鎧鹿は、森の奥へ消えた。
銀灰色の影。
光を弾く甲殻のような外皮。
刃物のように枝分かれした角。
細く長い脚。
一瞬しか見えなかったのに、その姿はユズルの目に焼きついていた。
速い。
ただ速いだけではない。
逃げるための速さだった。
それは、獲物を追う獣の走り方ではなかった。
敵を倒すために突っ込んでくる走り方でもない。
木々の隙間を縫い、足音を殺し、こちらの視線が届く前に消える。
体を低くして、風の流れを読み、逃げ道だけを探す。
あの鹿は、怖がっている。
ユズルは、そう思った。
森の前で、二次試験官のミナリが両手を叩いた。
「それじゃあ、改めて説明するわ」
受験者たちの視線が、ミナリへ集まる。
一次試験を通過した八十七名。
そのうち何人が料理を得意としているのか、狩りに慣れているのか、食材の扱いを知っているのかは分からない。
しかし、全員が同じ条件で森へ入る。
「課題は鎧鹿を使った料理。一人一皿提出すること。食材は一人一頭である必要はありません。複数人で捕っても、分けても、奪っても、交渉してもいい」
奪ってもいい。
その言葉に、何人かの受験者が小さく笑った。
ユズルは胸の奥が重くなるのを感じた。
狩るだけではない。
料理するだけでもない。
他の受験者から奪われる可能性もある。
ロッカが、木べらを肩に担いだまま続けた。
「ただし、提出する料理には、鎧鹿の肉を使っていること。こちらで確認する。偽物や別の食材を混ぜてごまかした場合は即失格」
ミナリが笑う。
「調理場と最低限の調味料、火、鍋、鉄板、包丁は建物の中にあります。持ち込みの道具も自由。ただし、捕獲、血抜き、解体、調理、盛り付けまで、すべて制限時間内に終えること」
「制限時間は?」
受験者の一人が問う。
ロッカが答えた。
「二時間」
森がざわめいたような気がした。
二時間。
鹿を見つけ、捕まえ、捌き、料理にする。
それを二時間で。
ユズルには、短すぎるように思えた。
狩りに慣れている者なら違うのだろうか。
料理の手際が良い者なら、どうにかできるのだろうか。
自分はどうか。
村で小動物を捕ったことはある。
罠を仕掛けたこともある。
山鳥を捌く手伝いをしたこともある。
鹿肉を食べたこともある。
しかし、鎧鹿は違う。
大型で、足が速く、硬い外皮を持ち、恐怖で暴れさせすぎると肉質が落ちる。
追えば逃げる。
追い詰めれば暴れる。
力でねじ伏せれば、肉が駄目になる。
どうすればいいのか。
ミナリは受験者たちを見渡した。
「それから一つ。鎧鹿は繊細な食材です。殺せばいい、焼けばいい、というものではありません。雑な狩りをした肉は、私たちにはすぐ分かります」
ロッカが淡々と言った。
「調理とは、食材への理解だ。理解できない者は落ちる」
その言葉に、ユズルは思わず森を見た。
食材への理解。
つまり、鎧鹿をただ獲物として見るだけでは足りない。
鎧鹿が何を怖がり、どこへ逃げ、いつ反撃し、どう扱えば肉を傷めないのか。
それを考えなければならない。
怖がる相手を、どう扱うか。
ユズルは、少しだけ唇を結んだ。
黒い子牛が、隣で森を見ている。
丑は相変わらず隠で姿を伏せていた。
ユズルには見えるが、他者には見えない。
ミナリが片手を上げた。
「二次試験、開始」
その瞬間、受験者たちが一斉に動いた。
森へ走り込む者。
調理場へ向かい道具を確認する者。
仲間を探す者。
他人の動きを見る者。
すぐには動かず、鎧鹿が消えた方向を観察する者。
ユズルは、一歩遅れた。
まただ。
考えすぎて、動きが遅れる。
しかし、今回はただ焦って走り出すわけにはいかなかった。
鎧鹿は速い。
闇雲に追えば、逃げられるだけだ。
「二百四十一番」
ニカの声がした。
振り返ると、彼女はすでに森の方へ歩き出していた。
「来る?」
「いいんですか」
「別に一緒に組むってほどじゃない。あんた、森の歩き方は知ってそうだから」
「ニカさんは?」
「罠と追跡は少し。料理は最低限」
「僕も料理は少しです」
「じゃあ二人で少しずつなら、多少ましでしょ」
ニカはそう言ってから、視線を鋭くした。
「ただし、邪魔なら置いていく」
「はい」
「あと謝るな」
「……はい」
ユズルは頷いた。
ボルドは少し離れたところで、森とは逆に調理場の方を見ていた。
「ボルドさんは?」
ユズルが尋ねると、ボルドは髭を撫でた。
「ワシは肉を追うより、肉を待つ」
「待つ?」
「年寄りは追うと転ぶ」
またそれか、と思いかけたが、ボルドの目は笑っていなかった。
「鎧鹿は追われれば逃げる。逃げれば、どこかに出る。出た先で待つ者も必要じゃ」
なるほど、と思った。
ボルドは森の形を見ているのかもしれない。
鎧鹿が逃げる先を、経験で読もうとしている。
「お前さんは、お前さんの足で行け」
「はい」
ユズルは答えた。
その時、トンパが近くを通りかかった。
彼は数人の受験者を連れている。
その中には初受験者らしき若者もいた。
「鎧鹿は臆病だからねえ。大勢で追い込めば簡単だよ」
トンパは親切そうに説明している。
「逃げ道を塞いで、網でも投げれば終わり。料理はあとで考えればいい」
ユズルは眉を寄せた。
大勢で追い込む。
それは一見正しいように聞こえる。
けれど、ミナリとロッカは言っていた。
恐怖で暴れさせすぎると、肉が硬くなる。
追い詰めれば、角で腹を裂かれる。
トンパがそれを知らないはずがない。
知っていて、言っている。
ユズルはトンパを見た。
トンパもこちらに気づき、にこりと笑った。
「ユズルくんも来る? 人数が多い方が有利だよ」
その声は、相変わらず親切そうだった。
だが、ユズルはもう、そのまま信じる気にはなれなかった。
「僕は、自分で行きます」
トンパの笑顔が少しだけ深くなる。
「そっか。頑張ってね」
「はい」
トンパは軽く手を振り、連れていた受験者たちと森へ入っていった。
ユズルはその背中を見送った。
胸の奥に、また小さな怒りが灯る。
けれど、今は追及している場合ではない。
ニカが言った。
「行くよ」
「はい」
二人は森へ入った。
森の中は、外から見るよりもずっと深かった。
木々の密度が高い。
足元には柔らかい落ち葉が積もり、ところどころに木の根が浮いている。風は弱く、音が吸い込まれるようだった。
鎧鹿の姿はない。
だが、痕跡はあった。
細い足跡。
折れた枝。
甲殻が擦れたのか、木の幹に銀灰色の粉のようなものが付着している。
ユズルはしゃがみ込み、その粉に触れた。
指先に、かすかなざらつきが残る。
「これが鎧鹿の外皮……?」
「たぶんね」
ニカは周囲を見回している。
「まだ近いと思う?」
ユズルは耳を澄ませた。
森の音。
鳥の声。
遠くの受験者の足音。
誰かが叫ぶ声。
枝が折れる音。
子の月なら、もっと拾えたかもしれない。
鼠算の密告なら、隠れた音や鎧鹿の足音も聞けたかもしれない。
でも今は丑。
聞く獣ではない。
追う獣でもない。
立つ獣だ。
「……近くにはいないと思います」
「根拠は?」
「足跡が深くないです。走って逃げたというより、速度を落として様子を見ながら移動してる気がします」
「ふうん」
ニカが少しだけ目を細めた。
「山育ちっぽいこと言うじゃん」
「合ってるかは分かりません」
「分かるまで待ってたら、二時間終わるよ」
「はい」
二人は痕跡を追った。
ただし、走らなかった。
ニカは時折立ち止まり、地面や枝、空気の匂いを確認する。
ユズルも、自分に分かる範囲で足跡を読む。
鎧鹿はまっすぐ逃げていない。
何度も方向を変え、木々の間を抜け、足跡を消すように硬い地面を選んでいる。
賢い。
ただ逃げているだけではない。
追う者の動きを考えている。
しばらく進むと、森の奥から怒号が聞こえた。
「そっち行ったぞ!」
「逃がすな!」
「回り込め!」
トンパの一団だろうか。
複数の足音が、森を乱暴に駆け回っている。
続いて、鋭い鳴き声。
鎧鹿だ。
ユズルは胸が跳ねた。
ニカが舌打ちする。
「あーあ。追い回してる」
「行きますか」
「近づきすぎると巻き込まれる。でも見ないと状況が分からない」
二人は音の方へ慎重に近づいた。
やがて、木々の隙間から開けた場所が見えた。
小さな窪地だった。
そこに、鎧鹿がいた。
銀灰色の外皮が木漏れ日を弾いている。
肩から背中、胸元にかけて甲殻状の硬い板が連なり、胴体の柔らかい部分を守っている。脚は細くしなやかで、筋肉が震えていた。
角は大きい。
刃物のように鋭く枝分かれし、光を受けて白く光っている。
その目は、大きく見開かれていた。
怖がっている。
ユズルは、すぐに分かった。
窪地の周囲には、トンパに連れられていた受験者たちがいた。
彼らは鎧鹿を囲むように立ち、逃げ道を塞ごうとしている。
だが、囲みは雑だった。
一方は詰めすぎている。
一方は空きすぎている。
逃げ道を塞いでいるつもりで、逆に鎧鹿を混乱させている。
トンパは少し離れた場所に立ち、口だけ出していた。
「いいぞ、そのまま追い込め! 角に気をつけろよ!」
ユズルは眉をひそめた。
トンパ自身は、危険な位置にいない。
新人たちだけを前に出している。
鎧鹿が短く鳴いた。
次の瞬間、銀灰色の体が跳ねた。
速い。
鎧鹿は左の隙間へ走ろうとした。
しかし、受験者の一人が慌てて飛び出し、その進路を塞いだ。
鎧鹿の動きが変わる。
逃げ道を失った目が、急に鋭くなった。
まずい。
ユズルはそう思った。
鹿は首を低くし、角を前へ向けた。
「避けて!」
ユズルが叫ぶ。
だが、遅かった。
鎧鹿は正面の受験者へ突っ込んだ。
その受験者は慌てて横へ飛んだ。
完全には避けきれず、服の脇腹が裂ける。
血が飛んだ。
「うわあっ!」
受験者が倒れる。
鎧鹿はその隙間から逃げ出した。
トンパが叫ぶ。
「逃がすな!」
しかし、自分は動かない。
ユズルの胸に、怒りが湧いた。
まただ。
トンパは、誰かを前に出す。
危険な場所には、自分は立たない。
ユズルは一歩踏み出しかけた。
ニカが腕を掴む。
「今行っても無駄。鹿が逃げる」
「でも、怪我人が」
「命に関わる傷じゃない。今は鎧鹿」
「でも」
「二百四十一番」
ニカの声が低くなった。
「今あんたが行って何ができる?」
ユズルは答えられなかった。
できること。
傷の手当ては詳しくない。
鎧鹿を止める準備もできていない。
トンパを責めても、時間を失うだけ。
分かっている。
でも、胸の中の怒りと焦りは消えない。
黒い子牛が、ユズルの横に立つ。
その目は、鎧鹿が逃げていった方向を見ていた。
ユズルは息を吸った。
「追います」
「どう追う?」
ニカが問う。
ユズルは、鎧鹿が逃げた方向を見た。
足跡は深い。
さっきよりも乱れている。
かなり怖がっている。
このまま追えば、さらに逃げる。
もっと暴れる。
肉も硬くなる。
怪我人も増える。
追ってはいけない。
では、どうする。
ユズルは周囲を見た。
窪地。
逃げた方向。
木々の密度。
風の向き。
鎧鹿が最初に選ぼうとした左の隙間。
実際に抜けた右奥の道。
鎧鹿は、出口を探している。
追われれば、広い場所へ逃げるのではない。
安心できる細い道へ入る。
身を隠せる木々の間へ向かう。
山で見た鹿もそうだった。
広い場所で追われると、藪や斜面へ逃げる。
人間が走りにくい場所を選ぶ。
ユズルは言った。
「追いかけるんじゃなくて、先回りします」
「できる?」
「たぶん」
「たぶんね」
「でも、追い続けるよりはいいと思います」
ニカは少し考えてから頷いた。
「案内して」
「はい」
ユズルは走り出した。
ただし、鎧鹿を追ってまっすぐ走るのではない。
少し横へ逸れる。
斜面を上がる。
木の根を越える。
柔らかい落ち葉を避け、硬い土を踏む。
山道の感覚を思い出す。
逃げる獣は、どこへ行くか。
怖い時、どこに隠れたいか。
どこなら追手から見えにくいか。
ユズル自身なら、どこへ逃げるか。
その考えが浮かんだ時、胸が少し苦しくなった。
自分なら、どう逃げる。
怒られない場所。
見つからない場所。
でも完全に閉じ込められない場所。
もう一つ逃げ道がある場所。
鎧鹿も、きっとそうだ。
完全な行き止まりには入らない。
逃げ道を残すはずだ。
ユズルは、森の奥にある細い沢へ向かった。
沢の両側には木が密集し、人間は走りにくい。
しかし、鹿なら通れる。
水の匂いで気配も紛れる。
そこへ向かうはず。
ニカが後ろからついてくる。
「本当にこっち?」
「分かりません」
「またそれ」
「でも、自分ならこっちへ逃げます」
ニカは一瞬黙り、それから笑った。
「根拠としては変だけど、悪くない」
二人は沢へ出た。
水は浅い。
石が多く、苔で滑る。
ユズルは足跡を探した。
あった。
細い蹄の跡。
水際の泥が浅く抉れている。
新しい。
「こっちです」
ユズルは声を低くした。
「近いと思います」
ニカも表情を引き締めた。
「どう捕る?」
ユズルは辺りを見回した。
沢の先は二手に分かれている。
右は開けた斜面。
左は細い藪道。
鎧鹿はきっと左へ行く。
身を隠せるから。
だが、左の藪道は少し進むと倒木がある。
鹿なら越えられる。人間には少し手間がかかる。
でも、その手前なら。
ユズルは言った。
「僕が左の藪道の手前に立ちます」
「塞ぐの?」
「完全には塞ぎません。塞ぎすぎると暴れると思うので」
「じゃあどうするの」
「右へ流します」
ニカは斜面を見た。
「右は開けてる。逃げられるよ」
「でも、少し下ったところに窪みがあります。そこなら足を止めるかもしれません」
「止めた後は?」
「……分かりません」
「正直すぎ」
ニカはため息をついた。
「でも、やるしかないか。私は右側から音を立てすぎないように回る。あんたが左を嫌がらせて、右へ流す。窪みで私が網を投げる」
「網、あるんですか」
「ある。小さいけど」
ニカは腰の荷物から折りたたんだ網を見せた。
「捕獲用。丈夫だけど、一人じゃ大型は無理」
「僕が止めます」
言ってから、ユズルは少し驚いた。
自分で「止めます」と言った。
ニカも気づいたように口元を上げる。
「言ったね」
「……はい」
「じゃあ、立って」
ユズルは頷いた。
ニカが右側へ回り込む。
ユズルは左の藪道の手前へ進んだ。
黒い子牛が隣に立つ。
心臓が速い。
鎧鹿が来る。
追い詰めすぎてはいけない。
怖がらせすぎてもいけない。
でも、逃げ道を少しだけ変えなければ捕れない。
ユズルは藪道の入口を見た。
ここを完全に塞ぐのではない。
壁になるのではない。
ただ、ここは危ないと思わせる。
鎧鹿に、別の道を選ばせる。
守る場所。
藪道の入口。
ユズルは小さく息を吸った。
遠くで枝が鳴る。
近づいてくる。
銀灰色の影が、沢の奥から現れた。
鎧鹿だ。
その体は少し傷ついていた。
角の根元に泥がつき、脇腹の外皮に擦れた跡がある。目は大きく開き、耳は忙しく動いている。
怖がっている。
それでも、まだ走れる。
鎧鹿は一瞬でユズルを見つけた。
足が止まる。
ユズルは動かなかった。
黒い子牛が、隣で静かに立つ。
鎧鹿の目が揺れる。
右か。
左か。
戻るか。
突っ込むか。
ユズルは、低く言った。
「ここは、通さない」
黒い子牛の体が、少し大きくなった。
省エネ状態から、密度が増す。
隠は維持されている。鎧鹿には見えないはずだ。
しかし、獣は空気の重さを感じるのかもしれない。
鎧鹿は藪道へ踏み込もうとして、足を止めた。
そこに何かある。
そう感じたように。
ユズルは動かない。
逃げ道を完全に消してはいけない。
追い詰めてはいけない。
ただ、ここではないと伝える。
鎧鹿が短く鳴いた。
そして、右へ跳んだ。
「ニカさん!」
ユズルが叫ぶ。
右側の木陰から、ニカが飛び出した。
網が広がる。
鎧鹿はそれを避けようと身を捻った。
速い。
完全にはかからない。
網は角と前脚の一部に絡んだだけだった。
鎧鹿が暴れる。
角を振り、前脚を跳ね上げる。
ニカが引きずられそうになる。
「重っ……!」
ユズルは走った。
鎧鹿は右の斜面へ逃げようとしている。
このままでは網ごとニカが引きずられる。
どうする。
止める。
でも突っ込むと角でやられる。
丑で正面から受け止めるか。
だが、強く止めすぎれば鎧鹿が暴れる。
肉も傷む。ニカも危ない。
ユズルは鎧鹿の目を見た。
怖い。
ただ怖いから暴れている。
なら、逃げ道を少しだけ残す。
ユズルは鎧鹿の正面ではなく、斜面の下側へ走った。
そこに立てば、鎧鹿は下へ逃げにくくなる。
上側には木の間の細い隙間がある。完全な逃げ道ではないが、体を捻れば止まれる。
ユズルは足を踏ん張った。
「ここは、崩させません!」
不動の牛歩。
黒い子牛が、ユズルの隣で大きくなる。
空気が沈む。
斜面の下側に、見えない重さが立った。
鎧鹿が下へ逃げようとして、その気配にたじろぐ。
進路がわずかに上へ逸れる。
ニカがその瞬間に網を引いた。
鎧鹿の前脚が絡む。
体勢が崩れる。
だが、倒れ方が悪ければ首を痛める。
ユズルは反射的に前へ出た。
丑の力で場を支えながら、鎧鹿の体が斜面に叩きつけられないよう、落ちる方向をずらす。
重い。
全身に衝撃が来る。
見えない牛が、地面に根を張る。
鎧鹿は斜面に横倒しになった。
完全に押さえ込まれたわけではない。だが、網が脚に絡み、一瞬だけ動きが止まる。
「今!」
ニカが叫んだ。
ユズルは短刀を抜いた。
村で使っていた小さな刃物。
ヤクモが「旅には手に馴染む刃物を持て」と言って選ばせたものだ。
殺す。
その言葉が頭に浮かび、ユズルの手が止まりかけた。
鎧鹿の目がこちらを見ている。
大きく開いた、恐怖の目。
怖い。
逃げたい。
ユズルには、その目がそう言っているように見えた。
自分も、ずっとそうだった。
怖いから逃げる。
怒られたくないから隠れる。
失敗したくないから選ばない。
追い詰められると、何も言えなくなる。
でも。
これは試験だ。
食材を扱う試験だ。
捕った命を、どう扱うか。
ユズルは震える息を吐いた。
「……すみません」
ニカが鋭く言った。
「謝るな。やるなら丁寧に」
その言葉で、ユズルの目が少しだけ定まった。
謝るのではない。
雑にしない。
それが、今できることだ。
ユズルは鎧鹿の首元を見た。
村で教わった位置。
血を抜くための急所。
外皮を避け、柔らかい場所へ刃を入れる。
一度で。
迷えば苦しませる。
ユズルは刃を入れた。
鎧鹿の体がびくりと震える。
ニカが網を押さえる。
ユズルは刃を抜き、血の流れを確認した。
温かい血が、土に落ちる。
鎧鹿の目から、少しずつ力が抜けていく。
ユズルは息を止めていたことに気づいた。
黒い子牛が、隣で静かに立っている。
何も言わない。
ただ、立っている。
やがて、鎧鹿は動かなくなった。
森が静かになる。
ユズルは膝をつきそうになった。
だが、まだ終わっていない。
捕獲は終わった。
次は、食材として扱う。
ニカが汗を拭った。
「……あんた、思ったよりやるじゃん」
「いえ、ニカさんが網を」
「そういう謙遜、今いらない。時間」
「はい」
二人は急いで解体に移った。
鎧鹿の外皮は硬かった。
甲殻状の部分は刃が通りにくく、柔らかい部分を選ぶ必要がある。
ニカは手際よく外皮の継ぎ目を見つけた。
「ここ。ここから刃を入れれば剥がせる」
「分かりました」
ユズルは慎重に刃を入れた。
手が震えていた。
けれど、さっきよりは少し落ち着いている。
肉を傷つけないように。
血を溜めないように。
恐怖で硬くなった部分と、まだ柔らかい部分を見分けるように。
村で見た解体の記憶を辿る。
ヤクモの声も思い出す。
『命を取る時、格好つけるな。怖いなら怖いでいい。大事なのは、怖がりながら雑にしないことだ』
怖がりながら雑にしない。
今の自分にできることは、それかもしれない。
必要な分の肉を切り分け、二人は急いで調理場へ戻った。
途中、トンパの一団とすれ違った。
彼らは、乱暴に捕らえたらしい鎧鹿の肉を抱えていた。
肉は血で濡れ、ところどころ潰れている。追い回して暴れさせたのだろう。獣臭さが強かった。
トンパはユズルたちを見ると、笑った。
「お、捕れたんだ。やるねえ」
ユズルは答えなかった。
トンパの後ろにいる受験者の一人が、腕を押さえている。
角で裂かれたのか、血が滲んでいた。
ユズルは一瞬立ち止まりかけた。
だが、ニカが言う。
「今は料理」
ユズルは頷いた。
調理場はすでに混雑していた。
煙。
熱。
肉の匂い。
怒号。
包丁の音。
鍋の音。
焦げた匂い。
ミナリとロッカは、受験者たちの動きを見ている。
手伝いはしない。ただ見る。
ユズルとニカは、空いている調理台を見つけた。
「どうする?」
ニカが肉を置く。
ユズルは肉の状態を見た。
鎧鹿の肉は、赤身が美しかった。
しかし、ところどころ硬くなっている部分がある。恐怖で暴れた影響かもしれない。
脂は少ない。
火を入れすぎれば硬くなる。
だが、生に近すぎれば危険だ。
村で鹿肉を食べた時は、薄く切って、香草と一緒に焼いた。
凝った料理はできない。
なら、できることを丁寧にやるしかない。
「薄く切って、強火で表面を焼きます。中まで火を入れすぎないようにして、硬いところは細かく刻んで汁に」
「一皿提出だよ」
「焼いた肉に、少しだけ汁を添えます。臭みを消すために、香草を使って」
「地味」
「すみません」
「でも悪くない。私、香草取ってくる」
ニカは調理場の端へ走った。
ユズルは肉を切った。
包丁はよく切れる。
だが、手が追いつかない。
周囲には、もっと手際の良い受験者がいる。
大きな肉を豪快に焼く者。
香辛料を大量に使う者。
見栄えを意識して盛り付ける者。
火柱を上げる者。
ユズルの料理は、地味だった。
薄切りの肉を、丁寧に焼く。
血の残りを拭く。
火を入れすぎない。
硬い筋を避ける。
香草を刻む。
派手さはない。
でも、雑にはしない。
ニカが香草を持って戻ってきた。
「これ、使える?」
ユズルは匂いを嗅いだ。
「はい。たぶん合います」
「たぶん多いね、今日」
「確信が持てなくて」
「いいよ。変に自信満々よりはまし」
二人で肉を焼いた。
熱い。
汗が出る。
時間がない。
それでも、ユズルは肉から目を離さなかった。
鎧鹿を怖がらせすぎないように捕ること。
傷めすぎないように捌くこと。
火を入れすぎないように焼くこと。
すべて、同じことのように思えた。
相手を見ないまま、自分の都合で押し切れば壊れる。
肉も。
獣も。
人も。
自分も。
「できた」
ユズルは皿に盛り付けた。
焼いた鎧鹿の薄切り。
香草。
硬い部分を細かく刻んで作った小さな汁。
飾り気はない。
けれど、丁寧には作った。
ニカも自分の分を仕上げている。
同じ肉を使っているが、彼女は少し香辛料を強くしていた。
制限時間の終わりが近づく。
受験者たちが次々に皿を提出していく。
豪快な丸焼き。
煮込み。
串焼き。
薄切り肉。
焦げた肉。
血抜きが甘い肉。
見た目だけは美しい皿。
ユズルは皿を持って、ミナリとロッカの前に立った。
「二百四十一番、ユズルです」
声が少し震えた。
ミナリが皿を見る。
「地味ね」
「はい」
「自覚あり?」
「あります」
ロッカが肉の断面を見た。
「血抜きは悪くない。火入れは慎重だな。慎重すぎるとも言える」
ユズルは黙っていた。
ミナリが一切れ口に運ぶ。
ロッカも食べる。
ユズルは、心臓が痛いほど鳴っているのを感じた。
ミナリはしばらく噛んでから、言った。
「肉を怖がってる」
ユズルは息を止めた。
「でも、食材を雑には扱ってない」
ロッカが汁を口にした。
「硬い部分を誤魔化さず、別に処理したのは良い。派手さはない。技術も高くない。だが、鎧鹿を無駄に暴れさせた肉ではない」
ミナリはユズルを見た。
「あなた、狩る時に追い回さなかった?」
「はい」
「どうして?」
ユズルは少し迷った。
何と答えればいいのか分からない。
でも、嘘をつく必要はないと思った。
「怖がっていたので」
ミナリの目が少しだけ細くなる。
「鎧鹿が?」
「はい」
「食材に同情した?」
「……分かりません。でも、怖がっている相手を無理に追い詰めると、壊れる気がしました」
自分で言って、胸が少し痛んだ。
ミナリは笑った。
「面白い答え」
ロッカが木べらで皿を指した。
「二百四十一番、通過」
ユズルは一瞬、言葉の意味が分からなかった。
通過。
二次試験、通過。
「あ……ありがとうございます」
ミナリが肩をすくめる。
「礼は鎧鹿に言いなさい。あと、もっと料理は練習した方がいいわ」
「はい」
ユズルは皿を下げ、列から離れた。
足が少し震えている。
ニカが隣に来た。
「通った?」
「はい」
「私も」
「よかったです」
「うん。肉はあんたの方がよかったって言われた。味付けは私の方がましだって」
「それは……二人で捕ったからですね」
「そうだね」
ニカは珍しく素直に頷いた。
少し離れたところで、トンパが提出していた。
彼の皿は見た目だけは綺麗だった。
香辛料も使い、盛り付けも整えている。
だが、ミナリは肉を一口食べた瞬間、眉をひそめた。
「硬い」
ロッカも短く言った。
「血抜きが雑。肉が潰れている。捕獲時に暴れさせすぎたな」
トンパは困ったように笑った。
「いやあ、鎧鹿が元気すぎて」
ミナリは笑わなかった。
「食材のせいにする料理人は嫌い」
トンパの笑顔が、わずかに引きつる。
だが、ロッカは皿を脇へ置いた。
「不合格とは言わない。味付けと見た目で最低点は越えている。ただし、ぎりぎりだ」
トンパはすぐに笑顔を戻した。
「いやあ、助かった」
通過した。
ユズルは少し複雑な気持ちになった。
落ちてほしかったのか。
そう思った自分に気づいて、少し嫌になる。
でも、トンパはまだ残る。
この先も、誰かを騙すのかもしれない。
黒い子牛が、ユズルの横に立っている。
丑は何も言わない。
遠くでヒソカの審査が始まった。
彼の皿は、驚くほど整っていた。
鎧鹿の肉は薄く切られ、火入れも美しい。
まるで、最初から料理が趣味だったかのような手際だった。
ミナリが一口食べ、笑った。
「悔しいけど、美味しい」
ロッカも頷いた。
「捕獲も処理も無駄がない」
ヒソカは肩をすくめるだけだった。
「食材が素直だったからね」
ユズルは、ぞっとした。
ヒソカがどうやって鎧鹿を捕ったのか、想像できなかった。
鎧鹿は怖がったのだろうか。
暴れたのだろうか。
それとも、恐怖を感じる暇もなかったのだろうか。
分からない。
分からないことが、怖かった。
制限時間が終わる。
ミナリとロッカは全員の皿を確認し、通過者を発表した。
「二次試験通過者、五十二名」
八十七名から、五十二名へ。
また減った。
ボルドも通過していた。
彼は鎧鹿を自分で捕ったわけではなく、別の受験者と交渉して少量の肉を手に入れ、山菜と一緒に煮込んだらしい。
「年寄りは肉を待つと言ったじゃろう」
ボルドは満足そうだった。
ユズルは少し笑った。
その一方で、落ちた者たちがいた。
料理を完成できなかった者。
肉を手に入れられなかった者。
血抜きが悪く失格になった者。
食材をごまかそうとして見破られた者。
トンパに連れられていた新人のうち、何人かも落ちていた。
トンパ自身は残っている。
ユズルはその事実を、黙って受け止めた。
試験は、正しい人間から残るわけではない。
優しい人間が通るわけでもない。
悪い人間が落ちるわけでもない。
通れる者が、通る。
その現実が、また一つ重くのしかかった。
ミナリが手を叩いた。
「二次試験は以上。三次試験会場までは協会の飛行船で移動します。休憩はその中で取ってください」
飛行船。
受験者たちがざわめく。
ユズルは空を見上げた。
森の上に、巨大な影が近づいてくる。
低い機械音。
風を押し下げる圧。
木々の間から見えたのは、協会の印が入った飛行船だった。
次の場所へ向かう。
試験はまだ終わらない。
ユズルは、自分の手を見た。
鎧鹿の血は洗ったはずなのに、まだ残っているような気がした。
怖がりながら、雑にしない。
それが、今日できたことだった。
黒い子牛が、隣で静かに立っている。
ユズルは小さく息を吸った。
「次も、立てるかな」
丑は短く言った。
「決めろ」
ユズルは苦笑した。
「……うん」
飛行船の影が、森の空き地を覆っていく。
二次試験は終わった。
だが、ユズルの中には、鎧鹿の目がまだ残っていた。
怖がって逃げる目。
その目を、忘れないようにしようと思った。