食料品店のドアを開いた拍子に、食材のたっぷり入った紙袋の一番上からりんごがひとつ転がり落ちた。
りんごがころころと石造りの道をすべっていく。ネルが「あっ」と思ううちに追いかけていると、そのうちに誰かの鉄靴にコツンと当たって跳ねた。
鉄靴の持ち主が、さっとりんごを拾い上げる。そろそろと目線を上げると、鉄靴の持ち主は、黒い鉄兜を軽く上げて、サクリとりんごを齧った。
「その服装は……貴様、シーハーツか?」
見ると、同じ格好の黒い鎧を着た兵士が三人、そこにたむろしていた──漆黒兵だ。
ネルは内心舌打ちする。ツイていない。面倒なヤツらに見つかってしまったと思った。
すると一人の兵士が、ネルを値踏みするように上から下まで見て、黒い鉄兜の中で笑った。
「ははっ、マジでタイプだ」
「本当かよ。俺もそう思っていたところだ」
「ねぇ、一人?」
「待て待て、買い物袋は一人で食べる量じゃないぞ」
ネルの両手いっぱいに抱えた買い物袋を見て、三人の漆黒兵がゲラゲラ笑う。
勝手なことを、とネルが目を細めるが、短刀に手をかける素振りだって見せてはいけない。何故ならアーリグリフとシーハーツは停戦したのだから。
ネルはシカトでやり過ごして、大通りに出ようとするが、漆黒兵の鉄靴がネルの行く手をさえぎった。
「まさかアルベル様の……じゃねぇよな?」
ネルは思わず兵士を見やる。
「違うだろ。アルベル様は長いこと旅に出ておいでだ。星が全部消えるまで帰ってはこられないだろう」
「それにしてもシーハーツからお客さんとは、時代も変わったな。アーリグリフの女たちとはえれぇ違いだ」
「しかし極上の美人だ。付き合ってはくれないか」
「お前、早ぇよ」
「こういうことは早い方がいいんだ」
「だから黙ってろよ。りんごを手にした俺と付き合うべきだろう?」
「それは狡いだろ」
「ねぇお姉さん。コイツとコイツ、どっちがタイプ?」
同じ鉄兜を被った漆黒兵がカタカタと鎧を鳴らしながら肩で笑った。
三人で盛り上がるなら、よそでやってくれないだろうか。ネルは飽き飽きと三人の兵士を見ながら、そろそろ足蹴にしてもバチは当たらないだろうと思い始めてきた。
「いや、マジで付き合ってくれないか」
一人の兵士が一歩前に出て鎧越しにネルを触ろうとしたその時だった。
「俺のだが」
突然後ろからもうひとつの手が出てきた。と思ったら、ネルは片手で抱かれていた。聞き覚えのある声が耳元でする。
「アッ……」
「アルベル様……!?」
ヘラヘラとしていた三人の漆黒兵が、いきなり直立した。
ネルが肩越しに見ると、どことなく紫のオーラを放ちながら漆黒の団長であるアルベル・ノックスが部下を睥睨している。
「何か用か」
アルベルがドスの効いた低い声で問うと、三人の漆黒兵は怯えたようにぶるぶると首を振った。
「はっ、アルベル様!」
「問題ございません!」
「失礼いたしました!」
三人の漆黒兵はアルベルに向かっていっせいに敬礼をすると、足をもつれさせながら去っていった。
「最近たるんでやがるな……」
アルベルはため息をついた。ガタゴトと重そうな後ろ姿が見えなくなると、ネルは肩に置かれたままの腕を肩で振り払いながら、買い物袋を持ち直して礼を言う。
「あんた、助かったよ」
すると長い前髪の間から不満げな眼がネルを睨みつける。
「お前もモタモタ相手にしてんじゃねぇ。あんなモンとっととぶっ飛ばしゃいいだろうが」
ネルは思わずふくれっ面で反論する。
「そんなわけにもいかないだろう。戦争が終わったばかりで、あんたと違ってアーリグリフのど真ん中で騒ぎを起こすわけにはいかないんだよ」
「フン」
アルベルは尚も不満げに鼻を鳴らす。
「しかも……なんなんだい、『俺の』ってのは。人前で何言ってるんだい、変な誤解を招くじゃないか」
と、ネルは眉を寄せる。
「どこが誤解だ」
「部下の前であんなハッタリを言って、困るのはあんただろう?」
「ハッタリも何も、事実を言ったまでじゃねぇか。事実を言って何が困るってんだ」
「あんたね、事実がいつも人の味方をするわけじゃないんだよ」
ネルはじっとアルベルの眼を見上げながら、言い聞かせるように言って続ける。
「それに、いくら『交際した』からって、あんたの所有物になった覚えはないよ」
「チッ……」
アルベルは口惜しげに舌打ちをすると、ネルの手から買い物袋を取り上げた。
カルサア修練場の屋上に呼び出されたある日のことだった。
もう空は夕暮れで、暮れゆく茜空が辺り一面を真紅に染める様子を、何故呼び出したとも言わない男の隣でネルは黙って見ていた。
修練場の外壁の上に並んで座って、ネルは足を虚空に投げ出していた。
アルベルは立てた片膝に右腕を預けて、時々風に吹かれて後ろ手に結んだ触手のような二つ結びがゆらゆらそよいでいた。
呼び出しておいて、話し始める様子もない。
もしかしたら自分の存在に気づいていないのだろうかとネルが疑い始めた頃、アルベルが急に口を開いた。
「ここは俺たちが出会った場所だ」
ネルはアルベルの横顔を見て、それから後ろの闘技場をぐるりと見回した。それから頷いた。
「そう言われればそうだね」
ネルの直属の部下であるタイネーブとファリンが、漆黒の副団長シェルビーに捕まっていた場所だ。そのシェルビーを倒した後、続けざまに団長のアルベルが出てきた時はヒヤリとしたものだ。特にネルは一晩中、一人敵地を逃げ回っては戦ってきたボロボロの状態だった。狙ってくれと言っているようなものだった。だがアルベルは満身創痍のネルたちを一度ここで見逃している。それが最初の出会いだ。
「あの時は敵同士だったね……しかも私にとっては、この国で一、二を争う強敵」
「フン」
アルベルが得意げに鼻を鳴らす。
「でも今は──」
実際に剣を交えたこともあった。共に剣を振るったこともあった。国を超えて、世界を超えて、次元まで超えて、旅を共にする中で二人なりに培ってきた繋がりというものも確かにある。それは時には意外な尊敬だったり、気楽な親密さだったりした。
「不思議なもんだね。シーハーツとアーリグリフどころか、宇宙にFD空間まで旅をしてきたけど、こんなふうに話す仲になるなんてね」
するとアルベルは面白げに首をひねって、
「意外か? 俺は最初からこの世界じゃ数少ねぇ話せるヤツだと思ってたがな」
「へぇ、意外だね。でもそんなふうに思ってくれるのは、やっぱり嬉しいよ」
ネルがやわらかく笑うと、アルベルはまたむっつりして前を見たまま押し黙った。
この男は情緒不安定なのだろうかとネルが首をかしげていると、アルベルは沈みゆく夕陽を目に焼きつけるように凝視しながら、その夕暮れにまぎれるようにぼそりと言った。
「……付き合え、阿呆」
あまりに短く響いたので、ネルは何気なく返した。
「………? 付き合ってるじゃないか」
「……はっ?」
「あんたに呼ばれて、わざわざカルサア修練場まで付き合ってるんじゃないか」
するとアルベルはがっくりと肩を落とした。黒髪の上から額を押さえる。
「いや、だから……俺と付き合え。ちなみに交際しろという意味だ」
今度はネルの方が驚いた。
「なっ……なんだいそれ」
「交際とは、男女が恋仲になったり、お互いにそういう気分の時は性交したりという意味……」
「わ、わかったから……! でも性交ならもうしたじゃないか」
「……っ! うるせぇ!」
お互い事故のように早口になりながら、アルベルの顔が夕暮れの中でもわかるほど赤くなるのを見た。立膝に掛けた腕でそれを隠すのを見て、ネルは不覚にも彼を可愛いと思ってしまったのだった。
カルサア修練場でそんなことがあってからも、何かが特別変わったというわけではない。相変わらずつかず離れずの旅が続いている。
しかしそんな中でネルは気づいていた。今抱えていた買い物袋をアルベルがファクトリーまで代わりに持ってくれる変化を、少し優しくなった眼差しを。
魔剣クリムゾンヘイトを傍らに携えた男の横顔は、いつにもなく凛として見えた。
ネルは、自分がまさかアルベルとこんな関係になるとは、到底信じられなかった。今はまだ二人だけの秘密のこの関係を誰かに吹聴するつもりもないが、たとえ誰に訊いたとしても、同じことを思うに違いなかった。
これは、旅の中で生まれた非日常的なひとときの気の迷いだと思うこともあった。仮にも元敵国の戦将に絆されるとは、一時の自分が聞けば噴き出すほどあまりにも馬鹿げている。しかし、ネルは確かに今、過去の自分の信条はガラガラと崩れ去り、その跡で小さく芽吹く根源的な感情を信じたい気持ちになっていた。
アルベルの意外な物堅さが、そんなネルを確かに支えているのだった。
そんなネルの心情に連動するように、久しぶりに戻ってきた母星では、アーリグリフ王の婚約の噂がまことしやかに囁かれ、シーハーツとアーリグリフの間に横たわっていた戦乱の空気はますます人々の過去へと遠のいているようだった。
フェイトたち旅の一行は、創造主の元へ向かう際のキーパーツであるセフィラを入手するため、シーハーツの王都シランドへ北上した。
見慣れた場所がエクスキューショナーの強い魔力に汚染されている。そんな光景を目の当たりにするのはネルには耐えがたいことではあったが、そんなことをアルベルにぼやくと「全部倒しゃいい」と簡潔な答えが返ってくるので、嘆く気も起きなくなる。
一行は女王陛下の許可を得てセフィラを入手すると、来たる創造主との戦いに備え始めた。何度も試行錯誤しながら装備を強化し、回復アイテムを各々が持てるだけ何個も作った。
それから訓練がてらにその日何度目かのエクスキューショナー討伐に精を出していた時のことだった。
イリスの野を歩いていると、枯れた草が目に付いた。こんなにも緑豊かな土地で、冬も遠いこの時期に、植物の生命が途絶えるのは卑汚の風の影響だろうか。なにか小さな変化が、そこここに散らばっている、そんな気がした。
そんなことを考えながら立ち止まっていると、突然、木の陰にいた代弁者がネルの目の前にあらわれた。間髪入れず両翼から放たれる衝撃波に、すかさず飛び退いた。すると、ひそかに後ろにいたもう一頭の代弁者が、回転しながら光の粒を放射線状に放ち始めた。全身に痺れがくる。何度も電撃のような光を浴びながら、きつい痛みに身を縮こまらせていた。光の粒の合間から、あわててフェイトが走ってくるのが見えた。その傍らから、アルベルの空破斬の衝撃波が、まっすぐ代弁者の元へすべっていく。しかしそれは、くるくると舞い上がる代弁者の下の草花を散らすだけにとどまった。
光の粒が止まないうちに、もう一頭がネルにふたたび近づいてくる。その横っ腹を、フェイトが思いきり蹴り上げた。
「大丈夫ですか!?」
まだ光の粒に打たれているのに大丈夫も何もないだろうと思いながら、ネルは痺れて応えることもできない。
そのうちに光の粒が止んで、すかさずアルベルが間合いを詰め、魔掌壁を打ち込んだ。地のオーラを放つ壁が宙に現れ、代弁者がその衝撃に激しく上下する。
その隙にネルはアルベルの陰に隠れ、体力活性剤を飲み込む。アルベルは激しく代弁者を斬り付けながら、
「ボーッとしてるな、阿呆!」
と、ネルに喝を入れた。
「助かったよ」
ネルは礼を言いながら、痺れに震える手でダガーを構え直す。
エクスキューショナーの動きは、目線や気配や筋肉の動きで読むことができない。いきなり現れ、唐突に行動する。その無機質さに、ネルはいつまで経っても慣れることができないのだった。生命というものが微塵も感じられない、死者よりも冷ややかな存在だった。こんなものが世界中に散らばっているなんて、なんと恐ろしいことだろう。
と、いきなり周辺に真っ黒なダークサークルが生まれた。フェイトの相手にしていた代弁者が紋章術を使ったのだ。地面に巨大な磁場が生まれ、ずりずりと足元が引きずり込まれそうになる。
アルベルがもう一度魔掌壁を打って相手にしている代弁者の動きを止めると、ネルに向かって手を伸ばしてきた。ネルはその手の中の刀の柄ごとつかんで引きずり込まれそうな身体を踏ん張ってバランスを取る。強い闇が地面を覆い尽くして蟻地獄のように回る。あそこに飲み込まれれば命は無いだろう。闇がネルを飲み込もうとするかのように跳ねた。アルベルが磁力に逆らってネルを身体に引き寄せる。
闇が地面を過ぎ去った。フェイトがふたたび剣を振るうと、代弁者は横たわるように吹き飛ばされた。
アルベルの魔掌壁の効果が切れると、目の前の代弁者が動き出した。両翼で衝撃波を生み出し、アルベルとネルに襲いかかろうとする。ふたりは左右に飛び退いて、同時に代弁者を斬り付けた。
「行くよ!」
「ああ!」
ネルは手の中に施力を高める。その間にアルベルはふたたび魔掌壁を繰り出した。その横ざまからネルが衝撃波の刀を上下に振り回しながら、激しい体術で代弁者を翻弄する。鏡面刹だ。代弁者は衝撃の波に打たれるまま、身体から力を失ったように宙にもてあそばれている。その身体の下を、ネルが凄まじいスピードで斬り抜いていく。幾度もの衝撃波に打たれた代弁者は、悲鳴ともつかない無機質な断末魔を上げて地面に倒れ込み絶命した。
アルベルとネルは代弁者の死体が消去されていくのを見下ろし、頷き合う。それからダガーの柄を握り直し、ひとり光の雨に打たれているフェイトの元へ走った。よく見れば、光の範囲の外でソフィアが紋章術を唱えている。
ネルも光の粒が届かない場所から気休め程度に黒鷹旋を放った。続けざまに二発。アルベルもまた空破斬で遠くから加勢している。
光の粒が終わると、ネルは飛び上がって一気に間合いを詰めた。アルベルも刀を手に走り出す。しかし代弁者は嘲笑うように消えたかと思うと、いきなりソフィアの背後に現れた。
「きゃっ!?」
ソフィアが代弁者の両翼に弾かれる。
「ソフィア!」
フェイトが声を上げる。
ネルは地面を蹴って、ソフィアの元へ急襲する。空間を縦横無尽に動けるのはネルの施力の賜物だった。地面に倒れ込んだソフィアの身体を抱き、代弁者の攻撃範囲から逃れた後ろでアルベルのガントレットが代弁者の身体目がけて唸る。その後ろでフェイトが代弁者の尻を蹴り上げていた。
「大丈夫かい?」
「あ……ありがとうございます」
代弁者から庇うように立ちながら、ソフィアが体勢を整えるのを待つ。すると、キーンと耳鳴りのような音が聞こえた。背後で光の粒が降る予感。ネルが振り返ると、急に目の前に代弁者の顔ともつかない顔が現れ、言った。
「滅セヨ」
思わずぞくりとした。代弁者の白い顔に黒目を見た気がする。
その瞬間のことを、ネルは後で振り返ってみてもよくわからなかった。突然、身体が軽くなった。軽くなったというより、それは自由だった。肉体の呪縛から解き放たれたような、完全なる自由のようだった。痛みも、暑さも、疲れも、重みも、何も感じないような、これまで感じたことの無い感覚だった。
真っ白な世界が身体を通り抜けていった。
ネルはその時、父のことを思い出した。何度も想像した父の最期を。
「きゃああああああ!」
つんざくようなソフィアの悲鳴が、光の中で耳を通り過ぎていった。