飛行船の影が、森の空き地を覆った。
巨大な船体が、木々の上にゆっくりと降りてくる。
低い機械音が腹の底に響き、風が草を伏せ、受験者たちの髪や服を揺らした。
ユズルは思わず見上げた。
飛行船を見るのは、初めてではない。
遠くの空を飛ぶ影なら、村でも何度か見たことがある。
けれど、こんなに近くで見るのは初めてだった。
大きい。
山の上を流れる雲のようであり、巨大な獣の腹のようでもある。
船体の側面には、ハンター協会の印が描かれていた。
試験はまだ続く。
一次試験で地下迷宮を抜けた。
二次試験で鎧鹿を捕り、料理した。
それでも終わらない。
次の場所へ運ばれる。
まるで、自分たちが食材か荷物にでもなったようだと、ユズルは思った。
「飛行船か」
隣でニカが呟いた。
「乗ったことあるんですか」
「一回だけ。酔った」
「え」
「だから嫌い」
ニカは顔をしかめた。
意外だった。
いつも余裕があるように見えるニカにも、苦手なものがあるらしい。
ボルドは杖をつきながら、満足そうに空を見上げていた。
「飛行船なら落ちん限り楽じゃな」
「落ちたら大変では」
「落ちたら大変じゃ」
ボルドは当然のように言った。
ユズルは返す言葉に困った。
黒い子牛は、ユズルの横に立っている。
丑は隠で姿を伏せたまま、飛行船を見上げていた。
興味があるのかは分からない。相変わらず表情は動かない。
しかし、ユズルには少しだけ不思議だった。
山奥の村で、古い暦や獣の信仰の中から生まれた念獣が、今は巨大な飛行船の下に立っている。
自分は、本当に村の外へ出たのだ。
そう思った。
飛行船から、係員たちが降りてきた。
黒い制服を着た協会スタッフが、通過者たちを番号順に並ばせる。
二次試験通過者、五十二名。
一次試験開始時の人数を考えれば、すでにかなり減っている。
最初に見た受験者たちの顔は、もうほとんど覚えていない。
覚える前に消えていった者が多すぎた。
トンパは、少し離れた列にいた。
彼はいつものように丸顔に笑みを浮かべている。
しかし、二次試験をぎりぎりで通過したせいか、服には肉の脂と香辛料の匂いが染みついていた。
それでも彼は平然としていた。
周囲の受験者に話しかけ、肩を叩き、冗談を言う。
まるで、何人もの新人を落としたことなどなかったかのように。
ユズルはその姿を見るたびに、胸の奥が少し熱くなった。
怒り。
その感情に、少しずつ名前をつけられるようになってきた気がする。
前なら、自分が怒っていることすら認められなかった。
怒るなんてよくない。
相手にも事情がある。
自分が何か勘違いしているのかもしれない。
揉めたくない。
そうやって、いつも飲み込んできた。
でも、トンパに対しては違った。
飲み込めないものがある。
ただし、それをどう扱えばいいのかは、まだ分からない。
丑は何も言わない。
怒れとも言わない。
許せとも言わない。
ただ、立っている。
それが、今のユズルにはちょうどよかった。
「乗船開始」
協会スタッフの声が響く。
受験者たちは飛行船の昇降口へ進んだ。
金属の階段を上るたびに、足元が少し揺れる。
船とは違う揺れだった。地面から切り離されたような、妙な浮遊感がある。
ユズルは手すりを握った。
飛行船の中は広かった。
通路は清潔で、壁には番号が振られている。
受験者用の大部屋、食堂、簡易医務室、休憩区画などがあるらしい。
一次試験と二次試験の緊張から考えると、急に整いすぎていて落ち着かない。
協会スタッフが説明した。
「次の試験会場まで、およそ六時間の飛行となります。その間、受験者は指定された区画内で自由に休憩してください。食事と水は用意されています。医務室の使用も認めます」
受験者たちの間に、安堵が広がった。
六時間。
休める。
食べられる。
眠れる。
ユズルも、一瞬そう思った。
だが、スタッフは続けた。
「ただし、受験者間の接触について協会は原則関知しません。飛行船への損傷、操縦区画への侵入、スタッフへの攻撃は禁止です。それ以外の問題は、自己責任で処理してください」
空気が変わった。
休憩ではある。
だが、安全ではない。
ハンター試験らしい、とユズルは思った。
ニカが小さく舌打ちした。
「寝てる間に荷物取られても文句言えないってことね」
「そういうことですか」
「たぶん。それだけで済めばいいけど」
ユズルは荷物の紐を握った。
疲れている。
眠い。
腹も減っている。
でも、気を抜けない。
ボルドが笑った。
「交代で寝るのがよさそうじゃな」
「交代?」
ユズルが聞き返す。
「お前さん、ニカ、ワシ。三人でいれば多少はましじゃろう」
ニカが片眉を上げた。
「組むの?」
「寝る間だけじゃ」
「年寄りに見張り任せて大丈夫?」
「年寄りは眠りが浅い」
「それは強みなの?」
「強みじゃ」
ニカは少し考え、肩をすくめた。
「まあ、いいよ。私も一人で寝るよりはまし」
ユズルは少し戸惑った。
組む。
相棒はいない。
固定の仲間もいない。
そう決めていた。
でも、試験中に一時的に協力することは、別におかしくない。
実際、鎧鹿もニカと協力して捕った。
ボルドから水ももらった。
それでも、誰かと近くにいることには、少し怖さがあった。
期待してしまうから。
置いていかれた時に、傷つくから。
ヤクモのことを思い出す。
ユズルが黙っていると、ニカが言った。
「嫌なら別にいいけど」
「いえ。嫌ではないです」
「じゃあ?」
「……お願いします」
ユズルは頭を下げた。
ニカは小さく笑った。
「そこで謝らないのは進歩」
「はい」
三人は受験者用の大部屋へ向かった。
大部屋には、簡易ベッドが並んでいた。
毛布と枕が置かれている。壁際には荷物置き場があり、中央には簡単な机と椅子もある。
すでに何人かの受験者が場所を取っていた。
壁際を選ぶ者。
入口に近い場所を取る者。
他人から距離を取る者。
仲間同士で固まる者。
誰も完全には気を抜いていない。
その中で、ヒソカだけは異様だった。
彼は部屋の隅に座り、カードを並べていた。
周囲に誰も近づかない。
空間が空いている。
まるでそこに見えない線が引かれているようだった。
ヒソカはユズルたちが入ってきたことに気づいたのか、ちらりと視線を上げた。
ユズルは反射的に目を逸らしかけた。
だが、逸らしきれなかった。
ヒソカの目が、ユズルの横にいる黒い子牛のあたりを一瞬だけ撫でる。
見えているのか。
感じているのか。
ただ面白がっているのか。
分からない。
分からないことが、怖い。
ヒソカは薄く笑い、またカードへ視線を戻した。
それだけだった。
ユズルは、ようやく息を吐いた。
「二百四十一番、顔」
ニカが小声で言う。
「え?」
「怖いって全部出てる」
「……出ます」
「知ってる」
三人は、部屋の端に近い場所を取った。
完全な隅ではない。逃げ道もある。出入口も見える。周囲も確認できる。
ボルドが杖を置き、ベッドに腰掛けた。
「うむ。悪くない」
「寝ますか?」
ユズルが聞くと、ボルドは首を横に振った。
「まず食う」
確かに、腹は減っていた。
協会が用意した食堂には、簡単な食事が並んでいた。
パン。
スープ。
焼いた肉。
果物。
水。
茶。
豪華ではないが、十分だった。
ユズルは食堂で食事を受け取り、席へ座った。
ニカは肉を多めに取り、ボルドはスープを選んだ。
ユズルはパンとスープ、少しの肉を取った。
食事を前にして、ふと鎧鹿を思い出した。
肉を食べる。
さっきまで生きていたものを、自分は捕り、殺し、料理した。
そして今また、別の肉を食べようとしている。
村では当たり前だったことが、今日は少し違って見えた。
ニカが肉を食べながら言った。
「また考えてる」
「はい」
「食べながら考えると消化に悪いよ」
「すみません」
「謝るな」
ボルドがスープを啜りながら笑った。
「考えながら食えるのは若い証拠じゃ。年を取ると、食うか考えるかどちらかになる」
「そうなんですか」
「人による」
ユズルは少し笑った。
食事は温かかった。
それだけで、体が少しずつ戻ってくる。
一次試験の地下の冷たさ。
二次試験の森の緊張。
鎧鹿の血の温度。
トンパへの怒り。
全部が、食事の湯気の中で少しだけ遠くなる。
しかし、完全には消えない。
食堂の別の席に、トンパがいた。
彼はまた数人の受験者と話している。
今度は飲み物ではなく、情報を配っているようだった。
「三次試験は毎年、対人戦になることが多いんだよ。だから今のうちに強そうな奴とは距離を取った方がいい」
「本当か?」
「俺は何度も受けてるからね。協会の傾向ってやつを知ってる」
ユズルはその言葉を聞いて、眉をひそめた。
何度も受けている。
経験がある。
だから信じてしまう。
でも、その情報が正しいとは限らない。
むしろ、トンパは正しい情報と嘘を混ぜるのだろう。
全部嘘なら警戒される。
少し本当を混ぜるから、信じたくなる。
ユズルはスープの器を見つめた。
「気になる?」
ニカが言った。
「はい」
「また止めに行く?」
ユズルは首を横に振った。
「今行っても、たぶん誰も信じないです」
「分かってきたじゃん」
「でも、放っておきたくはないです」
「それも分かる」
ニカは意外にも、否定しなかった。
「じゃあ覚えておけば」
「覚える?」
「トンパが誰に何を言ったか。次に何か起きた時、分かるかもしれない」
ユズルはトンパの周囲を見た。
若い男。
筋肉質な女。
眼鏡をかけた少年。
荷物の大きい受験者。
顔を覚える。
会話の内容を覚える。
どの情報を信じたかを見る。
それなら、今できる。
ユズルは頷いた。
「そうします」
「いい子」
ニカはからかうように言った。
ユズルは少し困った顔をした。
食事を終えると、大部屋に戻った。
受験者たちはそれぞれ休みに入っている。
完全に眠る者は少ない。
片目だけ閉じているような者。荷物を抱えたまま横になる者。壁を背に座る者。誰かと交代で見張る者。
ユズルたちも、交代で休むことになった。
最初にニカが寝る。
次にボルド。
最後にユズル。
「ユズルは最後ね」
ニカが言った。
「どうしてですか」
「あんた、今すぐ寝ろって言っても寝られない顔してる」
当たっていた。
体は疲れている。
でも頭が冴えている。
ヒソカ。
トンパ。
鎧鹿。
ヤクモ。
次の試験。
いろいろなものが頭の中で動いていた。
「はい」
「見張り中、変な奴が来たら起こして。自分で何とかしようとしないこと」
「分かりました」
「本当に?」
「……たぶん」
「不安」
ニカはそう言いながら、横になった。
目を閉じるまで早かった。
だが、完全に眠っているのかは分からない。呼吸は静かだが、手は腰の刃物に近い位置にある。
ボルドは椅子に座り、杖を膝に置いている。
「お前さんは、少し肩の力を抜け」
「抜いてるつもりです」
「つもりが多いのう」
ボルドは笑った。
ユズルは苦笑した。
黒い子牛は、ベッドのそばに立っている。
今は、ただいるだけだ。
それでも、ユズルには心強かった。
見張りといっても、何かが起きるわけではなかった。
しばらくは。
飛行船の低い振動。
通路を歩く足音。
誰かの寝息。
小さな話し声。
遠くで扉が閉まる音。
ユズルはそれらを聞きながら、部屋を見渡した。
ヒソカは部屋の隅に座ったまま、いつの間にか目を閉じていた。
眠っているようにも、眠っていないようにも見える。
トンパは大部屋にはいない。
食堂か別の区画にいるのだろう。
数人の受験者が小声で話している。
三次試験の予想。
誰が危険か。
誰と組むべきか。
飛行船内で今のうちに潰すべき相手はいるか。
最後の話題が聞こえた時、ユズルは体を硬くした。
潰す。
ここは休憩時間のはずだ。
でも、協会は受験者間の接触に関知しないと言った。
つまり、試験外でも、試験は続いている。
ユズルは荷物を近くに引き寄せた。
ボルドが小声で言う。
「聞こえたか」
「はい」
「すぐ動くな。見るだけでよい」
「はい」
見る。
今の自分にできること。
ユズルは会話をしている受験者たちを覚えた。
顔。
背格好。
声。
位置。
その時、通路側から別の男が入ってきた。
背が高く、目つきが鋭い。
一次試験の湿った通路で一緒になった、船の大柄な男だ。
彼は大部屋を見回し、ユズルを見つけると、にやりと笑った。
ユズルの胸が跳ねる。
また来た。
黒い子牛が、足元でわずかに顔を上げる。
男はゆっくり近づいてきた。
「よう、二百四十一番」
声が大きい。
何人かの受験者がこちらを見る。
ニカは目を閉じたまま動かない。
眠っているのか、起きているのか分からない。
ボルドは黙っている。
男はユズルの前に立った。
「一次試験でも二次試験でも、妙に邪魔してくれたな」
「邪魔をしたつもりは」
「したんだよ」
男は笑った。
その笑みには、苛立ちと好奇心が混ざっていた。
「お前、やっぱり念を使えるんだろ」
ユズルの背筋が冷えた。
船室で、この男は確かに言った。
念か、と。
あの時は混乱の中で聞き流していたが、今なら分かる。
この男は、少なくとも念というものの存在を知っている。
ただし、見えているわけではなさそうだった。
丑は今も隠で姿を伏せている。
男の視線は、黒い子牛そのものではなく、ユズルの周囲の空気を探るように動いていた。
「船の中でも、地下の水路でもそうだ。お前の前だけ、妙に重くなりやがる」
男は顔を近づけた。
「何を出してる。見えねぇが、何かいるんだろ」
ユズルは答えられなかった。
念の存在を知っている。
だが、おそらく念能力者ではない。少なくとも、丑の姿までは見えていない。
それでも、感覚で気づいている。
「……何も、言えません」
「否定はしねぇんだな」
男の口元が歪んだ。
「俺はああいう気味悪い力が嫌いなんだよ。見えねぇくせに、こっちの足だけ止めやがる」
ユズルは唇を結んだ。
男の言葉は、乱暴だった。
けれど、恐怖も混ざっている気がした。
見えないものに止められる。
理解できない力で邪魔される。
それを気味悪いと思うのは、分からなくもなかった。
だが、だからといって許せるわけではない。
男の視線が、ユズルの荷物へ落ちた。
「師匠でもいるのか。そういう気味悪いことを教えた奴が」
ユズルの中で、何かが少し動いた。
ヤクモ。
その名を出されたわけではない。
けれど、荷物の中にはヤクモの手帳の写しがある。
村から持ってきた護符もある。
自分の旅の始まりが入っている。
男の手が、ユズルの荷物に伸びた。
ユズルは反射的にその手を掴んだ。
自分でも驚いた。
男も少し驚いた顔をした。
「触らないでください」
声は震えていた。
でも、出た。
大部屋の空気が少し変わる。
男の目が細くなった。
「何だ、その手」
ユズルはすぐに離しそうになった。
怖い。
謝りたい。
ごまかしたい。
でも、触られたくない。
それは、はっきりしていた。
「触らないでください」
もう一度言った。
男が笑みを消した。
「いい度胸じゃねぇか」
次の瞬間、男の拳がユズルの胸倉に伸びる。
速い。
ユズルは避けられない。
黒い子牛が、一歩前に出た。
だが、その前に。
「はい、そこまで」
ニカの声がした。
彼女はいつの間にか起き上がり、男の手首に小さな刃物を当てていた。
刃は皮膚に食い込む寸前で止まっている。
男が舌打ちした。
「女、邪魔すんな」
「先に邪魔したのはそっち」
ニカの目は笑っていなかった。
ボルドもゆっくり立ち上がる。
杖を床に軽くついた。
「若いの。飛行船に穴を開けると、皆で落ちるぞ」
「殴るだけだ」
「殴る場所を選べん奴は、狩りでも試験でも早死にする」
男はボルドを睨んだ。
周囲の受験者たちが見ている。
ここで暴れれば、注目される。
協会は関知しないかもしれないが、飛行船への損傷は禁じられている。
男はしばらくユズルたちを睨んでいたが、やがて手を引いた。
「ちっ。群れやがって」
男は吐き捨てるように言い、背を向けた。
去り際、ユズルを指差す。
「次は試験中に会おうぜ。二百四十一番」
男は大部屋を出ていった。
ユズルは、ようやく息を吐いた。
手が震えている。
ニカが刃物をしまった。
「起こせって言ったでしょ」
「すみません」
「謝るな。まあ、今回は自分で言えたから半分は許す」
「半分……」
ボルドが笑った。
「荷物を守ったのは良い。だが、一人で抱え込む癖はまだあるな」
「はい」
ユズルは荷物を見た。
掴まれなかった。
守れた。
でも、一人では無理だった。
ニカとボルドがいたから、そこで止まった。
それを情けないと思う気持ちと、ありがたいと思う気持ちが同時にあった。
黒い子牛が、ユズルを見ている。
決めろ。
そう言っている気がした。
何を一人で背負い、何を誰かに頼るのか。
それも、決めなければならないのかもしれない。
その後、交代で休むことになった。
ニカは「もう目が覚めた」と言い、見張りを代わった。
ボルドも短く仮眠を取った。
最後にユズルが横になる番になった。
眠れる気がしなかった。
しかし、体は限界だった。
横になると、飛行船の振動が背中に伝わってくる。
低く、一定の揺れ。
村の夜とはまったく違う。
船の揺れとも違う。
空を進む揺れ。
ユズルは荷物の紐を手首に巻いた。
ニカがそれを見て、少し笑う。
「そこまでしなくても見てるよ」
「落ち着くので」
「ならいいけど」
黒い子牛はベッドのそばに立っている。
隠で姿を伏せたまま。
ユズルは小さく言った。
「少しだけ、寝る」
丑は答えない。
ただ、そこにいる。
ユズルは目を閉じた。
すぐに、夢を見た。
村の夢だった。
山の朝。
白い霧。
古い社。
十二支の布飾り。
遠くで、誰かが薪を割っている音。
そこにヤクモがいた。
いつもの外套。
古びた鞄。
掴みどころのない笑み。
『まだ怖いか』
ヤクモが言う。
ユズルは答えられない。
怖い。
港も。
地下も。
鎧鹿も。
トンパも。
ヒソカも。
自分の怒りも。
誰かを頼ることも。
誰かに置いていかれることも。
全部、怖い。
ヤクモは笑った。
『じゃあ、向いてるな』
ユズルは眉を寄せる。
何に。
『怖い奴は、よく見る。よく聞く。逃げ道を探す。相手の逃げ道も分かる』
ヤクモは、社の階段に腰掛ける。
『問題は、怖いまま何もしないことだ』
夢の中で、黒い子牛がユズルの隣に立っていた。
ヤクモはそれを見る。
『そいつは、お前に逃げるなって言ってるんじゃない』
ユズルは顔を上げる。
『立つ場所を決めろって言ってるんだ』
その言葉で、夢が揺れた。
飛行船の振動が戻ってくる。
ユズルは目を開けた。
大部屋の天井。
薄暗い照明。
遠くの寝息。
通路の足音。
夢だった。
でも、ヤクモの声は妙にはっきり残っていた。
怖いまま何もしないこと。
立つ場所を決めること。
ユズルはゆっくり起き上がった。
どれくらい寝ていたのか分からない。
ニカが椅子に座って、刃物の手入れをしていた。
「起きた?」
「はい」
「一時間くらい」
「そんなに」
「寝言、言ってたよ」
ユズルは固まった。
「何か言ってましたか」
「怖いって」
「……そうですか」
「あと、ヤクモって」
ユズルは視線を落とした。
ニカは刃物を布で拭きながら言った。
「探してる人?」
「はい」
「師匠?」
「はい」
「逃げたの?」
ユズルは一瞬、言葉に詰まった。
ヤクモが逃げた。
そう考えたことはなかった。
旅立った。
姿を消した。
置いていった。
でも、逃げたのか。
「分かりません」
「そっか」
ニカはそれ以上踏み込まなかった。
ユズルは少しだけありがたかった。
ボルドはまだ寝ている。
いや、目を閉じているだけかもしれない。
黒い子牛は、変わらずそばにいる。
ユズルは深く息を吸った。
少し眠っただけで、頭が少し軽くなっていた。
その時、飛行船内に放送が流れた。
『受験者に通達。三十分後、三次試験会場に到着します。到着後、速やかに下船準備をしてください』
大部屋がざわついた。
三次試験。
次が始まる。
ボルドが目を開けた。
「着くか」
「はい」
「よく寝た」
「寝てたんですね」
「起きていたとも言える」
ニカが呆れた顔をした。
受験者たちは荷物をまとめ始めた。
空気がまた変わる。
休憩時間が終わる。
次の選別が始まる。
ユズルも荷物を整えた。
手首に巻いていた紐を解く。
中身を確認する。
ヤクモの手帳の写し。
村の護符。
刃物。
残った水。
少しの食料。
全部ある。
それだけで、少し安心した。
通路の向こうから、トンパが戻ってきた。
彼は相変わらず笑っている。
その後ろには、食堂で彼の話を聞いていた受験者が何人かいた。
トンパはユズルを見ると、軽く手を振った。
ユズルは返さなかった。
代わりに、トンパの周囲の受験者たちを見た。
覚える。
誰が、どの情報を信じているのか。
誰が、誰に利用されているのか。
今は止められないかもしれない。
でも、見ておくことはできる。
ヒソカは、いつの間にか立ち上がっていた。
彼はカードを懐にしまい、退屈そうにあくびをしている。
飛行船の揺れにも、次の試験にも、何の緊張も見せない。
その姿が、逆に不気味だった。
ユズルは思った。
この人は、何を怖がるのだろう。
何も怖がらないのか。
それとも、怖がるものが自分たちとは違うのか。
考えても分からない。
だが、今はそれでいい。
分からないものを分からないまま覚えておく。
それも、怖い世界を歩く方法なのかもしれない。
飛行船がゆっくり高度を下げ始めた。
窓の外に、岩山が見えた。
森ではない。
港でもない。
乾いた岩場と、切り立った崖。
その中央に、古い円形の施設があった。
闘技場のようにも見える。
牢獄のようにも見える。
訓練場のようにも見える。
受験者たちが窓に集まる。
「なんだ、あれ」
「三次試験会場か?」
「嫌な形してんな」
ユズルも窓の外を見た。
胸が重くなる。
今度は何を試されるのか。
走ること。
選ぶこと。
捕ること。
料理すること。
次は。
飛行船が着陸する。
低い振動が床を震わせた。
協会スタッフが扉の前に立つ。
「下船準備。番号順に移動してください」
ユズルは荷物を背負った。
黒い子牛が、隣に立つ。
ニカが刃物をしまう。
ボルドが杖を持つ。
三人は、列へ向かった。
扉が開く。
乾いた風が、飛行船の中へ吹き込んだ。
潮の匂いでも、森の匂いでも、地下の匂いでもない。
岩と砂と、鉄の匂い。
ユズルは一歩、外へ出た。
目の前には、円形の施設へ続く石の道があった。
その入口に、一人の男が立っていた。
筋骨隆々というわけではない。
背も特別高くない。
しかし、服の上からでも分かるほど姿勢が整っている。短い髪。鋭い目。腕には古い傷跡がいくつもある。
男は受験者たちを見渡した。
その視線が、刃物のように冷たい。
協会スタッフが彼に頭を下げる。
「三次試験官、ガドル」
男は一歩前に出た。
「三次試験では、お前たちに組んでもらう」
受験者たちがざわめく。
組む。
その言葉に、ユズルの胸がざわついた。
ガドルは淡々と告げた。
「ただし、組む相手は自分では選べない」
風が吹く。
飛行船の影が、岩場に長く伸びる。
ガドルの声が続いた。
「ここから先は、信じる相手を選ぶ試験ではない。選べなかった相手を、どこまで信じるかを試す」
ユズルは息を呑んだ。
黒い子牛が、隣で静かに立っている。
誰と組むのか。
何を信じるのか。
どこに立つのか。
三次試験が、始まろうとしていた。