巡る獣暦   作:ギガマツタケ

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第4話 ツウカ×キュウソク×シカク

 一次試験の出口は、森の中にあった。

 

 地下迷路の冷たい空気を抜けた先には、湿った土の匂いと、木々のざわめきが広がっていた。

 

 空が見える。

 

 それだけで、ユズルは少しだけ呼吸が楽になった。

 

 地下の中では、ずっと胸の奥を押さえつけられているようだった。天井があり、壁があり、行き止まりがあり、足元には罠がある。進むしかないのに、どこへ進んでいるのか分からない。

 

 外へ出た今も、試験が終わったわけではない。

 

 それでも、空が見えるだけで違った。

 

 ユズルは森の空き地の端に立ち、荒い呼吸を整えていた。

 

 受験番号二百四十一番。

 

 一次試験通過。

 

 ラゴウにそう告げられた時、膝から力が抜けそうになった。けれど、倒れなかった。座り込むこともしなかった。

 

 黒い子牛が、隣に立っている。

 

 丑は、いつものように隠で姿を伏せていた。

 ユズルには見えるが、他の受験者たちには見えない。

 

 一次試験中、ユズルは何度か丑の力を使った。

 

 水路の手前で、橋代わりの木材を渡すために。

 押し合えば落ちる場所で、ほんの少しだけ踏みとどまるために。

 

 完全に守れたわけではない。

 誰かを救えたと胸を張れるほどのことでもない。

 

 それでも、立った。

 

 自分で場所を決めて、そこに立った。

 

 それは、第一話の船の中とは少し違っていた。

 

 あの時は、逃げられなかっただけかもしれない。

 丑に背中を押されたから、老人たちの前に立てただけかもしれない。

 

 でも今回は、自分で道を選んだ。

 自分で足を止めた。

 自分で声を出した。

 

 それが正しかったのかは分からない。

 

 けれど、少なくとも、何も選ばなかったわけではなかった。

 

「二百四十一番」

 

 声がした。

 

 振り返ると、ニカがこちらへ歩いてきていた。

 彼女は息も乱れていない。いや、よく見れば額に汗はあるし、肩もわずかに上下している。けれど、それを表に出さないだけだ。

 

 ユズルは少し羨ましかった。

 

 自分は、何でも顔に出る。

 

「体、平気?」

 

「はい。たぶん」

 

「たぶんって何」

 

「足が少し震えてます」

 

「正直だね」

 

 ニカは笑った。

 

 そして、ユズルの靴を見た。濡れて泥がつき、ところどころに地下水路のぬめりが残っている。

 

「あんた、あの湿った通路を選んだんだっけ」

 

「はい」

 

「よく通ったね。危険生物いたでしょ」

 

「大きな蛭みたいなのがいました」

 

「ああ、吸血ヒルモドキかな。噛まれた?」

 

「いえ」

 

「なら運がいい」

 

 運がいい。

 

 そう言われると、少し困る。

 

 ユズルは、自分が運だけで通ったような気がしてしまう。

 実際、運もあったのだろう。水路の木材がなければ、どうなっていたか分からない。大柄な女や細身の青年が手を貸してくれなければ、木材を動かすこともできなかった。

 

 自分だけの力ではない。

 

 それは確かだった。

 

「ニカさんは、どうでしたか」

 

「罠だらけ」

 

 ニカは軽く肩をすくめた。

 

「床が抜ける、壁から矢が出る、偽の足跡がある、天井から網が落ちる。あと、通路の奥から子どもの泣き声が聞こえた」

 

「子どもの……」

 

「もちろん偽物。録音か、そういう鳴き声の生き物かは知らないけど」

 

 ユズルは少しだけ息を呑んだ。

 

 もし自分の通路でそんな声が聞こえていたら、どうしていただろう。

 

 立ち止まったかもしれない。

 戻ったかもしれない。

 確かめに行ったかもしれない。

 

 そう考えて、胸が重くなる。

 

 ニカはユズルの表情を見て、少し呆れたように言った。

 

「あんた、想像だけで落ち込みすぎ」

 

「すみません」

 

「だから謝るなって」

 

 また言われた。

 

 ユズルは口を閉じた。

 

 空き地には、少しずつ受験者が増えていた。

 

 出口は一つだけではないようだった。森のあちこちにある穴や扉、崩れた石段から、受験者たちが出てくる。

 

 ある者は泥だらけ。

 ある者は負傷している。

 ある者は肩を貸されている。

 ある者は笑っている。

 ある者は、何も言わずに地面を見ている。

 

 そして、出てこない者もいた。

 

 ラゴウの横に置かれた大きな砂時計は、残りわずかになっていた。

 砂が落ちるたび、空き地の空気が重くなる。

 

 ユズルは、地下で腹を押さえていた若者を探した。

 

 いない。

 

 トンパに缶をもらい、嬉しそうに飲んでいた新人。

 途中で座り込み、ユズルが予備の水筒を置いてきた若者。

 

 まだ、いない。

 

 ユズルは出口の一つを見つめた。

 

 出てくるかもしれない。

 出てきてほしい。

 

 そう思う。

 

 しかし、時間は無情に減っていく。

 

 黒い子牛が、ユズルの隣に立っている。

 

 丑は何も言わない。

 

 励ましもしない。

 慰めもしない。

 

 ただ、立っている。

 

 その沈黙が、今は少しありがたかった。

 

 安易に「大丈夫」と言われるより、ずっといい。

 

「見てても、時間は戻らないよ」

 

 ニカが言った。

 

 ユズルは視線を動かせなかった。

 

「分かってます」

 

「本当に?」

 

「……分かってるつもりです」

 

「つもり、ね」

 

 ニカはそれ以上言わなかった。

 

 その時、森の奥の出口から、一人の男が飛び出してきた。

 

 トンパだった。

 

 丸顔に汗を浮かべ、肩で息をしている。服の裾は泥で汚れているが、怪我はなさそうだった。

 

 彼は空き地に出るなり、大げさに息を吐いた。

 

「いやあ、危なかった危なかった」

 

 そう言いながら、近くにいた受験者に笑いかける。

 

 まるで、本気で苦労してきたような顔だった。

 

 ユズルは無意識に拳を握った。

 

 トンパは生き残っている。

 無事に通過している。

 

 あの若者は、まだ来ていない。

 

 胸の奥に、小さな怒りが生まれた。

 

 怒り。

 

 ユズルはその感情に驚いた。

 

 自分は怒っているのか。

 

 トンパに。

 それとも、何もできなかった自分に。

 

 分からない。

 

 だが、胸の奥が熱かった。

 

 丑ではなく、寅の月なら何か言ったかもしれない。

 

 怒ってるくせに、と。

 

 今は一月。

 丑の月。

 

 怒りをぶつける獣はいない。

 

 ただ、立つ獣だけがいる。

 

 トンパがユズルに気づいた。

 

 にこにこと笑いながら、こちらへ歩いてくる。

 

「お、ユズルくん。通過したんだ。やるじゃないか」

 

 ユズルは何も言えなかった。

 

 トンパは、その表情を見て少しだけ目を細めた。

 

「どうした? そんな怖い顔して」

 

 怖い顔。

 

 自分がそんな顔をしているのかと、ユズルは思った。

 

「……あの人は」

 

「ん?」

 

「あなたから飲み物をもらっていた人です。地下で苦しそうにしていました」

 

 言ってしまった。

 

 ニカが横で少しだけ目を細める。

 

 トンパは一瞬だけきょとんとした後、困ったように笑った。

 

「ああ、あの子か。体調管理も試験のうちだよ。俺のせいにされても困るなあ」

 

「でも」

 

「でも?」

 

 トンパの笑顔は変わらない。

 

 だが、目だけが笑っていなかった。

 

「この試験、誰かが飲ませたものを疑わず飲む奴が悪いんじゃないか?」

 

 ユズルの喉が詰まった。

 

 それは、間違いではないのかもしれない。

 

 ここはハンター試験だ。

 騙される方にも責任がある。

 自分で選んだ結果だと言われれば、言い返せない。

 

 けれど。

 

 それでも。

 

「だからって、騙していい理由にはならないと思います」

 

 声は小さかった。

 

 でも、確かに出た。

 

 トンパの笑顔が、少しだけ固まった。

 

 周囲の数人がこちらを見る。

 

 ユズルは、すぐに後悔しそうになった。

 

 言いすぎたかもしれない。

 怒らせたかもしれない。

 この先の試験で邪魔されるかもしれない。

 

 そんな考えが、次々に浮かぶ。

 

 黒い子牛が、ユズルの横で静かに立っている。

 

 逃げ道はある。

 謝ることもできる。

 ごまかすこともできる。

 

 でも、ユズルは立っていた。

 

 トンパは、ふっと笑った。

 

「真面目だねえ。そういう新人、嫌いじゃないよ」

 

 その言葉は、嘘に聞こえた。

 

「まあ、頑張りなよ。そういう優しさがいつまで持つか、楽しみにしてる」

 

 トンパは軽く手を振り、離れていった。

 

 ユズルはその背中を見送った。

 

 指先が震えている。

 

 怒りを口にするだけで、こんなに疲れるのか。

 

 ニカが隣で言った。

 

「珍しく謝らなかったね」

 

「……謝るところじゃないと思ったので」

 

「へえ」

 

 ニカは少しだけ感心したような顔をした。

 

「一歩前進?」

 

「分かりません」

 

「そこは分かんないんだ」

 

「はい」

 

 ユズルは小さく息を吐いた。

 

 その時、砂時計の最後の砂が落ちた。

 

 ラゴウが、片手を上げる。

 

「制限時間終了」

 

 空き地が静まり返った。

 

 その一言で、まだ出口に辿り着いていない者たちの失格が決まった。

 

 ユズルは、森の出口を見た。

 

 あの若者は、来なかった。

 

 予備の水筒も、戻ってこない。

 

 それでいい。

 そう思おうとした。

 

 でも、胸の奥に重さが残る。

 

 ラゴウは通過者の番号を確認していた。

 彼の表情には、哀れみも満足もない。ただ事実を数えているだけの顔だった。

 

「一次試験通過者、八十七名」

 

 ざわめきが起きた。

 

 地下に入った人数から、半分以上が落ちたことになる。

 

「この時点で脱落した者は、救助班が回収する。生存していれば、地上へ戻される。死亡していた場合は、遺体確認後、協会の規定に従って処理する」

 

 死亡。

 

 その言葉が、空き地に落ちた。

 

 ユズルは、無意識に丑を見た。

 

 死ぬかもしれない。

 

 知っていたはずだった。

 ハンター試験は危険だと、何度も聞いていた。

 

 けれど、言葉として知っていることと、今この場所で聞くことは違った。

 

 死ぬ。

 

 誰かが帰れなくなる。

 誰かの旅がここで終わる。

 

 それでも試験は進む。

 

 ラゴウは続けた。

 

「十分後、二次試験会場へ移動する。休憩はそれまでだ」

 

 十分。

 

 短い。

 

 けれど、今のユズルにはありがたかった。

 

 少しでも呼吸を整えたかった。

 

 通過者たちは、それぞれ空き地に散った。

 

 座り込む者。

 傷の手当てをする者。

 水を飲む者。

 食料を口にする者。

 他人の様子を観察する者。

 

 一次試験が終わっても、気は抜けない。

 誰もがそれを理解しているようだった。

 

 ユズルは木の幹のそばへ移動し、水筒を取ろうとして、手を止めた。

 

 予備は置いてきた。

 残っているのは一本だけ。

 

 節約しなければ。

 

 そう思った時、ボルドが近づいてきた。

 

「水、いるかね」

 

「え?」

 

 老人は小さな水筒を差し出していた。

 

「ワシはあまり飲まん。腹を冷やす」

 

「でも」

 

「毒は入っとらん」

 

 ボルドは笑った。

 

 ユズルは少し戸惑った。

 

 トンパの件があったばかりだ。

 差し出されるものを、何でも信じていいわけではない。

 

 だが、ボルドはこれまでの道中で、何度か助言をくれた。少なくとも、トンパのような悪意は感じない。

 

 それでも、疑うべきなのか。

 

 ユズルが迷っていると、ボルドは満足そうに頷いた。

 

「うむ。その顔でよい」

 

「え?」

 

「迷うのは悪くない。疑うのも悪くない。問題は、疑った後どうするかじゃ」

 

 ボルドは水筒を自分で少し飲んでから、改めて差し出した。

 

「これならどうかね」

 

 ユズルは、その水筒を受け取った。

 

「ありがとうございます」

 

「礼は今でよい。休憩中だからな」

 

 ボルドはにこにこと笑った。

 

 ユズルは水を少しだけ飲んだ。

 

 冷たい水が喉を通る。

 

 ようやく体の奥に、少しだけ力が戻る気がした。

 

「ボルドさんは、どうしてハンター試験を受けているんですか」

 

 ユズルはふと尋ねた。

 

 ボルドは髭を撫でた。

 

「落ちたからじゃ」

 

「え?」

 

「一度落ちた。悔しかった。二度目も落ちた。もっと悔しかった。だから三度目じゃ」

 

「それだけですか」

 

「それだけで十分じゃろう」

 

 ボルドは空を見上げた。

 

「若い頃は、宝探しだの名声だの色々言えたがな。今は、落ちたまま終わりたくない。それだけじゃ」

 

 ユズルは黙った。

 

 落ちたまま終わりたくない。

 

 その言葉は、どこか自分にも近い気がした。

 

 ヤクモに置いていかれたままでいたくない。

 村の中で、何も選ばないままでいたくない。

 怖いからといって、ずっと立ち止まったままでいたくない。

 

 それは立派な目的ではないかもしれない。

 でも、目的にはなる。

 

 ボルドはユズルを見た。

 

「お前さんは、探し人だったな」

 

「はい」

 

「見つけたら、どうする」

 

 ユズルは答えられなかった。

 

 ヤクモを見つける。

 

 ずっとそれだけを考えていた。

 

 でも、見つけた後のことは、うまく考えられていない。

 

 どうするのか。

 

 文句を言うのか。

 追いついたと言うのか。

 また一緒に旅をしたいと言うのか。

 なぜ置いていったのか、と聞くのか。

 

 どれも本当で、どれも違う気がした。

 

「……分かりません」

 

「なら、見つけるまでに考えればよい」

 

 ボルドはあっさり言った。

 

「間に合いますか」

 

「間に合わなければ、その時また考えればよい」

 

 ユズルは少しだけ笑った。

 

 ボルドの言葉は適当なようで、なぜか少し楽になる。

 

 その時、ラゴウが手を叩いた。

 

「休憩終了。移動する」

 

 通過者たちが立ち上がる。

 

 ユズルも水筒を返そうとした。

 

 ボルドは首を横に振る。

 

「持っておけ」

 

「でも」

 

「予備を置いてきたんじゃろう」

 

 ユズルは驚いた。

 

「どうして」

 

「お前さん、戻ってきてから水筒を探す手つきが一本分足りんかった」

 

「……見てたんですか」

 

「年寄りは見るのが仕事じゃ」

 

 ボルドは笑った。

 

「返すのは試験が終わってからでよい。終わる前にワシが落ちたら、もらっておけ」

 

「そんな」

 

「冗談じゃ」

 

 本当に冗談なのか分からなかった。

 

 ユズルは水筒を大事にしまった。

 

「ありがとうございます」

 

「うむ」

 

 移動が始まった。

 

 一次試験通過者八十七名は、ラゴウと協会スタッフに誘導されて森の奥へ進んだ。

 

 森は深い。

 だが、地下とは違い、空がある。鳥の声がある。木漏れ日がある。

 

 それだけで少し気持ちが軽くなる。

 

 しかし、周囲の受験者たちの空気は重かった。

 

 一次試験で、かなりの人数が消えた。

 冗談のように笑っていた者も、今は口数が少ない。

 

 トンパは、相変わらず誰かに話しかけている。

 落ち込んでいる受験者を慰めるような顔で。

 

 ユズルはその姿を見るたびに、胸の奥がざわついた。

 

 ヒソカは、少し離れたところを歩いている。

 

 彼は一次試験の結果にも、脱落者にも、まったく興味がなさそうだった。

 ただ時折、周囲の受験者を眺め、値踏みするような目を向けている。

 

 その視線がこちらへ来ないことを、ユズルは祈った。

 

 祈った直後、自分がまた逃げ道を探していることに気づく。

 

 だが、今はそれでもいいのかもしれない。

 

 怖いものを怖いと思う。

 その上で、足を止めない。

 

 それが今の自分にできることだ。

 

 しばらく歩くと、森が開けた。

 

 そこには、大きな建物があった。

 

 石と木で作られた、古い食堂のような建物。

 外壁には蔦が絡み、煙突から白い煙が上がっている。

 

 空気に、香ばしい匂いが混ざった。

 

 焼いた肉。

 煮込んだ野菜。

 香辛料。

 甘い果物。

 

 空腹が一気に思い出された。

 

 周囲の受験者たちも、ざわめく。

 

「飯か?」

 

「二次試験って料理か?」

 

「食えばいいのか?」

 

 ラゴウは建物の前で立ち止まった。

 

「ここが二次試験会場だ。私はここまで」

 

 建物の扉が開いた。

 

 中から、二人の人物が出てきた。

 

 一人は、背の高い女性だった。

 

 長い黒髪を後ろでまとめ、袖をまくっている。腕は細いが、筋肉の線がしなやかに見える。腰には包丁を何本も下げており、その立ち姿は料理人というより剣士に近かった。

 

 もう一人は、小柄な男だった。

 

 丸眼鏡をかけ、白い調理服を着ている。柔らかそうな顔をしているが、目は妙に鋭い。手には大きな木べらを持っていた。

 

 背の高い女性が、受験者たちを見渡した。

 

「一次試験通過、お疲れさま」

 

 声は明るい。

 だが、どこか圧がある。

 

「私は二次試験官、ミナリ。美食ハンター」

 

 小柄な男が続いた。

 

「同じく二次試験官、ロッカ。調理技術と食材鑑定を専門にしている」

 

 美食ハンター。

 

 ユズルは少し意外だった。

 

 ハンター試験と料理。

 すぐには結びつかない。

 

 しかし、HUNTER×HUNTERの世界では、食材を求めることも、未知の味を探すことも、ハンターの仕事なのだろう。

 

 ミナリはにっこり笑った。

 

「二次試験は、料理です」

 

 受験者たちの間に、明らかな緩みが走った。

 

 一次試験の地下迷路に比べれば、料理は平和に聞こえる。

 

 ユズルも一瞬、少しだけ安心しかけた。

 

 しかし、ミナリはその笑みのまま続けた。

 

「ただし、食材は自分たちで捕ってきてもらいます」

 

 森の奥から、枝が折れる音がした。

 

 受験者たちの視線が、一斉にそちらへ向く。

 

 低い唸り声ではない。

 鋭く、短い警戒音だった。

 

 次の瞬間、木々の間を銀灰色の影が走り抜けた。

 

 光を弾く甲殻のような外皮。

 刃物のように分かれた角。

 細く長い脚。

 大きく震える耳。

 

 それは一瞬だけ姿を見せると、森の奥へ消えた。

 

 速い。

 

 ユズルは、そう思った。

 

 力強いというより、逃げるために研ぎ澄まされた速さだった。

 

 ロッカが木べらで森を指した。

 

「あれが、今回の課題食材だ」

 

 受験者たちがざわつく。

 

 ミナリが指を一本立てた。

 

「課題食材は一つ」

 

 ロッカが淡々と告げる。

 

「鎧鹿」

 

 ユズルはその名前を心の中で繰り返した。

 

 鎧鹿。

 

 猪ではない。

 熊でもない。

 鹿。

 

 だが、ただの鹿ではない。

 

 森の奥で、また短い警戒音が響いた。

 

 ミナリが説明を続ける。

 

「硬い甲殻状の外皮を持つ大型の鹿です。足が速く、警戒心が強い。正面から追えば逃げられます。力任せに追い詰めれば、刃のような角で腹を裂かれます」

 

 受験者の何人かが顔をしかめた。

 

 ロッカが木べらを肩に乗せる。

 

「肉は繊細だ。恐怖で暴れさせすぎると筋肉が硬直し、味が落ちる。傷つけすぎても駄目だ。捕獲、血抜き、解体、火入れ。すべてを見る」

 

 料理ができるだけでは駄目。

 狩りができるだけでも駄目。

 獲物を理解し、扱わなければならない。

 

 ユズルは森を見た。

 

 鎧鹿の姿が、頭に残っている。

 

 あれは、怖がっていた。

 

 人間の気配に気づき、逃げ道を探し、森の奥へ消えた。

 ただ暴れる獣ではない。

 逃げる獣だ。

 

 ユズルは、なぜか胸の奥が少し痛んだ。

 

 逃げる。

 追われる。

 怖いから、逃げ道を探す。

 

 それは、自分にもよく分かる感覚だった。

 

 ミナリが笑った。

 

「制限時間は二時間。食材は一人一頭でなくて構いません。複数人で一頭を捕り、分けてもよし。奪ってもよし。ただし、提出料理は一人一皿。味、処理、火入れ、食材への理解で判断します」

 

 受験者たちがざわめく。

 

 料理ができる者。

 できない者。

 狩りができる者。

 できない者。

 

 一次試験とは、まったく違う能力が求められている。

 

 ミナリは最後に言った。

 

「ハンターは、未知のものを見つけ、手に入れ、扱い、味わう職業でもあります。獲っただけで満足する人は、ここで落ちてください」

 

 その言葉で、受験者たちの顔つきが変わった。

 

 試験は、また始まる。

 

 ニカがユズルを見た。

 

「料理、できる?」

 

「少しなら」

 

「狩りは?」

 

「山では小動物を捕ったことがあります。でも、大型の鹿は……」

 

「ない、って顔だね」

 

「はい」

 

 ユズルは森を見た。

 

 鎧鹿。

 警戒心が強く、足が速く、追い詰めすぎると危険な食材。

 

 丑なら、突進を受け止めることはできるかもしれない。

 

 けれど、鎧鹿はきっと正面から来ない。

 怖ければ逃げる。

 追えば逃げる。

 逃げ道がなければ、角で暴れる。

 

 ただ受け止めればいい試験ではない。

 

 守るだけでは、食材は手に入らない。

 

 ユズルは、自分の手を見た。

 

 選んだ道を歩き切る足。

 立つ場所を決める力。

 

 次は、何を問われるのか。

 

 森の奥で、鎧鹿がまた短く鳴いた。

 

 その声は、威嚇というよりも、警戒だった。

 

 黒い子牛が、静かに前を見る。

 

 ユズルは息を吸った。

 

 二次試験が、始まろうとしていた。

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