巡る獣暦   作:ギガマツタケ

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第2話 ウケツケ×ミチ×センベツ

 港町は、朝から騒がしかった。

 

 船を降りた瞬間、ユズルは思わず足を止めた。

 

 潮の匂い。

 焼いた魚の匂い。

 積み荷の木箱から漏れる果物の匂い。

 石畳を踏む靴音。

 怒鳴る船員。

 呼び込みの声。

 荷車の車輪が跳ねる音。

 どこかで鳴る鐘。

 

 村の朝とは、何もかもが違っていた。

 

 ユズルの故郷では、朝はもっと静かだった。

 山鳥の声がして、井戸の縄が軋んで、誰かが薪を割る音が遠くから聞こえてくる。人の声も、風景の一部みたいに低く穏やかだった。

 

 けれど、ここは違う。

 

 人が多い。

 物が多い。

 知らない匂いが多い。

 

 知らないものが多すぎる。

 

 ユズルは荷物の紐を握り直した。

 

 黒い子牛が、隣に立っている。

 

 もちろん、誰にも見えていない。

 

 丑は今、隠で姿を伏せた省エネ状態にある。

 ユズルにははっきり見えているが、念を知らない者にとっては、そこには何もない。

 

 桟橋を行き交う人々は、ユズルの隣に黒い子牛がいることなど気づかず、忙しそうに通り過ぎていく。

 

 子牛は、港町の喧騒にも表情を変えなかった。

 

 丑は、いつもそうだ。

 知らない場所でも、騒がしい場所でも、怖い相手がいても、同じようにそこに立つ。

 

 ユズルは、その落ち着きが少し羨ましかった。

 

「……すごいな」

 

 思わず呟く。

 

 何が、と聞かれれば答えに困る。

 港そのものも、人の数も、船の大きさも、空気の荒さも、全部がすごい。

 

 けれど本当は、何よりも。

 

 こんな場所で平気な顔をして歩いている人たちが、すごいと思った。

 

 ユズルにとっては、船を降りるだけで大ごとだった。

 それなのに周囲の人間たちは、まるで世界が広いことなど当たり前だと言うように歩いている。

 

 自分は、やはり村の外を知らなさすぎる。

 

 その事実が、少し恥ずかしかった。

 

 港の入口付近に、人だかりができていた。

 看板が出ている。

 

 そこには、いくつかの言語で同じ内容が書かれていた。

 

 ハンター試験受付案内。

 

 矢印が、港町の奥へ向いている。

 

 ユズルは息を吸った。

 

 ここからだ。

 

 まだ正式な試験が始まったわけではない。

 けれど、ここから先は確実にハンター試験に繋がっている。

 

 看板の前では、受験者らしき者たちが地図を確認していた。

 筋骨隆々の男。全身を布で覆った女。老人。子ども。奇妙な仮面をつけた者。腰に何本ものナイフを吊った男。大きな鳥籠を背負った青年。

 

 誰が本当に強いのか、ユズルには分からない。

 

 ただ一つだけ分かるのは、普通ではない人間が多いということだった。

 

 村なら、一人でも十分目立つような人物が、ここには何人もいる。

 

 ユズルはなるべく目立たないように、人の流れの端を歩いた。

 

 こういう時、自分の癖が出る。

 

 真ん中を歩かない。

 大きな声を出さない。

 視線を合わせない。

 邪魔にならない場所を探す。

 

 村で身についた振る舞いだ。

 

 和を乱さない。

 目立たない。

 相手を怒らせない。

 

 外の世界でも、それが役に立つのかは分からない。

 

 いや。

 

 もしかすると、役に立つどころか、足を引っ張るのかもしれない。

 

 ヤクモの声が、頭の中で笑う。

 

『お前は、怒られない歩き方が上手いな』

 

 いつだったか、修行中に言われたことがある。

 

 ユズルはその時、褒められたのかと思った。

 けれどヤクモは、すぐに続けた。

 

『でもな、ユズル。世界は怒られない奴を見逃してくれるほど、親切じゃない』

 

 当時のユズルには、意味がよく分からなかった。

 

 今なら、少し分かる気がする。

 

 目立たないようにしていれば安全だとは限らない。

 何もしなければ許されるとは限らない。

 

 昨日の船の中でもそうだった。

 

 黙っていたら、あの老人と女は傷つけられていたかもしれない。

 だから立った。

 

 でも、立っただけだ。

 

 自分が強かったわけではない。

 船員が止めてくれなければ、どうなっていたか分からない。

 

 あの大柄な男の睨みを思い出し、ユズルは背筋を少し強張らせた。

 

 その男も、今どこかにいるはずだった。

 同じ船で来たのだから。

 

 できれば、もう会いたくない。

 

 そう思った直後、黒い子牛がユズルを見た。

 

「……分かってるよ」

 

 ユズルは小さく言った。

 

「逃げたいって思っただけだ」

 

 丑は何も言わない。

 

 港町を抜けると、受付所らしき建物が見えてきた。

 

 古びた石造りの建物だった。

 役所か倉庫を改装したような外観で、入口の上には簡素な看板がある。

 

 ハンター試験受付。

 

 しかし、その前に並んでいる人数は想像より少なかった。

 

 数十人ほど。

 多くても百人はいない。

 

 毎年数百万人が申し込むと聞いていた。

 そのうち会場へ辿り着ける者はごく一握りだとも。

 

 つまり、ここにいる人間たちは、すでに何らかの選別を突破してきた者たちということなのだろう。

 

 ユズルは列の最後尾に並んだ。

 

 受付は淡々と進んでいた。

 

 名前。

 年齢。

 出身。

 申込番号。

 本人確認。

 簡単な質疑。

 

 落ち着け。

 聞かれたことに答えればいい。

 余計なことは言わない。

 

 そう考えながら、ユズルは前に進んでいく。

 

 列の前の方で、揉め事が起きていた。

 

「だから、俺の番号はこれだって言ってんだろ!」

 

 大声を上げているのは、目つきの悪い若い男だった。

 受付の女性は、表情を変えずに紙を見ている。

 

「申込番号は確認できません」

 

「はあ? ふざけんな! こっちは金払ってんだぞ!」

 

「番号が確認できない方は、受験資格がありません」

 

「てめぇ……!」

 

 若い男が受付台を叩こうとした瞬間、横から大きな手が伸びた。

 

 警備員らしき男が、若い男の手首を掴んでいる。

 

 いや、警備員ではない。

 

 その気配は普通ではなかった。

 表情は眠そうなのに、腕だけで若い男の動きを完全に止めている。

 

 念能力者かもしれない。

 

 若い男が顔を歪めた。

 

「いて、いててて!」

 

「受付を妨害した時点で失格扱いにできますが、どうしますか」

 

 受付の女性が淡々と言った。

 

 若い男は、何か言い返そうとして、口を閉じた。

 結局、手首を離されると、悪態をつきながら建物の外へ出ていった。

 

 ユズルは、喉が乾くのを感じた。

 

 入口まで辿り着いた者でも、あっさり弾かれる。

 

 ハンター試験は、もう始まっている。

 

 前に並んでいた老人が、振り返ってユズルを見た。

 

「坊主、初めてかね」

 

 突然話しかけられて、ユズルは少し驚いた。

 

「あ、はい」

 

「そうか。顔に出とる」

 

「……すみません」

 

「謝ることじゃない。初受験で怯えない奴は、馬鹿か化け物だ」

 

 老人は笑った。

 

 白い髭を長く伸ばした、小柄な老人だった。

 背中は少し曲がっているが、目は妙に明るい。杖をついているが、ただの老人とは思えない。

 

「ワシは三度目だ」

 

「三度目……」

 

「一度目は受付前で騙されて別の船に乗った。二度目は試験会場までの道中で崖から落ちた」

 

「え」

 

「今回は落ちん」

 

 老人は真顔で言った。

 

 ユズルはどう反応していいか分からなかった。

 

「君は?」

 

「僕は……初めてです」

 

「見れば分かる」

 

 老人はユズルの服を眺めた。

 

「ジャポンか」

 

「はい」

 

「山の方だな」

 

「……分かるんですか?」

 

「服の紐が古い型だ。あと、お前さん、足音が山道の者だ」

 

 ユズルは思わず自分の足元を見た。

 

 そんなことで分かるのか。

 

 外の世界には、いろいろな人がいる。

 

「名は?」

 

「ユズルです」

 

「ワシはボルド。覚えんでもいい。試験ではすぐ離れる」

 

 ボルドと名乗った老人は、軽く手を上げると、前へ進んだ。

 

 覚えんでもいい。

 そう言われると、逆に忘れにくい。

 

 ユズルは少しだけ肩の力が抜けた。

 

 その時、背後から声がした。

 

「へぇ。あんたジャポン出身?」

 

 振り返ると、細身の女が立っていた。

 

 年齢は二十代前半くらいだろうか。

 短く切った髪に、軽装。腰には小さな刃物がいくつか見える。笑っているが、目は笑っていない。

 

「はい」

 

「ふうん。ジャポン出身ね。忍びか侍でも出てくるのかと思ったけど、あんたは違いそう」

 

「違います」

 

「だよね。あんた弱そうだし」

 

 ユズルは返す言葉を失った。

 

 女は悪びれもせずに笑う。

 

「怒った?」

 

「いえ」

 

「怒った方がいいよ、そういう時は」

 

 女はそれだけ言うと、ユズルの後ろに並んだ。

 

 ユズルは前を向いた。

 

 怒った方がいい。

 

 寅の月なら、虎が笑ったかもしれない。

 けれど今は丑の月だ。

 

 黒い子牛は、ユズルの足元に座ったまま、何も言わなかった。

 

 列が進む。

 

 やがて、ユズルの番になった。

 

 受付の女性は、眼鏡をかけた無表情な人物だった。

 机の上には分厚い書類と番号札、いくつかの印章、小さな機械が置かれている。

 

「申込番号を」

 

 ユズルは慌てて懐から紙を出した。

 

「これです」

 

 女性は紙を受け取り、機械に通した。

 小さな音が鳴る。

 

「ユズル。十七歳。ジャポン出身。初受験。間違いありませんか」

 

「はい」

 

「受験目的は?」

 

 ユズルは言葉に詰まった。

 

 探している人がいます。

 

 そう答えるつもりだった。

 

 けれど、なぜかすぐには出てこなかった。

 

 ヤクモを探している。

 でも、それだけじゃない。

 世界を見たい。

 自分を変えたい。

 でも、そんなことを受付で言うのは恥ずかしい。

 軽く聞こえるかもしれない。

 笑われるかもしれない。

 

 受付の女性が、無表情のまま待っている。

 

 後ろの女が、小さく鼻で笑った気配がした。

 

 ユズルは息を吸った。

 

「……探している人がいます」

 

 女性は書類に何かを書き込んだ。

 

「氏名は」

 

「ヤクモ、です」

 

「ハンターですか」

 

「はい。民俗ハンターだと聞いています」

 

 女性の手が一瞬だけ止まった。

 

 本当に一瞬だった。

 けれど、ユズルは見逃さなかった。

 

「ヤクモ氏の正式なハンター登録情報は、受験者には開示できません」

 

「はい」

 

「合格後、ライセンス所持者として適切な手続きを取ってください」

 

「分かりました」

 

 つまり、登録情報はある。

 

 ヤクモは、ハンターとして確かに存在している。

 

 それだけで、ユズルの胸が少し熱くなった。

 

 受付の女性は、番号札を一枚差し出した。

 

「第286期ハンター試験、予備受付を完了します。あなたの番号は二百四十一番」

 

 ユズルは札を受け取った。

 

 二百四十一。

 

 小さな金属製の札だった。

 表面に番号が刻まれている。

 

「この先、正式な試験会場への案内人がいます。ただし、案内に従うかどうかは自己判断です」

 

「え?」

 

 ユズルは顔を上げた。

 

 受付の女性は、淡々と続ける。

 

「試験官は毎年変わります。会場も毎年変わります。ここは受付地であり、試験会場ではありません。会場への到達も含め、ハンター試験の一部です」

 

 知ってはいた。

 

 だが、改めて言われると、胸が重くなる。

 

「案内人を見つけられない場合、または誤った案内に従った場合、試験会場には到達できません」

 

「誤った案内……?」

 

「この町には、受験者を狙う詐欺師、盗賊、偽案内人、情報屋が多数います。協会は関知しません」

 

 ユズルは黙った。

 

「健闘を祈ります。次の方」

 

 それで終わりだった。

 

 ユズルは受付台を離れた。

 

 手の中の番号札が、やけに重い。

 

 まだ試験は始まっていない。

 そう思っていた。

 

 でも違う。

 

 すでに選別は始まっている。

 

 黒い子牛が隣を歩く。

 

「……偽案内人って」

 

 ユズルは小声で呟いた。

 

「どう見分ければいいんだろう」

 

 牛は答えない。

 

 分かっている。

 丑はそういう能力ではない。

 

 十二月の子なら、隠された音を拾ってくれたかもしれない。

 三月の卯なら、危険な道を避ける気配を探したかもしれない。

 九月の酉なら、上から町を見渡せただろう。

 

 けれど、今月は丑。

 

 守る。

 立つ。

 退かない。

 

 情報収集には向かない。

 

 ユズルは少し困った。

 

 ハンター試験は、能力者にとっても簡単ではない。

 いや、むしろ能力があるからこそ、自分の得意不得意を突きつけられるのかもしれない。

 

「二百四十一番」

 

 呼ばれて、ユズルは振り返った。

 

 さっきの細身の女だった。

 

 彼女は自分の番号札を指で弾いている。番号は二百四十二番。ユズルのすぐ後ろだったから、当然といえば当然だ。

 

「あんた、案内人探すんでしょ」

 

「はい」

 

「一緒に来る?」

 

 ユズルは少し驚いた。

 

「え?」

 

「初受験同士、協力しようって話」

 

「あなたも初受験なんですか」

 

「そう見えない?」

 

「いえ……」

 

「嘘。二回目」

 

 女はあっさり言った。

 

 ユズルは言葉を失った。

 

「どうして嘘を」

 

「今ので信じるか見た」

 

「……」

 

「すぐ顔に出るね、あんた」

 

 女は楽しそうに笑った。

 

 ユズルは少しだけ後ずさった。

 

 受付で言われたばかりだ。

 この町には、偽案内人、詐欺師、情報屋がいる。協会は関知しない。

 

 彼女がそうでない保証はない。

 

「すみません。僕は、一人で行きます」

 

 そう言った瞬間、自分でも少し驚いた。

 

 断れた。

 

 女も少し意外そうな顔をした後、肩をすくめた。

 

「ふうん。意外」

 

「すみません」

 

「謝る癖、やめた方がいいよ」

 

 そう言って、女はひらひら手を振り、人混みの方へ消えていった。

 

 ユズルはその背中を見送った。

 

 断ったことに、心臓がまだ少し速くなっている。

 

 嫌われたかもしれない。

 怒らせたかもしれない。

 あとで困るかもしれない。

 

 そんな考えが次々に浮かぶ。

 

 でも、断った。

 

 自分で決めた。

 

 黒い子牛が、短く鼻を鳴らした。

 

 褒めているのかもしれない。

 

 たぶん。

 

 ユズルは受付所の外に出た。

 

 港町の通りには、受験者たちが散っていた。

 ある者は地図を広げ、ある者は情報屋らしき男と話し、ある者はすでに町の外へ向かって歩き出している。

 

 正式な試験会場への案内人を探す。

 

 それが最初の課題。

 

 しかし、何を手がかりにすればいいのか。

 

 ユズルは辺りを見回した。

 

 看板。

 宿屋。

 露店。

 酒場。

 路地裏。

 馬車乗り場。

 港湾事務所。

 

 どれも怪しく見えるし、どれも普通に見える。

 

 怖がりすぎると動けなくなる。

 でも疑わなすぎると騙される。

 

 ユズルは額に手を当てた。

 

「ヤクモなら、どうするかな」

 

 口にした直後、少し後悔した。

 

 また、ヤクモを基準にしている。

 

 自分で決めるために来たはずなのに。

 

 その時、足元の黒い子牛が言った。

 

「決めろ」

 

 ユズルは苦笑した。

 

「うん。分かってる」

 

 どこを見る。

 誰を信じる。

 何を手がかりにする。

 

 ユズルは通りを歩き始めた。

 

 まずは情報を集める。

 ただし、誰でも信じない。

 

 町の中央に向かうと、受験者向けの露店がいくつも出ていた。

 

「試験会場行きの地図! 今なら半額!」

「本物の案内人を知ってるよ!」

「この道具があれば一次試験も楽勝!」

「ハンター試験突破法! 過去十年分!」

 

 怪しい。

 

 全部、怪しい。

 

 ユズルは足を止めずに通り過ぎようとした。

 

「そこの兄ちゃん!」

 

 呼び止められる。

 

 中年の男だった。

 露店の前に座り、地図を何枚も広げている。胡散臭い笑顔を浮かべていた。

 

「初受験だろ。顔で分かるよ。案内人探してんだろ?」

 

「いえ」

 

「嘘つけ。番号札見えてるぜ。二百四十一番」

 

 ユズルは反射的に番号札を隠した。

 

 遅い。

 

「安心しな。俺は親切でやってる。五千ジェニーで本物の案内人の居場所を教えてやる」

 

「結構です」

 

「待て待て。じゃあ三千でいい。初受験応援価格だ」

 

「大丈夫です」

 

「二千」

 

「すみません」

 

「千!」

 

 ユズルは早足で離れた。

 

 背後で男が舌打ちする。

 

「ちっ、見た目のわりに引っかからねぇな」

 

 見た目のわりに。

 

 やはり、自分は騙されやすそうに見えるのだろう。

 

 ユズルは少し落ち込んだ。

 

 その後も、何人かに声をかけられた。

 

 親切そうな老人。

 笑顔の少年。

 暗い路地から手招きする男。

 道案内を申し出る女。

 

 誰もがそれらしいことを言う。

 

 だが、どれも信用できなかった。

 

 ユズルはだんだん疲れてきた。

 

 考えれば考えるほど、分からなくなる。

 誰が本物で、誰が偽物なのか。

 

 こういう時、子の月ならと思う。

 鼠算の密告があれば、隠された会話や嘘の揺れを拾えたかもしれない。

 

 でも今は一月。

 

 丑の月。

 

 今ある力で進むしかない。

 

 ユズルは町の端にある小さな広場へ出た。

 

 そこには、数人の受験者が集まっていた。

 何かを囲んでいる。

 

 近づいてみると、地面にチョークで大きな矢印が描かれていた。

 

 矢印の先には、町外れへ続く道がある。

 

 その横に、古い看板が立っていた。

 

 ハンター試験会場はこちら。

 

 あからさますぎる。

 

 ユズルは眉をひそめた。

 

 それなのに、何人かの受験者はその道へ向かって歩き出している。

 

「行かないのか?」

 

 声をかけられた。

 

 見ると、ボルド老人がいた。

 受付前で話した老人だ。

 

「ボルドさん」

 

「さんはいらん。で、どう見る」

 

 ボルドは矢印を杖で指した。

 

 ユズルはしばらく考えた。

 

「……分かりやすすぎます」

 

「うむ」

 

「本物なら、分かりやすすぎる。偽物なら、分かりやすすぎる。だから逆に本物かもしれない、と思わせたい……のかもしれません」

 

 自分で言っていて、何を言っているのか分からなくなってきた。

 

 ボルドは愉快そうに笑った。

 

「考えすぎだな」

 

「すみません」

 

「だが悪くない。考えない奴から落ちる」

 

 ボルドは矢印の先を見た。

 

「ワシは行かん」

 

「なぜですか」

 

「前回、ああいう矢印に従って崖から落ちた」

 

「……」

 

「今回は落ちん」

 

 ユズルは何とも言えない顔になった。

 

 ボルドは杖で地面を軽く叩いた。

 

「本物の案内人は、案内人らしい顔をしておらん」

 

「どうしてそう思うんですか」

 

「案内人らしい顔をしていたら、偽物に真似されるからだ」

 

 なるほど、と思った。

 

 確かにそうかもしれない。

 

 では、本物はどこにいるのか。

 

 ユズルは広場を見回した。

 

 露店。

 看板。

 馬車。

 子ども。

 掃除をする老人。

 新聞を読む男。

 道端で犬に餌をやる女。

 

 どれも違うように見える。

 どれもそうかもしれない。

 

 ユズルは、ふと足元を見た。

 

 黒い子牛が、広場の端を見ていた。

 

 視線の先には、小さな店があった。

 

 食堂だ。

 

 看板には、雑に書かれた文字。

 

 港の牛鍋亭。

 

 ユズルは目を瞬かせた。

 

「……牛?」

 

 偶然だろうか。

 

 ボルドが同じ方向を見て、にやりと笑った。

 

「どうした」

 

「あの店……」

 

「腹が減ったか」

 

「いえ、そういうわけでは」

 

 でも、気になる。

 

 丑が見ている。

 

 能力ではない。

 ただ見ているだけかもしれない。

 

 しかし、ユズルは歩き出した。

 

 ボルドもついてくる。

 

「ワシも腹が減った」

 

「だから、そういうわけでは」

 

「年寄りは腹が減ると動けん」

 

 言いながら、ボルドは平然と店に入った。

 

 ユズルも仕方なく後に続いた。

 

 店内は狭かった。

 

 木のテーブルが四つ。

 カウンターが一つ。

 壁には古い皿と、牛の絵が飾られている。

 

 客は少ない。

 

 カウンターの奥で、太った店主が鍋をかき混ぜていた。

 

「いらっしゃい」

 

 店主は、ユズルとボルドをちらりと見ただけだった。

 

 ボルドは勝手に席へ座る。

 

「牛鍋を二つ」

 

「一つでいいです」

 

「若いのに食わんと死ぬぞ」

 

「死にはしません」

 

 ユズルは困りながら席に着いた。

 

 黒い子牛は、店の入口近くに立っている。

 店内の牛の絵をじっと見ていた。

 

 何か変だ。

 

 はっきりとした根拠はない。

 だが、丑が妙に静かだ。

 

 いや、丑はいつも静かだ。

 それでも、何かを待っているように見える。

 

 店主が鍋を置いた。

 

 湯気が立つ。

 味噌と肉の匂いがした。

 

 ユズルは箸を持ったが、すぐには食べなかった。

 

 店主が言う。

 

「食わないのか」

 

「あ、いただきます」

 

「受験者か」

 

 ユズルは少し警戒した。

 

「……はい」

 

「番号は」

 

 ユズルは答えなかった。

 

 ボルドが隣で笑う。

 

「店主、聞き方が悪い」

 

 店主は無表情で鍋をかき混ぜた。

 

「警戒心はあるか。まあまあだな」

 

 ユズルは箸を止めた。

 

 店主は、ゆっくりとこちらを見た。

 

「ハンター試験会場へ行きたいか」

 

 店内の空気が、少し変わった。

 

 ボルドの目が細くなる。

 

 ユズルは店主を見た。

 

 ただの店主に見える。

 太っていて、動きも鈍そうで、エプロンには染みがついている。

 

 だが、その目だけは妙に静かだった。

 

「あなたが、案内人ですか」

 

 店主は答えなかった。

 

「牛鍋を食え」

 

「え?」

 

「食って、代金を払って、店を出ろ。その後で、裏口に回れ」

 

 ユズルはボルドを見た。

 

 ボルドは楽しそうに鍋を食べている。

 

「うまい」

 

「ボルドさん」

 

「さんはいらん」

 

 どうする。

 

 本物かもしれない。

 偽物かもしれない。

 

 店主は案内人だと言っていない。

 ただ、裏口に回れと言っただけだ。

 

 罠かもしれない。

 

 しかし、丑は動かない。

 逃げろとも、立てとも言わない。

 

 ユズルは鍋を見た。

 

 湯気の向こうに、自分の顔が少しぼやけて見える。

 

 決めろ。

 

 丑の声が、頭の奥に残っている。

 

 ユズルは箸を動かした。

 

 牛鍋は、驚くほど美味しかった。

 

 濃い味噌の味。

 柔らかい肉。

 甘く煮えた野菜。

 

 村を出てから、初めてまともに食事をした気がした。

 

 食べ終わると、ユズルは代金を払った。

 ボルドの分まで払わされそうになったので、それは断った。

 

「成長が早いな」

 

 ボルドが笑う。

 

「払ってください」

 

「うむ」

 

 店を出る。

 

 表通りは相変わらず騒がしかった。

 

 ユズルは店の裏へ回った。

 

 狭い路地だった。

 湿った石壁。古い木箱。魚の骨。野良猫が一匹、こちらを見て逃げていく。

 

 裏口の前に、先ほどの店主が立っていた。

 

 エプロンを外している。

 

 その下には、動きやすそうな服。

 腰には短い棒のような武器。

 顔つきも、さっきまでとは違って見えた。

 

 店主は言った。

 

「第286期ハンター試験、会場案内人の一人、モゼだ」

 

 ユズルは息を呑んだ。

 

 当たりだった。

 

 ボルドが杖をつきながら、後ろから来る。

 

「やはり牛鍋が正解だったか」

 

「毎年変えている」

 

 モゼはそっけなく言った。

 

「今年は牛鍋だ。理由はない」

 

 ユズルは思わず黒い子牛を見た。

 

 丑は、静かに立っている。

 

 理由はない。

 本当にそうかもしれない。

 

 でもユズルは、少しだけ不思議なものを感じた。

 

 今月の獣が牛で、案内人の店が牛鍋亭。

 

 ただの偶然。

 それでも、偶然に導かれることもある。

 

 モゼは路地の奥を指した。

 

「これから正式な試験会場へ向かう。ついて来られない者は失格。途中で死んでも協会は責任を取らない」

 

「……どれくらいかかるんですか」

 

「人による」

 

「道は険しいですか」

 

「人による」

 

「危険は」

 

「ある」

 

 短い。

 

 丑よりは喋るが、やはり説明は少ない。

 

 モゼはユズルとボルドを見た。

 

「二人だけか」

 

「今のところは」

 

 ボルドが答える。

 

「他の受験者は?」

 

「正解に辿り着けば来る。辿り着かなければ来ない」

 

 モゼはそう言って、路地の奥へ歩き出した。

 

 ユズルは慌てて後を追った。

 

 その瞬間、背後から声がした。

 

「あー、やっぱりここだった」

 

 振り返ると、受付で後ろに並んでいた細身の女が立っていた。

 

 番号二百四十二番。

 

 彼女は笑っている。

 

「牛鍋食べて正解って、何それ。分かるわけないじゃん」

 

 モゼはちらりと彼女を見た。

 

「名前」

 

「ニカ。二百四十二番」

 

「ついて来い」

 

「はいはい」

 

 女、ニカはユズルの横に並んだ。

 

「一人で行くって言ってたのに、結局同じ道だね」

 

「……そうですね」

 

「ま、よろしく。途中まで」

 

 途中まで。

 

 その言い方が、ハンター試験らしいと思った。

 

 仲間ではない。

 敵でもない。

 ただ、今は同じ道を歩くだけ。

 

 路地を抜けると、港町の喧騒は少しずつ遠ざかっていった。

 

 モゼは裏道を迷いなく進む。

 市場の裏、倉庫の横、古い水路の上、崩れかけた石段。

 

 やがて、町外れの丘に出た。

 

 そこから先には、森が広がっていた。

 

 港町のすぐ近くにあるとは思えないほど、深い森だった。

 木々が密集し、昼前だというのに奥は暗い。

 

 モゼは森の前で立ち止まった。

 

「ここから先、会場までは自力でついて来い」

 

 ユズルは森を見た。

 

 湿った土の匂いがする。

 木々の間から、鳥の声が聞こえる。

 

 山育ちのユズルにとって、森そのものは珍しくない。

 

 けれど、この森はどこか違う。

 

 静かすぎる。

 生き物の気配があるのに、こちらを見ているような沈黙がある。

 

 黒い子牛が、ユズルの横に立つ。

 

 モゼが歩き出した。

 

 速い。

 

 見た目からは想像できない速さだった。

 走っているわけではない。歩いている。だが、一歩が大きく、無駄がない。

 

 ボルドが軽い足取りでついていく。

 杖をついているのに、まるで山道に慣れた獣のようだった。

 

 ニカも遅れない。

 細い体で、枝を避けながら器用に進んでいる。

 

 ユズルは少し遅れた。

 

 山道なら慣れている。

 そう思っていた。

 

 しかし、この森の道は読みにくい。

 足場が柔らかく、ところどころにぬかるみがある。木の根は滑り、枝は視界を遮る。

 

 それに、前の三人が速い。

 

 ユズルの息が上がる。

 

 まだ始まったばかりなのに。

 

 焦るな。

 でも遅れるな。

 

 ユズルは足元を見る。

 

 黒い子牛は、決して急がない。

 けれど、不思議と遅れない。

 

 重い足取りで、確実についてくる。

 

 ユズルは思った。

 

 急ぐことと、進むことは違う。

 

 丑の月に覚えるべきことは、もしかするとそれなのかもしれない。

 

 森の奥で、モゼの声がした。

 

「ここから走る」

 

 ユズルは顔を上げた。

 

「え」

 

 次の瞬間、モゼが走り出した。

 

 ボルドが笑いながら続く。

 

 ニカが舌打ちして、その後を追う。

 

 ユズルも走った。

 

 枝が顔に当たる。

 足元が滑る。

 息が苦しい。

 

 森が流れていく。

 

 ハンター試験会場への道。

 

 これは、まだ試験ではない。

 いや、もう試験なのだ。

 

 会場へ辿り着けない者は、受験者にすらなれない。

 

 どれほど走っただろう。

 

 ユズルは途中で何度も止まりそうになった。

 

 そのたびに、黒い子牛が視界の端に入る。

 

 立て。

 退くな。

 決めろ。

 

 言葉は聞こえない。

 でも、そう言われている気がした。

 

 やがて、前方に開けた場所が見えた。

 

 森の中に、不自然なほど広い空間があった。

 

 石造りの門。

 その奥に、地下へ降りる階段。

 

 門の前には、すでに何人かの受験者が集まっていた。

 

 モゼが立ち止まる。

 

「到着だ」

 

 ユズルは膝に手をつき、息を荒げた。

 

 肺が痛い。

 足も痛い。

 

 だが、辿り着いた。

 

 正式な試験会場。

 

 門の上には、簡素な文字が刻まれていた。

 

 第286期ハンター試験会場。

 

 ユズルは顔を上げた。

 

 ここから、本当に始まる。

 

 その時だった。

 

 門の前に集まっていた受験者たちの中に、一人だけ空気の違う男がいることに気づいた。

 

 背が高い。

 奇妙な服装。

 整った顔立ち。

 口元に薄い笑み。

 

 男はカードを指で弄びながら、退屈そうに周囲を見ていた。

 

 だが、ユズルが門へ近づいた瞬間、その男の視線が動いた。

 

 まっすぐ、ユズルを見る。

 

 いや。

 

 ユズルの隣にいる、見えないはずの黒い子牛を見たような気がした。

 

 ユズルの背筋が冷える。

 

 男は微笑んだ。

 

 その笑みは、船で出会った大柄な男のものとは違っていた。

 怒りも、威圧も、粗暴さもない。

 

 ただ、楽しそうだった。

 

 それが、どうしようもなく怖かった。

 

 ニカが横で小さく呟く。

 

「……あれ、ヤバいやつだね」

 

 ボルドの表情からも、笑みが消えていた。

 

 モゼが淡々と言う。

 

「受験番号百一番。ヒソカ」

 

 ヒソカ。

 

 その名前を、ユズルはまだ知らない。

 

 けれど、体は先に理解していた。

 

 世界には、こういう人間がいる。

 

 村にはいなかった。

 船にも、受付にも、森にもいなかった。

 

 まるで、形をした危険そのもの。

 

 ヒソカはユズルを見て、ほんの少し首を傾げた。

 

 そして、楽しそうに笑った。

 

 黒い子牛が、ユズルの前に一歩出る。

 

 まだ何も始まっていない。

 けれど、ユズルは直感した。

 

 ハンター試験は、想像よりずっと怖い。

 

 それでも。

 

 門は開いている。

 

 ユズルは震える手で、番号札を握りしめた。

 

 二百四十一番。

 

 自分で選んで、ここまで来た。

 

 黒い子牛が、低く言った。

 

「立て」

 

 ユズルは、小さく頷いた。

 

 そして、門の内側へ足を踏み入れた。

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