巡る獣暦   作:ギガマツタケ

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第6話 ヒコウセン×ネムリ×キケン

 飛行船の影が、森の空き地を覆った。

 

 巨大な船体が、木々の上にゆっくりと降りてくる。

 低い機械音が腹の底に響き、風が草を伏せ、受験者たちの髪や服を揺らした。

 

 ユズルは思わず見上げた。

 

 飛行船を見るのは、初めてではない。

 遠くの空を飛ぶ影なら、村でも何度か見たことがある。

 

 けれど、こんなに近くで見るのは初めてだった。

 

 大きい。

 

 山の上を流れる雲のようであり、巨大な獣の腹のようでもある。

 船体の側面には、ハンター協会の印が描かれていた。

 

 試験はまだ続く。

 

 一次試験で地下迷宮を抜けた。

 二次試験で鎧鹿を捕り、料理した。

 それでも終わらない。

 

 次の場所へ運ばれる。

 

 まるで、自分たちが食材か荷物にでもなったようだと、ユズルは思った。

 

「飛行船か」

 

 隣でニカが呟いた。

 

「乗ったことあるんですか」

 

「一回だけ。酔った」

 

「え」

 

「だから嫌い」

 

 ニカは顔をしかめた。

 

 意外だった。

 

 いつも余裕があるように見えるニカにも、苦手なものがあるらしい。

 

 ボルドは杖をつきながら、満足そうに空を見上げていた。

 

「飛行船なら落ちん限り楽じゃな」

 

「落ちたら大変では」

 

「落ちたら大変じゃ」

 

 ボルドは当然のように言った。

 

 ユズルは返す言葉に困った。

 

 黒い子牛は、ユズルの横に立っている。

 

 丑は隠で姿を伏せたまま、飛行船を見上げていた。

 興味があるのかは分からない。相変わらず表情は動かない。

 

 しかし、ユズルには少しだけ不思議だった。

 

 山奥の村で、古い暦や獣の信仰の中から生まれた念獣が、今は巨大な飛行船の下に立っている。

 

 自分は、本当に村の外へ出たのだ。

 

 そう思った。

 

 飛行船から、係員たちが降りてきた。

 

 黒い制服を着た協会スタッフが、通過者たちを番号順に並ばせる。

 

 二次試験通過者、五十二名。

 

 一次試験開始時の人数を考えれば、すでにかなり減っている。

 

 最初に見た受験者たちの顔は、もうほとんど覚えていない。

 覚える前に消えていった者が多すぎた。

 

 トンパは、少し離れた列にいた。

 

 彼はいつものように丸顔に笑みを浮かべている。

 しかし、二次試験をぎりぎりで通過したせいか、服には肉の脂と香辛料の匂いが染みついていた。

 

 それでも彼は平然としていた。

 

 周囲の受験者に話しかけ、肩を叩き、冗談を言う。

 まるで、何人もの新人を落としたことなどなかったかのように。

 

 ユズルはその姿を見るたびに、胸の奥が少し熱くなった。

 

 怒り。

 

 その感情に、少しずつ名前をつけられるようになってきた気がする。

 

 前なら、自分が怒っていることすら認められなかった。

 怒るなんてよくない。

 相手にも事情がある。

 自分が何か勘違いしているのかもしれない。

 揉めたくない。

 

 そうやって、いつも飲み込んできた。

 

 でも、トンパに対しては違った。

 

 飲み込めないものがある。

 

 ただし、それをどう扱えばいいのかは、まだ分からない。

 

 丑は何も言わない。

 

 怒れとも言わない。

 許せとも言わない。

 

 ただ、立っている。

 

 それが、今のユズルにはちょうどよかった。

 

「乗船開始」

 

 協会スタッフの声が響く。

 

 受験者たちは飛行船の昇降口へ進んだ。

 

 金属の階段を上るたびに、足元が少し揺れる。

 船とは違う揺れだった。地面から切り離されたような、妙な浮遊感がある。

 

 ユズルは手すりを握った。

 

 飛行船の中は広かった。

 

 通路は清潔で、壁には番号が振られている。

 受験者用の大部屋、食堂、簡易医務室、休憩区画などがあるらしい。

 

 一次試験と二次試験の緊張から考えると、急に整いすぎていて落ち着かない。

 

 協会スタッフが説明した。

 

「次の試験会場まで、およそ六時間の飛行となります。その間、受験者は指定された区画内で自由に休憩してください。食事と水は用意されています。医務室の使用も認めます」

 

 受験者たちの間に、安堵が広がった。

 

 六時間。

 

 休める。

 食べられる。

 眠れる。

 

 ユズルも、一瞬そう思った。

 

 だが、スタッフは続けた。

 

「ただし、受験者間の接触について協会は原則関知しません。飛行船への損傷、操縦区画への侵入、スタッフへの攻撃は禁止です。それ以外の問題は、自己責任で処理してください」

 

 空気が変わった。

 

 休憩ではある。

 だが、安全ではない。

 

 ハンター試験らしい、とユズルは思った。

 

 ニカが小さく舌打ちした。

 

「寝てる間に荷物取られても文句言えないってことね」

 

「そういうことですか」

 

「たぶん。それだけで済めばいいけど」

 

 ユズルは荷物の紐を握った。

 

 疲れている。

 眠い。

 腹も減っている。

 

 でも、気を抜けない。

 

 ボルドが笑った。

 

「交代で寝るのがよさそうじゃな」

 

「交代?」

 

 ユズルが聞き返す。

 

「お前さん、ニカ、ワシ。三人でいれば多少はましじゃろう」

 

 ニカが片眉を上げた。

 

「組むの?」

 

「寝る間だけじゃ」

 

「年寄りに見張り任せて大丈夫?」

 

「年寄りは眠りが浅い」

 

「それは強みなの?」

 

「強みじゃ」

 

 ニカは少し考え、肩をすくめた。

 

「まあ、いいよ。私も一人で寝るよりはまし」

 

 ユズルは少し戸惑った。

 

 組む。

 

 相棒はいない。

 固定の仲間もいない。

 

 そう決めていた。

 

 でも、試験中に一時的に協力することは、別におかしくない。

 

 実際、鎧鹿もニカと協力して捕った。

 ボルドから水ももらった。

 

 それでも、誰かと近くにいることには、少し怖さがあった。

 

 期待してしまうから。

 置いていかれた時に、傷つくから。

 

 ヤクモのことを思い出す。

 

 ユズルが黙っていると、ニカが言った。

 

「嫌なら別にいいけど」

 

「いえ。嫌ではないです」

 

「じゃあ?」

 

「……お願いします」

 

 ユズルは頭を下げた。

 

 ニカは小さく笑った。

 

「そこで謝らないのは進歩」

 

「はい」

 

 三人は受験者用の大部屋へ向かった。

 

 大部屋には、簡易ベッドが並んでいた。

 毛布と枕が置かれている。壁際には荷物置き場があり、中央には簡単な机と椅子もある。

 

 すでに何人かの受験者が場所を取っていた。

 

 壁際を選ぶ者。

 入口に近い場所を取る者。

 他人から距離を取る者。

 仲間同士で固まる者。

 

 誰も完全には気を抜いていない。

 

 その中で、ヒソカだけは異様だった。

 

 彼は部屋の隅に座り、カードを並べていた。

 周囲に誰も近づかない。

 

 空間が空いている。

 

 まるでそこに見えない線が引かれているようだった。

 

 ヒソカはユズルたちが入ってきたことに気づいたのか、ちらりと視線を上げた。

 

 ユズルは反射的に目を逸らしかけた。

 

 だが、逸らしきれなかった。

 

 ヒソカの目が、ユズルの横にいる黒い子牛のあたりを一瞬だけ撫でる。

 

 見えているのか。

 感じているのか。

 ただ面白がっているのか。

 

 分からない。

 

 分からないことが、怖い。

 

 ヒソカは薄く笑い、またカードへ視線を戻した。

 

 それだけだった。

 

 ユズルは、ようやく息を吐いた。

 

「二百四十一番、顔」

 

 ニカが小声で言う。

 

「え?」

 

「怖いって全部出てる」

 

「……出ます」

 

「知ってる」

 

 三人は、部屋の端に近い場所を取った。

 完全な隅ではない。逃げ道もある。出入口も見える。周囲も確認できる。

 

 ボルドが杖を置き、ベッドに腰掛けた。

 

「うむ。悪くない」

 

「寝ますか?」

 

 ユズルが聞くと、ボルドは首を横に振った。

 

「まず食う」

 

 確かに、腹は減っていた。

 

 協会が用意した食堂には、簡単な食事が並んでいた。

 

 パン。

 スープ。

 焼いた肉。

 果物。

 水。

 茶。

 

 豪華ではないが、十分だった。

 

 ユズルは食堂で食事を受け取り、席へ座った。

 

 ニカは肉を多めに取り、ボルドはスープを選んだ。

 ユズルはパンとスープ、少しの肉を取った。

 

 食事を前にして、ふと鎧鹿を思い出した。

 

 肉を食べる。

 

 さっきまで生きていたものを、自分は捕り、殺し、料理した。

 

 そして今また、別の肉を食べようとしている。

 

 村では当たり前だったことが、今日は少し違って見えた。

 

 ニカが肉を食べながら言った。

 

「また考えてる」

 

「はい」

 

「食べながら考えると消化に悪いよ」

 

「すみません」

 

「謝るな」

 

 ボルドがスープを啜りながら笑った。

 

「考えながら食えるのは若い証拠じゃ。年を取ると、食うか考えるかどちらかになる」

 

「そうなんですか」

 

「人による」

 

 ユズルは少し笑った。

 

 食事は温かかった。

 

 それだけで、体が少しずつ戻ってくる。

 

 一次試験の地下の冷たさ。

 二次試験の森の緊張。

 鎧鹿の血の温度。

 トンパへの怒り。

 

 全部が、食事の湯気の中で少しだけ遠くなる。

 

 しかし、完全には消えない。

 

 食堂の別の席に、トンパがいた。

 

 彼はまた数人の受験者と話している。

 今度は飲み物ではなく、情報を配っているようだった。

 

「三次試験は毎年、対人戦になることが多いんだよ。だから今のうちに強そうな奴とは距離を取った方がいい」

 

「本当か?」

 

「俺は何度も受けてるからね。協会の傾向ってやつを知ってる」

 

 ユズルはその言葉を聞いて、眉をひそめた。

 

 何度も受けている。

 経験がある。

 だから信じてしまう。

 

 でも、その情報が正しいとは限らない。

 

 むしろ、トンパは正しい情報と嘘を混ぜるのだろう。

 全部嘘なら警戒される。

 少し本当を混ぜるから、信じたくなる。

 

 ユズルはスープの器を見つめた。

 

「気になる?」

 

 ニカが言った。

 

「はい」

 

「また止めに行く?」

 

 ユズルは首を横に振った。

 

「今行っても、たぶん誰も信じないです」

 

「分かってきたじゃん」

 

「でも、放っておきたくはないです」

 

「それも分かる」

 

 ニカは意外にも、否定しなかった。

 

「じゃあ覚えておけば」

 

「覚える?」

 

「トンパが誰に何を言ったか。次に何か起きた時、分かるかもしれない」

 

 ユズルはトンパの周囲を見た。

 

 若い男。

 筋肉質な女。

 眼鏡をかけた少年。

 荷物の大きい受験者。

 

 顔を覚える。

 会話の内容を覚える。

 どの情報を信じたかを見る。

 

 それなら、今できる。

 

 ユズルは頷いた。

 

「そうします」

 

「いい子」

 

 ニカはからかうように言った。

 

 ユズルは少し困った顔をした。

 

 食事を終えると、大部屋に戻った。

 

 受験者たちはそれぞれ休みに入っている。

 

 完全に眠る者は少ない。

 片目だけ閉じているような者。荷物を抱えたまま横になる者。壁を背に座る者。誰かと交代で見張る者。

 

 ユズルたちも、交代で休むことになった。

 

 最初にニカが寝る。

 次にボルド。

 最後にユズル。

 

「ユズルは最後ね」

 

 ニカが言った。

 

「どうしてですか」

 

「あんた、今すぐ寝ろって言っても寝られない顔してる」

 

 当たっていた。

 

 体は疲れている。

 でも頭が冴えている。

 

 ヒソカ。

 トンパ。

 鎧鹿。

 ヤクモ。

 次の試験。

 

 いろいろなものが頭の中で動いていた。

 

「はい」

 

「見張り中、変な奴が来たら起こして。自分で何とかしようとしないこと」

 

「分かりました」

 

「本当に?」

 

「……たぶん」

 

「不安」

 

 ニカはそう言いながら、横になった。

 

 目を閉じるまで早かった。

 だが、完全に眠っているのかは分からない。呼吸は静かだが、手は腰の刃物に近い位置にある。

 

 ボルドは椅子に座り、杖を膝に置いている。

 

「お前さんは、少し肩の力を抜け」

 

「抜いてるつもりです」

 

「つもりが多いのう」

 

 ボルドは笑った。

 

 ユズルは苦笑した。

 

 黒い子牛は、ベッドのそばに立っている。

 

 今は、ただいるだけだ。

 それでも、ユズルには心強かった。

 

 見張りといっても、何かが起きるわけではなかった。

 

 しばらくは。

 

 飛行船の低い振動。

 通路を歩く足音。

 誰かの寝息。

 小さな話し声。

 遠くで扉が閉まる音。

 

 ユズルはそれらを聞きながら、部屋を見渡した。

 

 ヒソカは部屋の隅に座ったまま、いつの間にか目を閉じていた。

 眠っているようにも、眠っていないようにも見える。

 

 トンパは大部屋にはいない。

 食堂か別の区画にいるのだろう。

 

 数人の受験者が小声で話している。

 

 三次試験の予想。

 誰が危険か。

 誰と組むべきか。

 飛行船内で今のうちに潰すべき相手はいるか。

 

 最後の話題が聞こえた時、ユズルは体を硬くした。

 

 潰す。

 

 ここは休憩時間のはずだ。

 

 でも、協会は受験者間の接触に関知しないと言った。

 つまり、試験外でも、試験は続いている。

 

 ユズルは荷物を近くに引き寄せた。

 

 ボルドが小声で言う。

 

「聞こえたか」

 

「はい」

 

「すぐ動くな。見るだけでよい」

 

「はい」

 

 見る。

 

 今の自分にできること。

 

 ユズルは会話をしている受験者たちを覚えた。

 

 顔。

 背格好。

 声。

 位置。

 

 その時、通路側から別の男が入ってきた。

 

 背が高く、目つきが鋭い。

 一次試験の湿った通路で一緒になった、船の大柄な男だ。

 

 彼は大部屋を見回し、ユズルを見つけると、にやりと笑った。

 

 ユズルの胸が跳ねる。

 

 また来た。

 

 黒い子牛が、足元でわずかに顔を上げる。

 

 男はゆっくり近づいてきた。

 

「よう、二百四十一番」

 

 声が大きい。

 

 何人かの受験者がこちらを見る。

 

 ニカは目を閉じたまま動かない。

 眠っているのか、起きているのか分からない。

 

 ボルドは黙っている。

 

 男はユズルの前に立った。

 

「一次試験でも二次試験でも、妙に邪魔してくれたな」

 

「邪魔をしたつもりは」

 

「したんだよ」

 

 男は笑った。

 

 その笑みには、苛立ちと好奇心が混ざっていた。

 

「お前、やっぱり念を使えるんだろ」

 

 ユズルの背筋が冷えた。

 

 船室で、この男は確かに言った。

 

 念か、と。

 

 あの時は混乱の中で聞き流していたが、今なら分かる。

 この男は、少なくとも念というものの存在を知っている。

 

 ただし、見えているわけではなさそうだった。

 

 丑は今も隠で姿を伏せている。

 男の視線は、黒い子牛そのものではなく、ユズルの周囲の空気を探るように動いていた。

 

「船の中でも、地下の水路でもそうだ。お前の前だけ、妙に重くなりやがる」

 

 男は顔を近づけた。

 

「何を出してる。見えねぇが、何かいるんだろ」

 

 ユズルは答えられなかった。

 

 念の存在を知っている。

 だが、おそらく念能力者ではない。少なくとも、丑の姿までは見えていない。

 

 それでも、感覚で気づいている。

 

「……何も、言えません」

 

「否定はしねぇんだな」

 

 男の口元が歪んだ。

 

「俺はああいう気味悪い力が嫌いなんだよ。見えねぇくせに、こっちの足だけ止めやがる」

 

 ユズルは唇を結んだ。

 

 男の言葉は、乱暴だった。

 

 けれど、恐怖も混ざっている気がした。

 

 見えないものに止められる。

 理解できない力で邪魔される。

 

 それを気味悪いと思うのは、分からなくもなかった。

 

 だが、だからといって許せるわけではない。

 

 男の視線が、ユズルの荷物へ落ちた。

 

「師匠でもいるのか。そういう気味悪いことを教えた奴が」

 

 ユズルの中で、何かが少し動いた。

 

 ヤクモ。

 

 その名を出されたわけではない。

 けれど、荷物の中にはヤクモの手帳の写しがある。

 

 村から持ってきた護符もある。

 自分の旅の始まりが入っている。

 

 男の手が、ユズルの荷物に伸びた。

 

 ユズルは反射的にその手を掴んだ。

 

 自分でも驚いた。

 

 男も少し驚いた顔をした。

 

「触らないでください」

 

 声は震えていた。

 

 でも、出た。

 

 大部屋の空気が少し変わる。

 

 男の目が細くなった。

 

「何だ、その手」

 

 ユズルはすぐに離しそうになった。

 

 怖い。

 謝りたい。

 ごまかしたい。

 

 でも、触られたくない。

 

 それは、はっきりしていた。

 

「触らないでください」

 

 もう一度言った。

 

 男が笑みを消した。

 

「いい度胸じゃねぇか」

 

 次の瞬間、男の拳がユズルの胸倉に伸びる。

 

 速い。

 

 ユズルは避けられない。

 

 黒い子牛が、一歩前に出た。

 

 だが、その前に。

 

「はい、そこまで」

 

 ニカの声がした。

 

 彼女はいつの間にか起き上がり、男の手首に小さな刃物を当てていた。

 

 刃は皮膚に食い込む寸前で止まっている。

 

 男が舌打ちした。

 

「女、邪魔すんな」

 

「先に邪魔したのはそっち」

 

 ニカの目は笑っていなかった。

 

 ボルドもゆっくり立ち上がる。

 

 杖を床に軽くついた。

 

「若いの。飛行船に穴を開けると、皆で落ちるぞ」

 

「殴るだけだ」

 

「殴る場所を選べん奴は、狩りでも試験でも早死にする」

 

 男はボルドを睨んだ。

 

 周囲の受験者たちが見ている。

 

 ここで暴れれば、注目される。

 協会は関知しないかもしれないが、飛行船への損傷は禁じられている。

 

 男はしばらくユズルたちを睨んでいたが、やがて手を引いた。

 

「ちっ。群れやがって」

 

 男は吐き捨てるように言い、背を向けた。

 

 去り際、ユズルを指差す。

 

「次は試験中に会おうぜ。二百四十一番」

 

 男は大部屋を出ていった。

 

 ユズルは、ようやく息を吐いた。

 

 手が震えている。

 

 ニカが刃物をしまった。

 

「起こせって言ったでしょ」

 

「すみません」

 

「謝るな。まあ、今回は自分で言えたから半分は許す」

 

「半分……」

 

 ボルドが笑った。

 

「荷物を守ったのは良い。だが、一人で抱え込む癖はまだあるな」

 

「はい」

 

 ユズルは荷物を見た。

 

 掴まれなかった。

 守れた。

 

 でも、一人では無理だった。

 

 ニカとボルドがいたから、そこで止まった。

 

 それを情けないと思う気持ちと、ありがたいと思う気持ちが同時にあった。

 

 黒い子牛が、ユズルを見ている。

 

 決めろ。

 

 そう言っている気がした。

 

 何を一人で背負い、何を誰かに頼るのか。

 

 それも、決めなければならないのかもしれない。

 

 その後、交代で休むことになった。

 

 ニカは「もう目が覚めた」と言い、見張りを代わった。

 ボルドも短く仮眠を取った。

 

 最後にユズルが横になる番になった。

 

 眠れる気がしなかった。

 

 しかし、体は限界だった。

 

 横になると、飛行船の振動が背中に伝わってくる。

 低く、一定の揺れ。

 

 村の夜とはまったく違う。

 船の揺れとも違う。

 

 空を進む揺れ。

 

 ユズルは荷物の紐を手首に巻いた。

 ニカがそれを見て、少し笑う。

 

「そこまでしなくても見てるよ」

 

「落ち着くので」

 

「ならいいけど」

 

 黒い子牛はベッドのそばに立っている。

 

 隠で姿を伏せたまま。

 

 ユズルは小さく言った。

 

「少しだけ、寝る」

 

 丑は答えない。

 

 ただ、そこにいる。

 

 ユズルは目を閉じた。

 

 すぐに、夢を見た。

 

 村の夢だった。

 

 山の朝。

 白い霧。

 古い社。

 十二支の布飾り。

 遠くで、誰かが薪を割っている音。

 

 そこにヤクモがいた。

 

 いつもの外套。

 古びた鞄。

 掴みどころのない笑み。

 

『まだ怖いか』

 

 ヤクモが言う。

 

 ユズルは答えられない。

 

 怖い。

 

 港も。

 地下も。

 鎧鹿も。

 トンパも。

 ヒソカも。

 自分の怒りも。

 誰かを頼ることも。

 誰かに置いていかれることも。

 

 全部、怖い。

 

 ヤクモは笑った。

 

『じゃあ、向いてるな』

 

 ユズルは眉を寄せる。

 

 何に。

 

『怖い奴は、よく見る。よく聞く。逃げ道を探す。相手の逃げ道も分かる』

 

 ヤクモは、社の階段に腰掛ける。

 

『問題は、怖いまま何もしないことだ』

 

 夢の中で、黒い子牛がユズルの隣に立っていた。

 

 ヤクモはそれを見る。

 

『そいつは、お前に逃げるなって言ってるんじゃない』

 

 ユズルは顔を上げる。

 

『立つ場所を決めろって言ってるんだ』

 

 その言葉で、夢が揺れた。

 

 飛行船の振動が戻ってくる。

 

 ユズルは目を開けた。

 

 大部屋の天井。

 薄暗い照明。

 遠くの寝息。

 通路の足音。

 

 夢だった。

 

 でも、ヤクモの声は妙にはっきり残っていた。

 

 怖いまま何もしないこと。

 

 立つ場所を決めること。

 

 ユズルはゆっくり起き上がった。

 

 どれくらい寝ていたのか分からない。

 

 ニカが椅子に座って、刃物の手入れをしていた。

 

「起きた?」

 

「はい」

 

「一時間くらい」

 

「そんなに」

 

「寝言、言ってたよ」

 

 ユズルは固まった。

 

「何か言ってましたか」

 

「怖いって」

 

「……そうですか」

 

「あと、ヤクモって」

 

 ユズルは視線を落とした。

 

 ニカは刃物を布で拭きながら言った。

 

「探してる人?」

 

「はい」

 

「師匠?」

 

「はい」

 

「逃げたの?」

 

 ユズルは一瞬、言葉に詰まった。

 

 ヤクモが逃げた。

 そう考えたことはなかった。

 

 旅立った。

 姿を消した。

 置いていった。

 

 でも、逃げたのか。

 

「分かりません」

 

「そっか」

 

 ニカはそれ以上踏み込まなかった。

 

 ユズルは少しだけありがたかった。

 

 ボルドはまだ寝ている。

 いや、目を閉じているだけかもしれない。

 

 黒い子牛は、変わらずそばにいる。

 

 ユズルは深く息を吸った。

 

 少し眠っただけで、頭が少し軽くなっていた。

 

 その時、飛行船内に放送が流れた。

 

『受験者に通達。三十分後、三次試験会場に到着します。到着後、速やかに下船準備をしてください』

 

 大部屋がざわついた。

 

 三次試験。

 

 次が始まる。

 

 ボルドが目を開けた。

 

「着くか」

 

「はい」

 

「よく寝た」

 

「寝てたんですね」

 

「起きていたとも言える」

 

 ニカが呆れた顔をした。

 

 受験者たちは荷物をまとめ始めた。

 

 空気がまた変わる。

 

 休憩時間が終わる。

 次の選別が始まる。

 

 ユズルも荷物を整えた。

 

 手首に巻いていた紐を解く。

 中身を確認する。

 

 ヤクモの手帳の写し。

 村の護符。

 刃物。

 残った水。

 少しの食料。

 

 全部ある。

 

 それだけで、少し安心した。

 

 通路の向こうから、トンパが戻ってきた。

 

 彼は相変わらず笑っている。

 その後ろには、食堂で彼の話を聞いていた受験者が何人かいた。

 

 トンパはユズルを見ると、軽く手を振った。

 

 ユズルは返さなかった。

 

 代わりに、トンパの周囲の受験者たちを見た。

 

 覚える。

 

 誰が、どの情報を信じているのか。

 誰が、誰に利用されているのか。

 

 今は止められないかもしれない。

 でも、見ておくことはできる。

 

 ヒソカは、いつの間にか立ち上がっていた。

 

 彼はカードを懐にしまい、退屈そうにあくびをしている。

 飛行船の揺れにも、次の試験にも、何の緊張も見せない。

 

 その姿が、逆に不気味だった。

 

 ユズルは思った。

 

 この人は、何を怖がるのだろう。

 

 何も怖がらないのか。

 それとも、怖がるものが自分たちとは違うのか。

 

 考えても分からない。

 

 だが、今はそれでいい。

 

 分からないものを分からないまま覚えておく。

 

 それも、怖い世界を歩く方法なのかもしれない。

 

 飛行船がゆっくり高度を下げ始めた。

 

 窓の外に、岩山が見えた。

 

 森ではない。

 港でもない。

 乾いた岩場と、切り立った崖。

 その中央に、古い円形の施設があった。

 

 闘技場のようにも見える。

 牢獄のようにも見える。

 訓練場のようにも見える。

 

 受験者たちが窓に集まる。

 

「なんだ、あれ」

 

「三次試験会場か?」

 

「嫌な形してんな」

 

 ユズルも窓の外を見た。

 

 胸が重くなる。

 

 今度は何を試されるのか。

 

 走ること。

 選ぶこと。

 捕ること。

 料理すること。

 

 次は。

 

 飛行船が着陸する。

 

 低い振動が床を震わせた。

 

 協会スタッフが扉の前に立つ。

 

「下船準備。番号順に移動してください」

 

 ユズルは荷物を背負った。

 

 黒い子牛が、隣に立つ。

 

 ニカが刃物をしまう。

 ボルドが杖を持つ。

 

 三人は、列へ向かった。

 

 扉が開く。

 

 乾いた風が、飛行船の中へ吹き込んだ。

 

 潮の匂いでも、森の匂いでも、地下の匂いでもない。

 岩と砂と、鉄の匂い。

 

 ユズルは一歩、外へ出た。

 

 目の前には、円形の施設へ続く石の道があった。

 

 その入口に、一人の男が立っていた。

 

 筋骨隆々というわけではない。

 背も特別高くない。

 しかし、服の上からでも分かるほど姿勢が整っている。短い髪。鋭い目。腕には古い傷跡がいくつもある。

 

 男は受験者たちを見渡した。

 

 その視線が、刃物のように冷たい。

 

 協会スタッフが彼に頭を下げる。

 

「三次試験官、ガドル」

 

 男は一歩前に出た。

 

「三次試験では、お前たちに組んでもらう」

 

 受験者たちがざわめく。

 

 組む。

 

 その言葉に、ユズルの胸がざわついた。

 

 ガドルは淡々と告げた。

 

「ただし、組む相手は自分では選べない」

 

 風が吹く。

 

 飛行船の影が、岩場に長く伸びる。

 

 ガドルの声が続いた。

 

「ここから先は、信じる相手を選ぶ試験ではない。選べなかった相手を、どこまで信じるかを試す」

 

 ユズルは息を呑んだ。

 

 黒い子牛が、隣で静かに立っている。

 

 誰と組むのか。

 何を信じるのか。

 どこに立つのか。

 

 三次試験が、始まろうとしていた。

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