巡る獣暦   作:ギガマツタケ

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第3話 チカロウ×センタク×シンジン

 門の内側は、地下へ続いていた。

 

 石造りの階段が、暗い口を開けている。

 降りていく先は見えない。壁に取り付けられた小さな灯りが、一定の間隔でぼんやりと揺れていた。

 

 ユズルは門をくぐった瞬間、空気が変わったのを感じた。

 

 森の湿った匂いが消える。

 かわりに、冷たい石と、古い水と、人の汗の匂いがした。

 

 地下だ。

 

 そう思っただけで、胸が少し詰まる。

 

 山奥の村で育ったユズルにとって、暗い場所そのものは珍しくない。夜の森も、冬の蔵も、祭りの時に使う古い洞窟も知っている。

 

 けれど、ここは違った。

 

 外と繋がっている安心感がない。

 空が見えない。

 風の流れも弱い。

 

 逃げ道を確認しようとして、ユズルはすぐに自分の癖に気づいた。

 

 また、逃げる道を探している。

 

 隣の黒い子牛が、石の床に蹄を置いた。

 

 丑は隠で姿を伏せたまま、ユズルの横にいる。

 ユズルにははっきり見えているが、周囲の受験者たちには見えていない。

 

 しかし、完全に気づかれていないわけではない。

 

 門の前で出会った男――ヒソカは、地下へ降りる前に一度だけこちらを見た。

 

 カードを指で弄びながら、薄く笑っていた。

 

 目が合ったわけではない。

 それなのに、ユズルは自分の内側を撫でられたような気がした。

 

 黒い子牛の存在を、見えないはずの何かを、ヒソカは感じ取ったのかもしれない。

 

 それが怖かった。

 

 ヒソカは何も言わず、他の受験者たちの中へ紛れていった。

 紛れる、という言葉が正しいのか分からない。彼は人混みの中にいても、まるでそこだけ色が違うように浮いて見えた。

 

 受験番号百一番。ヒソカ。

 

 ユズルはその番号と名前を、忘れないだろうと思った。

 

「行くよ、二百四十一番」

 

 隣からニカが言った。

 

 彼女は軽く肩を回し、面白がるように地下の階段を覗き込んでいる。

 恐怖がないわけではないのだろう。だが、それを表に出す気はなさそうだった。

 

「はい」

 

「返事が固い」

 

「……うん」

 

「それも固い」

 

 ニカは笑った。

 

 ユズルはどう答えればいいか分からず、曖昧に頷いた。

 

 少し離れたところで、ボルド老人が杖をつきながら立っている。

 その顔には、先ほどまでの飄々とした笑みが戻っていた。

 

「地下か。今回は落ちにくそうで助かる」

 

「前回、崖から落ちたんですよね」

 

「うむ。地下なら少なくとも、上から下へ落ちる距離は限られる」

 

「そういう問題なんですか」

 

「そういう問題だ」

 

 ボルドは真顔だった。

 

 ユズルは少しだけ笑いそうになった。

 

 その時、階段の奥から低い音が響いた。

 

 ごうん。

 

 何か大きな扉が開く音。

 

 受験者たちのざわめきが、一瞬だけ小さくなる。

 

 案内人のモゼが、階段の前に立った。

 

「ここから先は、正式な試験会場だ。俺の案内はここまで。以降は試験官の指示に従え」

 

 それだけ言うと、モゼは階段の脇に下がった。

 

 受験者たちが、次々と地下へ降りていく。

 

 ユズルもその流れに続いた。

 

 石段は思ったより長かった。

 

 降りても、降りても、下が続く。

 壁の灯りが背後へ流れていく。足音が反響し、何十、何百もの人間が歩いているはずなのに、音が一つの大きな生き物の呼吸のように聞こえた。

 

 黒い子牛はユズルの隣を歩いている。

 

 階段を下りるたびに、ユズルは自分の呼吸を意識した。

 

 吸う。

 吐く。

 吸う。

 吐く。

 

 落ち着け。

 

 まだ試験は始まってすらいない。

 

 下りきった先には、広い地下空間があった。

 

 天井は高く、壁は荒い岩肌で、ところどころから水が滲んでいた。

 床は石畳だが、湿って滑りやすそうだった。

 

 地下空間の中央には、円形の広場があった。

 その周囲には、無数の通路が口を開けている。

 

 右へ伸びる道。

 左へ曲がる道。

 坂道。

 階段。

 鉄格子の奥へ続く道。

 灯りのない暗い道。

 水音のする道。

 生暖かい風が吹いてくる道。

 

 まるで、地下に作られた迷宮だった。

 

 ユズルは息を呑んだ。

 

 ここが、正式な試験会場。

 

 すでに多くの受験者が集まっていた。

 ざっと見ただけでも二百人近くいる。

 

 ユズルが牛鍋亭に辿り着くまでの間に、他の案内人に導かれた受験者たちも集まっていたのだろう。

 別の道から来た者。別の町から来た者。最初からこの地下入口を知っていた者。

 

 誰もが、自分だけは落ちないという顔をしていた。

 

 いや、そう見えるだけかもしれない。

 本当はみんな不安なのかもしれない。

 

 けれど少なくとも、ユズルほど顔に出している者は少なそうだった。

 

 ヒソカは、少し離れた石柱のそばにいた。

 

 壁にもたれ、カードを一枚、指先で回している。

 まるで退屈な待ち時間を楽しんでいるようだった。

 

 周囲の受験者たちは、無意識に彼から距離を取っている。

 

 ユズルも見ないようにした。

 

 見ないようにしているのに、意識はそちらへ引っ張られる。

 

 その時だった。

 

「やあ」

 

 背後から、妙に親しげな声がした。

 

 ユズルは振り返った。

 

 そこにいたのは、丸顔の男だった。

 背はそれほど高くない。体つきは柔らかく、どこか人のよさそうな笑みを浮かべている。年齢は三十前後だろうか。服装も目立たない。受験者たちの中では、むしろ普通に見える。

 

 だからこそ、少し不思議だった。

 

 この場で普通に見えることが、逆に目立っている。

 

「初めてだろ?」

 

 男はユズルに笑いかけた。

 

「え」

 

「顔で分かるよ。緊張しすぎ」

 

 ユズルは言葉に詰まった。

 

 同じことを、今日だけで何度言われただろう。

 

「俺はトンパ。よろしくな」

 

 男は、軽く手を差し出した。

 

 ユズルは少し迷ってから、その手を握った。

 

「ユズルです」

 

「ユズルか。いい名前だな。ジャポン出身?」

 

「はい」

 

「へえ。珍しいな。俺、ハンター試験は何度も受けてるからさ。分からないことがあったら聞いてくれよ」

 

 何度も受けている。

 

 ユズルは少し安心しかけた。

 

 経験者。

 親切そう。

 話しやすい。

 

 こういう人がいるなら、少し心強いかもしれない。

 

 そう思った瞬間、黒い子牛がユズルを見た。

 

 じっと。

 

 何も言わずに。

 

 ユズルの胸に、小さな引っかかりが生まれる。

 

 トンパは懐から缶を一本取り出した。

 

「ほら。緊張して喉渇いてるだろ。飲むか?」

 

 缶には果物の絵が描かれていた。

 

 ユズルは反射的に受け取りかけた。

 

 喉は乾いている。

 地下の空気は冷たいのに、緊張で口の中が乾いていた。

 

 だが、手が缶に触れる寸前で止まった。

 

 黒い子牛が、まだこちらを見ている。

 

 逃げろとも言わない。

 立てとも言わない。

 

 ただ、見ている。

 

 ユズルは、さっき受付の女性に言われた言葉を思い出した。

 

 この町には、受験者を狙う詐欺師、盗賊、偽案内人、情報屋が多数います。協会は関知しません。

 

 そしてニカの言葉。

 

 初受験は、優しい奴から食われる。

 

 まだ言われていない。

 けれど、そんな気がした。

 

 ユズルは手を引いた。

 

「すみません。自分の水があります」

 

 トンパは一瞬だけ目を細めた。

 

 本当に一瞬だった。

 

 すぐに笑顔に戻る。

 

「そっか。用心深いな。いいことだ」

 

「ありがとうございます」

 

「謝るし礼も言うし、忙しいな君」

 

 横からニカの声がした。

 

 彼女はいつの間にか近くに立っていた。

 トンパを見て、口元だけで笑う。

 

「久しぶり、トンパ」

 

「おや、ニカちゃん。今年もいたのか」

 

「それ、こっちの台詞」

 

「俺は受験が趣味みたいなもんだからね」

 

「新人潰しが趣味の間違いでしょ」

 

 ユズルは瞬きをした。

 

 新人潰し。

 

 その言葉の意味を理解するのに、一拍かかった。

 

 トンパは困ったように笑った。

 

「人聞き悪いなあ。俺はただ、新人にハンター試験の厳しさを教えてるだけだよ」

 

「そのジュースで?」

 

「水分補給は大事だろ」

 

 ニカは鼻で笑った。

 

「飲まなくて正解、二百四十一番」

 

 ユズルは、背筋が冷えるのを感じた。

 

 もし受け取っていたら。

 もし飲んでいたら。

 

 どうなっていたのかは分からない。

 だが、良いことにはならなかったのだろう。

 

 トンパは肩をすくめた。

 

「失礼だなあ。俺は親切心で」

 

「はいはい」

 

 ニカは興味を失ったように視線を外した。

 

 トンパは笑ったまま、ユズルを見た。

 

「まあ、また後でな。ユズルくん」

 

「……はい」

 

 ユズルはぎこちなく頷いた。

 

 トンパは別の初受験者らしき若者へ近づいていく。

 同じように笑顔で話しかけ、缶を差し出していた。

 

 その若者は、嬉しそうに受け取った。

 

 ユズルは声をかけそうになった。

 

 やめた方がいい、と。

 

 しかし、言葉が喉で止まった。

 

 言うべきか。

 言っていいのか。

 余計なことか。

 確証はあるのか。

 トンパが本当に何か仕込んでいると、自分は見たのか。

 

 迷っているうちに、若者は缶を開けて飲んだ。

 

 トンパはにこにこ笑っている。

 

 ユズルの胸が、重くなった。

 

 ニカが隣で言った。

 

「全部助けようとすると、最初にあんたが潰れるよ」

 

「でも」

 

「今のは自分で飲んだ。ここはそういう場所」

 

 ユズルは何も言えなかった。

 

 黒い子牛は、黙っていた。

 

 その沈黙が、ユズルには重かった。

 

 助けること。

 見捨てること。

 関わること。

 関わらないこと。

 

 まだ試験が始まる前から、選ばなければならないことばかりだった。

 

 その時、地下空間の奥から足音が響いた。

 

 こつん。

 こつん。

 こつん。

 

 受験者たちの視線が、一斉にそちらへ向く。

 

 奥の通路から、一人の男が現れた。

 

 長身で、痩せている。

 年齢は四十代半ばほどだろうか。短く刈った髪に、深い目元。服装は地味だが、腰には古い地図筒のようなものを吊っている。肩には小さなランプ。靴は泥で汚れていた。

 

 戦士というより、探索者に見える男だった。

 

 男は地下広場の中央に立つと、受験者たちを見渡した。

 

「第286期ハンター試験、一次試験を開始する」

 

 声は大きくない。

 けれど、地下空間の隅までよく通った。

 

 ざわめきが消える。

 

「私は一次試験官、ラゴウ。遺跡調査を専門とするハンターだ」

 

 ラゴウ。

 

 ユズルはその名を覚えた。

 

 ラゴウは背後の無数の通路を指した。

 

「見ての通り、この地下には多数の道がある。ここは、かつて採掘坑として使われ、その後放棄された地下迷路だ。現在はハンター協会が管理している」

 

 受験者たちが通路を見る。

 

 暗い口が、こちらを待っているように並んでいた。

 

「一次試験の内容は単純だ。制限時間内に、この地下迷路の出口へ到達しろ」

 

 誰かが笑った。

 

「迷路かよ。子どもの遊びだな」

 

 ラゴウは表情を変えなかった。

 

「そう思うなら、それで構わない」

 

 その一言で、笑った受験者の顔が少し引きつった。

 

 ラゴウは続ける。

 

「出口は一つではない。道も一つではない。正解の道は存在しない。お前たちが選んだ道が、お前たちにとっての道になる」

 

 ユズルの胸に、その言葉が沈んだ。

 

 正解の道は存在しない。

 

「通路には罠がある。落とし穴、崩落床、毒針、偽の標識、偽の出口、方向感覚を狂わせる音響装置。そして、この地下に住み着いた危険生物もいる」

 

 危険生物。

 

 その言葉に、受験者の何人かが顔色を変えた。

 

「協会の管理下にはあるが、安全は保証しない。死亡しても責任は取らない。途中で引き返してこの広場へ戻った者は失格とする。時間切れも失格。出口に到達できれば一次試験通過だ」

 

 別の受験者が手を上げた。

 

「制限時間は?」

 

「三時間」

 

 地下空間がざわついた。

 

 三時間。

 

 長いのか短いのか、分からない。

 

「持ち物の使用は自由。他受験者との協力も妨害も自由。ただし、試験官への攻撃、および地下構造そのものを大規模に破壊する行為は禁止する」

 

 ラゴウは淡々と言った。

 

「ハンターに必要なのは、進む力だけではない。疑う目、戻らない覚悟、危険を避ける判断。そして、選んだ道を歩き切る足だ」

 

 ユズルは思わず、隣の黒い子牛を見た。

 

 丑は動かない。

 

 ただ、ラゴウを見ている。

 

「開始は、今から五分後。通路は好きに選べ。以上だ」

 

 ラゴウはそれだけ言うと、広場の端へ下がった。

 

 地下空間が一気に騒がしくなる。

 

 受験者たちが動き始めた。

 

 通路を観察する者。

 仲間を集める者。

 地図を書き始める者。

 ラゴウに質問しようとして無視される者。

 他人の行動をじっと見る者。

 

 ユズルは立ち尽くした。

 

 道を選ぶ。

 

 それだけなのに、体が重い。

 

 どの道がいい。

 誰について行く。

 単独で行くか。

 誰かと組むか。

 罠が多い道は避けるべきか。

 でも遠回りなら時間切れになる。

 危険生物がいるなら、どう対処する。

 

 考えが次々に浮かび、まとまらない。

 

 ニカが横で通路を眺めている。

 

「私はあっち」

 

 彼女は迷いなく、左から二番目の通路を指した。

 

「もう決めたんですか」

 

「うん。臭いが薄い。たぶん危険生物は少ない。その代わり罠は多そうだけど」

 

「どうして分かるんですか」

 

「分かるんじゃなくて、そう決めたの」

 

 ニカはユズルを見た。

 

「考えても全部は分からないよ。だから選ぶ」

 

 その言葉は、ユズルに刺さった。

 

 選ぶ。

 

 分かったから選ぶのではない。

 分からないまま、選ぶ。

 

 ボルドは右端の通路を見ていた。

 

「ワシはあちらにする」

 

「なぜですか」

 

「空気が乾いておる。膝に優しい」

 

「それで決めるんですか」

 

「三時間歩くには重要だ」

 

 ボルドは真顔だった。

 

「それに、年寄りは近道に向かぬ」

 

 そう言って、杖を軽く鳴らした。

 

 トンパは、すでに数人の新人を集めていた。

 

「こっちの通路が安全だ。俺、似たような試験を受けたことがあるからさ」

 

 彼は親切そうに言っている。

 

 数人の若い受験者が、彼の言葉を信じたように頷いていた。

 さっき缶を飲んだ若者もそこにいる。

 

 ユズルは眉を寄せた。

 

 トンパの指している通路は、入り口だけ見ると安全そうだった。

 灯りが多く、床も乾いている。壁も広い。

 

 けれど、なぜだろう。

 

 ユズルには、そこが逆に不気味に見えた。

 

 整いすぎている。

 人を誘うために、綺麗にされているような。

 

 丑は、その通路を見ていなかった。

 

 黒い子牛は、別の方向を見ている。

 

 中央より少し右。

 灯りが少なく、床が湿っている通路だった。

 入口の石は苔で黒ずみ、奥から水音が聞こえてくる。

 

 多くの受験者が避けていた。

 

 滑りやすそうだからだ。

 危険生物がいそうだからだ。

 暗いからだ。

 

 ユズルも、正直行きたくなかった。

 

 怖い。

 

 だが、なぜか気になった。

 

 丑が見ているから、というだけではない。

 

 あの通路は、速く走れなさそうだった。

 誰かが無理に突っ込めば、転ぶだろう。

 逆に言えば、慎重に進む者には向いているかもしれない。

 

 ユズルは自分の足元を見た。

 

 自分は速くない。

 戦闘も得意ではない。

 派手な判断もできない。

 

 けれど、山道を一歩ずつ進むことなら、知っている。

 

 黒い子牛が、ユズルを見た。

 

「……あそこにする」

 

 ユズルは小さく言った。

 

 ニカが眉を上げる。

 

「あそこ? 湿ってるよ」

 

「はい」

 

「危険生物もいそう」

 

「はい」

 

「なんで?」

 

 ユズルは少し考えた。

 

 うまく言葉にできない。

 

「急がなくても、進めそうだから」

 

 ニカは一瞬だけ黙った後、ふっと笑った。

 

「変なの」

 

「すみません」

 

「謝るところじゃない」

 

 ボルドが楽しそうに頷いた。

 

「悪くない。自分の足に合う道を選ぶのは大事だ」

 

 ラゴウの声が響いた。

 

「開始一分前」

 

 地下空間の緊張が高まる。

 

 受験者たちは、それぞれの通路の前へ散った。

 

 ユズルは、中央より少し右の湿った通路の前に立った。

 

 同じ道を選んだ者は少ない。

 ユズルの他には、細身の青年が一人、無表情の大柄な女が一人、そして、見覚えのある男が一人。

 

 船の中で老人と女性を脅していた、大柄な男だった。

 

 ユズルは息を呑んだ。

 

 男もこちらに気づく。

 

「またお前か、坊主」

 

 低く笑う。

 

 ユズルは目を逸らしそうになった。

 

 でも、逸らさなかった。

 

 ここで会うのか。

 この道で。

 自分が選んだ道で。

 

 黒い子牛が、ユズルの横に立つ。

 

 大柄な男は、ユズルの反応を見てにやりとした。

 

「今度は船員もいねぇぞ」

 

 ユズルは黙った。

 

 何か言い返せば、喧嘩になる。

 何も言わなければ、舐められる。

 

 どうすればいいか分からない。

 

 けれど、今はそれより大事なことがある。

 

 この道を進むこと。

 

 ラゴウが片手を上げた。

 

「始め」

 

 その瞬間、受験者たちが一斉に通路へ飛び込んだ。

 

 ユズルも走り出す。

 

 湿った通路の中は、想像以上に滑りやすかった。

 

 床に薄く水が張っている。

 石の隙間には苔が生え、足を置く場所を間違えれば簡単に転びそうだった。

 

 ユズルは速度を落とした。

 

 焦るな。

 三時間以内に出口へ着く必要はある。

 でも転べば終わる。

 

 黒い子牛が、ユズルの横を進む。

 

 ゆっくり。

 確実に。

 

 丑の月。

 

 急がず、止まらず、進む。

 

 大柄な男は違った。

 

 男は力任せに走っていく。

 湿った床など気にしない。多少滑っても、脚力で押し切るつもりなのだろう。

 

 細身の青年は壁際を器用に進み、大柄な女は無言で一定の速度を保っている。

 

 ユズルは一番遅かった。

 

 焦りが胸に広がる。

 

 このままでは置いていかれる。

 時間に間に合わないかもしれない。

 

 足を速めようとした瞬間、黒い子牛が視界の端で止まった。

 

 ユズルも足を止めかける。

 

 次の瞬間、前方で大柄な男が舌打ちした。

 

「何だ、これ」

 

 通路の先に、広い水たまりがあった。

 

 いや、水たまりではない。

 浅い地下水路のようなものが、通路を横切っている。

 

 水面は黒く、底は見えない。

 幅はそれほど広くない。跳べなくはない。だが、向こう側の石も濡れている。

 

 男は迷わず跳んだ。

 

 巨体が宙を越え、向こう岸へ着地する。

 

 その瞬間、水面が跳ねた。

 

 何か細長いものが、水の中から伸びた。

 

 蛇、ではない。

 

 もっと太い。

 もっと短く、ぬめっている。

 

 灰色の鞭のような触手が、男の足首に巻きついた。

 

「うおっ!?」

 

 男が体勢を崩す。

 

 水面がさらに盛り上がった。

 

 そこから現れたのは、巨大な蛭のような生き物だった。

 目はなく、円形の口だけがあり、その周囲に小さな歯がびっしり並んでいる。

 

 危険生物。

 

 ユズルの喉がひゅっと鳴った。

 

 大柄な男は刃物を抜き、足首に絡む触手を切った。

 

「気持ちわりぃ!」

 

 水面から、同じような触手がいくつも伸びる。

 

 細身の青年はそれを見て、跳ぶのをやめた。

 大柄な女も足を止める。

 

 ユズルは水路を見た。

 

 幅は跳べる。

 だが、飛び越えようとすれば襲われる。

 水の中を歩くのは論外だ。

 

 どうする。

 

 戻るか。

 別の道を探すか。

 でも戻れば時間を失う。

 

 大柄な男は、触手を切り払いながら怒鳴った。

 

「さっさと来い! こいつら、切れば終わりだ!」

 

 そう言いながら、彼はさらに奥へ進もうとする。

 

 その時、足元の石が崩れた。

 

 男の体が傾く。

 

 水路の向こう岸は、濡れているだけではなかった。

 一部が脆くなっている。

 

 力任せに着地すれば崩れる。

 

 男は舌打ちし、壁に手をついて体勢を立て直した。

 

 ユズルは息を吸った。

 

 無理に跳ぶと危ない。

 でも、ゆっくり行けば触手に捕まる。

 

 黒い子牛が、水路の手前に立った。

 

 丑は何も言わない。

 

 ユズルは周囲を見た。

 

 通路の左側、壁から古い鉄杭がいくつか突き出ている。

 昔、採掘用の足場でもあったのだろうか。錆びているが、完全には折れていない。

 

 右側には、崩れた木材が積まれている。

 濡れて重そうだが、一本だけなら動かせそうだった。

 

 ユズルは木材へ駆け寄った。

 

 細身の青年がこちらを見る。

 

「何をする気だ」

 

「橋にします」

 

「そんな時間があるか」

 

「跳ぶよりは、落ちにくいと思います」

 

 ユズルは木材を持ち上げようとした。

 

 重い。

 

 肩に力を入れる。

 木材は少し動いたが、一人では厳しい。

 

 大柄な女が無言で近づいてきた。

 

 彼女は木材の反対側を掴む。

 

「……ありがとうございます」

 

 女は答えなかった。

 

 細身の青年も、少し迷ってから手を貸した。

 

 三人で木材を持ち上げ、水路に渡す。

 

 触手が水面から伸びる。

 

 ユズルは思わず下がりかけた。

 

 その瞬間、黒い子牛が前に出た。

 

 ユズルは唇を噛む。

 

 ここか。

 ここで立つのか。

 

 木材を渡しきるまで、少しだけ時間がいる。

 その間、触手に邪魔されれば落ちる。

 

 守る場所。

 

 水路の手前。

 木材を渡す、この一点。

 

 ユズルは声に出した。

 

「ここは、崩させません」

 

 黒い子牛の体が、少し大きくなる。

 

 省エネ状態の小さな姿から、密度が増す。

 隠は維持されている。周囲の受験者には見えない。けれど、空気が重くなった。

 

 足元の石が、根を張るように沈む。

 

 触手が伸びてくる。

 

 ユズルは逃げなかった。

 

 不動の牛歩。

 

 触手が、ユズルの足元の空間にぶつかるように止まる。

 

 完全には防げない。

 ぬめった先端が靴に触れ、ぞっとする冷たさが伝わる。

 

 だが、押し切られない。

 

「今です!」

 

 ユズルが叫ぶ。

 

 大柄な女と細身の青年が木材を押し込む。

 木材が水路の向こう岸に届いた。

 

 簡易の橋。

 

 完璧ではない。

 濡れていて滑るし、触手も伸びてくる。

 

 それでも、跳ぶよりはましだ。

 

 細身の青年が先に渡った。

 次に大柄な女。

 ユズルは最後に渡ろうとした。

 

 その時、背後から足音が聞こえた。

 

 別の受験者たちが追いついてきたのだ。

 数人が、木材の橋を見て目の色を変えた。

 

「おい、早く渡れ!」

 

「邪魔だ!」

 

 押される。

 

 ユズルの背中に肩がぶつかった。

 

 まずい。

 

 このまま押されれば、水路に落ちる。

 

 ユズルは踏みとどまった。

 

 黒い子牛が、ユズルの横に立つ。

 

 不動の牛歩は、今この場所を守っている。

 水路の手前。

 橋を渡す場所。

 

 だが、それは永遠ではない。

 

 ユズルのオーラが削られていく感覚がある。

 息が苦しい。

 足が震える。

 

 大柄な男が向こう岸から怒鳴った。

 

「何やってんだ、坊主! 早く来い!」

 

 ユズルは、歯を食いしばった。

 

「一人ずつです!」

 

 背後の受験者が怒鳴る。

 

「仕切ってんじゃねぇ!」

 

 ユズルは振り返った。

 

 怖かった。

 怒鳴られるのは苦手だ。

 睨まれるのも苦手だ。

 

 でも、ここで全員が押し合えば落ちる。

 

 それは分かる。

 

 分かるなら、言わなければいけない。

 

「押したら、全員落ちます!」

 

 声が震えた。

 

 それでも、言った。

 

「一人ずつ渡ってください!」

 

 背後の受験者たちは、一瞬止まった。

 

 その一瞬で十分だった。

 

 細身の青年が向こう側から言う。

 

「その方が早い。押すな」

 

 大柄な女も無言で頷く。

 

 場の流れが少しだけ変わった。

 

 一人。

 また一人。

 

 受験者たちが木材を渡る。

 

 ユズルは最後まで水路の手前に立っていた。

 

 触手が何度も足元を叩く。

 水が跳ねる。

 靴が濡れる。

 

 でも、退かなかった。

 

 その代わり、体の奥から何かが削られていく感覚があった。

 

 息が苦しい。

 足が震える。

 ただ走って疲れた時とは違う。体力ではなく、体の内側にある熱のようなものが、少しずつ抜けていく。

 

 丑は強い。

 

 けれど、ただそこにいるだけの時と、能力を発動している時とではまったく違う。

 

 ヤクモは言っていた。

 

『お前の発は形になってる。けど、燃費が悪い。力の出し方も、止め方も、まだ雑だ』

 

『怖いからって全部を獣に預けるな。そうすれば、お前の方が先に空になる』

 

 今なら、その意味が分かった。

 

 不動の牛歩は、何でも受け止める力ではない。

 ユズルが決めた一点に、ユズル自身のオーラを縫い止める力だ。

 

 だから、長く続ければ続けるほど、自分の中身が削れていく。

 

 最後の一人が渡った後、ユズルはようやく木材の上に足を置いた。

 

 その瞬間、黒い子牛の密度が薄れる。

 

 足元の重さが消える。

 

 急に体が軽くなり、逆にふらついた。

 

「危ない!」

 

 向こう岸の大柄な女が、ユズルの腕を掴んだ。

 

 ユズルは何とか水路を渡りきった。

 

「ありがとうございます」

 

 女は短く言った。

 

「礼は後」

 

「はい」

 

 その言葉に、ニカを思い出した。

 

 礼も謝罪も、今はいらない。

 進むことが先。

 

 ユズルは走り出した。

 

 水路を越えた先は、さらに複雑だった。

 

 通路は何度も曲がり、ところどころに偽の標識があった。

 出口はこちら。

 安全路。

 近道。

 右へ行け。

 左へ行け。

 

 どれも信用できない。

 

 床には、落とし穴の跡があった。

 壁には毒針らしき穴。

 天井からは、ときどき小さな石が落ちてくる。

 

 危険生物も、蛭だけではなかった。

 

 壁の色と同化した大きな蜥蜴。

 音に反応して飛びかかる蝙蝠の群れ。

 暗がりで光る小さな目。

 人の声に似た鳴き声。

 

 念ではない。

 ただの生き物。

 ただし、人間を殺すには十分な生き物。

 

 ユズルは、何度も立ち止まりそうになった。

 

 そのたびに、丑を見る。

 

 急がない。

 でも止まらない。

 

 それが、今のユズルに必要なことだった。

 

 時間は分からない。

 

 すでに一時間は経っているだろうか。

 もっとかもしれない。

 地下では感覚が狂う。

 

 途中で、トンパに連れられていた新人の一人を見かけた。

 

 壁にもたれ、腹を押さえて座り込んでいる。

 顔色が悪い。

 

 おそらく、あの缶を飲んだ若者だった。

 

 ユズルは足を止めた。

 

 若者は苦しそうに息をしている。

 

「……大丈夫ですか」

 

 声をかけると、若者は薄く目を開けた。

 

「腹が……急に……」

 

 やはり。

 

 ユズルの胸が重くなる。

 

 トンパは、いない。

 

 置いていったのだ。

 

 ユズルは水筒を取り出しかけた。

 

 しかし、黒い子牛が見ている。

 

 今ここで、何ができる。

 

 毒なのか。

 ただの腹痛なのか。

 自分に治療はできない。

 水を飲ませていいのかも分からない。

 

 それに、ここで時間を使えば、自分も間に合わなくなるかもしれない。

 

 若者は震える声で言った。

 

「行けよ……俺は、もう無理だ」

 

「でも」

 

「行けって……」

 

 ユズルは唇を噛んだ。

 

 助けたい。

 でも、助け方が分からない。

 

 中途半端に関われば、かえって危険かもしれない。

 

 ユズルは、若者のそばに自分の予備の水筒を置いた。

 

「飲めるなら、少しずつ。無理なら飲まないでください」

 

「……お人好し」

 

「すみません」

 

「謝るなよ」

 

 若者は苦しそうに笑った。

 

 ユズルは頭を下げ、走り出した。

 

 助けたわけではない。

 見捨てたわけでもない。

 

 ただ、自分にできることを少しだけ置いてきた。

 

 それが正しいのかは分からない。

 

 でも、今は進むしかない。

 

 通路の先で、風が変わった。

 

 湿った空気の中に、外の匂いが混ざる。

 

 土。

 草。

 冷たい空気。

 

 出口が近い。

 

 ユズルは走った。

 

 足は重い。

 肩は痛い。

 オーラも削られている。

 呼吸は荒い。

 

 それでも、走った。

 

 最後の角を曲がると、光が見えた。

 

 狭い石段。

 その先に、白い光。

 

 ユズルは階段を駆け上がった。

 

 眩しさに目を細める。

 

 外だった。

 

 地下迷路の出口は、森の中の別の場所に繋がっていた。

 そこには広い空き地があり、すでに何人もの受験者が到着していた。

 

 ラゴウが立っている。

 

 横には大きな砂時計。

 砂はまだ落ち切っていない。

 

 間に合った。

 

 ユズルは膝に手をついた。

 

 息が苦しい。

 全身が汗で濡れている。

 

 でも、立っていた。

 

 倒れなかった。

 

 ラゴウが番号札を確認する。

 

「二百四十一番。通過」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ユズルの体から力が抜けそうになった。

 

 しかし、座らなかった。

 

 黒い子牛が隣に立っている。

 

 ユズルは小さく笑った。

 

「……立ってるよ」

 

 丑は、短く鼻を鳴らした。

 

 少し離れたところに、ニカがいた。

 彼女は腕を組み、こちらを見ている。

 

「遅かったね」

 

「すみません」

 

「だから謝るなって」

 

 ニカは呆れたように言いながらも、少しだけ笑っていた。

 

 ボルドもいた。

 

「落ちなんだな」

 

「はい」

 

「ワシも落ちなんだ」

 

「よかったです」

 

 ボルドは満足そうに頷く。

 

 その少し先に、ヒソカがいた。

 

 彼は涼しい顔で立っている。

 服も乱れていない。呼吸も乱れていない。

 

 まるで、地下迷路そのものが退屈な散歩道だったかのように。

 

 ヒソカはユズルに気づくと、ほんの少しだけ目を細めた。

 

 また、見られた。

 

 ユズルの背筋が冷える。

 

 ヒソカは何も言わない。

 ただ、薄く笑った。

 

 その笑みに、ユズルは思った。

 

 この試験は、まだ始まったばかりだ。

 

 地下迷路を抜けた。

 一次試験を通過した。

 

 けれど、本当に怖いものは、まだ地下の中ではなく、ここにいる人間たちの中にあるのかもしれない。

 

 ラゴウが全体へ向けて言った。

 

「制限時間終了まで、あと二十分。二次試験は通過者が揃い次第、移動して開始する」

 

 ユズルは息を整えながら、森の向こうを見た。

 

 まだ出口から、何人かの受験者が出てくる。

 

 だが、出てこない者もいる。

 

 トンパの姿は、まだなかった。

 

 あの新人も、いない。

 

 ユズルは胸の奥に残る重さを感じた。

 

 全員を助けることはできない。

 

 でも、何もしない自分にはなりたくない。

 

 その間で、どう立つのか。

 

 丑の月は、まだ始まったばかりだった。

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