしても記憶に強く焼き付いたまま離れなかった。

 

 

 

──────────────

 

 

 

……少年の時間が、流れていく。

私の影が届かない場所で、それでも確かに。

 

その中で、何度か繋がることがあった。

 

少年の身体は、日に日に細くなっていく。

その内側で燃え盛る「罪悪感」という火に、自分自身を焚べているかのように。

 

「嫌いになんてなれない」

 

あの言葉が、静寂の中で何度も弾ける。

 

理解できない。

この力は世界を悪夢で塗り潰し、こうして少年の心さえ蝕んでいるというのに。

 

……少年の指先が、空中で止まった。

私に触れようとして、震え、そして力なく落ちる。

その瞬間に流れてきたのは拒絶ではなかった。

 

身を焦がすような自責。

汚れた手で触れてはいけない……と。

 

少年は自分を汚物のように思い、私を聖域のように扱おうとしている。

 

……愚かなことだ。

お前を汚しているのは、他ならぬ私の影だというのに。

 

だが、その温もりが私の影を僅かに鎮める。

 

鏡合わせの苦痛。

 

少年は泣かない。その代わりに、影が音もなく揺れた。

 

 

 

少年の姿が見えなくなっても、感情は流れ込んでくる。

……以前よりも、鮮明に。

 

独房の空気は重く、淀んでいる。

しかし、その淀みの中で三つの小さな鼓動が、少年の周りに集まっているのが分かる。

 

……守ろうとしている。

 

それでも少年は、自分を削ることをやめない。

 

……それ以上、削れるな。

 

影が、僅かに揺れた。

気付けば少年の方へ伸びている。

 

触れられる距離。

 

だが──

 

私は、それを止めた。

 

 

 

その暫く後だった。

 

……足音が近づく。

扉を叩く、あの無慈悲な音。

少年の鼓動が、鋭く跳ねるのが分かった。

 

次の「悪夢」が、そこまで来ている。

 

 

 

──────────────

 

 

 

──今回も、連れていかれたのは森の奥だった。

 

いつもと変わらない、捕獲任務。

ただ今回は、いつもと違う命令が下された。

 

「今回のターゲットはゾロアとゾロアークの群れか……コイツぁ良い」

「ゾロアークは特に幻影を見せる力が強力だ。使われる前に無力化しろ。捕まえられないと判断したらすぐ殺せ。他のポケモンに化けている可能性もある。油断するなよ」

 

命令を受けた組織員達が散り散りになって木々の間に消える。

 

「お前もだ」

 

びくりと、肩が震えた。

 

──殺す……?

そんなこと、できるわけ……。

 

しなきゃいけないのに、すぐに返事ができない。

紫髪の男が、こちらを一瞥する。

 

「……聞こえなかったか?」

 

首枷が低く唸る。

頭の中に、暗い影が過ぎる。

 

ダークライ……。

その名前を思い浮かべた瞬間、胸の奥が冷えた。

 

「い、え……」

「ッ……はい」

 

慌てて言葉を絞り出す。

首枷は電流を放つ前に止まった。

 

……嘘だ。できるわけない。

だが今は……形だけでも従うしかない。

 

「行け」

 

また背中を蹴られる。

押し出される形で、深い森の中へと足を踏み入れた。

濃い霧に阻まれて先が見えない。当てもなく進む内に、ふと空気が変わった。

 

静かすぎる。

風も、鳥ポケモンの声もない。

 

……いる。

 

視線を感じる。

 

木々の隙間、岩陰、枝の上。

小さな影がいくつも揺れる。

 

一見虫ポケモンや草ポケモンに見えるが、気配が違うものが混ざっている。

 

瞬時に腕を変化させる。

 

……殺さないようにするには、眠らせるしかない。

 

生成したダークホールから小さな影に向かって複数の球体を放つ。

 

しかし、命中したのは一体だけだった。

 

速さはロコンと変わらないように感じる。

……が、木々が邪魔だ。

 

生い茂る樹木を利用してダークホールを避けたポケモン達が逃げていく。

 

枝の上にいたクルミルらしき影が、下の茂みに落ちたのが見えた。

そこを覗き込むと幻が解けて眠るゾロアの姿がある。

 

まだ幼い、小さな体。

実験棟の白い扉が脳裏に浮かぶ。

 

強く拳を握り締めた、その時だった。

あちこちから悲鳴のような、甲高い鳴き声が聞こえた。

 

咄嗟に、声の聞こえた方へ踏み出す。

誰かの視線を感じた気がするが、立ち止まってはいられなかった。

 

木々の間を縫って走る。

すると、組織員の姿が見えた。

その視線の先には、瀕死寸前のゾロアがいる。

 

思わず手を伸ばした瞬間、組織員の投げたボールがゾロアを捉えた。ボールは暫く揺れていたが、それきり出てくることはなかった。

 

「なんだ、遅かったじゃねぇか。もう捕まえちまったぞ」

 

組織員が拾い上げたボールを見せつけながら笑う。

 

言葉を飲み込んで視線を逸らした。

そのまま背を向けて歩き出す。

足元がふらつくが、構っていられない。

 

……ゾロアはまだいる。

 

声のした方へ、夢中で走る。

進路を塞ぐ枝を強引に押し退け、視界が開けたその瞬間──空気を震わせる激しい雷光が、薄暗い森の奥を白く照らし出した。

 

眩い光の中に浮かび上がったのは、青い体毛と黒い鬣を激しく揺らすレントラーの姿だった。金色の瞳を鋭く光らせるそれは、瞬く間にゾロアとの距離を縮め、その喉元に向かって口を開けた。牙に電光が迸る。

 

その一瞬、走りながら生成したダークホールをレントラーの足元に放った。

 

獲物を捉えかけたレントラーの瞳が、足元に爆ぜた異質な闇を捉える。ゾワリと総毛立った巨体は、噛みつく寸前で強引に地面に爪を立て、土煙を上げながら大きく後方へと飛び退いた。

その隙を逃さず、今度はゾロアに向かって球体を放つ。

 

動きが鈍い。

引き摺るような足取りで、なおも逃げようとするその背中がダークホールに呑まれる。細い四つ足がもつれ、もはや避けるだけの気力すら残っていなかった。

 

深い眠りに落ち、力なく倒れるゾロア。

胸の奥で小さく「よかった」と声がした。

 

レントラーの鋭い牙に切り刻まれることも、殺されることもない。

……少なくとも、今は。

 

だが、その直後に猛烈な吐き気が込み上げた。

 

──救ったつもりか?

 

抵抗する術を奪い、逃げる機会を奪い、実験材料として差し出しているのは、他ならぬ自分だ。

 

殺されるよりはマシだなんて、どの口が言える。

 

泥を飲み込んだような不快感が喉をせり上がってくる。

震える指先で口元を覆い、眠るゾロアから目を逸らした。

 

「……ちっ、横取りかよ。ま、いいや。死なせるよりはマシだしな」

 

追いついてきた組織員の、悪びれもしない声。

自分自身の心の声と重なって聞こえて、耳を塞ぎたくなった。

 

逃げるように、次の場所へ向かう。

その最中、洞窟でポケモンを殺そうとした組織員の姿が浮かぶ。

ゾロアを探すつもりが、気付けばその組織員を探していた。途中で何人かの組織員とすれ違うが、肝心の本人が見つからない。

 

息が上がって立ち止まる。

辺りは不気味な程静かだ。

 

──どこにいる。

 

周りに目を向けると、今度は人の叫び声が聞こえた。

聞き覚えのある声。

 

近い。

 

そこで目にしたのは、地面に叩きつけられるあの組織員の身体。

そして、その前に仁王立ちで立ちはだかるゾロアークだった。

 

荒い呼吸。

体のあちこちに、深い裂傷が走っている。

その背後──草むらの奥で、小さなゾロアが震えていた。

 

ゾロアークの鋭い視線が、真っ直ぐこちらに向く。

牙を剥き出しにして、地を這うような唸り声を上げている。

 

それなのに、攻撃してこない。

 

長い鬣が、べっとりと付着した血の重みで垂れている。

後脚は僅かに沈み、体勢が揺れていた。

それでも、背後のゾロアを庇う位置から、一歩も動こうとしない。

 

──もう、長くは戦えない。

 

辺りに視線を向ける。

 

……組織員と、そのポケモンは気絶してる。

周囲に他の人間の気配はない。

 

今なら、まだ。

 

声をかける。

ゾロアークにだけ聞こえるように。

 

「……行け。その子を連れて」

 

伝わったかどうかは、分からない。

けれど、ゾロアークはこちらへの警戒は解かぬまま、そっと震えるゾロアを抱え上げ、不自由な足取りで深い森へと背を向けた。

 

一瞬だけ、振り向いたゾロアークと目が合う。

そこにあったのは、人間への深い憎悪と、ほんの僅かな……困惑。

 

闇に溶けるように、森の奥に消えていく影。

その後ろ姿を見送って、漸く安堵の息を吐きながら踵を返す。

 

しかし、踏み出そうとした足が、凍りついたように止まった。

 

ゾロアークの向かった方向から、木々を圧殺するような怒鳴り声が聞こえた。

あの声は……紫髪の──。

 

直後に、引き裂かれるような鋭い咆哮が届く。

 

……ゾロアークの声だ。

 

胸の奥が、嫌な音を立てて軋む。

 

……まさか。

 

気付けば森の奥へ駆け出していた。

枝を掻き分け、崩れる斜面を滑り降りる。

 

刹那──静寂を守っていた森を真っ二つに引き裂くような、凄まじい絶叫が響き渡った。

 

『──アアァァァッ!』

 

今度は、はっきりと分かった。

まるで、断末魔のような──。

 

「……ッ!!」

 

指先から血の気が引き、足がもつれそうになる。

肺を焼くような息苦しさも、心臓を掴まれたような激しい悪寒も無視して、さらに速度を上げた。

 

 

 

森を抜けた瞬間、足が止まった。

 

最初に目に入ったのは、ひらけた草むらに横たわる、黒い影。

 

傷だらけの体……。

あのゾロアークだ。

 

地面に倒れて、動かない。

威厳に満ちていた体は無惨に裂かれ、灰色の毛並みは飛び散った泥と血で赤黒く染まっている。

 

膝が震える。

でも、確かめずにはいられなかった。

 

ふらつく足で近付く。

 

崩れ落ちた体の下から、赤い液体が音もなく静かに広がっていく。粘度を増したそれは冷たい地面を侵食し、じわじわと血溜まりを作っていった。生温かい臭気が、風に乗って鼻腔を刺す。

 

大きく見開かれた眸は、もう何も映していない。

濁った瞳孔が、ゆっくりと光を失って開いていくのが見えた。

 

そして──その血濡れた腕の中に、しがみつくようにして埋もれる影がある。

 

子ゾロアだった。

瞼は固く閉ざされたまま動かない。細い首筋には深い裂傷が刻み込まれ、そこから流れた血が親の毛並みと混ざり合っていた。

 

「あ……」

 

小さな体に手を伸ばす。

だけど、触れる寸前で止まった。

 

……触れられない。

こんな手で。

 

何が起きたのか理解したくなかった。全身が壊れたように震えて、言葉を発することもできない。

 

視界が滲む。

何が見えているのか分からなくなる。

頬を伝ったものが、赤黒く染まった土の上に落ちた。

 

「ッ……な、……んで……っ」

 

草を踏み締める《奴》の足音が聞こえて、漸く絞り出せた言葉がそれだった。

 

「あァー?なんでじゃねェだろーよ?」

 

返答が返ってくると同時に脇腹に強烈な蹴りが入る。鈍い痛みが遅れて脳に走り、堪らず地面に蹲った。

 

「うっ!!……あ、が……っ……」

 

視界に《奴》の靴が映る。

その後ろに、いくつかの影が折り重なってゴミのように打ち捨てられているのが見えた。

別の──ゾロアーク達の亡骸。その中には不規則に痙攣を繰り返しているものもいる。

 

「今回の標的は相当レアなポケモンだ。お前がちゃあーんと命令に従って、群れごと捕まえられりゃあ良い資金源になったんだぜ?」

 

「分かるか?組織で一網打尽にすりゃ、価値が上がってお高く売れんのよ。……そーれーをーー。お前が!逃がすから!こんな事になってんだろーが!!」

 

顔の前にあった靴が大きく引かれた直後、横面を激しく蹴り抜かれた。

顎を跳ね上げられ、脳を直接揺さぶるような衝撃に目の前が真っ白に染まる。顔全体に痺れるような感覚が襲ったかと思えば、焼けるような痛みが走った。

肉が裂けた口内から生暖かい液体が溢れ、土の上に落ちていくのが分かる。

 

それでも気が収まらないのか今度は立て続けに容赦ない蹴りが腹部にめり込む。

 

「…………ッッ」

 

目の焦点が合わない。

地面に突っ伏した頭髪を鷲掴みにされ、頭皮が引きちぎれんばかりの力で顔を上に向かされる。視界が激しく揺れる中、無表情でこちらを見下ろす《奴》と視線がぶつかった。

 

「逃がすくらいなら殺すしかねェだろ。……ほら、よぉーーく見ろよ」

 

髪を掴まれたまま、顔を強引に前へ向けられる。

否応なしに突きつけられたのは、血に塗れた赤黒い鬣と、幼い影。

 

「…………っ」

 

喉が固く詰まる。

目の前の「死」の生々しさに胸が押し潰され、息ができない。

 

「あ……ぁ……」

 

吐き気と恐怖で、喉の奥から掠れた音だけが漏れる。

 

「可哀想になぁ?」

 

《奴》の声が、やけに楽しそうに響いた。

 

「お前が余計なことしなきゃ、コイツらは死なずに済んだんだぜ?」

「場合によっちゃ、売られた先で大事に飼われてたかもしれねェ」

 

狂気的な優しさを孕んだ声が響き、頭が揺さぶられる。

それから《奴》は一拍置いて、低く笑った。

 

「……でもよォ」

 

耳元に男の不快な呼吸が触れる。

 

「その未来を奪ったのは──」

 

髪を掴む手に力がこもる。

 

「お 前 だ」

 

「……っ、違……」

 

言葉が喉で止まる。

 

違う。

 

そう言おうとして、

言えなかった。

 

胸の奥で何かが崩れる。

 

分かっている。

 

自分が眠らせた。

 

自分が逃した。

 

だから──

 

全部、

 

全部。

 

自分のせいだ。

 

「……う、……あ……あぁぁ……っ!」

 

声にならない叫びが喉から溢れた。

涙と血で視界が歪んでいく。

 

「全部見てたぜ。洞窟の時からな」

「お前みたいなクソガキの考える事なんざ、お見通しなんだよ」

 

嘲笑うような低い声が、頭の奥に沈む。

 

「今後任務で同じ事しやがったら──」

「死体が増えていくだけだと思え」

 

乱暴に掴まれていた髪が、ゴミでも捨てるように離される。もう立ち上がる気力は残っていなかった。

 

「……あァ、そうだ。忘れてた」

 

冷え切った声が頭上から降ってくるのと同時に、《奴》がポケットに手を入れる。

リモコンを取り出すのが見えて、思わず顔を向けた。

 

カチ、と小さな音が鳴った。

 

その瞬間、

 

身体の奥で何かが弾けるような感覚が走った。

 

「──ッ!」

 

遠く離れた薄暗い独房の光景が、痛烈なビジョンとなって脳裏に閃いた。

ダークライの身体を、無慈悲な電流が焼き焦がしている。その影が、苦しげにのたうち回るのを感じた。

 

「命令違反の罰がまだだったな」

 

「……や、めろ……!」

 

土を噛む、掠れた悲鳴が漏れる。

紫髪が愉快そうに笑った。

 

「お前のせいだろ」

「これ見ろ。テメェのせいで傷まで負った」

 

紫髪が腕を突きつける。

三本の深い爪痕から血が滲み、引き裂かれた皮膚と衣服を赤黒く染めている。あの時聞こえた怒声の意味を、漸く理解した。

 

「代償は払って貰わねェとな?」

 

焼けるような感覚が止まらない。

苦痛に耐えかね、《奴》の足元へ思わず手を伸ばしかけた時だった。

 

首枷が狂ったような唸りを上げ、今までとは比較にならない衝撃が走った。

 

「あ、…………ッ!!」

 

悲鳴すら声にならない。

肺から全ての空気が強制的に絞り出され、喉が焦げ付くような音を立てる。

全身の筋肉が一瞬で硬直して痙攣する。背中は弓なりに跳ね上がり、奥歯が砕けそうなほど噛み締められる。頭蓋の内側に火花が散り、視界は白一色に染まった。

 

焼ける。熱い。

全身の血管に、沸騰した鉛を流し込まれているような感覚。

 

意識の底で、重なり合う悲鳴が聞こえる。

 

──やめてくれ。

オレはどうなってもいい。

どんな目に遭わされてもいい。

でも、ダークライだけは──。

 

遠くで《奴》が何かを言っている声がする。

 

鼓膜の奥で激しい耳鳴りが響き渡る。

もう、何も聞こえない。

 

世界が歪み、地面が近付いた。

 

薄れゆく意識の向こうで、あの静かで、孤独な影の顔が浮かぶ。

 

…………ごめん。

 

その言葉を最後に、視界が暗転した。

 

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