あれから随分時間が経った……と、思う。
身体の傷が癒えた頃、再び研究室に連れて行かれた。
試されたのは、わざマシンが使えるかどうか。
最悪なことに……結果は有効だった。
ダークホールの他に使えるわざが、一つ増えてしまった。
使いたくなんかない。けれど、その思いが届くことはない。
事実、覚えてしまった為に再び任務に駆り出されるようになった。
命令には従った。
「殺せ」という命令だけはどうしても首を縦に振れなかったが、眠らせられる相手は全て眠らせた。
「ふみん」や「やるき」などの特性を持つポケモンは瀕死直前まで傷付け、弱らせた。
《奴》は不満そうだったが、結果的にポケモン達は組織に捕獲されることになり、「罰」を与えられることはなかった。
捕獲されたポケモン達のその後を、自分は知らない。
見ないようにしていた。
考えないことで、辛うじて正気を保っていた。
生きて実験台にされるより、その場で死んでしまった方が楽なのかもしれない。
そうして苦しみ抜いた末に、結局命を落とすことになるかもしれない。
……本当は、分かっている。
それでも命を奪うことを選べないのは……自分がどうしようもなく臆病で、無責任で、卑怯者だからだ。
何を失ってもいいと誓ったはずなのに、結局オレは、自分の手が血で染まることから逃げている。
これで本当に……守れるのか?
……分からない。
任務をこなす度に、自分の中で何かが削れていく。
それでも、独房に帰ればみんなが待ってくれている。
いつの間にか、それが救いにもなっていた。
だが同時に、言いようのない恐怖が首筋を這う。
コラッタだけじゃない。ラルトスにも、ロコンにも、装置が埋め込まれている。オレは既に「殺せ」という命令に背いているのに、制裁が与えられないのも不気味だ。この装置がいつ牙を剥いてもおかしくない。
自分が生きれば生きるほど、外で犠牲になる命が増え続ける。……かと言って《奴ら》に逆らえば、その刃は真っ先にダークライやあの子達に向く。
進むことも、退くこともできない。
だったら……オレという存在そのものが消えてしまえばいいんじゃないか。
オレがいなくなれば、この力を組織に利用されることもない。ダークライも、コラッタ達も……これ以上、巻き添えにならずに済むかもしれない。脅しの道具に使われることもなくなるはずだ。
「自分が消えること」だけが、誰も傷付けずに、ダークライやこの子達を守れる唯一の──……。
いつの間にか、そんな考えばかりが頭の中を埋め尽くしていた。
──気付けば、食事を摂らなくなっていた。
始まりは、ほんの少しずつ食べる量を減らすことだった。
トレイの中身をフォークで崩し、手をつけたように見せかけた。残した固形物はトイレに行くふりをして捨てたり、砕いて洗面台に流したり、マットの下に隠したものもあった。
ポケモン達の目を盗んでやっていたものの、徐々にラルトスやコラッタから視線を感じるようになる。
コラッタはしきりに、食べ物の隠し場所の匂いを嗅ぎ回るようになった。
ラルトスは隣に寄り添って視線を片時も外そうとしない。
その頃にはもう、隠し通すだけの体力さえ残っていなかった。
金属がコンクリートを叩く音が響いた。
その音で、自分の手からスプーンがこぼれ落ちたことに気付く。
拾おうとして屈んだ瞬間、視界が歪んで身体が床に崩れ落ちた。
こちらに駆け寄る複数の足音が聞こえる。
その直後、目の前に自分の皿が差し出された。
食事は丸ごと残ったままだ。
空腹の感覚はある。
けれど、手が伸びない。
食べれば生きてしまう。
生き延びればまた誰かを蹂躙し、ここにいるみんなの命を危険に晒す。
それが何よりも嫌だった。
……守ると決めた。
でもそれはたぶん、自分がいる限り叶わない。
……だから、これでいい。
このままずっと食べずにいたら、終われるかもしれない。
……あとどれくらいで、終われるんだろうか……。
朦朧とする意識の底で、そう考えていた時だった。
ポケモン達が必死な顔で口元に食べ物を押し付けてくる。
声は出ない。
跳ね除けることもできない。
ただ、口だけは固く閉じて拒み続けた。
暫くするとコラッタ達が諦めたように離れていく気配がした。少しだけ胸が痛んだが、同時に気の抜けた吐息が漏れた。
それでいい。
それで良かったはずなのに。
次の食事が独房に差し込まれた時だった。
すぐに違和感に気付く。
……誰も、手をつけない。
上がっていた湯気が見えなくなっても、三匹とも動く気配がない。
最初は気のせいだと思うようにした。
でも違う。冷めきった食事が回収され、新しいものに入れ替わっても、誰一人として動こうとしない。
心臓が凍りつくような感覚に襲われる。
……何を考えてる……?
まさか……。
「……やめ、ろ……」
喉の奥から乾いた声を絞り出す。
その声に反応して、漸く彼らが動き出す気配がした。
──かと思えば、コラッタもラルトスもロコンも、倒れた身体にぴったりと体温をくっつけてきただけで食べ物には見向きもしない。
「……な……んで、だよ……、きみたちには……関係ないじゃないか……」
震える声で訴えても、誰も何も答えない。
その中でふと、ロコンと目が合った。
初めて出会ったあの時、恐怖に満ちていた瞳。それが今強い意志を持ってこちらに向けられる。真っ直ぐに。
“お前が食べないなら、食べない”
──言葉を介せずとも、痛いほどに伝わってきた。
それに呼応するように、食事の乗ったトレイが目の前まで運ばれる。ラルトスがねんりきで動かしているようだ。
パンがちぎられ、口元で止まる。ちょうど一口分の大きさ。
ポケモン達の視線が刺さる。
自分が食べなければ、みんなも……食べない。
……口を、開けるしかなかった。
ゆっくりと口内に入ってきた食べ物を機械的に噛んで飲み込む。
口の中の水分が奪われるような、乾いた食感だった。
喉が拒絶するように狭まり、石を飲むような不快感が走る。
呼吸を繋ぐための、ただの作業。
それでも、自分が一口飲み込むたびにポケモン達が安堵したように鼻を鳴らすのが分かった。
それが苦しかった。
その暫く後、コラッタ達が自分たちの皿に顔を寄せる。
命を繋ぎ合う為の咀嚼音が、独房の中に静かに響き渡る。
それは互いの命を人質に取り合った、あまりに静かで重苦しい「誓い」のように感じた。
────────────
……静かすぎる。
少年に初めて触れたあの日以降、動きがない。
目を覚ましたことは分かった。
それなのに、あれほど断続的に流れ込んできていた感情が、不自然なほどに途切れている。
少年の傍には、あの小さな者たちがいる。
この静寂が、安寧によるものであってほしかった。
束の間であったとしても。
だが、すぐに違うことに気付く。
“途切れている”のではない。
……薄いのだ。今にも消え入ってしまいそうなほど弱っている。
何が起きた。
……辛うじて断片だけは流れてくる。が、はっきりとは見えない。
冷たい床。
押さえつけられる身体。
……音。
金属。
──実験。
蠢く記憶の底から漸く感情の波を拾うことができた。
痛みと、温もり、そして狂おしいほどの決意。
拾えたのは、一瞬だけだった。
再び隠れてしまった。
それから時折、外に連れ出される少年の姿を見る。
窓越しでも分かる。その瞳からはかつての光が失われていた。
直接目が合うことはない。
視線を合わせることを拒んでいるようだった。
何度も影を伸ばしてみるが、安定しない。
拒絶されているわけではなさそうだ。繋がりはするが、やはり途切れてしまう。弱くなっていく一方だ。
焦燥を抱えたまま時間だけが過ぎていく。
この感覚は、覚えがある。
眠りを選んだからこそ、理解できてしまう。
……このままでは、
消えてしまう。
影が、静かに膨れ上がる。
抑えていたはずのものが、形を保てなくなる。
……止められない。
装置が軋む。
限界を超えて広がった影が、物質の境界を越えて溢れ出した。
やがてぼんやりと、少年の姿が浮かび上がる。
その身体は、骨の形が浮き出るほどに痩せ細っていた。
──触れる。
薄い。あまりにも儚い。だが、その胸の奥からは確かな鼓動を感じる。
……まだ、生きている。
堰をきって溢れ出した感情の全てが、触れた影を通してそのまま少年に流れ込んでいくのが分かった。
──────────────
喉に残る感覚が消えない。
飲み込んだはずのものが、まだそこにある気がした。
……気持ち悪い。
胃がわずかに動き、体内に栄養が回っていくのを感じる。
嫌でも分かる。
生きている。
選んだわけじゃない。
……選ばされた。
ひとりで終わることすら、許されなかった。
視線を上げる。
すぐそばに黒い影の温もりがあるのに気付く。
逃げ場はなかった。
久しぶりに、ダークライの姿を見た気がする。
表情の変化は、ほとんど見られない。
でも心なしか、その目尻が下がっているように見えた。
……あぁ、そうか。
きみも……オレを繋ぎ止めに来たのか。
刹那、境界が溶けるように何かが流れ込んできた。
抑えきれないほどの感情。
怒りではない。
痛みでもない。
もっと深い──
……あたたかい。
こんな感情、知らない。
知りたくなかった。
けれど、その意味が不思議と分かってしまう。
この純粋な世界の全てが、自分だけに向けられているのだと。
……なんで。
こんな綺麗なものをオレなんかに寄越すんだ。
返事は、ない。
代わりに、触れていた影が冷え切った全身を包み込むように覆う。
……オレは、これを受け取っていい存在じゃない。
共にいれば、いつか必ず壊れてしまう。
それなのに、振り払えない。
凍えきった指先が、その影が持つ熱を無意識に求めていた。
◇◇◇
微睡みから目を覚ます。
ダークライから伝わった熱が、まだ残っている気がする。隣には、ロコン達の温もりがある。
ポケモンの未来を奪い、家族や仲間を奪い、住処を奪い、組織にとって都合の良い兵器として扱われる。
この温かさは、大切なものを奪い続けている自分が受け入れていいものじゃない。
ダークライも、コラッタ達も、どうして繋ぎ止めようとするんだ。
そう思うのに、どうしても振り解けない。
本当に……最低だ。
分かってる。
けれど……まだ終われない。
少なくとも、この子達がいる間は。
不意にこちらを見上げるラルトスと目が合う。
愛おしさに駆られそっと頭を撫でると、小さな手が握り返してきた。
その瞬間、頭の中に映像のようなものが浮かんでくる。
──これは……
ラルトスが見せているのか。
繋いだ小さな手から伝わってくる。
……なんだろう。なにか、ヒビのようなものが見える。
機械の内部だろうか。異様に熱い。まるで生き物の心臓のように、不気味に脈打っている。……どこか見覚えがある気がする。
それから、……また別の……機械……?
よく分からない。
ただ、一箇所だけ不自然に光っている場所がある。
その前には、研究員が立っている。
頭に流れてくる映像が、鬱蒼とした森の中に切り替わった。
激しい息遣いと共に、誰かが必死に走っている。
誰が……。
そこで映像が途切れた。
「……ラルトス……────」
今のは一体……。
そう言おうとした口が、見えない力によって止められた。声が出せない。
ラルトスが自分の口元に手を当てる。
『内緒だ』と言っているかのように。
小さく頷くと口の拘束が解けた。
なんの意味があるのか、分からない。
でもこれはきっと、忘れてはいけないものだ。
そんな気がしてならなかった。
……それからも、任務があった。
食事を再開して、身体が最低限動くようになってから今日で3回目。間隔は、少し前と同じくらい。たぶん数日置きだ。
いつも通り風呂と検査を済ませ、重い足取りで独房に戻る。すると、扉が開けられる前から、足音が集まってくるのが聞こえる。
こうしてみんなが出迎えてくれるのが、当たり前になっていた。
身を屈めてひとりずつ頭を撫でる。
コラッタが目を閉じて小さく鳴き、ラルトスがオレの指に頬を寄せて笑う。ロコンも、少しだけ照れくさそうに、けれど小さく尻尾を振るのが見える。
この瞬間だけは、ほんの少し心が軽くなるような気がした。
……もし、違う場所で出会ってたら、いい友達になれたのかもしれない。
いつかここを出ることができたら、そんな未来もあるのかもしれない。
そんな錯覚を覚えてしまう。
──ここを、出る……?
そんなこと、考えたことなかった。あの服も、いつか脱ぎ捨ててやるって思ってたはずなのに……いつの間にか、それは不可能なことであると思い込んでた。
けど……。
「あ……」
脳裏に一瞬、閃きが走った。
“あれ”がなんなのか。分かった気がする。
視線を感じて足元を見ると、ラルトスがじっとこちらを見つめていた。全てを見透かすような、不思議な瞳で。
心の中に、ほんの僅かな反逆の火種が灯る。
任務に出る時、少しだけ意識して周りを見てみようと思った。
あの日から更に、2回任務をこなした。
施設を往復する中で、一つだけ確信に変わったことがある。
でも、それが分かったところで、今のオレにはどうにもならない。
どうしてラルトスは“あれ”を……。
5回目の任務を終え、風呂を出た後だった。独房とは別の方向に連れていかれる。
研究室かと思ったが、違う。
施設の一番奥──これまで来たことのない場所だ。
重厚な鉄扉の前で、紫髪が壁に背を預けて立っているのが見える。
「……来たか。今日はお前に見せるモンがある」
──────────────
同時刻──
施設内通路
二人の下級組織員が立っている。
「……これ、本当に実行したんですか?」
「当然だ。元々計画に入ってたからな」
「なにもそこまでしなくても……。あいつ、最近はまともに任務もこなしてましたし」
赤髪の組織員が声を曇らせる。
ベテランと思しき組織員は、その様子を見て腕を組んだ。
「……お前、入ってまだ浅かったか。どれくらいだ」
「えーと……二ヶ月くらい、ですかね」
「お前は組織の理念に賛同したからここに来たんじゃねぇのか?」
「そうです」
「だったら黙って従え。あの人は裏切りと見做した奴には容赦がない。子供には特に、な。被験体と同じ扱いされたくねぇだろ」
「……わかりました」
赤髪の組織員は小さく息を呑むと手に持った端末に視線を落とした。
そのモニターには、こう映し出されている。
【次世代人類研究機関ネメシス】は、
ついにポケモンと人間の合成獣とも言える存在を生み出すことに成功した。
しかしながら、唯一の成功体である被験体は非常に反抗的であり、コントロールが困難な状況にある。
暴力による支配を試したが、効果は見られない。
研究員によると、この個体は他の被験体の移植実験時に反応を示したとのこと。
他者が傷付くことに心を揺さぶられる性質のようだ。
よって、以下の計画が有効であると考えられる。
【精神破壊プロトコル】
・第一段階:被験体の独房にポケモンを配置する。
・第二段階:制御装置による支配を併用しつつ、被験体の逃げ道を塞ぐ。また、任務による精神の摩耗を継続。
・第三段階:一定期間の猶予を与え、ポケモン達との間に絆を育ませる。
・第四段階:充分な情愛が芽生えたところで、当該ポケモンらを全て処分せよ。
これにより精神を完全に破壊し、コントロール下に置くことを目標とする。
──────────────
紫髪が、重い扉を開く。
中から鼻をつくような、生臭い空気が廊下へ漏れ出した。
強烈な不快感に思わず手首で鼻を塞ぐ。
「実験で使われたポケモン達が最終的にどうなるか、教えてなかったな」
……嫌な汗が背中を伝い落ちる。
「使いものにならなくなったヤツ、不要になったヤツはみんなここにぶち込まれる。要するに死体置き場だ」
「ある程度数がまとまってから焼却処分される」
「……まぁ、安心しろ。今日はまだ、少ねェ方だ」
真っ暗な、冷気だけが満ちた室内。
通路から漏れる僅かな光だけが照らしている。
その先に、見えてしまった。
まるでゴミのように、無造作に打ち捨てられる紫色の体毛。
橙色の尻尾。
白い身体。
視界の端から急速に色彩が失われ、景色がグニャリと歪んだ。
──息が、できない。
喉の奥が張り付く。無理に酸素を吸おうとしても、掠れた音しか出ない。
理解が追いつかない。
オレは何を見てる……?
これは……なんだ……。
……違う。
そんなはずがない。
だって……。
……なんで。
朝まで……一緒だったじゃないか。
「せっかくのお出迎えだってのにツレねェなァ?ほら、いつもみてェに撫でてやれよ」
背中を強く蹴り飛ばされ、無理やり“それ”の前まで押し出される。
足の先まで、一切の力が入らない。
その場にへたり込むしかなかった。
震える手を伸ばす。
いつも真っ直ぐに感情を伝えてくれた体。柔らかかった毛並みはこびりついたドス黒い血によって固まっている。
裾を握って離さなかった小さな手。いつも握り返してくれた指先は硬いコンクリートに投げ出されたまま動かない。
強い意思を灯していた綺麗な瞳。固く閉ざされたまま開くことはない。隣にいる時は誰よりも温かかった。
──冷たい。
誰に触れても、あの温かい反応が返ってくることはない。
……分かってしまった。
その瞬間、
自分の中で何かが壊れる音がした。