巡る獣暦   作:ギガマツタケ

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第5話 ヨロイジカ×オイコミ×ヒイレ

 鎧鹿は、森の奥へ消えた。

 

 銀灰色の影。

 光を弾く甲殻のような外皮。

 刃物のように枝分かれした角。

 細く長い脚。

 

 一瞬しか見えなかったのに、その姿はユズルの目に焼きついていた。

 

 速い。

 

 ただ速いだけではない。

 

 逃げるための速さだった。

 

 それは、獲物を追う獣の走り方ではなかった。

 敵を倒すために突っ込んでくる走り方でもない。

 

 木々の隙間を縫い、足音を殺し、こちらの視線が届く前に消える。

 体を低くして、風の流れを読み、逃げ道だけを探す。

 

 あの鹿は、怖がっている。

 

 ユズルは、そう思った。

 

 森の前で、二次試験官のミナリが両手を叩いた。

 

「それじゃあ、改めて説明するわ」

 

 受験者たちの視線が、ミナリへ集まる。

 

 一次試験を通過した八十七名。

 そのうち何人が料理を得意としているのか、狩りに慣れているのか、食材の扱いを知っているのかは分からない。

 

 しかし、全員が同じ条件で森へ入る。

 

「課題は鎧鹿を使った料理。一人一皿提出すること。食材は一人一頭である必要はありません。複数人で捕っても、分けても、奪っても、交渉してもいい」

 

 奪ってもいい。

 

 その言葉に、何人かの受験者が小さく笑った。

 

 ユズルは胸の奥が重くなるのを感じた。

 

 狩るだけではない。

 料理するだけでもない。

 他の受験者から奪われる可能性もある。

 

 ロッカが、木べらを肩に担いだまま続けた。

 

「ただし、提出する料理には、鎧鹿の肉を使っていること。こちらで確認する。偽物や別の食材を混ぜてごまかした場合は即失格」

 

 ミナリが笑う。

 

「調理場と最低限の調味料、火、鍋、鉄板、包丁は建物の中にあります。持ち込みの道具も自由。ただし、捕獲、血抜き、解体、調理、盛り付けまで、すべて制限時間内に終えること」

 

「制限時間は?」

 

 受験者の一人が問う。

 

 ロッカが答えた。

 

「二時間」

 

 森がざわめいたような気がした。

 

 二時間。

 

 鹿を見つけ、捕まえ、捌き、料理にする。

 それを二時間で。

 

 ユズルには、短すぎるように思えた。

 

 狩りに慣れている者なら違うのだろうか。

 料理の手際が良い者なら、どうにかできるのだろうか。

 

 自分はどうか。

 

 村で小動物を捕ったことはある。

 罠を仕掛けたこともある。

 山鳥を捌く手伝いをしたこともある。

 鹿肉を食べたこともある。

 

 しかし、鎧鹿は違う。

 

 大型で、足が速く、硬い外皮を持ち、恐怖で暴れさせすぎると肉質が落ちる。

 

 追えば逃げる。

 追い詰めれば暴れる。

 力でねじ伏せれば、肉が駄目になる。

 

 どうすればいいのか。

 

 ミナリは受験者たちを見渡した。

 

「それから一つ。鎧鹿は繊細な食材です。殺せばいい、焼けばいい、というものではありません。雑な狩りをした肉は、私たちにはすぐ分かります」

 

 ロッカが淡々と言った。

 

「調理とは、食材への理解だ。理解できない者は落ちる」

 

 その言葉に、ユズルは思わず森を見た。

 

 食材への理解。

 

 つまり、鎧鹿をただ獲物として見るだけでは足りない。

 

 鎧鹿が何を怖がり、どこへ逃げ、いつ反撃し、どう扱えば肉を傷めないのか。

 それを考えなければならない。

 

 怖がる相手を、どう扱うか。

 

 ユズルは、少しだけ唇を結んだ。

 

 黒い子牛が、隣で森を見ている。

 

 丑は相変わらず隠で姿を伏せていた。

 ユズルには見えるが、他者には見えない。

 

 ミナリが片手を上げた。

 

「二次試験、開始」

 

 その瞬間、受験者たちが一斉に動いた。

 

 森へ走り込む者。

 調理場へ向かい道具を確認する者。

 仲間を探す者。

 他人の動きを見る者。

 すぐには動かず、鎧鹿が消えた方向を観察する者。

 

 ユズルは、一歩遅れた。

 

 まただ。

 

 考えすぎて、動きが遅れる。

 

 しかし、今回はただ焦って走り出すわけにはいかなかった。

 

 鎧鹿は速い。

 闇雲に追えば、逃げられるだけだ。

 

「二百四十一番」

 

 ニカの声がした。

 

 振り返ると、彼女はすでに森の方へ歩き出していた。

 

「来る?」

 

「いいんですか」

 

「別に一緒に組むってほどじゃない。あんた、森の歩き方は知ってそうだから」

 

「ニカさんは?」

 

「罠と追跡は少し。料理は最低限」

 

「僕も料理は少しです」

 

「じゃあ二人で少しずつなら、多少ましでしょ」

 

 ニカはそう言ってから、視線を鋭くした。

 

「ただし、邪魔なら置いていく」

 

「はい」

 

「あと謝るな」

 

「……はい」

 

 ユズルは頷いた。

 

 ボルドは少し離れたところで、森とは逆に調理場の方を見ていた。

 

「ボルドさんは?」

 

 ユズルが尋ねると、ボルドは髭を撫でた。

 

「ワシは肉を追うより、肉を待つ」

 

「待つ?」

 

「年寄りは追うと転ぶ」

 

 またそれか、と思いかけたが、ボルドの目は笑っていなかった。

 

「鎧鹿は追われれば逃げる。逃げれば、どこかに出る。出た先で待つ者も必要じゃ」

 

 なるほど、と思った。

 

 ボルドは森の形を見ているのかもしれない。

 鎧鹿が逃げる先を、経験で読もうとしている。

 

「お前さんは、お前さんの足で行け」

 

「はい」

 

 ユズルは答えた。

 

 その時、トンパが近くを通りかかった。

 

 彼は数人の受験者を連れている。

 その中には初受験者らしき若者もいた。

 

「鎧鹿は臆病だからねえ。大勢で追い込めば簡単だよ」

 

 トンパは親切そうに説明している。

 

「逃げ道を塞いで、網でも投げれば終わり。料理はあとで考えればいい」

 

 ユズルは眉を寄せた。

 

 大勢で追い込む。

 

 それは一見正しいように聞こえる。

 

 けれど、ミナリとロッカは言っていた。

 恐怖で暴れさせすぎると、肉が硬くなる。

 追い詰めれば、角で腹を裂かれる。

 

 トンパがそれを知らないはずがない。

 

 知っていて、言っている。

 

 ユズルはトンパを見た。

 

 トンパもこちらに気づき、にこりと笑った。

 

「ユズルくんも来る? 人数が多い方が有利だよ」

 

 その声は、相変わらず親切そうだった。

 

 だが、ユズルはもう、そのまま信じる気にはなれなかった。

 

「僕は、自分で行きます」

 

 トンパの笑顔が少しだけ深くなる。

 

「そっか。頑張ってね」

 

「はい」

 

 トンパは軽く手を振り、連れていた受験者たちと森へ入っていった。

 

 ユズルはその背中を見送った。

 

 胸の奥に、また小さな怒りが灯る。

 

 けれど、今は追及している場合ではない。

 

 ニカが言った。

 

「行くよ」

 

「はい」

 

 二人は森へ入った。

 

 森の中は、外から見るよりもずっと深かった。

 

 木々の密度が高い。

 足元には柔らかい落ち葉が積もり、ところどころに木の根が浮いている。風は弱く、音が吸い込まれるようだった。

 

 鎧鹿の姿はない。

 

 だが、痕跡はあった。

 

 細い足跡。

 折れた枝。

 甲殻が擦れたのか、木の幹に銀灰色の粉のようなものが付着している。

 

 ユズルはしゃがみ込み、その粉に触れた。

 

 指先に、かすかなざらつきが残る。

 

「これが鎧鹿の外皮……?」

 

「たぶんね」

 

 ニカは周囲を見回している。

 

「まだ近いと思う?」

 

 ユズルは耳を澄ませた。

 

 森の音。

 鳥の声。

 遠くの受験者の足音。

 誰かが叫ぶ声。

 枝が折れる音。

 

 子の月なら、もっと拾えたかもしれない。

 

 鼠算の密告なら、隠れた音や鎧鹿の足音も聞けたかもしれない。

 

 でも今は丑。

 

 聞く獣ではない。

 追う獣でもない。

 

 立つ獣だ。

 

「……近くにはいないと思います」

 

「根拠は?」

 

「足跡が深くないです。走って逃げたというより、速度を落として様子を見ながら移動してる気がします」

 

「ふうん」

 

 ニカが少しだけ目を細めた。

 

「山育ちっぽいこと言うじゃん」

 

「合ってるかは分かりません」

 

「分かるまで待ってたら、二時間終わるよ」

 

「はい」

 

 二人は痕跡を追った。

 

 ただし、走らなかった。

 

 ニカは時折立ち止まり、地面や枝、空気の匂いを確認する。

 ユズルも、自分に分かる範囲で足跡を読む。

 

 鎧鹿はまっすぐ逃げていない。

 何度も方向を変え、木々の間を抜け、足跡を消すように硬い地面を選んでいる。

 

 賢い。

 

 ただ逃げているだけではない。

 

 追う者の動きを考えている。

 

 しばらく進むと、森の奥から怒号が聞こえた。

 

「そっち行ったぞ!」

 

「逃がすな!」

 

「回り込め!」

 

 トンパの一団だろうか。

 

 複数の足音が、森を乱暴に駆け回っている。

 

 続いて、鋭い鳴き声。

 

 鎧鹿だ。

 

 ユズルは胸が跳ねた。

 

 ニカが舌打ちする。

 

「あーあ。追い回してる」

 

「行きますか」

 

「近づきすぎると巻き込まれる。でも見ないと状況が分からない」

 

 二人は音の方へ慎重に近づいた。

 

 やがて、木々の隙間から開けた場所が見えた。

 

 小さな窪地だった。

 

 そこに、鎧鹿がいた。

 

 銀灰色の外皮が木漏れ日を弾いている。

 肩から背中、胸元にかけて甲殻状の硬い板が連なり、胴体の柔らかい部分を守っている。脚は細くしなやかで、筋肉が震えていた。

 

 角は大きい。

 刃物のように鋭く枝分かれし、光を受けて白く光っている。

 

 その目は、大きく見開かれていた。

 

 怖がっている。

 

 ユズルは、すぐに分かった。

 

 窪地の周囲には、トンパに連れられていた受験者たちがいた。

 彼らは鎧鹿を囲むように立ち、逃げ道を塞ごうとしている。

 

 だが、囲みは雑だった。

 

 一方は詰めすぎている。

 一方は空きすぎている。

 逃げ道を塞いでいるつもりで、逆に鎧鹿を混乱させている。

 

 トンパは少し離れた場所に立ち、口だけ出していた。

 

「いいぞ、そのまま追い込め! 角に気をつけろよ!」

 

 ユズルは眉をひそめた。

 

 トンパ自身は、危険な位置にいない。

 

 新人たちだけを前に出している。

 

 鎧鹿が短く鳴いた。

 

 次の瞬間、銀灰色の体が跳ねた。

 

 速い。

 

 鎧鹿は左の隙間へ走ろうとした。

 しかし、受験者の一人が慌てて飛び出し、その進路を塞いだ。

 

 鎧鹿の動きが変わる。

 

 逃げ道を失った目が、急に鋭くなった。

 

 まずい。

 

 ユズルはそう思った。

 

 鹿は首を低くし、角を前へ向けた。

 

「避けて!」

 

 ユズルが叫ぶ。

 

 だが、遅かった。

 

 鎧鹿は正面の受験者へ突っ込んだ。

 

 その受験者は慌てて横へ飛んだ。

 完全には避けきれず、服の脇腹が裂ける。

 

 血が飛んだ。

 

「うわあっ!」

 

 受験者が倒れる。

 

 鎧鹿はその隙間から逃げ出した。

 

 トンパが叫ぶ。

 

「逃がすな!」

 

 しかし、自分は動かない。

 

 ユズルの胸に、怒りが湧いた。

 

 まただ。

 

 トンパは、誰かを前に出す。

 危険な場所には、自分は立たない。

 

 ユズルは一歩踏み出しかけた。

 

 ニカが腕を掴む。

 

「今行っても無駄。鹿が逃げる」

 

「でも、怪我人が」

 

「命に関わる傷じゃない。今は鎧鹿」

 

「でも」

 

「二百四十一番」

 

 ニカの声が低くなった。

 

「今あんたが行って何ができる?」

 

 ユズルは答えられなかった。

 

 できること。

 

 傷の手当ては詳しくない。

 鎧鹿を止める準備もできていない。

 トンパを責めても、時間を失うだけ。

 

 分かっている。

 

 でも、胸の中の怒りと焦りは消えない。

 

 黒い子牛が、ユズルの横に立つ。

 

 その目は、鎧鹿が逃げていった方向を見ていた。

 

 ユズルは息を吸った。

 

「追います」

 

「どう追う?」

 

 ニカが問う。

 

 ユズルは、鎧鹿が逃げた方向を見た。

 

 足跡は深い。

 さっきよりも乱れている。

 かなり怖がっている。

 

 このまま追えば、さらに逃げる。

 もっと暴れる。

 肉も硬くなる。

 怪我人も増える。

 

 追ってはいけない。

 

 では、どうする。

 

 ユズルは周囲を見た。

 

 窪地。

 逃げた方向。

 木々の密度。

 風の向き。

 鎧鹿が最初に選ぼうとした左の隙間。

 実際に抜けた右奥の道。

 

 鎧鹿は、出口を探している。

 

 追われれば、広い場所へ逃げるのではない。

 安心できる細い道へ入る。

 身を隠せる木々の間へ向かう。

 

 山で見た鹿もそうだった。

 広い場所で追われると、藪や斜面へ逃げる。

 人間が走りにくい場所を選ぶ。

 

 ユズルは言った。

 

「追いかけるんじゃなくて、先回りします」

 

「できる?」

 

「たぶん」

 

「たぶんね」

 

「でも、追い続けるよりはいいと思います」

 

 ニカは少し考えてから頷いた。

 

「案内して」

 

「はい」

 

 ユズルは走り出した。

 

 ただし、鎧鹿を追ってまっすぐ走るのではない。

 

 少し横へ逸れる。

 斜面を上がる。

 木の根を越える。

 柔らかい落ち葉を避け、硬い土を踏む。

 

 山道の感覚を思い出す。

 

 逃げる獣は、どこへ行くか。

 怖い時、どこに隠れたいか。

 どこなら追手から見えにくいか。

 

 ユズル自身なら、どこへ逃げるか。

 

 その考えが浮かんだ時、胸が少し苦しくなった。

 

 自分なら、どう逃げる。

 怒られない場所。

 見つからない場所。

 でも完全に閉じ込められない場所。

 もう一つ逃げ道がある場所。

 

 鎧鹿も、きっとそうだ。

 

 完全な行き止まりには入らない。

 逃げ道を残すはずだ。

 

 ユズルは、森の奥にある細い沢へ向かった。

 

 沢の両側には木が密集し、人間は走りにくい。

 しかし、鹿なら通れる。

 水の匂いで気配も紛れる。

 

 そこへ向かうはず。

 

 ニカが後ろからついてくる。

 

「本当にこっち?」

 

「分かりません」

 

「またそれ」

 

「でも、自分ならこっちへ逃げます」

 

 ニカは一瞬黙り、それから笑った。

 

「根拠としては変だけど、悪くない」

 

 二人は沢へ出た。

 

 水は浅い。

 石が多く、苔で滑る。

 

 ユズルは足跡を探した。

 

 あった。

 

 細い蹄の跡。

 水際の泥が浅く抉れている。

 新しい。

 

「こっちです」

 

 ユズルは声を低くした。

 

「近いと思います」

 

 ニカも表情を引き締めた。

 

「どう捕る?」

 

 ユズルは辺りを見回した。

 

 沢の先は二手に分かれている。

 

 右は開けた斜面。

 左は細い藪道。

 

 鎧鹿はきっと左へ行く。

 身を隠せるから。

 

 だが、左の藪道は少し進むと倒木がある。

 鹿なら越えられる。人間には少し手間がかかる。

 でも、その手前なら。

 

 ユズルは言った。

 

「僕が左の藪道の手前に立ちます」

 

「塞ぐの?」

 

「完全には塞ぎません。塞ぎすぎると暴れると思うので」

 

「じゃあどうするの」

 

「右へ流します」

 

 ニカは斜面を見た。

 

「右は開けてる。逃げられるよ」

 

「でも、少し下ったところに窪みがあります。そこなら足を止めるかもしれません」

 

「止めた後は?」

 

「……分かりません」

 

「正直すぎ」

 

 ニカはため息をついた。

 

「でも、やるしかないか。私は右側から音を立てすぎないように回る。あんたが左を嫌がらせて、右へ流す。窪みで私が網を投げる」

 

「網、あるんですか」

 

「ある。小さいけど」

 

 ニカは腰の荷物から折りたたんだ網を見せた。

 

「捕獲用。丈夫だけど、一人じゃ大型は無理」

 

「僕が止めます」

 

 言ってから、ユズルは少し驚いた。

 

 自分で「止めます」と言った。

 

 ニカも気づいたように口元を上げる。

 

「言ったね」

 

「……はい」

 

「じゃあ、立って」

 

 ユズルは頷いた。

 

 ニカが右側へ回り込む。

 

 ユズルは左の藪道の手前へ進んだ。

 

 黒い子牛が隣に立つ。

 

 心臓が速い。

 

 鎧鹿が来る。

 

 追い詰めすぎてはいけない。

 怖がらせすぎてもいけない。

 でも、逃げ道を少しだけ変えなければ捕れない。

 

 ユズルは藪道の入口を見た。

 

 ここを完全に塞ぐのではない。

 壁になるのではない。

 

 ただ、ここは危ないと思わせる。

 

 鎧鹿に、別の道を選ばせる。

 

 守る場所。

 

 藪道の入口。

 

 ユズルは小さく息を吸った。

 

 遠くで枝が鳴る。

 

 近づいてくる。

 

 銀灰色の影が、沢の奥から現れた。

 

 鎧鹿だ。

 

 その体は少し傷ついていた。

 角の根元に泥がつき、脇腹の外皮に擦れた跡がある。目は大きく開き、耳は忙しく動いている。

 

 怖がっている。

 

 それでも、まだ走れる。

 

 鎧鹿は一瞬でユズルを見つけた。

 

 足が止まる。

 

 ユズルは動かなかった。

 

 黒い子牛が、隣で静かに立つ。

 

 鎧鹿の目が揺れる。

 

 右か。

 左か。

 戻るか。

 突っ込むか。

 

 ユズルは、低く言った。

 

「ここは、通さない」

 

 黒い子牛の体が、少し大きくなった。

 

 省エネ状態から、密度が増す。

 隠は維持されている。鎧鹿には見えないはずだ。

 

 しかし、獣は空気の重さを感じるのかもしれない。

 

 鎧鹿は藪道へ踏み込もうとして、足を止めた。

 

 そこに何かある。

 そう感じたように。

 

 ユズルは動かない。

 

 逃げ道を完全に消してはいけない。

 追い詰めてはいけない。

 

 ただ、ここではないと伝える。

 

 鎧鹿が短く鳴いた。

 

 そして、右へ跳んだ。

 

「ニカさん!」

 

 ユズルが叫ぶ。

 

 右側の木陰から、ニカが飛び出した。

 

 網が広がる。

 

 鎧鹿はそれを避けようと身を捻った。

 速い。

 完全にはかからない。

 

 網は角と前脚の一部に絡んだだけだった。

 

 鎧鹿が暴れる。

 

 角を振り、前脚を跳ね上げる。

 ニカが引きずられそうになる。

 

「重っ……!」

 

 ユズルは走った。

 

 鎧鹿は右の斜面へ逃げようとしている。

 このままでは網ごとニカが引きずられる。

 

 どうする。

 

 止める。

 でも突っ込むと角でやられる。

 

 丑で正面から受け止めるか。

 だが、強く止めすぎれば鎧鹿が暴れる。

 肉も傷む。ニカも危ない。

 

 ユズルは鎧鹿の目を見た。

 

 怖い。

 

 ただ怖いから暴れている。

 

 なら、逃げ道を少しだけ残す。

 

 ユズルは鎧鹿の正面ではなく、斜面の下側へ走った。

 

 そこに立てば、鎧鹿は下へ逃げにくくなる。

 上側には木の間の細い隙間がある。完全な逃げ道ではないが、体を捻れば止まれる。

 

 ユズルは足を踏ん張った。

 

「ここは、崩させません!」

 

 不動の牛歩。

 

 黒い子牛が、ユズルの隣で大きくなる。

 

 空気が沈む。

 

 斜面の下側に、見えない重さが立った。

 

 鎧鹿が下へ逃げようとして、その気配にたじろぐ。

 

 進路がわずかに上へ逸れる。

 

 ニカがその瞬間に網を引いた。

 

 鎧鹿の前脚が絡む。

 体勢が崩れる。

 

 だが、倒れ方が悪ければ首を痛める。

 

 ユズルは反射的に前へ出た。

 

 丑の力で場を支えながら、鎧鹿の体が斜面に叩きつけられないよう、落ちる方向をずらす。

 

 重い。

 

 全身に衝撃が来る。

 

 見えない牛が、地面に根を張る。

 

 鎧鹿は斜面に横倒しになった。

 完全に押さえ込まれたわけではない。だが、網が脚に絡み、一瞬だけ動きが止まる。

 

「今!」

 

 ニカが叫んだ。

 

 ユズルは短刀を抜いた。

 

 村で使っていた小さな刃物。

 ヤクモが「旅には手に馴染む刃物を持て」と言って選ばせたものだ。

 

 殺す。

 

 その言葉が頭に浮かび、ユズルの手が止まりかけた。

 

 鎧鹿の目がこちらを見ている。

 

 大きく開いた、恐怖の目。

 

 怖い。

 

 逃げたい。

 

 ユズルには、その目がそう言っているように見えた。

 

 自分も、ずっとそうだった。

 

 怖いから逃げる。

 怒られたくないから隠れる。

 失敗したくないから選ばない。

 追い詰められると、何も言えなくなる。

 

 でも。

 

 これは試験だ。

 食材を扱う試験だ。

 

 捕った命を、どう扱うか。

 

 ユズルは震える息を吐いた。

 

「……すみません」

 

 ニカが鋭く言った。

 

「謝るな。やるなら丁寧に」

 

 その言葉で、ユズルの目が少しだけ定まった。

 

 謝るのではない。

 

 雑にしない。

 

 それが、今できることだ。

 

 ユズルは鎧鹿の首元を見た。

 

 村で教わった位置。

 血を抜くための急所。

 

 外皮を避け、柔らかい場所へ刃を入れる。

 

 一度で。

 

 迷えば苦しませる。

 

 ユズルは刃を入れた。

 

 鎧鹿の体がびくりと震える。

 

 ニカが網を押さえる。

 ユズルは刃を抜き、血の流れを確認した。

 

 温かい血が、土に落ちる。

 

 鎧鹿の目から、少しずつ力が抜けていく。

 

 ユズルは息を止めていたことに気づいた。

 

 黒い子牛が、隣で静かに立っている。

 

 何も言わない。

 

 ただ、立っている。

 

 やがて、鎧鹿は動かなくなった。

 

 森が静かになる。

 

 ユズルは膝をつきそうになった。

 

 だが、まだ終わっていない。

 

 捕獲は終わった。

 次は、食材として扱う。

 

 ニカが汗を拭った。

 

「……あんた、思ったよりやるじゃん」

 

「いえ、ニカさんが網を」

 

「そういう謙遜、今いらない。時間」

 

「はい」

 

 二人は急いで解体に移った。

 

 鎧鹿の外皮は硬かった。

 甲殻状の部分は刃が通りにくく、柔らかい部分を選ぶ必要がある。

 

 ニカは手際よく外皮の継ぎ目を見つけた。

 

「ここ。ここから刃を入れれば剥がせる」

 

「分かりました」

 

 ユズルは慎重に刃を入れた。

 

 手が震えていた。

 

 けれど、さっきよりは少し落ち着いている。

 

 肉を傷つけないように。

 血を溜めないように。

 恐怖で硬くなった部分と、まだ柔らかい部分を見分けるように。

 

 村で見た解体の記憶を辿る。

 

 ヤクモの声も思い出す。

 

『命を取る時、格好つけるな。怖いなら怖いでいい。大事なのは、怖がりながら雑にしないことだ』

 

 怖がりながら雑にしない。

 

 今の自分にできることは、それかもしれない。

 

 必要な分の肉を切り分け、二人は急いで調理場へ戻った。

 

 途中、トンパの一団とすれ違った。

 

 彼らは、乱暴に捕らえたらしい鎧鹿の肉を抱えていた。

 肉は血で濡れ、ところどころ潰れている。追い回して暴れさせたのだろう。獣臭さが強かった。

 

 トンパはユズルたちを見ると、笑った。

 

「お、捕れたんだ。やるねえ」

 

 ユズルは答えなかった。

 

 トンパの後ろにいる受験者の一人が、腕を押さえている。

 角で裂かれたのか、血が滲んでいた。

 

 ユズルは一瞬立ち止まりかけた。

 

 だが、ニカが言う。

 

「今は料理」

 

 ユズルは頷いた。

 

 調理場はすでに混雑していた。

 

 煙。

 熱。

 肉の匂い。

 怒号。

 包丁の音。

 鍋の音。

 焦げた匂い。

 

 ミナリとロッカは、受験者たちの動きを見ている。

 手伝いはしない。ただ見る。

 

 ユズルとニカは、空いている調理台を見つけた。

 

「どうする?」

 

 ニカが肉を置く。

 

 ユズルは肉の状態を見た。

 

 鎧鹿の肉は、赤身が美しかった。

 しかし、ところどころ硬くなっている部分がある。恐怖で暴れた影響かもしれない。

 

 脂は少ない。

 火を入れすぎれば硬くなる。

 だが、生に近すぎれば危険だ。

 

 村で鹿肉を食べた時は、薄く切って、香草と一緒に焼いた。

 

 凝った料理はできない。

 なら、できることを丁寧にやるしかない。

 

「薄く切って、強火で表面を焼きます。中まで火を入れすぎないようにして、硬いところは細かく刻んで汁に」

 

「一皿提出だよ」

 

「焼いた肉に、少しだけ汁を添えます。臭みを消すために、香草を使って」

 

「地味」

 

「すみません」

 

「でも悪くない。私、香草取ってくる」

 

 ニカは調理場の端へ走った。

 

 ユズルは肉を切った。

 

 包丁はよく切れる。

 だが、手が追いつかない。

 

 周囲には、もっと手際の良い受験者がいる。

 大きな肉を豪快に焼く者。

 香辛料を大量に使う者。

 見栄えを意識して盛り付ける者。

 火柱を上げる者。

 

 ユズルの料理は、地味だった。

 

 薄切りの肉を、丁寧に焼く。

 血の残りを拭く。

 火を入れすぎない。

 硬い筋を避ける。

 香草を刻む。

 

 派手さはない。

 

 でも、雑にはしない。

 

 ニカが香草を持って戻ってきた。

 

「これ、使える?」

 

 ユズルは匂いを嗅いだ。

 

「はい。たぶん合います」

 

「たぶん多いね、今日」

 

「確信が持てなくて」

 

「いいよ。変に自信満々よりはまし」

 

 二人で肉を焼いた。

 

 熱い。

 

 汗が出る。

 

 時間がない。

 

 それでも、ユズルは肉から目を離さなかった。

 

 鎧鹿を怖がらせすぎないように捕ること。

 傷めすぎないように捌くこと。

 火を入れすぎないように焼くこと。

 

 すべて、同じことのように思えた。

 

 相手を見ないまま、自分の都合で押し切れば壊れる。

 

 肉も。

 獣も。

 人も。

 

 自分も。

 

「できた」

 

 ユズルは皿に盛り付けた。

 

 焼いた鎧鹿の薄切り。

 香草。

 硬い部分を細かく刻んで作った小さな汁。

 飾り気はない。

 

 けれど、丁寧には作った。

 

 ニカも自分の分を仕上げている。

 同じ肉を使っているが、彼女は少し香辛料を強くしていた。

 

 制限時間の終わりが近づく。

 

 受験者たちが次々に皿を提出していく。

 

 豪快な丸焼き。

 煮込み。

 串焼き。

 薄切り肉。

 焦げた肉。

 血抜きが甘い肉。

 見た目だけは美しい皿。

 

 ユズルは皿を持って、ミナリとロッカの前に立った。

 

「二百四十一番、ユズルです」

 

 声が少し震えた。

 

 ミナリが皿を見る。

 

「地味ね」

 

「はい」

 

「自覚あり?」

 

「あります」

 

 ロッカが肉の断面を見た。

 

「血抜きは悪くない。火入れは慎重だな。慎重すぎるとも言える」

 

 ユズルは黙っていた。

 

 ミナリが一切れ口に運ぶ。

 

 ロッカも食べる。

 

 ユズルは、心臓が痛いほど鳴っているのを感じた。

 

 ミナリはしばらく噛んでから、言った。

 

「肉を怖がってる」

 

 ユズルは息を止めた。

 

「でも、食材を雑には扱ってない」

 

 ロッカが汁を口にした。

 

「硬い部分を誤魔化さず、別に処理したのは良い。派手さはない。技術も高くない。だが、鎧鹿を無駄に暴れさせた肉ではない」

 

 ミナリはユズルを見た。

 

「あなた、狩る時に追い回さなかった?」

 

「はい」

 

「どうして?」

 

 ユズルは少し迷った。

 

 何と答えればいいのか分からない。

 

 でも、嘘をつく必要はないと思った。

 

「怖がっていたので」

 

 ミナリの目が少しだけ細くなる。

 

「鎧鹿が?」

 

「はい」

 

「食材に同情した?」

 

「……分かりません。でも、怖がっている相手を無理に追い詰めると、壊れる気がしました」

 

 自分で言って、胸が少し痛んだ。

 

 ミナリは笑った。

 

「面白い答え」

 

 ロッカが木べらで皿を指した。

 

「二百四十一番、通過」

 

 ユズルは一瞬、言葉の意味が分からなかった。

 

 通過。

 

 二次試験、通過。

 

「あ……ありがとうございます」

 

 ミナリが肩をすくめる。

 

「礼は鎧鹿に言いなさい。あと、もっと料理は練習した方がいいわ」

 

「はい」

 

 ユズルは皿を下げ、列から離れた。

 

 足が少し震えている。

 

 ニカが隣に来た。

 

「通った?」

 

「はい」

 

「私も」

 

「よかったです」

 

「うん。肉はあんたの方がよかったって言われた。味付けは私の方がましだって」

 

「それは……二人で捕ったからですね」

 

「そうだね」

 

 ニカは珍しく素直に頷いた。

 

 少し離れたところで、トンパが提出していた。

 

 彼の皿は見た目だけは綺麗だった。

 香辛料も使い、盛り付けも整えている。

 

 だが、ミナリは肉を一口食べた瞬間、眉をひそめた。

 

「硬い」

 

 ロッカも短く言った。

 

「血抜きが雑。肉が潰れている。捕獲時に暴れさせすぎたな」

 

 トンパは困ったように笑った。

 

「いやあ、鎧鹿が元気すぎて」

 

 ミナリは笑わなかった。

 

「食材のせいにする料理人は嫌い」

 

 トンパの笑顔が、わずかに引きつる。

 

 だが、ロッカは皿を脇へ置いた。

 

「不合格とは言わない。味付けと見た目で最低点は越えている。ただし、ぎりぎりだ」

 

 トンパはすぐに笑顔を戻した。

 

「いやあ、助かった」

 

 通過した。

 

 ユズルは少し複雑な気持ちになった。

 

 落ちてほしかったのか。

 そう思った自分に気づいて、少し嫌になる。

 

 でも、トンパはまだ残る。

 

 この先も、誰かを騙すのかもしれない。

 

 黒い子牛が、ユズルの横に立っている。

 

 丑は何も言わない。

 

 遠くでヒソカの審査が始まった。

 

 彼の皿は、驚くほど整っていた。

 

 鎧鹿の肉は薄く切られ、火入れも美しい。

 まるで、最初から料理が趣味だったかのような手際だった。

 

 ミナリが一口食べ、笑った。

 

「悔しいけど、美味しい」

 

 ロッカも頷いた。

 

「捕獲も処理も無駄がない」

 

 ヒソカは肩をすくめるだけだった。

 

「食材が素直だったからね」

 

 ユズルは、ぞっとした。

 

 ヒソカがどうやって鎧鹿を捕ったのか、想像できなかった。

 

 鎧鹿は怖がったのだろうか。

 暴れたのだろうか。

 それとも、恐怖を感じる暇もなかったのだろうか。

 

 分からない。

 

 分からないことが、怖かった。

 

 制限時間が終わる。

 

 ミナリとロッカは全員の皿を確認し、通過者を発表した。

 

「二次試験通過者、五十二名」

 

 八十七名から、五十二名へ。

 

 また減った。

 

 ボルドも通過していた。

 

 彼は鎧鹿を自分で捕ったわけではなく、別の受験者と交渉して少量の肉を手に入れ、山菜と一緒に煮込んだらしい。

 

「年寄りは肉を待つと言ったじゃろう」

 

 ボルドは満足そうだった。

 

 ユズルは少し笑った。

 

 その一方で、落ちた者たちがいた。

 

 料理を完成できなかった者。

 肉を手に入れられなかった者。

 血抜きが悪く失格になった者。

 食材をごまかそうとして見破られた者。

 

 トンパに連れられていた新人のうち、何人かも落ちていた。

 

 トンパ自身は残っている。

 

 ユズルはその事実を、黙って受け止めた。

 

 試験は、正しい人間から残るわけではない。

 優しい人間が通るわけでもない。

 悪い人間が落ちるわけでもない。

 

 通れる者が、通る。

 

 その現実が、また一つ重くのしかかった。

 

 ミナリが手を叩いた。

 

「二次試験は以上。三次試験会場までは協会の飛行船で移動します。休憩はその中で取ってください」

 

 飛行船。

 

 受験者たちがざわめく。

 

 ユズルは空を見上げた。

 

 森の上に、巨大な影が近づいてくる。

 

 低い機械音。

 風を押し下げる圧。

 

 木々の間から見えたのは、協会の印が入った飛行船だった。

 

 次の場所へ向かう。

 

 試験はまだ終わらない。

 

 ユズルは、自分の手を見た。

 

 鎧鹿の血は洗ったはずなのに、まだ残っているような気がした。

 

 怖がりながら、雑にしない。

 

 それが、今日できたことだった。

 

 黒い子牛が、隣で静かに立っている。

 

 ユズルは小さく息を吸った。

 

「次も、立てるかな」

 

 丑は短く言った。

 

「決めろ」

 

 ユズルは苦笑した。

 

「……うん」

 

 飛行船の影が、森の空き地を覆っていく。

 

 二次試験は終わった。

 

 だが、ユズルの中には、鎧鹿の目がまだ残っていた。

 

 怖がって逃げる目。

 

 その目を、忘れないようにしようと思った。

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