【初出】
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=25255507
伝説の部長――今、そう呼ばれた気がしたが、気のせいだろうか。
「えっと……今、なんて言ったの……?」
聴き間違いかと思い、発言の主であるホルン奏者の部長へ視線を向けた。よく見ると、ほとんどの部員も「何のことだろう?」というような表情を浮かべている。
「あっ」
不用意な発言に気づいた部長は、慌てて口に両手を当てて黙り込んだ。
その姿を見て、先ほどまで基礎合奏で前に立って指揮をしていた生徒――冴羽が口を開く。
「すみません、黄前先生。彼女のうっかり発言はいつものことなので、あまり気にしないでください。楓、いつまでもぼーっとしてないで、進めて」
凛とした態度で、まだ口に手を当てたままの部長に声をかけた。
――なんだか、私と麗奈みたいだ。
久美子はふと、麗奈との関係を思い出す。いろいろ抜けてばかりだった私を、あの頃の麗奈がこんなふうにフォローしてくれていたっけ。
特別な意図をもって引き継ぎをしたわけではなかったけれど、幹部の性格の組み合わせ――そういう空気も、自然と今の北宇治に受け継がれているんだろうな。そう思うと、久美子は少し嬉しくなった。
「変なこと口走ってしまって、すみませんでした……」
そう言って小さく「詳しくは後ほど……」と付け加えると、部長は気を取り直して、部員たちに今日の練習の指示を出し始めた。
事前に滝から聞いていた通り、今日はこのあとパート練習になる。そしてそれに加えて、久美子が巡回しながら各パートと軽く交流をすることも、部員たちに伝えられたのだった。
§
パート練習のために生徒たちが各教室へ散っていった後、久美子と滝、そして3人の生徒が楽器室に集まっていた。パート練習を見に行く前に、まずは今年の幹部陣と顔合わせをするためだ。女子2人に男子1人。偶然にも、久美子たちの代と同じ構成だ。
「では、幹部のみなさん、改めて自己紹介をお願いします。あまり時間をかけすぎないように、ほどほどで構いませんからね」
そう言い残すと、滝は楽器室を後にした。新入生が入ってくる直前のこのタイミングで、指導方法の確認を兼ねて各パートを巡るつもりらしい。
「さて、滝先生もいなくなったことですし……さっきの“伝説の部長”の件も含めて、お話を聞かせてもらおうかな?」
久美子の言葉に「うっ」と顔をゆがめたのは、先ほど思わずその言葉を口にしてしまった部長だった。そのリアクションも、どこか昔の自分を見ているようで、久美子はなんだか懐かしい気持ちになる。
「ほら、観念しろよ」
隣に立っていた男子生徒に促されると、部長は観念したように自己紹介を始めた。久美子より少し背が高く、黒髪のボブカット。そこから発せられる声は、澄んだソプラノが響いた。
「――改めまして。今年度の北宇治高校吹奏楽部で部長を務めています、日暮楓です。楽器はホルン。実は私も北中出身で、中学時代は吹奏楽部に所属していました」
「えっ、そうなの?」
「はい。中学1年の時、顧問の藤代先生から“今の北宇治は、北中出身の3人が引っ張っている”って聞いたんです。その話を聞いたのが全国大会の直後で、すぐにCDを買って演奏を聴きました。それからずっと北宇治に憧れて、高校は絶対ここに進もうと決めて。以降、北宇治の演奏会にはできる限り足を運んでいました」
「さすがに沖縄には行けませんでしたが」と、日暮は小さく付け加える。
――あの沖縄演奏旅行。卒業旅行も兼ねた3年生最後の舞台だった。当時まだ中学生だった彼女には、金銭的にも難しかったのだろう。
「私たちの演奏がきっかけで北宇治を目指してくれたっていうのは、なんだか照れるなあ。でも、沖縄のことってどうやって知ったの? 場所が場所だし、特に宣伝とかしてなかったと思うけど」
「それはもう、ネットの力です。興味を持ったものはとことん調べるタイプなので」
そう言って、日暮は一呼吸おいてから続けた。
「で、“伝説の部長”の件なんですが……さっき言った通り、黄前先生は私にとって大先輩であり、北宇治を目指すきっかけでもありました。そういう意味での“伝説”です。他にも……まあ、いろいろあるにはあるんですが、長くなるので今回はこのあたりで」
少し気になる締め方ではあったが、実際、北中の話題で思いのほか盛り上がってしまい、大事な練習時間を少し食ってしまったのも事実だった。
「そうだね。まだ気になるところではあるけど、それはまた今度の機会にしようか」
久美子が微笑みながらそう言うと、楓も小さく「はい」と苦笑いを浮かべてうなずいた。
「じゃぁ、次はそちらの副部長さんに自己紹介してもらおうかな」
「はい!新田昴、トロンボーンやらせてもらっています!副部長です!将来は作曲やりたいと思っています!よろしくお願いします!」
「……おぉ」
やけに元気なのが来たな、と久美子はたじろいだ。
トロンボーン担当の副部長は、久美子の代の副部長と同じように長身の青年だ。違うところがあるとすれば、黒髪であることと、彼よりも筋肉質に見えることだろうか。一部からは「運動系文化部」と揶揄される吹奏楽部ではあるが、目に見えて筋肉質の部員は珍しいかもしれない。
「作曲やりたいってことは音大を目指しているのかな?北宇治の吹部からだと結構珍しい気がするね」
「そうみたいです。作曲で音大目指すのは、滝先生が顧問になってからは初めてだって聴きました」
「もしかして、トロンボーンの曲作ってみたいとか?」
「……まぁ、そんなところです」
少し照れながらほほをかく昴。なんだか似たような癖を秀一も持っていたよなぁ、と思っていた久美子はあることに気が付いた。昴がちらちらと楓のほうを見ていたのだ。
「あぁ……なるほど」
細かいことはわからないが、きっと昴は楓のことをそういう風に思っているに違いない。
「音大、行けるといいね」
「はい!がんばります!」
「じゃあ、次はドラムメジャーのあなたかな?」
「はい!」
凛とした声で返事をしたのは、170cmを超える長身の女子生徒。髪はきれいにポニーテールでまとめられていた。
「冴羽みずきです。ドラムメジャーを務めています。普段はフルート担当です。よろしくお願いします」
フルートとポニーテール。この二つの特徴で、久美子は1つ上の先輩である傘木希美のことを思い出した。だが、冴羽からは彼女のような快活さはそこまで感じず、落ち着いた様子が見て取れる。彼女の声は低めのアルトだがとても澄んでおり、ドラムメジャーとして前から指導するときもよく通る声だろう。
「ドラムメジャーに指名されたとき、役職が新設されてからの全員の経歴を調べたんです。やはり一番は高坂麗奈先輩ですね。全国大会金賞に導いた数少ない方ですので」
「たしか私の次の代も全国大会で金賞取っていたよね?美鈴ちゃん――鈴木美鈴さんはどう?」
「引継ぎされている資料を見る限り、鈴木先輩も間違いなく優秀な方だと思います。ただ、次の代以降の成績を考えると、やはり全体をうまく底上げできたのは高坂先輩なのじゃないかなと。なので、私は彼女を目標にしています。そんな時に高坂先輩同級の部長である黄前先生が北宇治に来てくださったことは、私にとって幸運です。ご指導よろしくお願いします」
そう言い放った彼女の瞳は輝きを放っており、それだけ久美子に対して期待を持っているということを感じさせた。
「麗奈は特別だったからね……私も知っていることがあれば教えてあげるね。あとは、もし麗奈の都合も合えばどこかで北宇治に指導に来られないか聞いてみるよ」
「本当ですか!ありがとうございます!」
「今もアメリカの大学に通ってるから、あまり期待しすぎないようにね。でも、来られたらきっと喜んでくれると思うよ」
「はい!」
§
吹奏楽部全体の活動が終了して少し経った頃。遠くから、18時を知らせる自治体のチャイムの音が響いた。4月である今は、この時間もまだ十分明るい。最終下校時刻までまだ1時間あることもあり、学校中で様々な部活の生徒が自主練を行っている音も聞こえてくる。吹奏楽部も例外ではなく、多くの部員が“自主練”として残り、パート練習や合奏で見つかった課題の克服に励んでいた。
「黄前先生、コーヒーをどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
職員室に備え付けられたコーヒーメーカーを使って滝がコーヒーを用意してくれた生徒時代、特に部長の頃はほぼ毎日のように通っていた職員室だが、そんなものがあるとは久美子は知らなかった。
「どうでしたか。今の北宇治の吹奏楽部は」
「やっぱり、上手ですね。滝先生のご指導のたまものですね」
幹部たちと交流した後に回った各パート。どのパートも、久美子がいた5年前よりも平均的にうまくなっていた。当時の高坂麗奈や鎧塚みぞれ、田中あすかのような「格段とうまい」と呼べるような生徒こそいない。しかし、新3年生、2年生、ともに基礎的な演奏技術がしっかりと身についており、どんな曲を演奏するにしても、すぐにどのような表現を付けていくか言及できそうな状態だった。
「褒めてくださるのは嬉しいですが、頑張っているのは生徒たち自身です」
生徒時代に職員室で言われたのと同じ言葉が返ってきて、久美子は思わず苦笑した。自分はあの頃からあまり成長できていない気がして、少しだけ恥ずかしくなる。
「ところで、黄前先生は朝何時ごろ学校に出勤できそうですか。ちょっと頼みたいことがありまして」
「朝……ですか……?」
大学生の4年間はそこまで早起きすることはなかったが、まだ高校時代の時間に起きることはできるはずだ。ただ、当時よりも化粧など身なりの準備にかかる時間が増えてしまってはいる。が、仕事のためなら早起きもできるだろう。たぶん。
「朝だと多分、部活で朝練に出ていたころの時間……6時50分くらいなら来られると思います」
久美子の答えに、そうですか、と小さく声を漏らす滝。ため息のように思わず出てしまったようなその声質に、久美子は「滝に何か失礼な返事をしてしまったのではないか?」と心配になってしまう。そのことを問うてみると、
「いえ、週に何日かで良いので、平日朝の音楽室の鍵私を黄前先生にお願いできないかと思いまして」
との答えが返ってきた。かつては「家族もいないので、学校に朝早く来ることは全く問題ない」と語っていた滝に、何か心境の変化でもあったのだろうか。
「黄前先生もご存知だとは思いますが、最近働き方改革の波が我々教員の元にもやってきていまして。今のところまだ強制力はないのですが、できるだけ学校に滞在する時間を短くせよとの指示が出ているのです」
昨今世間で話題になっている働き方改革。一般企業を中心に、多すぎる残業を減らすよう、政府からの働きかけがあったらしい。もちろんそれは、今まで「やりがい搾取」とも揶揄されたことがある教員も例外ではなかった。自分が自由に使える時間が増えることはいいことではあるのだが、やるべき仕事の量が減らないことには勤務時間が減らせるはずもない。大学の教職の講義や教育実習で行った学校で、「実態に合わない改革はどこかで無理が生じてしまうので難しい」という話を久美子も聞いていた。
「私自身は、吹奏楽の指導をしているのが趣味のようなものなので、サービス残業のような形で学校にいるのもかまわないのですが、やはりそれはダメなようで」
滝は儚げな笑顔を浮かべながら言葉を続ける。
「強制ではないとはいえ、教頭に目を付けられて部活動の時間が制限され、生徒が自由に練習できる時間が減ってしまうのは忍びないです。練習しすぎもよくないのですが、人によって使える時間は異なります。教員不在なので練習できない、という時間はあまり作りたくないのです」
「そうなんですね。だったら私も協力しなきゃですね」
前日寝るのを少し早くして、何かやることがあったとしたら朝学校に来てからすればいいか。仕事が始まって1週間未満。定着しきっていない生活習慣を変えるのもまだ楽だろう。そう思いながら久美子は滝からのお願いを引き受けることにした。
「ありがとうございます。ですが、黄前先生も働き始めたばかりだと思いますので、まずは最初の1週間で様子を見て考えましょう」
「はい。よろしくお願いします」
§
「伝説の部長」など、気になる言葉には出会ったものの、無事に吹奏楽部との最初の接点を終えた久美子。これから始まる教師としての本格的な仕事と、副顧問としての吹奏楽部の指導。翌日から始まる新たなに胸を弾ませる久美子だったが、まさかこの1年が波乱に満ちたものになるとは、この時想像できるはずもなかったのであった。