意識が浮かんでは沈む。
夢のような、記憶のような混濁した暗闇の中で、ふと、アカデミーに通っていた時のことを思い出す。
──まだ、自分の手が何一つ汚れていなかった、あの頃の記憶。
ダークライというポケモンの存在は、授業や図書室の本、あるいは雑談の中で、時折耳にすることがあった。
人やポケモンに悪夢を見せ、終いには命を奪ってしまうこともあるという……。
悍ましいポケモンなのだと。
悪夢が形を成して死神の衣を纏った──
そんな姿をしているのだという。
各地方で目撃談があり、ここソムニア地方でも、それらしき影を見たという言い伝えが残されていた。
とはいうものの、実際に生きた姿を見たという話は聞いたことがない。
自分だってそうだ。ただの絵空事だと思っていた。
死神のような姿っていうけど、ゴーストタイプにもそういう見た目の子はいるし……本当に存在するのかも怪しい。
もしいたとしても、幻と呼ばれるような存在に出会うことのできる人間なんて、ほんの一握りの特別な人間だけだと思っていた。
だから、施設で見たポケモンが、そのダークライであるなんて思いもしなかった。
それを知ったのは、自分がこの身体に変えられて、少し経ってからだった。
……それを聞いても、不思議と恐怖はなかった。
確かにちょっと怖そうな見た目はしてたけど、あのダークライはここの危険を伝えようとしてた。
忠告をしてくれた。
彼が本当に、話に聞くような邪悪なポケモンだったのなら……あんなことは言わなかったと思う。
だから最初から、悪いポケモンだなんて思えなかった。
夢を見るようになってから、その考えは確信へと変わっていった。
何度も見ていた、あの孤独な夢。
時折、その暗闇の中に混ざるものがあった。
これはたぶん……記憶だ。
──ダークライの。
自らが望んだ訳ではない悪夢の力のせいで、人にもポケモンにも恐れられ、石を投げられ、追い回されてきた。
謂れのない罪を着せられても、きみは黙ってそれを受け入れた。
生まれてからずっと独りぼっちで、寂しくて……それでも。
きみは襲ってきた者に対して反撃することはあっても、自分から誰かを傷付けようとはしなかった。
……その気になれば、いくらでも復讐できたはずだ。
でも、きみはそれを選ばなかった。
誰も傷付けたくなくて、自分が独りになることを選んだ。
……こんなにも温かい心を持ったポケモンだったんだ。
語られることのない、静かな哀しみ。
その記憶に触れた時、胸の奥が張り裂けそうなほど痛んだ。
いつの間にかダークライは、自分の中で、何よりも守りたい存在になっていた。
…………それなのに。
オレがここに来たことで、オレは……。
きみ自身が忌々しく思っている力を使って、ポケモン達を傷付けている。
きみが一番やりたくないことを、オレがやっている。
最低だ。きみを傷付けたくなんかないのに……どう抗えばいいのか、わからない。
いっそこのまま目覚めなければいいのに……。
──そう願うことさえ、許されない気がした。
────────────────
意識の糸を、白銀の雷光が焼き切っていく。
遠くで、少年の引き裂かれるような悲鳴が聞こえた。
焼けるような熱、肺が潰れるような衝撃。
繋がれた魂を通じて流れ込んできたのは、逃げ場のない「暴力」の残滓だ。
「…………ごめん」
少年の感情が、ぶつりと途切れる。
間際に聞こえたその声が、全身を焼く電撃よりも、もっと深く私の核を抉った。
同時に装置からの放電が止まる。身体に残った電流が火花を散らし、影を焼き焦がしていく。強烈な熱と衝撃に、私の輪郭そのものが煤のように崩れかけた。
苦しい。
──が、私はまだいい。この程度、どうとでもなる。
それよりも。
少年だ。
先ほどまであれほど響いていた魂の叫びが、嘘のように途切れている。
……意識を失ったのか。
あれほどまでに強く、絶望に満ちた感情が流れ込んできたのは、初めてだ。
……何が起きたのか、全ては見えない。
だが、網膜の裏に断片的な映像が浮かび上がってくる。
……むせ返るような、血の匂い。
動かなくなったゾロアーク達の姿……。
抗おうとしていた。
救おうとしていた。
……その結果が、これか。
…………人間。
いつの時代も変わらない。
恐れ、利用し、壊す。
影が、ゆっくりと膨らんでいく。
その直後、胴体を縛る拘束装置から嫌な音が聞こえた。
重厚な金属が軋み、その隙間から煙のように影が漏れ出す。
抑え込まれているはずの力が、装置を内側から押し広げていた。
◇◇◇
少年の感情が途切れてから、随分時間が経った。
それなのに、夢の境界線に彼の姿が見えない。
何度か接触を試みたが、繋がらなかった。
胸がざわめく。
……まだ、目覚めていないのか。
それとも──。
暗闇の底、影を伸ばして少年を探す。
どれだけ時間が流れても、
何度も。
何度も。
そうして、漸く見つけることができた。
暗闇の中に浮かぶ、細い身体。
顔は痛々しく腫れ上がり、衣服の隙間から見える身体のあちこちにどす黒い痣が刻まれている。
その無惨な姿を見た途端、断片的にしか触れられなかった少年の記憶が流れ込む。
深い後悔と罪悪感。
少年は拒絶しない。
だが顔を上げようとはしなかった。
「ごめん……」
「……またきみに……痛い思いをさせた」
消え入りそうなほど小さな声で、少年は何度も、私に謝り続ける。
…………何を言う。
お前の方が、ずっと痛いだろう。
……触れるつもりはなかった。
だが、今触れなければ、消えてしまう気がした。
思いのままに影を伸ばす。
怯えさせることのないよう、少年の傷だらけの肩に、そっと触れた。
少年は顔を上げない。
ただ、触れた場所から、小さく肩が震え出すのが伝わってきた。
『……チガウ』
『アヤマルナ』
どう伝えればいいのか、分からない。
それでも、伝えなければならなかった。
あの時の、少年のように。
──────────────
肩に何かが触れて、心臓が激しく跳ねた。
それがダークライの影だと理解するのに、少し時間がかかった。
体温というものが存在するのかは分からない。
冷たいはずの影が放つ、不思議な熱。
でも確かに、触れた場所から静かに広がっていくのを感じた。
掠れた声が、耳に届く。
どこか不器用な言葉。
「責めてなどいない」
触れた影から、言葉以上に伝わってくる。
怒り。
……これは……自分に向けられたものじゃない。
痛み。
それから……。
硬い氷を溶かすような……慈しみ。
それに触れた瞬間、心を満たしていた罪悪感が、一瞬だけ、行き場を失って霧散した。
けれど、顔を上げることはできなかった。
視界が急速に歪んでいく。目の奥が焼けるように熱い。
喉がせり上がり、嗚咽が漏れそうになる。
──泣くな。
泣く資格なんてない。
溢れ出しそうになる感情を、奥歯を強く噛み締めて押し留める。
そのまま唇を噛み切り、無理やり正気と罪悪感を繋ぎ止めた。
涙を流せば、この救いようのない現実に少しだけ蓋をして、楽になれてしまう。
それが今の自分には、あまりにも身勝手な裏切りのように思えてならなかった。
◇◇◇
夢の中の、あの温かな影が遠ざかっていく。
代わりに、何かが袖を引いた。
まだ夢の続きを見ているのかと思った。
もう一度、くい、と弱い力がかかる。
重い瞼をどうにか押し上げると、こちらを覗き込むコラッタの姿があった。
小さな体は見たこともないほど小刻みに震えている。瞳もどこか潤んでいるように見えた。
目が合うと、コラッタは安堵したような、けれどひどく悲痛な声で小さく鳴いた。
その少し後ろではラルトスとロコンが身を寄せ合い、様子を伺っているのが見える。
起き上がろうとした瞬間、身体の節々がミシミシと鳴るような感覚がした。同時に鈍痛が脳を突き抜け、思わず動きを止める。
「…………ッ」
瞼や頬の腫れは少し引いているようだが、まだ片目は開きにくい。
喉は砂漠のように渇き切り、首元は硬く不快な質感のかさぶたに覆われて、少し動かすだけで皮膚が裂けそうな感覚があった。
起きるのを諦め、力を抜く。
すると、ラルトスが小さな両手で、部屋の隅から何かを抱えてこちらにやってきた。
ラルトスが差し出してきたそれが、ガサガサに荒れた唇に触れる。
流れ込んできたのは、水だった。
「……っ、……げほっ、ごほっ」
渇ききった喉が、急激な水分に驚いて拒絶反応を起こす。嚥下するたびに首元のかさぶたが引き攣れ、焼けるような痛みが走った。
潤いを得るのと引き換えに、切れた口角や内頬の腫れが鮮明に熱を持って主張を始めた。
水に鉄の味が混じる。自分がまだ生きているということを、嫌というほど実感させられる。
それでも必死に喉を鳴らした。
抗えなかった。
身体は、生きることをまだ諦めていなかった。
ラルトスが空になった容器を引く。
「…………ありが、とう……」
掠れた声で漏らすと、ラルトスが痛々しそうに、けれど小さく微笑んだように見えた。
独房は再び重い沈黙に包まれる。
喉の渇きが癒えたことで、皮肉にも意識はより鮮明に、現実の惨状を浮き彫りにしていった。
救いたかったはずの命を、この手で闇に沈めた。
その感触が、指先にこびりついて離れない。
ラルトスもロコンも、みんな自分を見つめている。
無垢な瞳が、刃のように鋭く突き刺さった。
汚れた自分の姿を見透かされているような気がして、視線を逸らす。
たまらず目を閉じ、再び暗闇に逃げ込もうとしたその時。
床の上に横たわる手に何かが触れて、そちらに視線を向ける。
指先に、コラッタの小さな鼻先が触れていた。
かと思えば、そのまま手のひらに額を擦り付けてくる。
肩が跳ね、弾かれるように手を引いた。
それでも、コラッタは諦めなかった。
拒絶に怯えるどころか、引いた手を追うように床を這い、強引に距離を詰めてきた。そのまま胸元まで来ると前足を手首に乗せてじっと顔を覗き込んでくる。何かを訴えるかのように。
逃げられない。指先が震える。
こんな手で、触れて良いわけが……ない。
──分かってるのに。
拒めなかった。
凍えきった心が、どうしようもなく目の前の「熱」を求めていた。
本能に導かれるまま、そっとコラッタの頬を撫でる。
コラッタは逃げない。
それどころか、待っていたと言わんばかりに頬を押し付けてくる。
……温かい。
指の隙間に埋もれる、柔らかな毛の感触。
そこからゆっくりと背中に手を滑らせると、手のひらを力強く突き上げてくるリズムが伝わってきた。
──いのちの、音だ。
その瞬間、視界が滲む。
あのゾロアーク達にも、確かにあったはずの熱。
自分の手でその脈動を止めてしまった実感が、猛毒のように全身を駆け巡った。
声は出なかった。
ただ、零れ落ちた涙が、静かに頬を伝った。