巡る獣暦   作:ギガマツタケ

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第10話 フダ×センタク×ワカレ

 岩迷路の奥へ進むほど、空気は乾いていった。

 

 風はほとんどない。

 切り立った岩壁が左右に迫り、足音だけが細く反響している。

 

 ユズルは前を歩いていた。

 

 少し後ろを、眼鏡の少年がついてくる。

 

 名前をまだ聞いていないことに、ユズルは途中で気づいた。

 

 何度も見ている。

 三次試験でボルドと組んでいた。

 ヒソカとトガリが衝突した時には、危険な間合いに入りかけた。

 そして先ほど、トンパに騙されかけた。

 

 それなのに、名前を聞いていなかった。

 

 試験では、番号で呼ばれることが多い。

 名前を知らないまま消えていく者もいる。

 

 ユズルは、それが少し嫌だった。

 

「……名前を聞いてもいいですか」

 

 ユズルが言うと、少年は少し驚いた顔をした。

 

「僕、ですか」

 

「はい」

 

「シアンです」

 

「シアン」

 

「はい。受験番号は百八十九番です」

 

 シアンは自分の守札を手で押さえた。

 

 百八十九番。

 

 ユズルはその番号も覚えた。

 

「ユズルさん、ですよね」

 

「はい」

 

「ボルドさんから聞きました」

 

 ボルド。

 

 その名前が出ると、少しだけ空気が柔らかくなった気がした。

 

 ユズルは岩道の先を見た。

 

「ボルドさんは、今どこにいるんでしょう」

 

「きっと、出口を探していると思います」

 

「そうですね」

 

 シアンの声は細かった。

 

 先ほどまで、彼はトンパに騙されかけていた。

 足場の崩れる砂鳴りの谷へ誘導され、あと少しで落ちるところだった。

 

 ユズルは止めた。

 

 でも、それだけだった。

 

 シアンにはまだ点数が足りない。

 

 自分の守札、三点。

 それだけ。

 

 あと一点必要だった。

 

 ユズルは自分の札を確認する。

 

 二百四十一番の守札。

 そして、トンパから受け取った二百二十三番の守札。

 

 合計六点。

 

 自分だけなら、出口へ行けば通過できる。

 

 でも、シアンは通過できない。

 

 その事実が、首にかけた守札よりも重かった。

 

「ユズルさん」

 

 シアンが言った。

 

「僕は、足を引っ張ってますか」

 

 ユズルはすぐには答えられなかった。

 

 引っ張っていない、と言えば嘘になる。

 自分だけなら、もっと早く出口へ向かえる。

 

 でも、だからといって、足手まといだとも言いたくなかった。

 

「今は、一緒に歩いています」

 

 ユズルは答えた。

 

「それだけです」

 

 シアンは少し黙った。

 

「優しいですね」

 

「そうでしょうか」

 

「はい」

 

 ユズルは、自分が優しいのか分からなかった。

 

 助けたいとは思う。

 

 でも、助けきれないこともある。

 

 第4話の地下迷宮でもそうだった。

 鎧鹿の森でもそうだった。

 ヒソカの前でもそうだった。

 

 全部は守れない。

 

 その言葉が、少しずつ現実になっていく。

 

 黒い子牛は隣を歩いている。

 

 隠で姿を伏せたまま、静かに。

 

 丑は何も言わない。

 

 今は「立て」とも「決めろ」とも言わない。

 

 ただ、ユズルの歩調に合わせている。

 

 やがて、二人は広い採掘場跡のような場所に出た。

 

 岩壁に囲まれた空間だった。

 

 天井はなく、上には細い空が見える。

 地面には古い木材や、錆びた工具、折れた支柱が転がっていた。

 

 奥には、出口へ続いていそうな坂道がある。

 

 だが、その手前に、崩れかけた岩棚があった。

 

 岩棚の下には、細い道が通っている。

 そこを抜ければ、坂道へ出られる。

 

 ユズルは足を止めた。

 

「少し待ってください」

 

「はい」

 

 シアンも止まる。

 

 岩棚は不安定そうだった。

 

 大きな岩がいくつも積み重なり、古い木の支柱で辛うじて支えられている。

 その支柱は乾いてひび割れていた。

 

 風もないのに、細かい砂がぱらぱらと落ちている。

 

 危ない。

 

 ただし、戻る道も楽ではない。

 別の道を探せば時間がかかる。

 

 制限時間は残り少ない。

 

 ユズルは周囲を見た。

 

 足跡がある。

 

 何人かはすでにここを通っている。

 だが、通ったから安全とは限らない。

 

 むしろ、何度も人が通ったせいで、支えが弱くなっている可能性がある。

 

「迂回しましょう」

 

 ユズルは言った。

 

 シアンは坂道の方を見た。

 

「でも、あっちが出口に近そうです」

 

「たぶん近いです。でも危ない」

 

「……そうですよね」

 

 シアンは俯いた。

 

「すみません。僕の点数が足りないのに、時間まで使わせて」

 

「謝らなくていいです」

 

 ユズルはそう言った。

 

 自分も何度も言われてきた言葉だった。

 

 謝らなくていい。

 

 その言葉を自分が言う側になるとは、少し不思議だった。

 

 その時、別の通路から足音が聞こえた。

 

 ゆっくりとした足音。

 

 杖が石を叩く音。

 

 ユズルとシアンは振り返った。

 

 ボルドだった。

 

 白い髭を揺らし、杖をつきながら、いつものように飄々と歩いてくる。

 

「おお、無事じゃったか」

 

「ボルドさん」

 

 シアンの顔が少し明るくなった。

 

 ユズルも、胸の力が抜けた。

 

 ボルドは二人を見て、それから岩棚を見上げた。

 

「嫌な道じゃな」

 

「危ないと思います」

 

「うむ。あれは落ちる」

 

 ボルドは即答した。

 

 その言い方があまりに自然で、ユズルは少し驚いた。

 

「分かるんですか」

 

「前回、似たような場所で崖から落ちた」

 

「……」

 

「今回は落ちん」

 

 ボルドは真顔で言った。

 

 シアンが少しだけ笑った。

 

 その笑いは弱かったが、それでも笑いだった。

 

 ユズルはボルドの首元を見た。

 

 守札が一枚。

 さらに手には、別の札が一枚握られている。

 

「ボルドさん、点数は」

 

「四点じゃ。ぎりぎり通れる」

 

「よかった」

 

「よかったが、油断はできん。出口まで持って行かねば意味がない」

 

 ボルドはシアンを見た。

 

「お前さんは」

 

 シアンは視線を落とした。

 

「三点だけです」

 

「そうか」

 

「あと一点、足りません」

 

 ボルドは少しだけ目を細めた。

 

 責めるでもなく、慰めるでもない目だった。

 

「では、まだ終わっておらんな」

 

「でも」

 

「でも?」

 

「僕は……札を奪える気がしません」

 

 シアンの声は震えていた。

 

「トンパさんに騙されかけて、ヒソカさんの時も足が勝手に前に出て、今もユズルさんに助けてもらって」

 

 彼は自分の守札を握った。

 

「僕は、ここまで自分で来た気がしないんです」

 

 ユズルは何も言えなかった。

 

 その言葉は、ユズル自身にも刺さった。

 

 自分はどうなのか。

 

 丑がいる。

 ニカに助けられた。

 ボルドに水をもらった。

 グランに引き上げられた。

 トンパの札も、奪ったのではなく渡された。

 

 自分は、本当に自分で来たのか。

 

 その問いが胸の奥で揺れる。

 

 ボルドは、シアンに言った。

 

「助けられて来たことは、悪いことではない」

 

 シアンが顔を上げる。

 

「ワシも、誰かに助けられてここまで来た。お前さんもそうじゃ。ユズルもそうじゃろう」

 

 ユズルは黙って頷いた。

 

「だがな」

 

 ボルドは杖を地面に立てた。

 

「最後に進むか降りるかは、自分で決めねばならん」

 

 シアンは唇を噛んだ。

 

 その時だった。

 

 岩棚の向こう側から、走る足音が響いた。

 

 誰かが来る。

 

 速い。

 

 ユズルは身構えた。

 

 狭い岩道から、二人の受験者が飛び出してきた。

 

 一人は顔に傷のある男。

 もう一人は小柄な女。

 

 男の首には守札がない。

 女の手には、複数の札が握られている。

 

 奪い合いの途中なのだろう。

 

「返せ!」

 

 男が叫ぶ。

 

「遅い!」

 

 女は笑いながら、岩棚の下へ走り込もうとした。

 

 ユズルは叫んだ。

 

「そこは危ない!」

 

 女は聞かなかった。

 

 彼女は岩棚の下を抜け、坂道へ向かおうとする。

 

 追ってきた男も続いた。

 

 その瞬間、古い支柱が軋んだ。

 

 嫌な音だった。

 

 乾いた木が、内側から裂ける音。

 

 ぱき。

 

 ユズルの背筋が冷える。

 

「下がって!」

 

 シアンが一歩引く。

 

 ボルドも杖を構える。

 

 岩棚が揺れた。

 

 砂が落ちる。

 小石が転がる。

 次に、大きな岩が動いた。

 

 女が振り返る。

 

 男も顔色を変えた。

 

 遅い。

 

 岩棚が崩れた。

 

 轟音。

 

 岩が落ちる。

 

 女は坂道側へ飛んだ。

 男は戻ろうとして足を滑らせた。

 

 そして、崩れた岩の一部が、こちら側へも雪崩れるように迫ってきた。

 

 シアンが固まる。

 

 彼の立つ場所の足元が割れた。

 

 ユズルは動いた。

 

「ここは、崩させません!」

 

 丑が前に出る。

 

 隠で伏せた黒い子牛の密度が、一気に増した。

 

 見えない重さが、足元の岩を押さえる。

 

 シアンの足場が、ぎりぎり止まった。

 

 だが、崩落は一箇所ではなかった。

 

 頭上から落ちる岩。

 横から流れる石。

 足元の割れ目。

 

 守る場所を一つ決める。

 

 それが不動の牛歩の制約。

 

 ユズルはシアンの足場を選んだ。

 

 その選択は間違っていなかった。

 

 でも、全部は守れない。

 

「ユズル!」

 

 ボルドの声。

 

 ユズルは振り向いた。

 

 大きな岩が、シアンの背後へ落ちてくる。

 

 ユズルの丑は足場を押さえている。

 今、守る場所を変えれば、シアンの足元が崩れる。

 

 間に合わない。

 

 ボルドが動いた。

 

 老人とは思えない速さだった。

 

 杖を捨て、シアンへ駆ける。

 

「伏せろ!」

 

 ボルドはシアンを突き飛ばした。

 

 シアンの体がユズルの方へ転がる。

 

 ユズルは片手でシアンの腕を掴んだ。

 

 次の瞬間、岩が落ちた。

 

 鈍い音。

 

 ボルドの体が、岩と地面の間に挟まれるように倒れた。

 

「ボルドさん!」

 

 ユズルの声が裏返った。

 

 崩落は数秒で収まった。

 

 砂が舞う。

 岩が転がる音が少しずつ遠ざかる。

 

 顔に傷のある男は、足を押さえて呻いていた。

 小柄な女は坂道側で札を抱え、こちらを見ていたが、すぐに逃げるように姿を消した。

 

 ユズルはシアンを引き上げ、ボルドの元へ走った。

 

 ボルドは倒れていた。

 

 胸は動いている。

 意識もある。

 

 だが、右脚が岩に挟まれていた。

 

 血が滲んでいる。

 

 ユズルは息を呑んだ。

 

「待ってください、今、岩を」

 

「触るな」

 

 ボルドが低く言った。

 

 いつもの柔らかい声ではなかった。

 

「下手に動かすと、余計に悪くなる」

 

「でも」

 

「分かる。自分の足じゃ」

 

 ボルドは顔をしかめながらも、無理に笑った。

 

「今回は……落ちんつもりじゃったがな」

 

「そんなこと言わないでください」

 

「どうやら、足が落ちた」

 

「冗談を言ってる場合じゃ」

 

「冗談を言えるうちは生きておる」

 

 ボルドは額に汗を浮かべていた。

 

 痛いはずだ。

 

 かなり。

 

 それでも、彼はシアンの方を見た。

 

「無事か」

 

 シアンは真っ青な顔で頷いた。

 

「はい……でも、僕のせいで」

 

「違う」

 

 ボルドはすぐに言った。

 

「ワシが勝手に動いた」

 

「でも」

 

「お前さんのせいにするな。ワシの選択を取るな」

 

 シアンは黙った。

 

 ユズルは岩を見た。

 

 動かせるか。

 丑を使えば。

 

 だが、今の不動の牛歩は、崩れたものを持ち上げる能力ではない。

 押さえる、踏みとどまる、崩さない。

 

 すでに落ちた岩を安全に除去するには向かない。

 

 それに、ユズルのオーラもかなり削れている。

 

 無理に使えば、自分が倒れる。

 

 でも。

 

「ユズル」

 

 ボルドが呼んだ。

 

 ユズルは顔を上げた。

 

「出口へ行け」

 

「できません」

 

「できる」

 

「ボルドさんを置いて」

 

「置いていくのではない。ワシはここまでじゃ」

 

 ユズルは首を横に振った。

 

「まだ医療班を」

 

「試験官は見ておる。危険と判断すれば来る」

 

 ボルドは岩壁の上をちらりと見た。

 

 どこかに監視があるのだろう。

 

「だが、来る頃にはお前さんの時間がなくなる」

 

「でも」

 

「ユズル」

 

 ボルドの声が少し強くなった。

 

「お前さんは、もう点を持っておる。出口へ行け」

 

 ユズルは唇を噛んだ。

 

 自分は通れる。

 

 ボルドは通れない。

 

 シアンは点が足りない。

 

 このままここにいれば、全員が落ちるかもしれない。

 

 でも、進めばボルドを置いていくことになる。

 

 助けたい。

 

 全部、助けたい。

 

 その思いが胸を締めつける。

 

 丑は何も言わない。

 

 ただ、ユズルの横に立っている。

 

 ボルドはシアンに目を向けた。

 

「シアン」

 

「はい」

 

「お前さんも、出口へ行け」

 

 シアンは震えた。

 

「僕は、点数が足りません」

 

「知っておる」

 

「行っても、通れません」

 

「それでも行け」

 

 ボルドは、ゆっくりと言った。

 

「降りるなら、出口で降りろ」

 

 シアンが目を見開く。

 

「ここで座り込んだら、ただの迷子じゃ」

 

 ボルドは痛みに顔を歪めながら、それでも笑った。

 

「自分の足で出口まで行って、自分の口で言え」

 

 シアンの目に涙が浮かんだ。

 

「僕は……」

 

「怖いなら怖いと言え。進めないなら進めないと言え。だが、言う場所まで歩け」

 

 ボルドは一度、息を吐いた。

 

「それなら、落ちても前に進んだことになる」

 

 ユズルはその言葉を聞いて、胸の奥が熱くなった。

 

 落ちても前に進む。

 

 ボルドが言うと、その言葉は軽くなかった。

 

 一度目は、騙されて別の船に乗った。

 二度目は、崖から落ちた。

 三度目の今回は、ここまで来た。

 

 そして今、ボルドは大怪我をしている。

 

 でも、顔を上げている。

 

 ボルドはユズルを見た。

 

「ワシは今回も落ちるらしい」

 

「ボルドさん」

 

「だが、今回は悪くない」

 

 ボルドは静かに言った。

 

「騙されて船を間違えたわけでも、崖から転げ落ちただけでもない。自分の目で見て、自分の足でここまで来た」

 

 ユズルは何も言えなかった。

 

「最後に転んだのは、まあ、ワシらしい」

 

「転んだなんて」

 

「転んだんじゃ。少し派手にな」

 

 ボルドは笑った。

 

 シアンが泣きそうな顔で首を横に振る。

 

「僕のせいで」

 

「違うと言った」

 

 ボルドは、今度は少し柔らかく言った。

 

「お前さんは、お前さんの選択をしろ。ワシの怪我を理由にするな」

 

 シアンは泣きながら頷いた。

 

「……はい」

 

 ボルドは満足そうに目を細める。

 

「よし」

 

 遠くで、笛の音が聞こえた。

 

 協会スタッフか、監視役が近づいているのかもしれない。

 

 ボルドはユズルへ向き直った。

 

「進め、ユズル」

 

「でも」

 

「お前さんは、まだ落ちる場所を選ぶには早い」

 

 ユズルの喉が詰まった。

 

「僕は、置いていくみたいで」

 

「違う」

 

 ボルドは短く言った。

 

「託されて進むんじゃ」

 

 その言葉は重かった。

 

 でも、不思議と足元に沈むような重さではなかった。

 

 前へ押されるような重さだった。

 

 ユズルは、深く頭を下げた。

 

「……ありがとうございました」

 

「礼は、合格してから言え」

 

 ボルドは笑った。

 

「あと、謝るな」

 

 ユズルは口を開きかけて、閉じた。

 

 言いそうになった言葉を飲み込む。

 

 すみません。

 

 その代わりに、別の言葉を出した。

 

「行ってきます」

 

「うむ」

 

 ボルドは頷いた。

 

「今回は落ちん、と言いたかったがな」

 

 少しだけ悔しそうに。

 

 それでも穏やかに。

 

「まあ、次があるかは、治ってから考える」

 

 それがボルドらしくて、ユズルは泣きそうになった。

 

 シアンも深く頭を下げた。

 

「ボルドさん……僕、出口まで行きます」

 

「行け」

 

「そこで、自分で言います」

 

「それでよい」

 

 ユズルはシアンの肩に手を置いた。

 

「行きましょう」

 

 シアンは頷いた。

 

 二人は坂道へ向かった。

 

 崩れた岩棚を迂回し、細い岩道を進む。

 

 後ろから、ボルドの姿が少しずつ遠ざかる。

 

 ユズルは振り返りたかった。

 

 何度も。

 

 でも、振り返れば足が止まる気がした。

 

 黒い子牛が横を歩いている。

 

 ユズルは小さく言った。

 

「置いていくんじゃない」

 

 丑は短く答えた。

 

「進め」

 

「……うん」

 

 道は長くなかった。

 

 坂を上がると、岩壁の切れ目が見えた。

 

 その先に、光がある。

 

 出口。

 

 四次試験の出口だった。

 

 出口前には、ガドルと協会スタッフが立っていた。

 

 すでに何人かの受験者が到着している。

 

 ニカの姿があった。

 彼女は壁際に立ち、ユズルを見ると少しだけ顎を上げた。

 

 グランもいた。

 腕の傷は布で巻かれたままだが、無事に通過したらしい。

 

 ユズルとシアンは、出口の線を越えた。

 

 ガドルが視線を向ける。

 

「番号」

 

「二百四十一番、ユズルです」

 

 ユズルは自分の守札と、トンパの札を差し出した。

 

 ガドルが確認する。

 

「六点。通過」

 

 その言葉が、静かに落ちた。

 

 通過。

 

 ユズルは通った。

 

 でも、胸は軽くならなかった。

 

 ガドルの視線がシアンへ移る。

 

「百八十九番」

 

 シアンは震える手で、自分の守札を出した。

 

「三点。点数不足だ」

 

「はい」

 

 シアンは小さく頷いた。

 

 そして、顔を上げた。

 

 声は震えていた。

 

 でも、逃げてはいなかった。

 

「リタイアします」

 

 ガドルは黙ってシアンを見た。

 

 シアンは続けた。

 

「怖くなりました」

 

 広場が少し静かになる。

 

「札を奪うことも、奪われることも、誰かを踏み台にして進むことも、怖いです」

 

 彼は自分の守札を見た。

 

「でも、隠れて終わりたくありませんでした」

 

 ユズルはシアンを見ていた。

 

「出口まで来て、自分の口で言いたかった」

 

 シアンは深く息を吸った。

 

「僕は、ここで降ります」

 

 ガドルは短く言った。

 

「受理する。百八十九番、リタイア」

 

 その瞬間、シアンの肩から力が抜けた。

 

 泣き出しそうな顔だった。

 

 でも、泣かなかった。

 

 シアンはユズルに向き直った。

 

「ありがとうございました」

 

 ユズルは首を横に振った。

 

「僕は、出口まで一緒に来ただけです」

 

「それでも、です」

 

 シアンは少しだけ笑った。

 

「僕、自分で言えました」

 

「はい」

 

「怖かったです」

 

「はい」

 

「でも、言えました」

 

 ユズルは頷いた。

 

 言葉が出なかった。

 

 シアンは協会スタッフに案内され、リタイア者の待機場所へ向かった。

 

 その背中は小さかった。

 

 でも、谷で震えていた時とは少し違って見えた。

 

 ニカが近づいてきた。

 

「二百四十一番」

 

「はい」

 

「通ったんだ」

 

「はい」

 

「その顔で?」

 

 ユズルは自分の顔に触れた。

 

「変ですか」

 

「通過した顔じゃない」

 

「……ボルドさんが」

 

 そこまで言って、言葉が詰まった。

 

 ニカはそれ以上聞かなかった。

 

 ただ、少しだけ目を細めた。

 

「そう」

 

 グランも近くに来た。

 

「爺さんは?」

 

 ユズルは答えた。

 

「怪我をしました。続行は、たぶん無理です」

 

 グランは舌打ちした。

 

「しぶとそうだったのにな」

 

「はい」

 

「死んでねぇんだろ」

 

「はい」

 

「なら、後で文句言える」

 

 乱暴な慰めだった。

 

 でも、少しだけ救われた。

 

 しばらくして、協会スタッフがガドルに何かを報告した。

 

 ガドルは記録を確認する。

 

 そして、通過者たちへ向き直った。

 

「二百二十三番、トンパ。守札喪失により失格」

 

 ユズルは静かに聞いていた。

 

「百八十九番、シアン。リタイア」

 

 シアンは少し離れた場所で、その言葉を聞いていた。

 

「ボルド。負傷により試験続行不可。失格」

 

 ユズルは目を閉じた。

 

 失格。

 

 その言葉は、冷たかった。

 

 だが、ボルドの最後の顔は、冷たくなかった。

 

 今回は悪くない。

 

 そう言った。

 

 その言葉を、ユズルは忘れないと思った。

 

 ガドルは続ける。

 

「四次試験、終了」

 

 岩場に風が吹いた。

 

 乾いた風だった。

 

「通過者、十二名」

 

 十二名。

 

 ユズルは目を開けた。

 

 ここまで来た。

 

 でも、その数の中にボルドはいない。

 シアンもいない。

 トンパもいない。

 ヒソカもいない。

 

 残った者と、消えた者。

 

 その差が、急に大きく見えた。

 

 ユズルは首から下げた守札に触れた。

 

 二百四十一。

 

 自分の番号。

 

 ここまで来た番号。

 

 でも、自分一人でここまで来たわけではない。

 

 助けられて。

 託されて。

 見送られて。

 

 ここに立っている。

 

 黒い子牛が隣に立つ。

 

 ユズルは小さく言った。

 

「僕は、進む」

 

 丑は短く答えた。

 

「決めたな」

 

「うん」

 

 今度は、少しだけはっきり頷けた。

 

 ボルドを助けきれなかった。

 シアンを合格させられなかった。

 

 それでも、二人は自分で終わり方を選んだ。

 

 なら、自分も選ばなければならない。

 

 進むことを。

 

 ガドルの声が響く。

 

「これより、最終試験へ移る」

 

 受験者たちの空気が変わった。

 

 ユズルは顔を上げた。

 

 ハンター試験は、まだ終わっていない。

 

 だが、終わりは近づいている。

 

 ユズルは乾いた岩場の向こうを見た。

 

 その先に何があるのかは分からない。

 

 けれど、もう立ち止まる場所ではなかった。

 

 託されて進む。

 

 その重さを抱えたまま、ユズルは次の試験へ向かった。

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