港町は、朝から騒がしかった。
船を降りた瞬間、ユズルは思わず足を止めた。
潮の匂い。
焼いた魚の匂い。
積み荷の木箱から漏れる果物の匂い。
石畳を踏む靴音。
怒鳴る船員。
呼び込みの声。
荷車の車輪が跳ねる音。
どこかで鳴る鐘。
村の朝とは、何もかもが違っていた。
ユズルの故郷では、朝はもっと静かだった。
山鳥の声がして、井戸の縄が軋んで、誰かが薪を割る音が遠くから聞こえてくる。人の声も、風景の一部みたいに低く穏やかだった。
けれど、ここは違う。
人が多い。
物が多い。
知らない匂いが多い。
知らないものが多すぎる。
ユズルは荷物の紐を握り直した。
黒い子牛が、隣に立っている。
もちろん、誰にも見えていない。
丑は今、隠で姿を伏せた省エネ状態にある。
ユズルにははっきり見えているが、念を知らない者にとっては、そこには何もない。
桟橋を行き交う人々は、ユズルの隣に黒い子牛がいることなど気づかず、忙しそうに通り過ぎていく。
子牛は、港町の喧騒にも表情を変えなかった。
丑は、いつもそうだ。
知らない場所でも、騒がしい場所でも、怖い相手がいても、同じようにそこに立つ。
ユズルは、その落ち着きが少し羨ましかった。
「……すごいな」
思わず呟く。
何が、と聞かれれば答えに困る。
港そのものも、人の数も、船の大きさも、空気の荒さも、全部がすごい。
けれど本当は、何よりも。
こんな場所で平気な顔をして歩いている人たちが、すごいと思った。
ユズルにとっては、船を降りるだけで大ごとだった。
それなのに周囲の人間たちは、まるで世界が広いことなど当たり前だと言うように歩いている。
自分は、やはり村の外を知らなさすぎる。
その事実が、少し恥ずかしかった。
港の入口付近に、人だかりができていた。
看板が出ている。
そこには、いくつかの言語で同じ内容が書かれていた。
ハンター試験受付案内。
矢印が、港町の奥へ向いている。
ユズルは息を吸った。
ここからだ。
まだ正式な試験が始まったわけではない。
けれど、ここから先は確実にハンター試験に繋がっている。
看板の前では、受験者らしき者たちが地図を確認していた。
筋骨隆々の男。全身を布で覆った女。老人。子ども。奇妙な仮面をつけた者。腰に何本ものナイフを吊った男。大きな鳥籠を背負った青年。
誰が本当に強いのか、ユズルには分からない。
ただ一つだけ分かるのは、普通ではない人間が多いということだった。
村なら、一人でも十分目立つような人物が、ここには何人もいる。
ユズルはなるべく目立たないように、人の流れの端を歩いた。
こういう時、自分の癖が出る。
真ん中を歩かない。
大きな声を出さない。
視線を合わせない。
邪魔にならない場所を探す。
村で身についた振る舞いだ。
和を乱さない。
目立たない。
相手を怒らせない。
外の世界でも、それが役に立つのかは分からない。
いや。
もしかすると、役に立つどころか、足を引っ張るのかもしれない。
ヤクモの声が、頭の中で笑う。
『お前は、怒られない歩き方が上手いな』
いつだったか、修行中に言われたことがある。
ユズルはその時、褒められたのかと思った。
けれどヤクモは、すぐに続けた。
『でもな、ユズル。世界は怒られない奴を見逃してくれるほど、親切じゃない』
当時のユズルには、意味がよく分からなかった。
今なら、少し分かる気がする。
目立たないようにしていれば安全だとは限らない。
何もしなければ許されるとは限らない。
昨日の船の中でもそうだった。
黙っていたら、あの老人と女は傷つけられていたかもしれない。
だから立った。
でも、立っただけだ。
自分が強かったわけではない。
船員が止めてくれなければ、どうなっていたか分からない。
あの大柄な男の睨みを思い出し、ユズルは背筋を少し強張らせた。
その男も、今どこかにいるはずだった。
同じ船で来たのだから。
できれば、もう会いたくない。
そう思った直後、黒い子牛がユズルを見た。
「……分かってるよ」
ユズルは小さく言った。
「逃げたいって思っただけだ」
丑は何も言わない。
港町を抜けると、受付所らしき建物が見えてきた。
古びた石造りの建物だった。
役所か倉庫を改装したような外観で、入口の上には簡素な看板がある。
ハンター試験受付。
しかし、その前に並んでいる人数は想像より少なかった。
数十人ほど。
多くても百人はいない。
毎年数百万人が申し込むと聞いていた。
そのうち会場へ辿り着ける者はごく一握りだとも。
つまり、ここにいる人間たちは、すでに何らかの選別を突破してきた者たちということなのだろう。
ユズルは列の最後尾に並んだ。
受付は淡々と進んでいた。
名前。
年齢。
出身。
申込番号。
本人確認。
簡単な質疑。
落ち着け。
聞かれたことに答えればいい。
余計なことは言わない。
そう考えながら、ユズルは前に進んでいく。
列の前の方で、揉め事が起きていた。
「だから、俺の番号はこれだって言ってんだろ!」
大声を上げているのは、目つきの悪い若い男だった。
受付の女性は、表情を変えずに紙を見ている。
「申込番号は確認できません」
「はあ? ふざけんな! こっちは金払ってんだぞ!」
「番号が確認できない方は、受験資格がありません」
「てめぇ……!」
若い男が受付台を叩こうとした瞬間、横から大きな手が伸びた。
警備員らしき男が、若い男の手首を掴んでいる。
いや、警備員ではない。
その気配は普通ではなかった。
表情は眠そうなのに、腕だけで若い男の動きを完全に止めている。
念能力者かもしれない。
若い男が顔を歪めた。
「いて、いててて!」
「受付を妨害した時点で失格扱いにできますが、どうしますか」
受付の女性が淡々と言った。
若い男は、何か言い返そうとして、口を閉じた。
結局、手首を離されると、悪態をつきながら建物の外へ出ていった。
ユズルは、喉が乾くのを感じた。
入口まで辿り着いた者でも、あっさり弾かれる。
ハンター試験は、もう始まっている。
前に並んでいた老人が、振り返ってユズルを見た。
「坊主、初めてかね」
突然話しかけられて、ユズルは少し驚いた。
「あ、はい」
「そうか。顔に出とる」
「……すみません」
「謝ることじゃない。初受験で怯えない奴は、馬鹿か化け物だ」
老人は笑った。
白い髭を長く伸ばした、小柄な老人だった。
背中は少し曲がっているが、目は妙に明るい。杖をついているが、ただの老人とは思えない。
「ワシは三度目だ」
「三度目……」
「一度目は受付前で騙されて別の船に乗った。二度目は試験会場までの道中で崖から落ちた」
「え」
「今回は落ちん」
老人は真顔で言った。
ユズルはどう反応していいか分からなかった。
「君は?」
「僕は……初めてです」
「見れば分かる」
老人はユズルの服を眺めた。
「ジャポンか」
「はい」
「山の方だな」
「……分かるんですか?」
「服の紐が古い型だ。あと、お前さん、足音が山道の者だ」
ユズルは思わず自分の足元を見た。
そんなことで分かるのか。
外の世界には、いろいろな人がいる。
「名は?」
「ユズルです」
「ワシはボルド。覚えんでもいい。試験ではすぐ離れる」
ボルドと名乗った老人は、軽く手を上げると、前へ進んだ。
覚えんでもいい。
そう言われると、逆に忘れにくい。
ユズルは少しだけ肩の力が抜けた。
その時、背後から声がした。
「へぇ。あんたジャポン出身?」
振り返ると、細身の女が立っていた。
年齢は二十代前半くらいだろうか。
短く切った髪に、軽装。腰には小さな刃物がいくつか見える。笑っているが、目は笑っていない。
「はい」
「ふうん。ジャポン出身ね。忍びか侍でも出てくるのかと思ったけど、あんたは違いそう」
「違います」
「だよね。あんた弱そうだし」
ユズルは返す言葉を失った。
女は悪びれもせずに笑う。
「怒った?」
「いえ」
「怒った方がいいよ、そういう時は」
女はそれだけ言うと、ユズルの後ろに並んだ。
ユズルは前を向いた。
怒った方がいい。
寅の月なら、虎が笑ったかもしれない。
けれど今は丑の月だ。
黒い子牛は、ユズルの足元に座ったまま、何も言わなかった。
列が進む。
やがて、ユズルの番になった。
受付の女性は、眼鏡をかけた無表情な人物だった。
机の上には分厚い書類と番号札、いくつかの印章、小さな機械が置かれている。
「申込番号を」
ユズルは慌てて懐から紙を出した。
「これです」
女性は紙を受け取り、機械に通した。
小さな音が鳴る。
「ユズル。十七歳。ジャポン出身。初受験。間違いありませんか」
「はい」
「受験目的は?」
ユズルは言葉に詰まった。
探している人がいます。
そう答えるつもりだった。
けれど、なぜかすぐには出てこなかった。
ヤクモを探している。
でも、それだけじゃない。
世界を見たい。
自分を変えたい。
でも、そんなことを受付で言うのは恥ずかしい。
軽く聞こえるかもしれない。
笑われるかもしれない。
受付の女性が、無表情のまま待っている。
後ろの女が、小さく鼻で笑った気配がした。
ユズルは息を吸った。
「……探している人がいます」
女性は書類に何かを書き込んだ。
「氏名は」
「ヤクモ、です」
「ハンターですか」
「はい。民俗ハンターだと聞いています」
女性の手が一瞬だけ止まった。
本当に一瞬だった。
けれど、ユズルは見逃さなかった。
「ヤクモ氏の正式なハンター登録情報は、受験者には開示できません」
「はい」
「合格後、ライセンス所持者として適切な手続きを取ってください」
「分かりました」
つまり、登録情報はある。
ヤクモは、ハンターとして確かに存在している。
それだけで、ユズルの胸が少し熱くなった。
受付の女性は、番号札を一枚差し出した。
「第286期ハンター試験、予備受付を完了します。あなたの番号は二百四十一番」
ユズルは札を受け取った。
二百四十一。
小さな金属製の札だった。
表面に番号が刻まれている。
「この先、正式な試験会場への案内人がいます。ただし、案内に従うかどうかは自己判断です」
「え?」
ユズルは顔を上げた。
受付の女性は、淡々と続ける。
「試験官は毎年変わります。会場も毎年変わります。ここは受付地であり、試験会場ではありません。会場への到達も含め、ハンター試験の一部です」
知ってはいた。
だが、改めて言われると、胸が重くなる。
「案内人を見つけられない場合、または誤った案内に従った場合、試験会場には到達できません」
「誤った案内……?」
「この町には、受験者を狙う詐欺師、盗賊、偽案内人、情報屋が多数います。協会は関知しません」
ユズルは黙った。
「健闘を祈ります。次の方」
それで終わりだった。
ユズルは受付台を離れた。
手の中の番号札が、やけに重い。
まだ試験は始まっていない。
そう思っていた。
でも違う。
すでに選別は始まっている。
黒い子牛が隣を歩く。
「……偽案内人って」
ユズルは小声で呟いた。
「どう見分ければいいんだろう」
牛は答えない。
分かっている。
丑はそういう能力ではない。
十二月の子なら、隠された音を拾ってくれたかもしれない。
三月の卯なら、危険な道を避ける気配を探したかもしれない。
九月の酉なら、上から町を見渡せただろう。
けれど、今月は丑。
守る。
立つ。
退かない。
情報収集には向かない。
ユズルは少し困った。
ハンター試験は、能力者にとっても簡単ではない。
いや、むしろ能力があるからこそ、自分の得意不得意を突きつけられるのかもしれない。
「二百四十一番」
呼ばれて、ユズルは振り返った。
さっきの細身の女だった。
彼女は自分の番号札を指で弾いている。番号は二百四十二番。ユズルのすぐ後ろだったから、当然といえば当然だ。
「あんた、案内人探すんでしょ」
「はい」
「一緒に来る?」
ユズルは少し驚いた。
「え?」
「初受験同士、協力しようって話」
「あなたも初受験なんですか」
「そう見えない?」
「いえ……」
「嘘。二回目」
女はあっさり言った。
ユズルは言葉を失った。
「どうして嘘を」
「今ので信じるか見た」
「……」
「すぐ顔に出るね、あんた」
女は楽しそうに笑った。
ユズルは少しだけ後ずさった。
受付で言われたばかりだ。
この町には、偽案内人、詐欺師、情報屋がいる。協会は関知しない。
彼女がそうでない保証はない。
「すみません。僕は、一人で行きます」
そう言った瞬間、自分でも少し驚いた。
断れた。
女も少し意外そうな顔をした後、肩をすくめた。
「ふうん。意外」
「すみません」
「謝る癖、やめた方がいいよ」
そう言って、女はひらひら手を振り、人混みの方へ消えていった。
ユズルはその背中を見送った。
断ったことに、心臓がまだ少し速くなっている。
嫌われたかもしれない。
怒らせたかもしれない。
あとで困るかもしれない。
そんな考えが次々に浮かぶ。
でも、断った。
自分で決めた。
黒い子牛が、短く鼻を鳴らした。
褒めているのかもしれない。
たぶん。
ユズルは受付所の外に出た。
港町の通りには、受験者たちが散っていた。
ある者は地図を広げ、ある者は情報屋らしき男と話し、ある者はすでに町の外へ向かって歩き出している。
正式な試験会場への案内人を探す。
それが最初の課題。
しかし、何を手がかりにすればいいのか。
ユズルは辺りを見回した。
看板。
宿屋。
露店。
酒場。
路地裏。
馬車乗り場。
港湾事務所。
どれも怪しく見えるし、どれも普通に見える。
怖がりすぎると動けなくなる。
でも疑わなすぎると騙される。
ユズルは額に手を当てた。
「ヤクモなら、どうするかな」
口にした直後、少し後悔した。
また、ヤクモを基準にしている。
自分で決めるために来たはずなのに。
その時、足元の黒い子牛が言った。
「決めろ」
ユズルは苦笑した。
「うん。分かってる」
どこを見る。
誰を信じる。
何を手がかりにする。
ユズルは通りを歩き始めた。
まずは情報を集める。
ただし、誰でも信じない。
町の中央に向かうと、受験者向けの露店がいくつも出ていた。
「試験会場行きの地図! 今なら半額!」
「本物の案内人を知ってるよ!」
「この道具があれば一次試験も楽勝!」
「ハンター試験突破法! 過去十年分!」
怪しい。
全部、怪しい。
ユズルは足を止めずに通り過ぎようとした。
「そこの兄ちゃん!」
呼び止められる。
中年の男だった。
露店の前に座り、地図を何枚も広げている。胡散臭い笑顔を浮かべていた。
「初受験だろ。顔で分かるよ。案内人探してんだろ?」
「いえ」
「嘘つけ。番号札見えてるぜ。二百四十一番」
ユズルは反射的に番号札を隠した。
遅い。
「安心しな。俺は親切でやってる。五千ジェニーで本物の案内人の居場所を教えてやる」
「結構です」
「待て待て。じゃあ三千でいい。初受験応援価格だ」
「大丈夫です」
「二千」
「すみません」
「千!」
ユズルは早足で離れた。
背後で男が舌打ちする。
「ちっ、見た目のわりに引っかからねぇな」
見た目のわりに。
やはり、自分は騙されやすそうに見えるのだろう。
ユズルは少し落ち込んだ。
その後も、何人かに声をかけられた。
親切そうな老人。
笑顔の少年。
暗い路地から手招きする男。
道案内を申し出る女。
誰もがそれらしいことを言う。
だが、どれも信用できなかった。
ユズルはだんだん疲れてきた。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
誰が本物で、誰が偽物なのか。
こういう時、子の月ならと思う。
鼠算の密告があれば、隠された会話や嘘の揺れを拾えたかもしれない。
でも今は一月。
丑の月。
今ある力で進むしかない。
ユズルは町の端にある小さな広場へ出た。
そこには、数人の受験者が集まっていた。
何かを囲んでいる。
近づいてみると、地面にチョークで大きな矢印が描かれていた。
矢印の先には、町外れへ続く道がある。
その横に、古い看板が立っていた。
ハンター試験会場はこちら。
あからさますぎる。
ユズルは眉をひそめた。
それなのに、何人かの受験者はその道へ向かって歩き出している。
「行かないのか?」
声をかけられた。
見ると、ボルド老人がいた。
受付前で話した老人だ。
「ボルドさん」
「さんはいらん。で、どう見る」
ボルドは矢印を杖で指した。
ユズルはしばらく考えた。
「……分かりやすすぎます」
「うむ」
「本物なら、分かりやすすぎる。偽物なら、分かりやすすぎる。だから逆に本物かもしれない、と思わせたい……のかもしれません」
自分で言っていて、何を言っているのか分からなくなってきた。
ボルドは愉快そうに笑った。
「考えすぎだな」
「すみません」
「だが悪くない。考えない奴から落ちる」
ボルドは矢印の先を見た。
「ワシは行かん」
「なぜですか」
「前回、ああいう矢印に従って崖から落ちた」
「……」
「今回は落ちん」
ユズルは何とも言えない顔になった。
ボルドは杖で地面を軽く叩いた。
「本物の案内人は、案内人らしい顔をしておらん」
「どうしてそう思うんですか」
「案内人らしい顔をしていたら、偽物に真似されるからだ」
なるほど、と思った。
確かにそうかもしれない。
では、本物はどこにいるのか。
ユズルは広場を見回した。
露店。
看板。
馬車。
子ども。
掃除をする老人。
新聞を読む男。
道端で犬に餌をやる女。
どれも違うように見える。
どれもそうかもしれない。
ユズルは、ふと足元を見た。
黒い子牛が、広場の端を見ていた。
視線の先には、小さな店があった。
食堂だ。
看板には、雑に書かれた文字。
港の牛鍋亭。
ユズルは目を瞬かせた。
「……牛?」
偶然だろうか。
ボルドが同じ方向を見て、にやりと笑った。
「どうした」
「あの店……」
「腹が減ったか」
「いえ、そういうわけでは」
でも、気になる。
丑が見ている。
能力ではない。
ただ見ているだけかもしれない。
しかし、ユズルは歩き出した。
ボルドもついてくる。
「ワシも腹が減った」
「だから、そういうわけでは」
「年寄りは腹が減ると動けん」
言いながら、ボルドは平然と店に入った。
ユズルも仕方なく後に続いた。
店内は狭かった。
木のテーブルが四つ。
カウンターが一つ。
壁には古い皿と、牛の絵が飾られている。
客は少ない。
カウンターの奥で、太った店主が鍋をかき混ぜていた。
「いらっしゃい」
店主は、ユズルとボルドをちらりと見ただけだった。
ボルドは勝手に席へ座る。
「牛鍋を二つ」
「一つでいいです」
「若いのに食わんと死ぬぞ」
「死にはしません」
ユズルは困りながら席に着いた。
黒い子牛は、店の入口近くに立っている。
店内の牛の絵をじっと見ていた。
何か変だ。
はっきりとした根拠はない。
だが、丑が妙に静かだ。
いや、丑はいつも静かだ。
それでも、何かを待っているように見える。
店主が鍋を置いた。
湯気が立つ。
味噌と肉の匂いがした。
ユズルは箸を持ったが、すぐには食べなかった。
店主が言う。
「食わないのか」
「あ、いただきます」
「受験者か」
ユズルは少し警戒した。
「……はい」
「番号は」
ユズルは答えなかった。
ボルドが隣で笑う。
「店主、聞き方が悪い」
店主は無表情で鍋をかき混ぜた。
「警戒心はあるか。まあまあだな」
ユズルは箸を止めた。
店主は、ゆっくりとこちらを見た。
「ハンター試験会場へ行きたいか」
店内の空気が、少し変わった。
ボルドの目が細くなる。
ユズルは店主を見た。
ただの店主に見える。
太っていて、動きも鈍そうで、エプロンには染みがついている。
だが、その目だけは妙に静かだった。
「あなたが、案内人ですか」
店主は答えなかった。
「牛鍋を食え」
「え?」
「食って、代金を払って、店を出ろ。その後で、裏口に回れ」
ユズルはボルドを見た。
ボルドは楽しそうに鍋を食べている。
「うまい」
「ボルドさん」
「さんはいらん」
どうする。
本物かもしれない。
偽物かもしれない。
店主は案内人だと言っていない。
ただ、裏口に回れと言っただけだ。
罠かもしれない。
しかし、丑は動かない。
逃げろとも、立てとも言わない。
ユズルは鍋を見た。
湯気の向こうに、自分の顔が少しぼやけて見える。
決めろ。
丑の声が、頭の奥に残っている。
ユズルは箸を動かした。
牛鍋は、驚くほど美味しかった。
濃い味噌の味。
柔らかい肉。
甘く煮えた野菜。
村を出てから、初めてまともに食事をした気がした。
食べ終わると、ユズルは代金を払った。
ボルドの分まで払わされそうになったので、それは断った。
「成長が早いな」
ボルドが笑う。
「払ってください」
「うむ」
店を出る。
表通りは相変わらず騒がしかった。
ユズルは店の裏へ回った。
狭い路地だった。
湿った石壁。古い木箱。魚の骨。野良猫が一匹、こちらを見て逃げていく。
裏口の前に、先ほどの店主が立っていた。
エプロンを外している。
その下には、動きやすそうな服。
腰には短い棒のような武器。
顔つきも、さっきまでとは違って見えた。
店主は言った。
「第286期ハンター試験、会場案内人の一人、モゼだ」
ユズルは息を呑んだ。
当たりだった。
ボルドが杖をつきながら、後ろから来る。
「やはり牛鍋が正解だったか」
「毎年変えている」
モゼはそっけなく言った。
「今年は牛鍋だ。理由はない」
ユズルは思わず黒い子牛を見た。
丑は、静かに立っている。
理由はない。
本当にそうかもしれない。
でもユズルは、少しだけ不思議なものを感じた。
今月の獣が牛で、案内人の店が牛鍋亭。
ただの偶然。
それでも、偶然に導かれることもある。
モゼは路地の奥を指した。
「これから正式な試験会場へ向かう。ついて来られない者は失格。途中で死んでも協会は責任を取らない」
「……どれくらいかかるんですか」
「人による」
「道は険しいですか」
「人による」
「危険は」
「ある」
短い。
丑よりは喋るが、やはり説明は少ない。
モゼはユズルとボルドを見た。
「二人だけか」
「今のところは」
ボルドが答える。
「他の受験者は?」
「正解に辿り着けば来る。辿り着かなければ来ない」
モゼはそう言って、路地の奥へ歩き出した。
ユズルは慌てて後を追った。
その瞬間、背後から声がした。
「あー、やっぱりここだった」
振り返ると、受付で後ろに並んでいた細身の女が立っていた。
番号二百四十二番。
彼女は笑っている。
「牛鍋食べて正解って、何それ。分かるわけないじゃん」
モゼはちらりと彼女を見た。
「名前」
「ニカ。二百四十二番」
「ついて来い」
「はいはい」
女、ニカはユズルの横に並んだ。
「一人で行くって言ってたのに、結局同じ道だね」
「……そうですね」
「ま、よろしく。途中まで」
途中まで。
その言い方が、ハンター試験らしいと思った。
仲間ではない。
敵でもない。
ただ、今は同じ道を歩くだけ。
路地を抜けると、港町の喧騒は少しずつ遠ざかっていった。
モゼは裏道を迷いなく進む。
市場の裏、倉庫の横、古い水路の上、崩れかけた石段。
やがて、町外れの丘に出た。
そこから先には、森が広がっていた。
港町のすぐ近くにあるとは思えないほど、深い森だった。
木々が密集し、昼前だというのに奥は暗い。
モゼは森の前で立ち止まった。
「ここから先、会場までは自力でついて来い」
ユズルは森を見た。
湿った土の匂いがする。
木々の間から、鳥の声が聞こえる。
山育ちのユズルにとって、森そのものは珍しくない。
けれど、この森はどこか違う。
静かすぎる。
生き物の気配があるのに、こちらを見ているような沈黙がある。
黒い子牛が、ユズルの横に立つ。
モゼが歩き出した。
速い。
見た目からは想像できない速さだった。
走っているわけではない。歩いている。だが、一歩が大きく、無駄がない。
ボルドが軽い足取りでついていく。
杖をついているのに、まるで山道に慣れた獣のようだった。
ニカも遅れない。
細い体で、枝を避けながら器用に進んでいる。
ユズルは少し遅れた。
山道なら慣れている。
そう思っていた。
しかし、この森の道は読みにくい。
足場が柔らかく、ところどころにぬかるみがある。木の根は滑り、枝は視界を遮る。
それに、前の三人が速い。
ユズルの息が上がる。
まだ始まったばかりなのに。
焦るな。
でも遅れるな。
ユズルは足元を見る。
黒い子牛は、決して急がない。
けれど、不思議と遅れない。
重い足取りで、確実についてくる。
ユズルは思った。
急ぐことと、進むことは違う。
丑の月に覚えるべきことは、もしかするとそれなのかもしれない。
森の奥で、モゼの声がした。
「ここから走る」
ユズルは顔を上げた。
「え」
次の瞬間、モゼが走り出した。
ボルドが笑いながら続く。
ニカが舌打ちして、その後を追う。
ユズルも走った。
枝が顔に当たる。
足元が滑る。
息が苦しい。
森が流れていく。
ハンター試験会場への道。
これは、まだ試験ではない。
いや、もう試験なのだ。
会場へ辿り着けない者は、受験者にすらなれない。
どれほど走っただろう。
ユズルは途中で何度も止まりそうになった。
そのたびに、黒い子牛が視界の端に入る。
立て。
退くな。
決めろ。
言葉は聞こえない。
でも、そう言われている気がした。
やがて、前方に開けた場所が見えた。
森の中に、不自然なほど広い空間があった。
石造りの門。
その奥に、地下へ降りる階段。
門の前には、すでに何人かの受験者が集まっていた。
モゼが立ち止まる。
「到着だ」
ユズルは膝に手をつき、息を荒げた。
肺が痛い。
足も痛い。
だが、辿り着いた。
正式な試験会場。
門の上には、簡素な文字が刻まれていた。
第286期ハンター試験会場。
ユズルは顔を上げた。
ここから、本当に始まる。
その時だった。
門の前に集まっていた受験者たちの中に、一人だけ空気の違う男がいることに気づいた。
背が高い。
奇妙な服装。
整った顔立ち。
口元に薄い笑み。
男はカードを指で弄びながら、退屈そうに周囲を見ていた。
だが、ユズルが門へ近づいた瞬間、その男の視線が動いた。
まっすぐ、ユズルを見る。
いや。
ユズルの隣にいる、見えないはずの黒い子牛を見たような気がした。
ユズルの背筋が冷える。
男は微笑んだ。
その笑みは、船で出会った大柄な男のものとは違っていた。
怒りも、威圧も、粗暴さもない。
ただ、楽しそうだった。
それが、どうしようもなく怖かった。
ニカが横で小さく呟く。
「……あれ、ヤバいやつだね」
ボルドの表情からも、笑みが消えていた。
モゼが淡々と言う。
「受験番号百一番。ヒソカ」
ヒソカ。
その名前を、ユズルはまだ知らない。
けれど、体は先に理解していた。
世界には、こういう人間がいる。
村にはいなかった。
船にも、受付にも、森にもいなかった。
まるで、形をした危険そのもの。
ヒソカはユズルを見て、ほんの少し首を傾げた。
そして、楽しそうに笑った。
黒い子牛が、ユズルの前に一歩出る。
まだ何も始まっていない。
けれど、ユズルは直感した。
ハンター試験は、想像よりずっと怖い。
それでも。
門は開いている。
ユズルは震える手で、番号札を握りしめた。
二百四十一番。
自分で選んで、ここまで来た。
黒い子牛が、低く言った。
「立て」
ユズルは、小さく頷いた。
そして、門の内側へ足を踏み入れた。