船は、朝霧の中を進んでいた。
海は暗い鉛色をしていた。
波は高くない。嵐の気配もない。けれど、船底にぶつかる水音は、ユズルの胸の奥を小さく叩き続けていた。
ごつん。
ごつん。
ごつん。
まるで、引き返すなら今だ、と誰かが船の外から合図しているみたいだった。
ユズルは甲板の手すりに片手を置いたまま、遠ざかっていく陸地を見ていた。
ジャポンの山影は、もうほとんど見えない。
朝霧に溶け、海の向こうに沈み、やがてただの灰色の線になった。
あそこに、自分の村がある。
山奥の、小さな村。
古い暦を今も使い、月ごとに獣を祀り、子どもたちに十二支の昔話を聞かせる村。
狭くて、静かで、変わらない場所。
嫌いだったわけではない。
むしろ、好きだったのだと思う。
朝の井戸の音。
湿った土の匂い。
祭りの前に飾られる古い布。
年寄りたちの低い声。
雪の朝、山道に残る獣の足跡。
その全部を、ユズルはよく覚えている。
けれど、思い出せば思い出すほど、胸の奥が苦しくなった。
戻りたいのか。
戻りたくないのか。
自分でも、よく分からなかった。
「……寒い」
そう呟いて、ユズルは首元の布を少し引き寄せた。
黒髪が潮風に揺れる。
身に着けている旅装は、村の者が旅立ちの時に着る古い型のものだった。薄い上着の裾には、小さな獣の模様が縫い込まれている。派手ではない。むしろ、遠目にはただの旅人にしか見えないだろう。
けれど、その布目や紐の結び方には、ユズルの村の暦が残っていた。
十二の月。
十二の獣。
巡る季節。
それらは、ユズルにとってただの信仰ではなかった。
気づいた時には、そばにいた。
十二月には鼠がいた。
一月には牛がいた。
二月には虎がいた。
三月には兎がいた。
他の人間には見えない。
声も聞こえない。
幼い頃のユズルは、それを村の守り神だと思っていた。あるいは、自分だけの空想の友達なのだと。
違う、と言ったのはヤクモだった。
あの男は、村の外から来た。
よれた外套を着て、古びた鞄を背負い、まるで迷い込んだ旅人のような顔をしていた。だが、目だけは違った。山の霧も、古い社も、人の嘘も、全部を面白がるような目だった。
ヤクモはユズルの隣に座る黒い子牛を見て、笑った。
そして言った。
『それは神様じゃない。お前自身の力だ』
その瞬間から、ユズルの世界は少しだけ形を変えた。
守り神だと思っていたものは、念だった。
自分だけの友達だと思っていたものは、自分自身の発だった。
巡る獣暦《ゾディアック・カレンダー》。
月ごとに、十二支の念獣を一体だけ具現化する能力。
ヤクモはそう名づけた。
いや、正確には、ユズルが何度も考えて、最後にその名を口にした時、ヤクモが面白そうに頷いたのだ。
『悪くない。お前らしい名前だ』
お前らしい。
その言葉が嬉しかったことを、ユズルは今も覚えている。
甲板の床板が、きし、と鳴った。
ユズルは振り返らなかった。
振り返らなくても、そこに何がいるかは分かっていた。
黒い子牛だった。
丑は今、隠で姿を伏せている。
ユズルにははっきり見えているが、船員や乗客たちには、そこに黒い子牛がいることなど分からない。
子牛、といっても、普通の子牛とは少し違う。
骨格は太く、目は静かで、まだ小さいのに、地面に根を張ったような重さがあった。黒い毛並みは光を吸い込み、潮風の中でも揺れない。
それは、今月の獣。
一月。
丑の月。
ヤクモは、かつてこの獣を見て笑ったことがある。
『お前の発は、出来すぎなくらい出来てる』
その時のユズルは、褒められたのだと思った。
けれど、ヤクモはすぐに続けた。
『でもな、ユズル。発があることと、念能力者として強いことは別だ』
『刀を持ってるだけの子どもが、剣士に勝てるわけじゃない。お前はまだ、そっち側だ』
ユズルは、その言葉が少し嫌いだった。
十二支の獣たちは、自分のそばにいる。
見える。
話せる。
時には、力を貸してくれる。
それなのに、自分はまだ強くない。
ヤクモは言った。
『獣はお前の力だ。けど、お前自身の足腰が弱ければ、獣に振り回される。まずは立てるようになれ。逃げるにしても、踏みとどまるにしてもな』
その言葉の意味を、ユズルはまだ全部は分かっていなかった。
ただ、今は少しだけ分かる。
丑がいるから怖くないのではない。
怖い場所で、自分がどこに立つのかを決めなければ、丑はただそこにいるだけなのだ。
牛は、ユズルのすぐ後ろに座っていた。
他の乗客には見えていない。
甲板を歩く船員が、そのすぐ横を通り過ぎても何も反応しない。粗末な荷物を抱えた親子連れも、眠そうな商人も、剣を腰に提げた男も、誰一人として黒い子牛に目を向けなかった。
見えているのは、ユズルだけ。
聞こえるのも、ユズルだけ。
「……帰った方が、よかったかな」
声に出してしまってから、ユズルは少し後悔した。
牛は何も言わなかった。
ただ、黒い目でユズルを見ていた。
責める目ではない。
慰める目でもない。
ただ、見ている。
それが一番きつい時もある。
「分かってるよ」
ユズルは手すりに視線を戻した。
「自分で決めたんだ。村を出るって。ハンター試験を受けるって。ヤクモを……」
そこまで言って、言葉が止まった。
ヤクモを探す。
本当に、それだけなのだろうか。
ヤクモは、追ってこいとは言わなかった。
むしろ言っていた。
『俺を追う必要はない』
あの日のヤクモの声が、潮風に混ざってよみがえる。
『この世界は広い。お前が思っているより、ずっと広い』
村外れの社の前だった。
夕方で、山の影が長く伸びていた。
ヤクモは旅支度を終えていた。
いつものように笑っていた。
まるで、少し隣町まで行ってくるだけだと言うような顔だった。
『怖いものもある。汚いものもある。人を呑み込むような闇もある』
ユズルは何も言えなかった。
行かないでください。
僕も連れて行ってください。
どうして置いていくんですか。
言いたいことは、いくらでもあった。
けれど、喉の奥で全部固まって、結局、ユズルは黙っていた。
ヤクモはそんなユズルを見て、少し困ったように笑った。
『けどな、それでも世界は、未知なる好奇に満ちている』
好奇。
ヤクモはその言葉をよく使った。
危険ではなく、好奇。
恐怖ではなく、好奇。
知らないものを、恐れるだけでなく、見に行くための理由。
『自分を変えたいなら、一歩踏み出せ。自分の目で見ろ』
その時、ユズルは頷けなかった。
数年経って、ようやく船に乗った。
遅い。
あまりにも遅い。
それでも、乗った。
乗ってしまった。
「……立派な理由じゃないな」
ユズルは小さく笑った。
「自分を変えたいとか、世界を見たいとか、そんなふうに言えたらいいけど。本当は、ただ……置いていかれたままでいるのが嫌だっただけかもしれない」
牛は黙っている。
「でも、それでもいいのかな」
海風が強くなった。
ユズルの前髪が目にかかる。
「いいわけ、ないか」
牛が、ゆっくりと立ち上がった。
甲板に音はしなかった。
けれど、ユズルには分かる。丑が立つ時、空気が少し重くなる。足元の板が、見えない重みに耐えるように沈む。
ユズルは振り返った。
黒い子牛は、ただ立っていた。
「……何?」
牛は、低く言った。
「決めろ」
それだけだった。
ユズルは困ったように眉を下げた。
「何を」
牛は答えない。
いつもそうだ。
丑は、必要なことだけ言う。説明はしない。慰めもしない。余計なことは一切言わない。
決めろ。
何を決めるのかは、自分で考えろということなのだろう。
ユズルは、手すりの向こうを見た。
陸はもう見えなかった。
船は進んでいる。
戻るにも、進むにも、自分の足で選ばなければならない。
その時だった。
船室の方から、怒鳴り声が聞こえた。
「だからよォ、そこは俺の席だっつってんだろ!」
ユズルの肩が跳ねた。
甲板にいた数人が、ちらりと船室の入口を見る。
だが、誰も動かない。船旅では珍しくもない揉め事だと思ったのだろう。
ユズルも、最初はそう思おうとした。
自分には関係ない。
船員がどうにかする。
関わらない方がいい。
ハンター試験前に、余計な揉め事を起こすべきじゃない。
正しい理由は、いくつも浮かんだ。
けれど、怒鳴り声は続いた。
「聞こえてねェのか、ジジイ!」
鈍い音がした。
何かが床に倒れる音。
続いて、女の小さな悲鳴。
ユズルの指が手すりを握った。
行くべきか。
行かないべきか。
心臓が速くなる。
怖い。
面倒だ。
殴られるかもしれない。
相手がハンター試験の受験者なら、ただのチンピラではないかもしれない。
自分が行って、何ができる?
そう考えた瞬間、丑が一歩進んだ。
黒い子牛は、船室の入口を向いていた。
「……行けってこと?」
牛は答えない。
ただ、ユズルを見た。
決めろ。
その黒い目が、そう言っていた。
ユズルは唇を噛んだ。
足が重い。
それでも、歩いた。
船室の中は、甲板よりも空気がこもっていた。
木の匂い、潮の匂い、人の汗の匂い。古いランプが揺れていて、壁に影が踊っていた。
狭い通路の中央で、大柄な男が一人の老人を見下ろしていた。
老人は床に片膝をつき、荷物を抱えたまま小さく身を縮めている。その横には若い女が立っていた。娘だろうか。顔を青くしている。
大柄な男は、明らかに普通の乗客ではなかった。
肩幅が広く、首が太い。短く刈った髪。頬には古い傷。腰には刃物が見えた。荒っぽい笑みを浮かべているが、目だけは妙に冷えている。
その周囲には、数人の乗客が距離を取っていた。
誰も助けに入らない。
男が老人の荷物を蹴った。
「ハンター試験受けに行く連中が乗ってる船だって聞いたから、少しは骨のある奴がいるかと思ったがよ。どいつもこいつも、腰抜けばっかりだな」
ユズルは喉が渇くのを感じた。
やはり受験者か。
男は強い。
少なくとも、自信がある。
ユズルはまだ通路の入口に立っていた。
そのまま引き返すこともできた。
誰も、ユズルを見ていない。
今なら、まだ。
丑が、ユズルの横に立った。
黒い子牛は、静かに通路の中央を見ていた。
「……」
ユズルは拳を握った。
何を守る。
どこに立つ。
丑の能力、不動の牛歩は、ただ出せば発動するものではない。
ユズルが「ここだけは退かない」と決めた地点に、丑は立つ。
守る場所を宣言しなければならない。
一度決めれば、その戦闘中は変えられない。
重い制約だ。
間違えたら、終わる。
そもそも、今ここで使うべきなのか。
老人を助けるために?
この船室で?
ハンター試験の前に?
迷いが、次々に浮かぶ。
その時、男が女の腕を掴んだ。
「おい、あんた。こいつの代わりに座るか? 俺の隣なら空いてるぜ」
女が怯えて身を引く。
ユズルの足が、一歩前に出た。
「あの」
声は、思ったより小さかった。
それでも船室の中では、十分に響いた。
男がゆっくり振り返った。
「あ?」
視線がぶつかる。
ユズルは、すぐに目を逸らしそうになった。
怖い。
明らかに怖い。
男の目は、相手が怯えることに慣れている目だった。
「何だ、坊主」
男が笑った。
「席が欲しいのか?」
「いえ」
ユズルは唾を飲み込んだ。
言え。
何を言う。
どう言えばいい。
怒らせないように。
でも止めるように。
波風を立てずに。
そんなことを考えている自分に、ユズルは少し嫌気が差した。
「その人たちは、関係ないと思います」
男の眉が動いた。
「あ?」
「ハンター試験の受験者に、骨があるか見たいなら……その人たちにする必要は、ないと思います」
船室が静かになった。
男は一瞬きょとんとした後、腹を抱えて笑った。
「ははっ! 何だそりゃ。じゃあ何か? お前が代わりに骨を見せてくれんのか?」
ユズルは答えられなかった。
逃げたい。
今すぐ謝って、すみません、余計なことを言いました、と言って、通路の端に下がりたい。
その時、丑が低く言った。
「立て」
ユズルは目を閉じかけた。
そして、一歩進んだ。
老人と女の前に立つ。
それは戦闘の構えではなかった。
拳も上げていない。殺気もない。強者の威圧もない。
ただ、間に立っただけだった。
男の目が細くなる。
「退けよ」
ユズルは小さく息を吸った。
宣言しなければ、能力は本格的には発動しない。
守る場所を一つ。
ここだ。
ユズルは言った。
「ここからは、退きません」
足元で、空気が沈んだ。
誰にも見えていないはずの黒い子牛が、ゆっくりと大きくなる。
省エネの小さな姿がほどけ、骨格が伸び、肩が盛り上がる。
黒い毛並みが濃くなり、目が深く光る。
そこに立ったのは、普通の牛より一回り大きな黒牛だった。
船室の狭い通路に、山のような影が落ちた。
他人には見えない。
けれど、念を知らない者でも、空気の変化くらいは感じるのだろう。
男の笑みが、少しだけ消えた。
「……何だ、お前」
ユズルの膝は震えていた。
怖い。
怖いに決まっている。
でも退かないと決めた。
ここだけは、退かない。
不動の牛歩。
黒牛がユズルの背後に立つ。
男が一歩近づいた。
ユズルは逃げなかった。
男がさらに一歩進む。
その瞬間、まるで見えない壁に当たったように、男の足が止まった。
「……あ?」
男は眉をひそめ、力任せに前へ出ようとした。
だが、進めない。
ユズルと老人たちの間にあるわずかな空間が、重く固まっていた。
何かがそこに根を張っている。
牛だ。
黒牛が、そこに立っている。
男の顔から、完全に笑みが消えた。
「念か?」
低い声だった。
ユズルの心臓が跳ねる。
この男は、念を知っている。
つまり、本当に危険な相手だ。
男の手が腰の刃物に伸びる。
まずい。
まずいまずいまずい。
船室の乗客たちが息を呑む。
ユズルは動けない。
でも、退けない。
自分で宣言した。
ここからは退かないと。
黒牛の影が、さらに濃くなる。
男が刃物を抜こうとした、その時。
「そこまでにしときな」
別の声がした。
船員だった。
いや、ただの船員ではない。
入口に立っていたのは、白髪交じりの中年男だった。船員服を着ているが、立ち方が違う。重心がぶれず、目が鋭い。
男は大柄な受験者を見て、ため息をついた。
「船の中で殺し合いを始める奴は、だいたい試験会場に着く前に落ちる。覚えとけ」
大柄な男が舌打ちした。
「船員風情が」
「船員風情で結構。だが、この船はハンター協会指定の輸送船だ。会場まで辿り着く前に問題を起こした受験者は、記録に残る」
その言葉に、大柄な男の動きが止まった。
「……ちっ」
男はユズルを睨みつけた。
「覚えとくぜ、坊主」
ユズルは何も言えなかった。
男は老人の荷物を乱暴に蹴り返すと、船室の奥へ消えた。
空気が緩む。
女がその場に座り込み、老人が震える手で荷物を抱え直した。
ユズルは、ようやく息を吐いた。
黒牛の姿が、ゆっくりと小さく戻っていく。
普通の牛より大きな体がほどけ、黒い子牛ほどの姿になる。
そしてユズルの足元に、静かに座った。
終わった。
そう思った瞬間、膝から力が抜けそうになった。
「おい」
白髪交じりの船員が、ユズルの前に立った。
「名前は?」
「あ……ユズル、です」
「受験者か?」
「はい」
「念を使えるんだな」
ユズルは息を止めた。
船員の声は責めるものではなかった。
だが、誤魔化せる相手でもなさそうだった。
「……少しだけ」
「少しだけ、ね」
船員は笑った。
「そのわりには、面白い立ち方をする」
ユズルは困って視線を落とした。
「すみません。騒ぎを大きくして」
「謝る相手が違う」
ユズルははっとして、老人と女の方を向いた。
「すみません。勝手に割り込んで」
老人は首を横に振った。
「いや……助かった。ありがとう」
女も小さく頭を下げた。
ありがとう。
その言葉を聞いた瞬間、ユズルはどう返せばいいか分からなくなった。
助けたかったのか。
放っておけなかったのか。
それとも、ただ丑に背中を押されただけなのか。
自分の行動に、まだ自信が持てなかった。
船員がユズルの横を通り過ぎながら、ぽつりと言った。
「ハンター試験はな、良いことをした奴が受かる場所じゃない」
ユズルは顔を上げた。
「悪い奴が落ちる場所でもない。強い奴が死ぬこともあるし、弱い奴が残ることもある」
船員は振り返らなかった。
「だが、自分の立ち位置も分からない奴は、だいたい早く消える」
それだけ言って、船員は船室を出て行った。
ユズルはしばらくその場に立っていた。
自分の立ち位置。
丑の黒い目が、足元から見上げている。
「……決めろって、そういうこと?」
牛は答えない。
代わりに、低く鼻を鳴らした。
それが肯定なのか、呆れなのか、ユズルには分からなかった。
その後、船内は一応の静けさを取り戻した。
大柄な男は奥の席で酒を飲みながら、時々ユズルを睨んできた。
ユズルはそのたびに目を逸らしそうになり、何とか逸らさずに済ませた。
それだけで疲れた。
甲板に戻ると、霧は少し薄くなっていた。
海の先に、港町が見え始めている。
大小いくつもの船が停泊し、倉庫の屋根が並び、煙突から白い煙が上がっている。
ハンター試験の受付地に近い港だ。
そこから先、さらに本当の試験会場へ辿り着かなければならないらしい。
受付を済ませたからといって、すぐ試験を受けられるわけではない。
試験会場に到達すること自体が、すでに試験の一部だと聞いている。
毎年、数百万人が申し込む。
けれど実際に会場へ辿り着ける者は、ごく一握り。
数万分の一。
数十万分の一。
そんな倍率の試験。
なぜ自分がそこへ向かっているのか、ユズルは改めて分からなくなりそうだった。
ヤクモを探すため。
世界を見るため。
自分を変えるため。
どれも本当で、どれも少し違う。
港が近づくにつれ、甲板に出てくる乗客が増えていった。
その中には、明らかに普通ではない者たちが混じっている。
背中に巨大な荷物を背負った男。
目を閉じたまま立っている女。
ずっと何かの骨を磨いている老人。
子どものように小柄なのに、周囲の大人たちが無意識に距離を取っている者。
ハンター試験の受験者たち。
村の外には、こんな人間たちが当たり前のようにいる。
ユズルは息を呑んだ。
怖い。
けれど、その怖さの奥に、ほんの少しだけ別の感情が混ざっていた。
何だろう。
まだ名前をつけられない。
でも、完全な恐怖だけではなかった。
未知なる好奇。
ヤクモの言葉が、胸の奥で小さく灯る。
船が汽笛を鳴らした。
港に着く。
ユズルは荷物を背負った。
それほど大きな荷物ではない。村から持ってきた着替え、簡単な保存食、古い護符、ヤクモが残した小さな手帳の写し。
そして、自分の中にいる十二の獣。
黒い子牛が、ユズルの隣に立った。
船が桟橋に横づけされる。
板が渡され、乗客たちが順番に降り始めた。
ユズルはその列の最後の方に並んだ。
前に進む人の背中を見る。
港の音が近づいてくる。
知らない言葉。知らない匂い。知らない土地。
足が止まりそうになる。
黒い子牛が言った。
「立て」
ユズルは小さく息を吸った。
「うん」
まだ怖い。
でも、船は着いた。
陸は目の前にある。
戻るためではなく、進むための陸が。
ユズルは一歩、船を降りた。
木の板が、ぎしりと鳴った。
その音は、村を出た時の音とも、船底を叩く波の音とも違っていた。
新しい場所に、初めて自分の足を置く音だった。
港の先に、ハンター試験の受付へ続く道がある。
その道の向こうに、何があるのかは分からない。
ヤクモがいるのか。
世界があるのか。
自分を変える何かがあるのか。
何も分からない。
ただ、ユズルは歩き出した。
隣で、黒い子牛が静かについてくる。
誰にも見えない相棒と共に。
臆病な少年の、最初の一歩が始まった。