巡る獣暦   作:ギガマツタケ

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第1話 フナデ×ウシ×ハジマリ

 船は、朝霧の中を進んでいた。

 

 海は暗い鉛色をしていた。

 波は高くない。嵐の気配もない。けれど、船底にぶつかる水音は、ユズルの胸の奥を小さく叩き続けていた。

 

 ごつん。

 ごつん。

 ごつん。

 

 まるで、引き返すなら今だ、と誰かが船の外から合図しているみたいだった。

 

 ユズルは甲板の手すりに片手を置いたまま、遠ざかっていく陸地を見ていた。

 

 ジャポンの山影は、もうほとんど見えない。

 朝霧に溶け、海の向こうに沈み、やがてただの灰色の線になった。

 

 あそこに、自分の村がある。

 

 山奥の、小さな村。

 古い暦を今も使い、月ごとに獣を祀り、子どもたちに十二支の昔話を聞かせる村。

 

 狭くて、静かで、変わらない場所。

 

 嫌いだったわけではない。

 むしろ、好きだったのだと思う。

 

 朝の井戸の音。

 湿った土の匂い。

 祭りの前に飾られる古い布。

 年寄りたちの低い声。

 雪の朝、山道に残る獣の足跡。

 

 その全部を、ユズルはよく覚えている。

 

 けれど、思い出せば思い出すほど、胸の奥が苦しくなった。

 

 戻りたいのか。

 戻りたくないのか。

 

 自分でも、よく分からなかった。

 

「……寒い」

 

 そう呟いて、ユズルは首元の布を少し引き寄せた。

 

 黒髪が潮風に揺れる。

 身に着けている旅装は、村の者が旅立ちの時に着る古い型のものだった。薄い上着の裾には、小さな獣の模様が縫い込まれている。派手ではない。むしろ、遠目にはただの旅人にしか見えないだろう。

 

 けれど、その布目や紐の結び方には、ユズルの村の暦が残っていた。

 

 十二の月。

 十二の獣。

 巡る季節。

 

 それらは、ユズルにとってただの信仰ではなかった。

 

 気づいた時には、そばにいた。

 

 十二月には鼠がいた。

 一月には牛がいた。

 二月には虎がいた。

 三月には兎がいた。

 

 他の人間には見えない。

 声も聞こえない。

 

 幼い頃のユズルは、それを村の守り神だと思っていた。あるいは、自分だけの空想の友達なのだと。

 

 違う、と言ったのはヤクモだった。

 

 あの男は、村の外から来た。

 

 よれた外套を着て、古びた鞄を背負い、まるで迷い込んだ旅人のような顔をしていた。だが、目だけは違った。山の霧も、古い社も、人の嘘も、全部を面白がるような目だった。

 

 ヤクモはユズルの隣に座る黒い子牛を見て、笑った。

 

 そして言った。

 

『それは神様じゃない。お前自身の力だ』

 

 その瞬間から、ユズルの世界は少しだけ形を変えた。

 

 守り神だと思っていたものは、念だった。

 自分だけの友達だと思っていたものは、自分自身の発だった。

 

 巡る獣暦《ゾディアック・カレンダー》。

 

 月ごとに、十二支の念獣を一体だけ具現化する能力。

 

 ヤクモはそう名づけた。

 いや、正確には、ユズルが何度も考えて、最後にその名を口にした時、ヤクモが面白そうに頷いたのだ。

 

『悪くない。お前らしい名前だ』

 

 お前らしい。

 

 その言葉が嬉しかったことを、ユズルは今も覚えている。

 

 甲板の床板が、きし、と鳴った。

 

 ユズルは振り返らなかった。

 振り返らなくても、そこに何がいるかは分かっていた。

 

 黒い子牛だった。

 

 丑は今、隠で姿を伏せている。

 ユズルにははっきり見えているが、船員や乗客たちには、そこに黒い子牛がいることなど分からない。

 

 子牛、といっても、普通の子牛とは少し違う。

 骨格は太く、目は静かで、まだ小さいのに、地面に根を張ったような重さがあった。黒い毛並みは光を吸い込み、潮風の中でも揺れない。

 

 それは、今月の獣。

 

 一月。

 丑の月。

 

 ヤクモは、かつてこの獣を見て笑ったことがある。

 

『お前の発は、出来すぎなくらい出来てる』

 

 その時のユズルは、褒められたのだと思った。

 

 けれど、ヤクモはすぐに続けた。

 

『でもな、ユズル。発があることと、念能力者として強いことは別だ』

 

『刀を持ってるだけの子どもが、剣士に勝てるわけじゃない。お前はまだ、そっち側だ』

 

 ユズルは、その言葉が少し嫌いだった。

 

 十二支の獣たちは、自分のそばにいる。

 見える。

 話せる。

 時には、力を貸してくれる。

 

 それなのに、自分はまだ強くない。

 

 ヤクモは言った。

 

『獣はお前の力だ。けど、お前自身の足腰が弱ければ、獣に振り回される。まずは立てるようになれ。逃げるにしても、踏みとどまるにしてもな』

 

 その言葉の意味を、ユズルはまだ全部は分かっていなかった。

 

 ただ、今は少しだけ分かる。

 

 丑がいるから怖くないのではない。

 怖い場所で、自分がどこに立つのかを決めなければ、丑はただそこにいるだけなのだ。

 

 牛は、ユズルのすぐ後ろに座っていた。

 他の乗客には見えていない。

 

 甲板を歩く船員が、そのすぐ横を通り過ぎても何も反応しない。粗末な荷物を抱えた親子連れも、眠そうな商人も、剣を腰に提げた男も、誰一人として黒い子牛に目を向けなかった。

 

 見えているのは、ユズルだけ。

 

 聞こえるのも、ユズルだけ。

 

「……帰った方が、よかったかな」

 

 声に出してしまってから、ユズルは少し後悔した。

 

 牛は何も言わなかった。

 

 ただ、黒い目でユズルを見ていた。

 

 責める目ではない。

 慰める目でもない。

 

 ただ、見ている。

 

 それが一番きつい時もある。

 

「分かってるよ」

 

 ユズルは手すりに視線を戻した。

 

「自分で決めたんだ。村を出るって。ハンター試験を受けるって。ヤクモを……」

 

 そこまで言って、言葉が止まった。

 

 ヤクモを探す。

 

 本当に、それだけなのだろうか。

 

 ヤクモは、追ってこいとは言わなかった。

 むしろ言っていた。

 

『俺を追う必要はない』

 

 あの日のヤクモの声が、潮風に混ざってよみがえる。

 

『この世界は広い。お前が思っているより、ずっと広い』

 

 村外れの社の前だった。

 夕方で、山の影が長く伸びていた。

 

 ヤクモは旅支度を終えていた。

 いつものように笑っていた。

 まるで、少し隣町まで行ってくるだけだと言うような顔だった。

 

『怖いものもある。汚いものもある。人を呑み込むような闇もある』

 

 ユズルは何も言えなかった。

 

 行かないでください。

 僕も連れて行ってください。

 どうして置いていくんですか。

 

 言いたいことは、いくらでもあった。

 

 けれど、喉の奥で全部固まって、結局、ユズルは黙っていた。

 

 ヤクモはそんなユズルを見て、少し困ったように笑った。

 

『けどな、それでも世界は、未知なる好奇に満ちている』

 

 好奇。

 

 ヤクモはその言葉をよく使った。

 

 危険ではなく、好奇。

 恐怖ではなく、好奇。

 知らないものを、恐れるだけでなく、見に行くための理由。

 

『自分を変えたいなら、一歩踏み出せ。自分の目で見ろ』

 

 その時、ユズルは頷けなかった。

 

 数年経って、ようやく船に乗った。

 

 遅い。

 あまりにも遅い。

 

 それでも、乗った。

 

 乗ってしまった。

 

「……立派な理由じゃないな」

 

 ユズルは小さく笑った。

 

「自分を変えたいとか、世界を見たいとか、そんなふうに言えたらいいけど。本当は、ただ……置いていかれたままでいるのが嫌だっただけかもしれない」

 

 牛は黙っている。

 

「でも、それでもいいのかな」

 

 海風が強くなった。

 ユズルの前髪が目にかかる。

 

「いいわけ、ないか」

 

 牛が、ゆっくりと立ち上がった。

 

 甲板に音はしなかった。

 けれど、ユズルには分かる。丑が立つ時、空気が少し重くなる。足元の板が、見えない重みに耐えるように沈む。

 

 ユズルは振り返った。

 

 黒い子牛は、ただ立っていた。

 

「……何?」

 

 牛は、低く言った。

 

「決めろ」

 

 それだけだった。

 

 ユズルは困ったように眉を下げた。

 

「何を」

 

 牛は答えない。

 

 いつもそうだ。

 丑は、必要なことだけ言う。説明はしない。慰めもしない。余計なことは一切言わない。

 

 決めろ。

 

 何を決めるのかは、自分で考えろということなのだろう。

 

 ユズルは、手すりの向こうを見た。

 

 陸はもう見えなかった。

 

 船は進んでいる。

 

 戻るにも、進むにも、自分の足で選ばなければならない。

 

 その時だった。

 

 船室の方から、怒鳴り声が聞こえた。

 

「だからよォ、そこは俺の席だっつってんだろ!」

 

 ユズルの肩が跳ねた。

 

 甲板にいた数人が、ちらりと船室の入口を見る。

 だが、誰も動かない。船旅では珍しくもない揉め事だと思ったのだろう。

 

 ユズルも、最初はそう思おうとした。

 

 自分には関係ない。

 船員がどうにかする。

 関わらない方がいい。

 ハンター試験前に、余計な揉め事を起こすべきじゃない。

 

 正しい理由は、いくつも浮かんだ。

 

 けれど、怒鳴り声は続いた。

 

「聞こえてねェのか、ジジイ!」

 

 鈍い音がした。

 

 何かが床に倒れる音。

 続いて、女の小さな悲鳴。

 

 ユズルの指が手すりを握った。

 

 行くべきか。

 行かないべきか。

 

 心臓が速くなる。

 

 怖い。

 面倒だ。

 殴られるかもしれない。

 相手がハンター試験の受験者なら、ただのチンピラではないかもしれない。

 

 自分が行って、何ができる?

 

 そう考えた瞬間、丑が一歩進んだ。

 

 黒い子牛は、船室の入口を向いていた。

 

「……行けってこと?」

 

 牛は答えない。

 

 ただ、ユズルを見た。

 

 決めろ。

 

 その黒い目が、そう言っていた。

 

 ユズルは唇を噛んだ。

 

 足が重い。

 

 それでも、歩いた。

 

 船室の中は、甲板よりも空気がこもっていた。

 木の匂い、潮の匂い、人の汗の匂い。古いランプが揺れていて、壁に影が踊っていた。

 

 狭い通路の中央で、大柄な男が一人の老人を見下ろしていた。

 老人は床に片膝をつき、荷物を抱えたまま小さく身を縮めている。その横には若い女が立っていた。娘だろうか。顔を青くしている。

 

 大柄な男は、明らかに普通の乗客ではなかった。

 

 肩幅が広く、首が太い。短く刈った髪。頬には古い傷。腰には刃物が見えた。荒っぽい笑みを浮かべているが、目だけは妙に冷えている。

 

 その周囲には、数人の乗客が距離を取っていた。

 

 誰も助けに入らない。

 

 男が老人の荷物を蹴った。

 

「ハンター試験受けに行く連中が乗ってる船だって聞いたから、少しは骨のある奴がいるかと思ったがよ。どいつもこいつも、腰抜けばっかりだな」

 

 ユズルは喉が渇くのを感じた。

 

 やはり受験者か。

 

 男は強い。

 少なくとも、自信がある。

 

 ユズルはまだ通路の入口に立っていた。

 そのまま引き返すこともできた。

 

 誰も、ユズルを見ていない。

 今なら、まだ。

 

 丑が、ユズルの横に立った。

 

 黒い子牛は、静かに通路の中央を見ていた。

 

「……」

 

 ユズルは拳を握った。

 

 何を守る。

 どこに立つ。

 

 丑の能力、不動の牛歩は、ただ出せば発動するものではない。

 

 ユズルが「ここだけは退かない」と決めた地点に、丑は立つ。

 守る場所を宣言しなければならない。

 一度決めれば、その戦闘中は変えられない。

 

 重い制約だ。

 

 間違えたら、終わる。

 

 そもそも、今ここで使うべきなのか。

 老人を助けるために?

 この船室で?

 ハンター試験の前に?

 

 迷いが、次々に浮かぶ。

 

 その時、男が女の腕を掴んだ。

 

「おい、あんた。こいつの代わりに座るか? 俺の隣なら空いてるぜ」

 

 女が怯えて身を引く。

 

 ユズルの足が、一歩前に出た。

 

「あの」

 

 声は、思ったより小さかった。

 

 それでも船室の中では、十分に響いた。

 

 男がゆっくり振り返った。

 

「あ?」

 

 視線がぶつかる。

 

 ユズルは、すぐに目を逸らしそうになった。

 怖い。

 明らかに怖い。

 

 男の目は、相手が怯えることに慣れている目だった。

 

「何だ、坊主」

 

 男が笑った。

 

「席が欲しいのか?」

 

「いえ」

 

 ユズルは唾を飲み込んだ。

 

 言え。

 何を言う。

 どう言えばいい。

 怒らせないように。

 でも止めるように。

 波風を立てずに。

 

 そんなことを考えている自分に、ユズルは少し嫌気が差した。

 

「その人たちは、関係ないと思います」

 

 男の眉が動いた。

 

「あ?」

 

「ハンター試験の受験者に、骨があるか見たいなら……その人たちにする必要は、ないと思います」

 

 船室が静かになった。

 

 男は一瞬きょとんとした後、腹を抱えて笑った。

 

「ははっ! 何だそりゃ。じゃあ何か? お前が代わりに骨を見せてくれんのか?」

 

 ユズルは答えられなかった。

 

 逃げたい。

 

 今すぐ謝って、すみません、余計なことを言いました、と言って、通路の端に下がりたい。

 

 その時、丑が低く言った。

 

「立て」

 

 ユズルは目を閉じかけた。

 

 そして、一歩進んだ。

 

 老人と女の前に立つ。

 

 それは戦闘の構えではなかった。

 拳も上げていない。殺気もない。強者の威圧もない。

 

 ただ、間に立っただけだった。

 

 男の目が細くなる。

 

「退けよ」

 

 ユズルは小さく息を吸った。

 

 宣言しなければ、能力は本格的には発動しない。

 

 守る場所を一つ。

 

 ここだ。

 

 ユズルは言った。

 

「ここからは、退きません」

 

 足元で、空気が沈んだ。

 

 誰にも見えていないはずの黒い子牛が、ゆっくりと大きくなる。

 

 省エネの小さな姿がほどけ、骨格が伸び、肩が盛り上がる。

 黒い毛並みが濃くなり、目が深く光る。

 

 そこに立ったのは、普通の牛より一回り大きな黒牛だった。

 

 船室の狭い通路に、山のような影が落ちた。

 

 他人には見えない。

 けれど、念を知らない者でも、空気の変化くらいは感じるのだろう。

 

 男の笑みが、少しだけ消えた。

 

「……何だ、お前」

 

 ユズルの膝は震えていた。

 

 怖い。

 怖いに決まっている。

 

 でも退かないと決めた。

 

 ここだけは、退かない。

 

 不動の牛歩。

 

 黒牛がユズルの背後に立つ。

 

 男が一歩近づいた。

 ユズルは逃げなかった。

 

 男がさらに一歩進む。

 

 その瞬間、まるで見えない壁に当たったように、男の足が止まった。

 

「……あ?」

 

 男は眉をひそめ、力任せに前へ出ようとした。

 

 だが、進めない。

 

 ユズルと老人たちの間にあるわずかな空間が、重く固まっていた。

 何かがそこに根を張っている。

 

 牛だ。

 

 黒牛が、そこに立っている。

 

 男の顔から、完全に笑みが消えた。

 

「念か?」

 

 低い声だった。

 

 ユズルの心臓が跳ねる。

 

 この男は、念を知っている。

 

 つまり、本当に危険な相手だ。

 

 男の手が腰の刃物に伸びる。

 

 まずい。

 まずいまずいまずい。

 

 船室の乗客たちが息を呑む。

 

 ユズルは動けない。

 でも、退けない。

 

 自分で宣言した。

 ここからは退かないと。

 

 黒牛の影が、さらに濃くなる。

 

 男が刃物を抜こうとした、その時。

 

「そこまでにしときな」

 

 別の声がした。

 

 船員だった。

 

 いや、ただの船員ではない。

 

 入口に立っていたのは、白髪交じりの中年男だった。船員服を着ているが、立ち方が違う。重心がぶれず、目が鋭い。

 

 男は大柄な受験者を見て、ため息をついた。

 

「船の中で殺し合いを始める奴は、だいたい試験会場に着く前に落ちる。覚えとけ」

 

 大柄な男が舌打ちした。

 

「船員風情が」

 

「船員風情で結構。だが、この船はハンター協会指定の輸送船だ。会場まで辿り着く前に問題を起こした受験者は、記録に残る」

 

 その言葉に、大柄な男の動きが止まった。

 

「……ちっ」

 

 男はユズルを睨みつけた。

 

「覚えとくぜ、坊主」

 

 ユズルは何も言えなかった。

 

 男は老人の荷物を乱暴に蹴り返すと、船室の奥へ消えた。

 

 空気が緩む。

 

 女がその場に座り込み、老人が震える手で荷物を抱え直した。

 

 ユズルは、ようやく息を吐いた。

 

 黒牛の姿が、ゆっくりと小さく戻っていく。

 

 普通の牛より大きな体がほどけ、黒い子牛ほどの姿になる。

 そしてユズルの足元に、静かに座った。

 

 終わった。

 

 そう思った瞬間、膝から力が抜けそうになった。

 

「おい」

 

 白髪交じりの船員が、ユズルの前に立った。

 

「名前は?」

 

「あ……ユズル、です」

 

「受験者か?」

 

「はい」

 

「念を使えるんだな」

 

 ユズルは息を止めた。

 

 船員の声は責めるものではなかった。

 だが、誤魔化せる相手でもなさそうだった。

 

「……少しだけ」

 

「少しだけ、ね」

 

 船員は笑った。

 

「そのわりには、面白い立ち方をする」

 

 ユズルは困って視線を落とした。

 

「すみません。騒ぎを大きくして」

 

「謝る相手が違う」

 

 ユズルははっとして、老人と女の方を向いた。

 

「すみません。勝手に割り込んで」

 

 老人は首を横に振った。

 

「いや……助かった。ありがとう」

 

 女も小さく頭を下げた。

 

 ありがとう。

 

 その言葉を聞いた瞬間、ユズルはどう返せばいいか分からなくなった。

 

 助けたかったのか。

 放っておけなかったのか。

 それとも、ただ丑に背中を押されただけなのか。

 

 自分の行動に、まだ自信が持てなかった。

 

 船員がユズルの横を通り過ぎながら、ぽつりと言った。

 

「ハンター試験はな、良いことをした奴が受かる場所じゃない」

 

 ユズルは顔を上げた。

 

「悪い奴が落ちる場所でもない。強い奴が死ぬこともあるし、弱い奴が残ることもある」

 

 船員は振り返らなかった。

 

「だが、自分の立ち位置も分からない奴は、だいたい早く消える」

 

 それだけ言って、船員は船室を出て行った。

 

 ユズルはしばらくその場に立っていた。

 

 自分の立ち位置。

 

 丑の黒い目が、足元から見上げている。

 

「……決めろって、そういうこと?」

 

 牛は答えない。

 

 代わりに、低く鼻を鳴らした。

 

 それが肯定なのか、呆れなのか、ユズルには分からなかった。

 

 その後、船内は一応の静けさを取り戻した。

 

 大柄な男は奥の席で酒を飲みながら、時々ユズルを睨んできた。

 ユズルはそのたびに目を逸らしそうになり、何とか逸らさずに済ませた。

 

 それだけで疲れた。

 

 甲板に戻ると、霧は少し薄くなっていた。

 

 海の先に、港町が見え始めている。

 大小いくつもの船が停泊し、倉庫の屋根が並び、煙突から白い煙が上がっている。

 

 ハンター試験の受付地に近い港だ。

 

 そこから先、さらに本当の試験会場へ辿り着かなければならないらしい。

 受付を済ませたからといって、すぐ試験を受けられるわけではない。

 試験会場に到達すること自体が、すでに試験の一部だと聞いている。

 

 毎年、数百万人が申し込む。

 けれど実際に会場へ辿り着ける者は、ごく一握り。

 

 数万分の一。

 数十万分の一。

 

 そんな倍率の試験。

 

 なぜ自分がそこへ向かっているのか、ユズルは改めて分からなくなりそうだった。

 

 ヤクモを探すため。

 世界を見るため。

 自分を変えるため。

 

 どれも本当で、どれも少し違う。

 

 港が近づくにつれ、甲板に出てくる乗客が増えていった。

 その中には、明らかに普通ではない者たちが混じっている。

 

 背中に巨大な荷物を背負った男。

 目を閉じたまま立っている女。

 ずっと何かの骨を磨いている老人。

 子どものように小柄なのに、周囲の大人たちが無意識に距離を取っている者。

 

 ハンター試験の受験者たち。

 

 村の外には、こんな人間たちが当たり前のようにいる。

 

 ユズルは息を呑んだ。

 

 怖い。

 

 けれど、その怖さの奥に、ほんの少しだけ別の感情が混ざっていた。

 

 何だろう。

 

 まだ名前をつけられない。

 

 でも、完全な恐怖だけではなかった。

 

 未知なる好奇。

 

 ヤクモの言葉が、胸の奥で小さく灯る。

 

 船が汽笛を鳴らした。

 

 港に着く。

 

 ユズルは荷物を背負った。

 それほど大きな荷物ではない。村から持ってきた着替え、簡単な保存食、古い護符、ヤクモが残した小さな手帳の写し。

 

 そして、自分の中にいる十二の獣。

 

 黒い子牛が、ユズルの隣に立った。

 

 船が桟橋に横づけされる。

 板が渡され、乗客たちが順番に降り始めた。

 

 ユズルはその列の最後の方に並んだ。

 

 前に進む人の背中を見る。

 港の音が近づいてくる。

 知らない言葉。知らない匂い。知らない土地。

 

 足が止まりそうになる。

 

 黒い子牛が言った。

 

「立て」

 

 ユズルは小さく息を吸った。

 

「うん」

 

 まだ怖い。

 

 でも、船は着いた。

 陸は目の前にある。

 

 戻るためではなく、進むための陸が。

 

 ユズルは一歩、船を降りた。

 

 木の板が、ぎしりと鳴った。

 

 その音は、村を出た時の音とも、船底を叩く波の音とも違っていた。

 

 新しい場所に、初めて自分の足を置く音だった。

 

 港の先に、ハンター試験の受付へ続く道がある。

 

 その道の向こうに、何があるのかは分からない。

 

 ヤクモがいるのか。

 世界があるのか。

 自分を変える何かがあるのか。

 

 何も分からない。

 

 ただ、ユズルは歩き出した。

 

 隣で、黒い子牛が静かについてくる。

 

 誰にも見えない相棒と共に。

 

 臆病な少年の、最初の一歩が始まった。

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