しばらく気を失っていたようだった。
木々がそよいでいる。鳥の優雅な声が、空を通り過ぎていった。抜けるような青空が、目の前いっぱいに広がっている。
なんてきれいなんだろうと、ネルは思った。頭が朦朧としていた。
お父様は元気だろうか。ネルは思った。お父様に、転んだことを教えたい。きっと少し笑って、ネルの頭を撫でながら、「身体はこうやって使うんだ」と痛くない転び方を教えてくれるはずだ。それかすべっても転ばない体術を。
そもそも、本当に転んだのだろうか。覚えがない。覚えがなければ、防ぎようがない。
ああ、空が揺れている。それで、ネルは思い出した。お父様はもう生きてはいない……倒されたんだ、風雷のウォルター老の手によって。
どうしてこんな悲しいことを思い出したんだろう。
お父様は私を置いて死にに行った。私はひとりぼっちだ。お父様がいなくては、生きてはいけない。
ネルは朦朧としている頭を、ゆるゆると起こした。かなり寝惚けている。早く起きなくては。
──本当なの!?
──はい、突然……
遠くで仲間の声がする。いや、近くかもしれない。耳が少しおかしい。
──でもそりゃありえねぇぜ!? 見間違いじゃねえのか?
──だけど、僕たちは全員で見たんだ……
ネルは、石畳の路上から身を起こして、声のする方を見た。声はほんのすぐそこでしていた。他の場所に散らばっていた仲間たちも集まって、みんなで何事か話している。何かあったのだろうか。
──とにかく、辺り一帯を捜してみましょう。
ネルはようやく立ち上がり、ふらふらと仲間たちの方へ近づいていく。仲間たちは神妙な面持ちで顔を突き合せていた。
「……どうしたんだい?」
ネルはそう訊ねながら、仲間の輪の中に入っていった。すると、フェイトが輪の真ん中で何かを手に持ち、話している。
「僕はペターニまで行って、門番に訊いてみるよ。見かけていないかどうか確かめる」
「じゃあ俺はシランドへ行くぜ」
クリフが親指で自分を指差す。
「なぁに、心配するな。どっかにはいるんだからよ」
「……うん」
何の話をしているのだろう。ネルはそう思いながら、頷いたフェイトの手元を見る。すると心臓が飛び出るほど驚いた。
フェイトがネルの黒装束を手にしていたのだ。
ということは、今自分は裸なのか──!?
あわてて自分の身体を見下ろす。するともっと驚くことになった。
何も見えない。
身体があるはずの目線の下には、ただイリスの野の苔むした石畳が、そして路端にそよいだ草があるだけだった。
わけがわからず、度肝を抜く。服どころか、なんの身体も、腕も、脚も、何もかもが見えなかった。そこにあるはずの身体が無くなっていた。
おかしい。おかしい。おかしい。変だ。
「ねぇ、何が起こってるんだい!?」
ネルは叫ぶようにみんなに問いかけた。しかしフェイトは、それを無視するように、
「じゃあ、行ってくるよ」
と目の前を通り過ぎた。
「私はあっちを探します」
「じゃあ私はこっちを」
仲間たちが四方八方に散らばっていく。その間誰もネルに振り向いてくれなかった。それどころか、必死にどこかへ向かっていくようだった。
ネルもまた、おかしいと感じ始めていた。自分の声が聞こえていないことに。声を発しているのに、自分の耳にすら聞き取れない。おかしな状態だった。
目の前でアルベルがひとり団体行動からはぐれている。アルベルは、地面のある一点を見つめ、そこにかがんだ。地面を触っている。それから立ち上がり、
「クソ……」
ほとんど聞き取れない声でぼやいた。
「ねぇ、あんた……何が起こっているんだい?」
ネルがまっすぐアルベルを見つめ、声にならない声でたずねる。だがアルベルはそれが聞こえないかのように、眉根を寄せた表情のまま、その場を去った。
ネルは途方に暮れた。ありえないことが起こっている。
自分の身体が見えないどころか、声を発することもできない。それどころか、あるはずの場所を触ってみても手応えがないのだ。何かがあるような気はする。しかし、触覚がない。そこに自分の手があると感じるのに、幻のようにものに触れることができなかった。
試しにその辺の雑草に触ってみようとする。しかし、水に浮いた花びらのようにすり抜けて手応えがなかった。
見たことも聞いたこともないような現象だった。
そのうちに、ある考えが、ネルの中をよぎった。
──自分は死んだのだろうか。
霊体になったから、透明になり、すべてがすり抜けていくのだろうか。正確には、すり抜けていくというより、ものを動かす力が働かなかった。触っているという意識はあるのに、感覚がなかったのだ。
自分の存在が誰にも見えない。声を出すことも、触れることすらできない。
死んだから、存在が消えた。そう思えてならなかった。
ああ、ついに死んだのだ……。
シランドの宿屋の一室に、一行が集まっていた。
ネルはずいぶん長い間、イリスの野で途方に暮れていたが、仲間たちが次々に落胆した面持ちで帰ってくるのを、ただ眺めていることしかできなかった。
仲間たちはネルを捜していたのだ。しかしどこにもいなかった。なぜならここにいるのだから。しかしここにいるネルを誰も見つけることができなかった。ネルは透明な存在だった。
──ネルが死亡したかもしれない。
その事実は、パーティーに重くのしかかった。誰もが沈痛な面持ちで、突如起こった出来事を飲み込めずにいた。
ネルもまた、どうしたらいいのかも、どこに行く気にもならず、黙って仲間たちについて来ていた。
仲間たちの話では、代弁者と戦っている最中に突然ネルが消え、死体は見つからず、服とダガーだけがその場に残されていた。だから、死亡したかもしれない、としか受け止められないのだ。
「なんでこんなことに……」
フェイトがいらいらとテーブルの周りを歩き回った。
「フェイト……」
幼馴染のソフィアが、心配そうに彼を目で追っている。
フェイトはずいぶん難しい顔をして爪を噛んでいたが、やがて大きな音を立ててテーブルを両手で叩いた。
「こんなの信じない、信じられるわけがない……!」
「信じるも信じないも、目の前で見ただろうが」
それまで存在感の無かったアルベルが、急に部屋の扉の横で話し始めた。
「戦いに死は付き物だ」
「まだ死んだと決まったわけじゃ……」
「だったらあれはどう説明する。アイツはどこかへフッ飛んでいったわけでも、その場に崩れ落ちたわけでもない。一瞬で消えたんだ」
「それは……」
「大方、身体が溶けちまったんだろうよ」
「そんな言い方……! それでもお前──」
「ヤツも覚悟の上だ」
アルベルは冷徹に言い放った。フェイトは思わず息を呑む。
ネルもその通りだと思った。戦いに死は付き物だ。剣を振るって戦う以上、いつだって死ぬのは覚悟している。だが、死がこんなものだとは思わなかった。こんなにも生きている気がするものなのだろうか。死んだ覚えのないものなのだろうか。
フェイトは振り絞るように言った。
「ネルさんは……そうかもしれない。けど、僕は納得できない」
「テメェが納得しようがするまいが、アイツは逝っちまったんだよ。目の前で見ていた俺の力不足だ」
アルベルはそれだけ言うと、部屋を出ていった。
室内に重い沈黙が残された。
それまで部屋の端で黙って椅子に座っていたクリフが、
「俺には何が起こったのかわからねぇ……」
と呟いた。
「死体が跡形もなく消えるってのは、死ぬっていうよりまるでヤツらにアンインストールでもされたような消え──」
「クリフ。それ以上は言うな」
フェイトが激しい目でクリフを窘めた。
ふたたび、重い沈黙が室内に訪れた。
堪りかねたように、フェイトが剣を持って歩き出した。
「……とにかく、僕はもう一度捜しにいってみるよ」
「あっ……私も行く」
ソフィアがフェイトを追って、部屋を出ていった。
ネルはムーンリットに詰めている部下の元へ走った。扉はどう頑張っても自分では開けられなかったので、誰かが通って開くのを待った。
幽霊が律儀に扉から入ってくるのは何故か、と疑問に思ったことがあるが、こういう気分なのかもしれない、と思った。壁を自由にすり抜けられるわけではないのだ。
部下の元へ行っても、仲間たちと反応は同じだった。ネルの存在がまるで見えていないようで、どんなに話しかけても、何もないようにあくびをしながら湖を見たり、髪をいじくったりしている。
ネルは途方に暮れた。世界でたったひとりぼっちになった気分だった。仲間たちは目の前にいるのに、話すこともできない。部下が目の前にいても、もう何かを頼むこともできないのだ。
ネルはとぼとぼとシランドの町を歩いた。
死んだなら死んだで、何故神様は自分を迎えに来てはくれないのだろうか。このまま途方に暮れてあちこち彷徨うことが死というものなのだろうか。
シランドの北東へ向かい、開いたままの実家の門をくぐった。この中で、ネルの母リーゼルがメイドや執事と共に暮らしている。しかし玄関は固く閉じられ、会うこともできなかった。ふいに目頭が熱くなる気がするのに、涙は出ない。奇妙な身体になったようだった。
もう夕暮れになっていた。
宿屋の前に戻ると、ちょうど仲間たちが出てくるところだった。
「とにかく、陛下に話をしないと」
女王陛下にネルの死を伝えに行くようだった。ネルはそれを聞いて、気が重くなる。仲間たちがぞろぞろと歩く後を、ネルもついて行った。
一行が謁見の間に上がり、女王陛下の御前に来ると、陛下は一目で何かあったと悟ったようだった。仲間たちは神妙な面持ちで目を合わせていた。
「実は──」
フェイトが一歩前に出て、意を決して話し始めた。
その話を、さすがの女王陛下も青い顔で聴いていた。陛下は愕然としたように、こめかみに手を当てた。クリムゾン・ブレイドの片割れを失ったのだ。
「申し訳ありません……」
フェイトが、女王陛下に頭を下げた。陛下は、ゆるりと首を振った。
「そなたが謝る必要はありません。ネルがその命を失ったのは、ネル本人の過ちでしょう」
女王陛下の冷然たる言葉に、ネルは深く頷いた。
「そなたたちがそのような顔をする必要はありません。何よりも、そなたたちは創造主との決戦を控えているのです。ネルのことで心を寄せてくださるのは有難いことですが、そなたたちにはセフィラを託したのですよ。そなたたちが創造主を制し、この世界へ無事に帰ってくることこそが、わたくしたちの願いであり、間違いなくネルの悲願でしょう」
女王陛下は、もうすでに毅然とした目で、フェイトたちを見ていた。
その日はそのままシランド城へ一泊するようだった。
ネルは、誰にも見えない身体で女王陛下に深く頭を垂れると、それぞれの部屋や用事で散らばる仲間たちの中で、気になる背中を見つけ、ネルはついていくことにした。
それはアルベルの背中だった。
アルベルは階段を降り、まっすぐ水の回廊を歩いていった。客室へ戻るのだろうか。
早足で背中にどんどん近づいていく。その背中に手を伸ばしてみる。歩くたびにふわりふわりと揺れる二つ結びがつかまえられそうだ。ぎゅっと手を握る感覚で、それを捕まえてみる。しかしその二つ結びは揺れているだけで、手の中からこぼれていく感覚だった。
(やっぱり駄目か……)
そんなことをしていると、急に背中が立ち止まるので、ぶつかりそうになった。しかしぶつかることはなく、空振るようなふわりとした感覚に襲われただけだった。
何かと思ってアルベルを見ると、アルベルは左の扉を開けて部屋に入っていった。そこはとても覚えのある、ネルの部屋だった。もう住む者のいない部屋だった。ネルは少し戸惑いながら、あわててついていく。
アルベルは、部屋の真ん中まで足を踏み入れると、しばらく黙ったまま部屋を見回していた。ネルが使っていた椅子、ネルが使っていた机、ネルが使っていた本棚、ネルが使っていたベッド……そこにはネルの生活していた思い出が、確かにあった。しかしネルの知る限り、アルベルがこの部屋に足を踏み入れるのは初めてだった。じっくりと感じ取るように見回している。一体何を思っているのだろうか。
(まったく……何をそんなに見てるんだい?)
ネルはそんなに見られるのは恥ずかしいと思って、また二つ結びをつかむふりをした。つかめないことはわかっているが、せめてもの抵抗だった。
やがてアルベルは、書き物机に近寄り、袂から何かを取りだした。それはあの時からそのままになっていたネルの黒装束だった。ネルは不意を突かれた。いつのまにかアルベルが持っていたのか。
アルベルは、手に持った黒装束を見下ろしていた。親指のところのへこみが深いことが、彼がどんなに力を入れているのか感じ取れた。彼の手が震えている。
ネルはハッとした。今までアルベルがどんな気持ちでいるかなんて、考えてもいなかった。
アルベルは、声にならない声を上げ、黒装束に顔を埋めた。思いきり息をする。
(ちょっ……!? なんで嗅ぐんだい!?)
ネルは恥ずかしさに顔が火だるまになるような感覚をおぼえたが、それは感覚だけだった。どういう情緒で見ていればいいのかわからなくなる。
やがてアルベルは書き物机に黒装束を静かに置くと、顎が喉につくほど下を向いた。気の遠くなるような静寂が、部屋の中をただよっていた。
やがて、突然の大きな音にネルは驚きで飛び上がった。
「……っっっきしょう!」
アルベルは思いきり机を殴り、ボロボロと木のくずが舞った。
アルベルの激情を、その時ネルは初めて見た。
うつむいて前髪に顔が隠れている。しかし激しい感情が全身から立ちあらわれていた。
いきなり、アルベルは机を離れると、足早に扉も閉めず部屋を去った。
後には透明なネルだけが残された。
喉が渇いた。
そんな原始的な欲求がこみ上げてきたのは、みんなが寝静まった夜更けのことだった。ずっと興奮状態の只中にいたような気がして気づかなかったが、こんな身体でも喉は渇くのだ。
ネルは長いあいだ茫然と座っていたベッドから立ち上がり、部屋の外へと足を踏み出した。
水を調達しなければ。しかし、どうやって水を飲むことが出来るのだろう。蛇口は捻れないし、カップも持てない。水をすくうことすらできない。
水が欲しい。
もし、このまま水が飲めなかったら、どうなるのだろう。このまま、飢えて干からびていくとでもいうのだろうか。ネルはおぞましさにぶるりと身震いした。
悩んだ末、足を踏み入れたのは礼拝堂だった。
礼拝堂は、しんと静まっているというより、おびただしい水の音が響いていた。普段意識することのなかった音の響き方だった。
ネルは太陽神アペリスの父像を見上げた。その後ろに聖殿カナンから流れてきた滝が落ちている。ネルは階段を上がって、滝に一番近い場所に近づいた。ステンドグラスの窓を背景に、かなりの水量が落ちて煙っている。ネルは滝にそっと手を伸ばした。
透明な手に、何かやわらかいものが当たっている感覚がある。ネルは両手をお椀型に作って、落ちてくる水を集めようとした。
あっと思った。水が手のひらの形に溜まって揺れている。不思議な光景だった。ネルは手のひらの水をむさぼるように飲んだ。何も感じなかった。何も感じなかったが、確かに喉の渇きはやわらいでいた。
ネルは何度も手のひらの水を飲み干した。透明になって初めての感覚だった。何も感じないのに、錯覚かもしれないが、確かにおいしいと思うのだった。
ひとしきり水を飲むと、ネルは手すりにすがりついて太陽を模したステンドグラスを見つめた。そして、これまでにない感情が生まれるのを止めることができなかった。
生きたい。
ネルは確かに感じていた。
自分の透明な身体が生きたがっている、と。そして自分の心が、まだ生きている、と。
──誰か私を見つけて。
そう心の中で、願った。
喉の渇きが癒えると、ネルはアルベルを捜した。
あの後、アルベルは物も言わずに外へ出るのを見たと、仲間たちが話しているのを聞いた。
ネルはシランドの町を突っ切り、ムーンリットを越えた。イリスの野へ着いて、しばらく歩くと、激しい刀音が空を斬るのを聞いた。ネルが消えた場所。やはりここにアルベルはいた。
一人で一心不乱に代弁者と戦っているようだった。一晩中ずっと戦っていたのか、癒してくれる者もおらず、傷だらけでボロボロだった。時折申し訳程度に体力活性剤を飲んで、見たこともないような馬鹿力で代弁者を斬りつけている。代弁者は気の毒になるほど反撃の隙もないように仰け反ったり転んだりしていた。
ネルは、アルベルの近くにたたずんで、その光景を見ていた。
アルベルの個人的な感情を覗いたことに、ネルは後ろめたさを感じていた。そうでありながら、彼のそばにいたいと願ってしまう自分も止められなかった。ここにいれば無闇な不安に掻き立てられることもない。悲しみは分け合っている、そんな感じがするのだった。アルベルは気づいてもいないだろうけれど。彼に出会わなければ、こんな気持ちにはならなかっただろう。生きたいなどとは。
ネルは戦うアルベルを見つめ続けていた。
気がつけば日の出が近くなっていた。
やがてアルベルが戦う手を止めた。あまりに熱中して戦いすぎて、肩で息をしていた。頬や腕に散った血は彼自身の血に違いなかった。何故なら代弁者は血を流さないのだから。
アルベルは刀を鞘にも収めずに歩き始めた。シランドとは逆の方向だった。ネルは不思議に思ったが、ついて行くことにした。
アルベルの足も限界を超えていて、後ろから見てもよろよろとしていた。
(大丈夫かい……)
やがてアルベルは這う這うの体でペターニの門をくぐった。ネルもそれに続く。
すると、「んっ?」という声が聞こえて、ネルは思わず振り返った。アルベルもゆるりと振り返る。よく気がつく門番が、こちらを見ている。ネルは、えっ、と思った。
「何だ?」
アルベルが低い声で威嚇するように睨みつける。
しかし門番は、こちらを凝視した後、頭を振り
「いえ、なんでもありません……刀は鞘に戻して、お通りください」
と、またまっすぐ前を見据えた。
「チッ……」
アルベルは舌打ちをし、刀をおさめると、またずりずりと歩き出した。
いつも賑わっている日中とは違って、夜明けのペターニはひとけもなくしんとしている。
アルベルは東通りの酒場まで行くと、朝方でまだ閉まっている店のオーナーを叩き起こし、酒を出せと暴れ始めた。
(何やってんだい……)
ネルは呆れて、姿も見られないのに身内だと思われたくなくて身を隠すようにその場から離れた。
あの男は荒くれている。少なくとも、侯爵級クロセルとの交渉のためにパーティーに入った時から現在に至るまで、見たことのない男の姿だった。
ネルはなんだか自分が彼を傷つけているようでいたたまれなかった。普段なら自分がヒーリングをかけて痛みなど終わりにしてやれるのに。
知らず町はずれまで歩いていたようだ。気がつくとアミーナの家の前まで来ていた。もう持ち主のいなくなった家。ネルは木箱に座って彼女の育てた花畑を見ていた。今では近所の女性や部下が管理をしている。
自分ではどうしようもない病で命を落とした彼女。戦乱の末、別れていた幼馴染のディオンと最期に再会を果たした彼女の魂は、自分のように彷徨せずに無事に天国へと行けただろうか。ディオンと一緒に、痛みも苦しみもない世界へ行けただろうか。
ネルは静かに花に触れた。触れはしないが、花が笑うように風に揺れたような気がした。
ネルはふいに、水の音を聴いた。正確には雫の音だ。ぽたぽたと水が垂れている。周りを見ると、雨が降り出したようだ。花びらに雨粒が落ちて、ぴとぴとと揺らしている。花が開いている場所に、徐々に雫が溜まっていく。
ネルはふと、手のひらの形に溜まった水を思い出した。礼拝堂の滝で、透明な手の中にできた水の形。
ネルははっと立ち上がった。あれは、透明になった自分が唯一できる存在証明なのではないか。あれをアルベルに見せれば、何かしら伝わるのではないか。
透明な手のひらの水を見せたところであの男には斬りかかられるのがオチだと思ったが、何もやらないよりはいい気がしていた。
ネルは早速、さっきのように両手でお椀を作って、雨粒を溜め始めた。雨はどんどん強まっていった。
ずいぶん時間をかけて、手のひらの薬指まで雨を溜めた。このくらい溜まれば少しは何か見えるだろう。できることならあの男にぶっかけてもいい。
ネルはこぼさないように慎重に両手を合わせて、そっと酒場まで歩いた。アルベルは酒場の前で、一本酒をもらったらしく手酌をしていた。
ネルは手のひらの水を見つめながら、慎重に角を曲がった。この透明な水が見えるだろうか。アルベルは雨の中のこの水に気づいてくれるだろうか。
どんどん近づきながら、ネルはチラリとアルベルを見た。
と、アルベルが目を大きく剥き、度肝を抜いた顔をしているのが見えた。
──気づいている!
ネルは確信した。アルベルは確かにこちらを見て、驚いている。しめたと思った。しかしここからどうやって、自分だと気づかせられるだろう。
するとアルベルは、
「うわぁああ!」
と、いきなり叫び声を上げ、どこかへ走っていってしまった。
ネルは驚いた。ここまで反応があるとは思っていなかった。まさか幽霊が怖いのだろうか。
ネルは一生懸命溜めた水が無駄になるのは嫌だと思い、男を追おうとした。
と、バタバタと足音が戻ってきた。アルベルがあわてた様子でどこかの庭からくすねて来た白い布を片手にこちらに走ってくる。
あまりの勢いに、ぶつかると思った。思わず目を閉じる。
と、いきなり布がネルの身体に巻かれた。目を開くと、アルベルの必死な顔がこちらを覗いている。
「お前! 何やってんだ!?」
「何って水を……」
ネルは男とぶつかって、水がこぼれてしまっているのに気づいた。手の中の水がからっぽになっている。
「あっもう、何するんだい! あんたがぶつかってくるから水がこぼれてしまったじゃないか──」
そこまで言って、ネルはとんでもなく驚いた。
「あんた私が見えるのかい!?」
「見えるも何も素っ裸で歩いてんじゃねえよ!」
アルベルは怒ったようにネルを引き寄せながらその腕に抱いた。アルベルの右手は、ネルの後頭部を引き寄せていた。ネルはアルベルの背中に手を回した。触れる。何より、自分の手が見えていた。ネルの白い腕に雨が落ちているのが目で見え、肌でも感じる。ぽとぽとと雨が落ちている。アルベルの大きな鼓動がネルにも伝わってくる。
生きていたのだ。
ネルは膝から崩れ落ちそうになるのを、アルベルが腰を引いて抱き止めた。
「何していやがる……」
アルベルの声が震えていた。アルベルの髪を伝って、一筋、雨垂れが胸に流れてくる。ネルはそれを確かに冷たいと感じていた。目で追うと、確かにそこには、施文の入った自分の身体がネルの目にも見えていた。
「あんた、身体があるよ」
ネルは思わず白い布を広げようとすると、
「だから脱ぐな阿呆!」
アルベルは布をまた引き寄せるのだった。
「来い、風邪を引く」
アルベルはネルの手を引いて歩き始めた。中央広場を抜けて、足を踏み入れたのは教会だった。朝方で神父も留守にしており、中はしんとしていた。
アルベルはネルを教会椅子に座らせると、自身も隣に座った。それから、紅い瞳でネルの顔を覗き込み、また抱き寄せた。
ネルは不思議な気持ちだった。アルベルに触れられ、会話をし、見られている……以前は当たり前だと思っていた感覚が、久しぶりに甦ってきたのだった。
「何があった」
アルベルはネルを抱いたまま、低い声で訊ねた。
ネルは、あの代弁者と戦った時から今までのこと、透明になったこと、物には触れるが感触がなかったことなどを話した。
アルベルは神妙な顔で聞いていたが、
「今は、戻ったんだな」
と確認した。
「そうらしい。身体もあるし、声も出せるし、感覚もある。ちゃんと雨や、布や、椅子や、あんたの感触がするんだ」
ネルがアルベルの胸板に触れると、アルベルはまたネルを抱いた。
「何で消えて、何で戻ったのかわからねぇが、話を聞いてるとカメレオンみてぇだな」
「カメレオン?」
「ああ。アイツは透明になると触れなくなるし鳴き声も消えて物理抵抗もなくなる。考えられるとすればそれみたいもんじゃねぇのか?」
「……私は爬虫類だってのかい?」
「……そうなるな」
ネルはアルベルの腹を思いっきり肘鉄した。
「ぐはっ」
アルベルが腹を押さえる。こころよい瞬間だった。
人と話し、物に触れ、声を発することができる。こんな幸せなことがあったのかと思った。
ネルは笑って、アルベルの首に抱きついた。アルベルは戸惑ったように固まったが、やがてネルを抱き直す。
「自分が死んでるのかと思ってた。あんたの目の前にいたのにね……」
「俺こそ死んだかと思ったぞ……」
ふたりは身体を温めるように、身体を寄せて抱き合っていた。
よかった……本当によかった……ネルは胸がいっぱいになった。
やがて朝陽が、窓から差し込んできた。
そうだ、陛下に知らせなくてはいけない。それから仲間たちにも──生きていることを。
思い立ってネルが立ち上がろうとすると、アルベルの腕がそれを制した。
「………? そろそろ離してくれないかい?」
アルベルは反射的に腕を緩めたが、思い直したように、またぎゅっと抱き寄せた。
「もう少し……このままでいろ」
見下ろしたアルベルの顔が子供みたいで、ネルはそっと頬を撫でた。
「なんだい、そんな顔して」
「いなくなるな……」
アルベルはますます強い力でネルを抱きしめた。
「もう二度と……」
ネルはアルベルの膝に座ると、彼を見つめた。アルベルは、目を細めると、ネルにキスをした。何度も深いキスをした。優しい、あたたかい感触だった。やわらかくて、いつか二人で飲んだ酒の味がした。