門の内側は、地下へ続いていた。
石造りの階段が、暗い口を開けている。
降りていく先は見えない。壁に取り付けられた小さな灯りが、一定の間隔でぼんやりと揺れていた。
ユズルは門をくぐった瞬間、空気が変わったのを感じた。
森の湿った匂いが消える。
かわりに、冷たい石と、古い水と、人の汗の匂いがした。
地下だ。
そう思っただけで、胸が少し詰まる。
山奥の村で育ったユズルにとって、暗い場所そのものは珍しくない。夜の森も、冬の蔵も、祭りの時に使う古い洞窟も知っている。
けれど、ここは違った。
外と繋がっている安心感がない。
空が見えない。
風の流れも弱い。
逃げ道を確認しようとして、ユズルはすぐに自分の癖に気づいた。
また、逃げる道を探している。
隣の黒い子牛が、石の床に蹄を置いた。
丑は隠で姿を伏せたまま、ユズルの横にいる。
ユズルにははっきり見えているが、周囲の受験者たちには見えていない。
しかし、完全に気づかれていないわけではない。
門の前で出会った男――ヒソカは、地下へ降りる前に一度だけこちらを見た。
カードを指で弄びながら、薄く笑っていた。
目が合ったわけではない。
それなのに、ユズルは自分の内側を撫でられたような気がした。
黒い子牛の存在を、見えないはずの何かを、ヒソカは感じ取ったのかもしれない。
それが怖かった。
ヒソカは何も言わず、他の受験者たちの中へ紛れていった。
紛れる、という言葉が正しいのか分からない。彼は人混みの中にいても、まるでそこだけ色が違うように浮いて見えた。
受験番号百一番。ヒソカ。
ユズルはその番号と名前を、忘れないだろうと思った。
「行くよ、二百四十一番」
隣からニカが言った。
彼女は軽く肩を回し、面白がるように地下の階段を覗き込んでいる。
恐怖がないわけではないのだろう。だが、それを表に出す気はなさそうだった。
「はい」
「返事が固い」
「……うん」
「それも固い」
ニカは笑った。
ユズルはどう答えればいいか分からず、曖昧に頷いた。
少し離れたところで、ボルド老人が杖をつきながら立っている。
その顔には、先ほどまでの飄々とした笑みが戻っていた。
「地下か。今回は落ちにくそうで助かる」
「前回、崖から落ちたんですよね」
「うむ。地下なら少なくとも、上から下へ落ちる距離は限られる」
「そういう問題なんですか」
「そういう問題だ」
ボルドは真顔だった。
ユズルは少しだけ笑いそうになった。
その時、階段の奥から低い音が響いた。
ごうん。
何か大きな扉が開く音。
受験者たちのざわめきが、一瞬だけ小さくなる。
案内人のモゼが、階段の前に立った。
「ここから先は、正式な試験会場だ。俺の案内はここまで。以降は試験官の指示に従え」
それだけ言うと、モゼは階段の脇に下がった。
受験者たちが、次々と地下へ降りていく。
ユズルもその流れに続いた。
石段は思ったより長かった。
降りても、降りても、下が続く。
壁の灯りが背後へ流れていく。足音が反響し、何十、何百もの人間が歩いているはずなのに、音が一つの大きな生き物の呼吸のように聞こえた。
黒い子牛はユズルの隣を歩いている。
階段を下りるたびに、ユズルは自分の呼吸を意識した。
吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
落ち着け。
まだ試験は始まってすらいない。
下りきった先には、広い地下空間があった。
天井は高く、壁は荒い岩肌で、ところどころから水が滲んでいた。
床は石畳だが、湿って滑りやすそうだった。
地下空間の中央には、円形の広場があった。
その周囲には、無数の通路が口を開けている。
右へ伸びる道。
左へ曲がる道。
坂道。
階段。
鉄格子の奥へ続く道。
灯りのない暗い道。
水音のする道。
生暖かい風が吹いてくる道。
まるで、地下に作られた迷宮だった。
ユズルは息を呑んだ。
ここが、正式な試験会場。
すでに多くの受験者が集まっていた。
ざっと見ただけでも二百人近くいる。
ユズルが牛鍋亭に辿り着くまでの間に、他の案内人に導かれた受験者たちも集まっていたのだろう。
別の道から来た者。別の町から来た者。最初からこの地下入口を知っていた者。
誰もが、自分だけは落ちないという顔をしていた。
いや、そう見えるだけかもしれない。
本当はみんな不安なのかもしれない。
けれど少なくとも、ユズルほど顔に出している者は少なそうだった。
ヒソカは、少し離れた石柱のそばにいた。
壁にもたれ、カードを一枚、指先で回している。
まるで退屈な待ち時間を楽しんでいるようだった。
周囲の受験者たちは、無意識に彼から距離を取っている。
ユズルも見ないようにした。
見ないようにしているのに、意識はそちらへ引っ張られる。
その時だった。
「やあ」
背後から、妙に親しげな声がした。
ユズルは振り返った。
そこにいたのは、丸顔の男だった。
背はそれほど高くない。体つきは柔らかく、どこか人のよさそうな笑みを浮かべている。年齢は三十前後だろうか。服装も目立たない。受験者たちの中では、むしろ普通に見える。
だからこそ、少し不思議だった。
この場で普通に見えることが、逆に目立っている。
「初めてだろ?」
男はユズルに笑いかけた。
「え」
「顔で分かるよ。緊張しすぎ」
ユズルは言葉に詰まった。
同じことを、今日だけで何度言われただろう。
「俺はトンパ。よろしくな」
男は、軽く手を差し出した。
ユズルは少し迷ってから、その手を握った。
「ユズルです」
「ユズルか。いい名前だな。ジャポン出身?」
「はい」
「へえ。珍しいな。俺、ハンター試験は何度も受けてるからさ。分からないことがあったら聞いてくれよ」
何度も受けている。
ユズルは少し安心しかけた。
経験者。
親切そう。
話しやすい。
こういう人がいるなら、少し心強いかもしれない。
そう思った瞬間、黒い子牛がユズルを見た。
じっと。
何も言わずに。
ユズルの胸に、小さな引っかかりが生まれる。
トンパは懐から缶を一本取り出した。
「ほら。緊張して喉渇いてるだろ。飲むか?」
缶には果物の絵が描かれていた。
ユズルは反射的に受け取りかけた。
喉は乾いている。
地下の空気は冷たいのに、緊張で口の中が乾いていた。
だが、手が缶に触れる寸前で止まった。
黒い子牛が、まだこちらを見ている。
逃げろとも言わない。
立てとも言わない。
ただ、見ている。
ユズルは、さっき受付の女性に言われた言葉を思い出した。
この町には、受験者を狙う詐欺師、盗賊、偽案内人、情報屋が多数います。協会は関知しません。
そしてニカの言葉。
初受験は、優しい奴から食われる。
まだ言われていない。
けれど、そんな気がした。
ユズルは手を引いた。
「すみません。自分の水があります」
トンパは一瞬だけ目を細めた。
本当に一瞬だった。
すぐに笑顔に戻る。
「そっか。用心深いな。いいことだ」
「ありがとうございます」
「謝るし礼も言うし、忙しいな君」
横からニカの声がした。
彼女はいつの間にか近くに立っていた。
トンパを見て、口元だけで笑う。
「久しぶり、トンパ」
「おや、ニカちゃん。今年もいたのか」
「それ、こっちの台詞」
「俺は受験が趣味みたいなもんだからね」
「新人潰しが趣味の間違いでしょ」
ユズルは瞬きをした。
新人潰し。
その言葉の意味を理解するのに、一拍かかった。
トンパは困ったように笑った。
「人聞き悪いなあ。俺はただ、新人にハンター試験の厳しさを教えてるだけだよ」
「そのジュースで?」
「水分補給は大事だろ」
ニカは鼻で笑った。
「飲まなくて正解、二百四十一番」
ユズルは、背筋が冷えるのを感じた。
もし受け取っていたら。
もし飲んでいたら。
どうなっていたのかは分からない。
だが、良いことにはならなかったのだろう。
トンパは肩をすくめた。
「失礼だなあ。俺は親切心で」
「はいはい」
ニカは興味を失ったように視線を外した。
トンパは笑ったまま、ユズルを見た。
「まあ、また後でな。ユズルくん」
「……はい」
ユズルはぎこちなく頷いた。
トンパは別の初受験者らしき若者へ近づいていく。
同じように笑顔で話しかけ、缶を差し出していた。
その若者は、嬉しそうに受け取った。
ユズルは声をかけそうになった。
やめた方がいい、と。
しかし、言葉が喉で止まった。
言うべきか。
言っていいのか。
余計なことか。
確証はあるのか。
トンパが本当に何か仕込んでいると、自分は見たのか。
迷っているうちに、若者は缶を開けて飲んだ。
トンパはにこにこ笑っている。
ユズルの胸が、重くなった。
ニカが隣で言った。
「全部助けようとすると、最初にあんたが潰れるよ」
「でも」
「今のは自分で飲んだ。ここはそういう場所」
ユズルは何も言えなかった。
黒い子牛は、黙っていた。
その沈黙が、ユズルには重かった。
助けること。
見捨てること。
関わること。
関わらないこと。
まだ試験が始まる前から、選ばなければならないことばかりだった。
その時、地下空間の奥から足音が響いた。
こつん。
こつん。
こつん。
受験者たちの視線が、一斉にそちらへ向く。
奥の通路から、一人の男が現れた。
長身で、痩せている。
年齢は四十代半ばほどだろうか。短く刈った髪に、深い目元。服装は地味だが、腰には古い地図筒のようなものを吊っている。肩には小さなランプ。靴は泥で汚れていた。
戦士というより、探索者に見える男だった。
男は地下広場の中央に立つと、受験者たちを見渡した。
「第286期ハンター試験、一次試験を開始する」
声は大きくない。
けれど、地下空間の隅までよく通った。
ざわめきが消える。
「私は一次試験官、ラゴウ。遺跡調査を専門とするハンターだ」
ラゴウ。
ユズルはその名を覚えた。
ラゴウは背後の無数の通路を指した。
「見ての通り、この地下には多数の道がある。ここは、かつて採掘坑として使われ、その後放棄された地下迷路だ。現在はハンター協会が管理している」
受験者たちが通路を見る。
暗い口が、こちらを待っているように並んでいた。
「一次試験の内容は単純だ。制限時間内に、この地下迷路の出口へ到達しろ」
誰かが笑った。
「迷路かよ。子どもの遊びだな」
ラゴウは表情を変えなかった。
「そう思うなら、それで構わない」
その一言で、笑った受験者の顔が少し引きつった。
ラゴウは続ける。
「出口は一つではない。道も一つではない。正解の道は存在しない。お前たちが選んだ道が、お前たちにとっての道になる」
ユズルの胸に、その言葉が沈んだ。
正解の道は存在しない。
「通路には罠がある。落とし穴、崩落床、毒針、偽の標識、偽の出口、方向感覚を狂わせる音響装置。そして、この地下に住み着いた危険生物もいる」
危険生物。
その言葉に、受験者の何人かが顔色を変えた。
「協会の管理下にはあるが、安全は保証しない。死亡しても責任は取らない。途中で引き返してこの広場へ戻った者は失格とする。時間切れも失格。出口に到達できれば一次試験通過だ」
別の受験者が手を上げた。
「制限時間は?」
「三時間」
地下空間がざわついた。
三時間。
長いのか短いのか、分からない。
「持ち物の使用は自由。他受験者との協力も妨害も自由。ただし、試験官への攻撃、および地下構造そのものを大規模に破壊する行為は禁止する」
ラゴウは淡々と言った。
「ハンターに必要なのは、進む力だけではない。疑う目、戻らない覚悟、危険を避ける判断。そして、選んだ道を歩き切る足だ」
ユズルは思わず、隣の黒い子牛を見た。
丑は動かない。
ただ、ラゴウを見ている。
「開始は、今から五分後。通路は好きに選べ。以上だ」
ラゴウはそれだけ言うと、広場の端へ下がった。
地下空間が一気に騒がしくなる。
受験者たちが動き始めた。
通路を観察する者。
仲間を集める者。
地図を書き始める者。
ラゴウに質問しようとして無視される者。
他人の行動をじっと見る者。
ユズルは立ち尽くした。
道を選ぶ。
それだけなのに、体が重い。
どの道がいい。
誰について行く。
単独で行くか。
誰かと組むか。
罠が多い道は避けるべきか。
でも遠回りなら時間切れになる。
危険生物がいるなら、どう対処する。
考えが次々に浮かび、まとまらない。
ニカが横で通路を眺めている。
「私はあっち」
彼女は迷いなく、左から二番目の通路を指した。
「もう決めたんですか」
「うん。臭いが薄い。たぶん危険生物は少ない。その代わり罠は多そうだけど」
「どうして分かるんですか」
「分かるんじゃなくて、そう決めたの」
ニカはユズルを見た。
「考えても全部は分からないよ。だから選ぶ」
その言葉は、ユズルに刺さった。
選ぶ。
分かったから選ぶのではない。
分からないまま、選ぶ。
ボルドは右端の通路を見ていた。
「ワシはあちらにする」
「なぜですか」
「空気が乾いておる。膝に優しい」
「それで決めるんですか」
「三時間歩くには重要だ」
ボルドは真顔だった。
「それに、年寄りは近道に向かぬ」
そう言って、杖を軽く鳴らした。
トンパは、すでに数人の新人を集めていた。
「こっちの通路が安全だ。俺、似たような試験を受けたことがあるからさ」
彼は親切そうに言っている。
数人の若い受験者が、彼の言葉を信じたように頷いていた。
さっき缶を飲んだ若者もそこにいる。
ユズルは眉を寄せた。
トンパの指している通路は、入り口だけ見ると安全そうだった。
灯りが多く、床も乾いている。壁も広い。
けれど、なぜだろう。
ユズルには、そこが逆に不気味に見えた。
整いすぎている。
人を誘うために、綺麗にされているような。
丑は、その通路を見ていなかった。
黒い子牛は、別の方向を見ている。
中央より少し右。
灯りが少なく、床が湿っている通路だった。
入口の石は苔で黒ずみ、奥から水音が聞こえてくる。
多くの受験者が避けていた。
滑りやすそうだからだ。
危険生物がいそうだからだ。
暗いからだ。
ユズルも、正直行きたくなかった。
怖い。
だが、なぜか気になった。
丑が見ているから、というだけではない。
あの通路は、速く走れなさそうだった。
誰かが無理に突っ込めば、転ぶだろう。
逆に言えば、慎重に進む者には向いているかもしれない。
ユズルは自分の足元を見た。
自分は速くない。
戦闘も得意ではない。
派手な判断もできない。
けれど、山道を一歩ずつ進むことなら、知っている。
黒い子牛が、ユズルを見た。
「……あそこにする」
ユズルは小さく言った。
ニカが眉を上げる。
「あそこ? 湿ってるよ」
「はい」
「危険生物もいそう」
「はい」
「なんで?」
ユズルは少し考えた。
うまく言葉にできない。
「急がなくても、進めそうだから」
ニカは一瞬だけ黙った後、ふっと笑った。
「変なの」
「すみません」
「謝るところじゃない」
ボルドが楽しそうに頷いた。
「悪くない。自分の足に合う道を選ぶのは大事だ」
ラゴウの声が響いた。
「開始一分前」
地下空間の緊張が高まる。
受験者たちは、それぞれの通路の前へ散った。
ユズルは、中央より少し右の湿った通路の前に立った。
同じ道を選んだ者は少ない。
ユズルの他には、細身の青年が一人、無表情の大柄な女が一人、そして、見覚えのある男が一人。
船の中で老人と女性を脅していた、大柄な男だった。
ユズルは息を呑んだ。
男もこちらに気づく。
「またお前か、坊主」
低く笑う。
ユズルは目を逸らしそうになった。
でも、逸らさなかった。
ここで会うのか。
この道で。
自分が選んだ道で。
黒い子牛が、ユズルの横に立つ。
大柄な男は、ユズルの反応を見てにやりとした。
「今度は船員もいねぇぞ」
ユズルは黙った。
何か言い返せば、喧嘩になる。
何も言わなければ、舐められる。
どうすればいいか分からない。
けれど、今はそれより大事なことがある。
この道を進むこと。
ラゴウが片手を上げた。
「始め」
その瞬間、受験者たちが一斉に通路へ飛び込んだ。
ユズルも走り出す。
湿った通路の中は、想像以上に滑りやすかった。
床に薄く水が張っている。
石の隙間には苔が生え、足を置く場所を間違えれば簡単に転びそうだった。
ユズルは速度を落とした。
焦るな。
三時間以内に出口へ着く必要はある。
でも転べば終わる。
黒い子牛が、ユズルの横を進む。
ゆっくり。
確実に。
丑の月。
急がず、止まらず、進む。
大柄な男は違った。
男は力任せに走っていく。
湿った床など気にしない。多少滑っても、脚力で押し切るつもりなのだろう。
細身の青年は壁際を器用に進み、大柄な女は無言で一定の速度を保っている。
ユズルは一番遅かった。
焦りが胸に広がる。
このままでは置いていかれる。
時間に間に合わないかもしれない。
足を速めようとした瞬間、黒い子牛が視界の端で止まった。
ユズルも足を止めかける。
次の瞬間、前方で大柄な男が舌打ちした。
「何だ、これ」
通路の先に、広い水たまりがあった。
いや、水たまりではない。
浅い地下水路のようなものが、通路を横切っている。
水面は黒く、底は見えない。
幅はそれほど広くない。跳べなくはない。だが、向こう側の石も濡れている。
男は迷わず跳んだ。
巨体が宙を越え、向こう岸へ着地する。
その瞬間、水面が跳ねた。
何か細長いものが、水の中から伸びた。
蛇、ではない。
もっと太い。
もっと短く、ぬめっている。
灰色の鞭のような触手が、男の足首に巻きついた。
「うおっ!?」
男が体勢を崩す。
水面がさらに盛り上がった。
そこから現れたのは、巨大な蛭のような生き物だった。
目はなく、円形の口だけがあり、その周囲に小さな歯がびっしり並んでいる。
危険生物。
ユズルの喉がひゅっと鳴った。
大柄な男は刃物を抜き、足首に絡む触手を切った。
「気持ちわりぃ!」
水面から、同じような触手がいくつも伸びる。
細身の青年はそれを見て、跳ぶのをやめた。
大柄な女も足を止める。
ユズルは水路を見た。
幅は跳べる。
だが、飛び越えようとすれば襲われる。
水の中を歩くのは論外だ。
どうする。
戻るか。
別の道を探すか。
でも戻れば時間を失う。
大柄な男は、触手を切り払いながら怒鳴った。
「さっさと来い! こいつら、切れば終わりだ!」
そう言いながら、彼はさらに奥へ進もうとする。
その時、足元の石が崩れた。
男の体が傾く。
水路の向こう岸は、濡れているだけではなかった。
一部が脆くなっている。
力任せに着地すれば崩れる。
男は舌打ちし、壁に手をついて体勢を立て直した。
ユズルは息を吸った。
無理に跳ぶと危ない。
でも、ゆっくり行けば触手に捕まる。
黒い子牛が、水路の手前に立った。
丑は何も言わない。
ユズルは周囲を見た。
通路の左側、壁から古い鉄杭がいくつか突き出ている。
昔、採掘用の足場でもあったのだろうか。錆びているが、完全には折れていない。
右側には、崩れた木材が積まれている。
濡れて重そうだが、一本だけなら動かせそうだった。
ユズルは木材へ駆け寄った。
細身の青年がこちらを見る。
「何をする気だ」
「橋にします」
「そんな時間があるか」
「跳ぶよりは、落ちにくいと思います」
ユズルは木材を持ち上げようとした。
重い。
肩に力を入れる。
木材は少し動いたが、一人では厳しい。
大柄な女が無言で近づいてきた。
彼女は木材の反対側を掴む。
「……ありがとうございます」
女は答えなかった。
細身の青年も、少し迷ってから手を貸した。
三人で木材を持ち上げ、水路に渡す。
触手が水面から伸びる。
ユズルは思わず下がりかけた。
その瞬間、黒い子牛が前に出た。
ユズルは唇を噛む。
ここか。
ここで立つのか。
木材を渡しきるまで、少しだけ時間がいる。
その間、触手に邪魔されれば落ちる。
守る場所。
水路の手前。
木材を渡す、この一点。
ユズルは声に出した。
「ここは、崩させません」
黒い子牛の体が、少し大きくなる。
省エネ状態の小さな姿から、密度が増す。
隠は維持されている。周囲の受験者には見えない。けれど、空気が重くなった。
足元の石が、根を張るように沈む。
触手が伸びてくる。
ユズルは逃げなかった。
不動の牛歩。
触手が、ユズルの足元の空間にぶつかるように止まる。
完全には防げない。
ぬめった先端が靴に触れ、ぞっとする冷たさが伝わる。
だが、押し切られない。
「今です!」
ユズルが叫ぶ。
大柄な女と細身の青年が木材を押し込む。
木材が水路の向こう岸に届いた。
簡易の橋。
完璧ではない。
濡れていて滑るし、触手も伸びてくる。
それでも、跳ぶよりはましだ。
細身の青年が先に渡った。
次に大柄な女。
ユズルは最後に渡ろうとした。
その時、背後から足音が聞こえた。
別の受験者たちが追いついてきたのだ。
数人が、木材の橋を見て目の色を変えた。
「おい、早く渡れ!」
「邪魔だ!」
押される。
ユズルの背中に肩がぶつかった。
まずい。
このまま押されれば、水路に落ちる。
ユズルは踏みとどまった。
黒い子牛が、ユズルの横に立つ。
不動の牛歩は、今この場所を守っている。
水路の手前。
橋を渡す場所。
だが、それは永遠ではない。
ユズルのオーラが削られていく感覚がある。
息が苦しい。
足が震える。
大柄な男が向こう岸から怒鳴った。
「何やってんだ、坊主! 早く来い!」
ユズルは、歯を食いしばった。
「一人ずつです!」
背後の受験者が怒鳴る。
「仕切ってんじゃねぇ!」
ユズルは振り返った。
怖かった。
怒鳴られるのは苦手だ。
睨まれるのも苦手だ。
でも、ここで全員が押し合えば落ちる。
それは分かる。
分かるなら、言わなければいけない。
「押したら、全員落ちます!」
声が震えた。
それでも、言った。
「一人ずつ渡ってください!」
背後の受験者たちは、一瞬止まった。
その一瞬で十分だった。
細身の青年が向こう側から言う。
「その方が早い。押すな」
大柄な女も無言で頷く。
場の流れが少しだけ変わった。
一人。
また一人。
受験者たちが木材を渡る。
ユズルは最後まで水路の手前に立っていた。
触手が何度も足元を叩く。
水が跳ねる。
靴が濡れる。
でも、退かなかった。
その代わり、体の奥から何かが削られていく感覚があった。
息が苦しい。
足が震える。
ただ走って疲れた時とは違う。体力ではなく、体の内側にある熱のようなものが、少しずつ抜けていく。
丑は強い。
けれど、ただそこにいるだけの時と、能力を発動している時とではまったく違う。
ヤクモは言っていた。
『お前の発は形になってる。けど、燃費が悪い。力の出し方も、止め方も、まだ雑だ』
『怖いからって全部を獣に預けるな。そうすれば、お前の方が先に空になる』
今なら、その意味が分かった。
不動の牛歩は、何でも受け止める力ではない。
ユズルが決めた一点に、ユズル自身のオーラを縫い止める力だ。
だから、長く続ければ続けるほど、自分の中身が削れていく。
最後の一人が渡った後、ユズルはようやく木材の上に足を置いた。
その瞬間、黒い子牛の密度が薄れる。
足元の重さが消える。
急に体が軽くなり、逆にふらついた。
「危ない!」
向こう岸の大柄な女が、ユズルの腕を掴んだ。
ユズルは何とか水路を渡りきった。
「ありがとうございます」
女は短く言った。
「礼は後」
「はい」
その言葉に、ニカを思い出した。
礼も謝罪も、今はいらない。
進むことが先。
ユズルは走り出した。
水路を越えた先は、さらに複雑だった。
通路は何度も曲がり、ところどころに偽の標識があった。
出口はこちら。
安全路。
近道。
右へ行け。
左へ行け。
どれも信用できない。
床には、落とし穴の跡があった。
壁には毒針らしき穴。
天井からは、ときどき小さな石が落ちてくる。
危険生物も、蛭だけではなかった。
壁の色と同化した大きな蜥蜴。
音に反応して飛びかかる蝙蝠の群れ。
暗がりで光る小さな目。
人の声に似た鳴き声。
念ではない。
ただの生き物。
ただし、人間を殺すには十分な生き物。
ユズルは、何度も立ち止まりそうになった。
そのたびに、丑を見る。
急がない。
でも止まらない。
それが、今のユズルに必要なことだった。
時間は分からない。
すでに一時間は経っているだろうか。
もっとかもしれない。
地下では感覚が狂う。
途中で、トンパに連れられていた新人の一人を見かけた。
壁にもたれ、腹を押さえて座り込んでいる。
顔色が悪い。
おそらく、あの缶を飲んだ若者だった。
ユズルは足を止めた。
若者は苦しそうに息をしている。
「……大丈夫ですか」
声をかけると、若者は薄く目を開けた。
「腹が……急に……」
やはり。
ユズルの胸が重くなる。
トンパは、いない。
置いていったのだ。
ユズルは水筒を取り出しかけた。
しかし、黒い子牛が見ている。
今ここで、何ができる。
毒なのか。
ただの腹痛なのか。
自分に治療はできない。
水を飲ませていいのかも分からない。
それに、ここで時間を使えば、自分も間に合わなくなるかもしれない。
若者は震える声で言った。
「行けよ……俺は、もう無理だ」
「でも」
「行けって……」
ユズルは唇を噛んだ。
助けたい。
でも、助け方が分からない。
中途半端に関われば、かえって危険かもしれない。
ユズルは、若者のそばに自分の予備の水筒を置いた。
「飲めるなら、少しずつ。無理なら飲まないでください」
「……お人好し」
「すみません」
「謝るなよ」
若者は苦しそうに笑った。
ユズルは頭を下げ、走り出した。
助けたわけではない。
見捨てたわけでもない。
ただ、自分にできることを少しだけ置いてきた。
それが正しいのかは分からない。
でも、今は進むしかない。
通路の先で、風が変わった。
湿った空気の中に、外の匂いが混ざる。
土。
草。
冷たい空気。
出口が近い。
ユズルは走った。
足は重い。
肩は痛い。
オーラも削られている。
呼吸は荒い。
それでも、走った。
最後の角を曲がると、光が見えた。
狭い石段。
その先に、白い光。
ユズルは階段を駆け上がった。
眩しさに目を細める。
外だった。
地下迷路の出口は、森の中の別の場所に繋がっていた。
そこには広い空き地があり、すでに何人もの受験者が到着していた。
ラゴウが立っている。
横には大きな砂時計。
砂はまだ落ち切っていない。
間に合った。
ユズルは膝に手をついた。
息が苦しい。
全身が汗で濡れている。
でも、立っていた。
倒れなかった。
ラゴウが番号札を確認する。
「二百四十一番。通過」
その言葉を聞いた瞬間、ユズルの体から力が抜けそうになった。
しかし、座らなかった。
黒い子牛が隣に立っている。
ユズルは小さく笑った。
「……立ってるよ」
丑は、短く鼻を鳴らした。
少し離れたところに、ニカがいた。
彼女は腕を組み、こちらを見ている。
「遅かったね」
「すみません」
「だから謝るなって」
ニカは呆れたように言いながらも、少しだけ笑っていた。
ボルドもいた。
「落ちなんだな」
「はい」
「ワシも落ちなんだ」
「よかったです」
ボルドは満足そうに頷く。
その少し先に、ヒソカがいた。
彼は涼しい顔で立っている。
服も乱れていない。呼吸も乱れていない。
まるで、地下迷路そのものが退屈な散歩道だったかのように。
ヒソカはユズルに気づくと、ほんの少しだけ目を細めた。
また、見られた。
ユズルの背筋が冷える。
ヒソカは何も言わない。
ただ、薄く笑った。
その笑みに、ユズルは思った。
この試験は、まだ始まったばかりだ。
地下迷路を抜けた。
一次試験を通過した。
けれど、本当に怖いものは、まだ地下の中ではなく、ここにいる人間たちの中にあるのかもしれない。
ラゴウが全体へ向けて言った。
「制限時間終了まで、あと二十分。二次試験は通過者が揃い次第、移動して開始する」
ユズルは息を整えながら、森の向こうを見た。
まだ出口から、何人かの受験者が出てくる。
だが、出てこない者もいる。
トンパの姿は、まだなかった。
あの新人も、いない。
ユズルは胸の奥に残る重さを感じた。
全員を助けることはできない。
でも、何もしない自分にはなりたくない。
その間で、どう立つのか。
丑の月は、まだ始まったばかりだった。