巡る獣暦   作:ギガマツタケ

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第7話 クジビキ×フタリ×シンヨウ

 乾いた風が、岩場を吹き抜けた。

 

 森の湿り気はもうない。

 地下の冷たさも、飛行船の油と金属の匂いも薄れている。

 

 ここにあるのは、岩と砂と鉄の匂いだった。

 

 ユズルは飛行船の昇降口から降り、円形の施設を見上げた。

 

 大きな建物だった。

 

 外壁は灰色の石で組まれている。

 高さはそこまでないが、横に広い。中央だけが少し高く、上から見ればおそらく円形なのだろう。壁には細い窓がいくつも並び、その奥は暗い。

 

 闘技場にも見える。

 牢獄にも見える。

 あるいは、獲物を中に入れて逃がさない檻のようにも見えた。

 

 三次試験会場。

 

 ユズルは、肩にかけた荷物の紐を握り直した。

 

 受験者は五十二名。

 

 一次試験開始時にいた多くの顔は、もうここにはいない。

 二次試験の鎧鹿で落ちた者もいる。

 地下迷宮で戻ってこなかった者もいる。

 

 それでも、まだ五十二人もいる。

 

 その全員が、ここまで残った者たちだった。

 

 油断できる相手は、一人もいない。

 

 黒い子牛が、ユズルの隣に立っている。

 

 丑は隠で姿を伏せたまま、円形施設の入口を見ていた。

 表情はいつも通り動かない。

 

 だが、ユズルには分かる。

 

 丑も、待っている。

 

 次に何を問われるのかを。

 

 施設の入口に立つ男――三次試験官のガドルは、受験者たちを見渡していた。

 

 短い髪。

 鋭い目。

 腕に走る古い傷跡。

 

 彼は飛行船内の誰よりも、静かに危険な雰囲気を持っていた。

 

 ヒソカとは違う。

 

 ヒソカの危険は、こちらを見て笑う刃物のようだった。

 触れたくなる者だけを誘い、触れた瞬間に斬る。

 

 ガドルの危険は、もっと無機質だった。

 

 試す。

 落とす。

 必要なら、切り捨てる。

 

 そういう冷たさがある。

 

 ガドルは言った。

 

「三次試験では、お前たちに組んでもらう」

 

 受験者たちの間に、ざわめきが広がった。

 

「ただし、組む相手は自分では選べない」

 

 ユズルの胸が、少し重くなる。

 

 組む相手を選べない。

 

 ニカやボルドと一緒になれるとは限らない。

 むしろ、そうならない可能性の方が高い。

 

 飛行船で、三人で交代して休んだ。

 鎧鹿はニカと協力して捕った。

 ボルドには水を分けてもらった。

 

 頼れる相手が近くにいることに、少し慣れ始めていた。

 

 その直後に、引き離される。

 

 ハンター試験は、嫌なところを突いてくる。

 

 ガドルは続けた。

 

「ここから先は、信じる相手を選ぶ試験ではない。選べなかった相手を、どこまで信じるかを試す」

 

 信じる。

 

 その言葉が、ユズルには重かった。

 

 信じたい相手を信じるのは、まだ分かる。

 信じてもよさそうな相手を選ぶのも、分かる。

 

 でも、選べなかった相手を信じる。

 

 それは、ユズルにとって難しかった。

 

 信じるというより、怖い。

 裏切られるかもしれない。

 足を引っ張るかもしれない。

 自分が迷惑をかけるかもしれない。

 相手に嫌われるかもしれない。

 

 頭の中に、いくつもの不安が浮かぶ。

 

 ニカが隣で小さく言った。

 

「嫌な試験」

 

「はい」

 

「こういうの、あんた苦手そう」

 

「……はい」

 

「まあ、私も好きじゃない」

 

 ニカは顔をしかめた。

 

 少し離れた場所で、ボルドが髭を撫でている。

 

「組む相手を選べぬ、か」

 

「ボルドさんは平気そうですね」

 

「平気ではない。ただ、選べぬなら仕方ない」

 

「強いですね」

 

「年を取ると諦めが早くなるだけじゃ」

 

 ボルドは笑った。

 

 ユズルは少しだけ肩の力が抜けた。

 

 しかし、それも長くは続かなかった。

 

 ガドルが片手を上げる。

 

 協会スタッフが、大きな箱を運んできた。

 

 箱の上部には穴があり、中には番号札のようなものが入っているらしい。

 

「今から全員に札を引かせる。札には番号が書かれている。同じ番号を引いた二人が組む」

 

 受験者たちがざわつく。

 

「五十二名だから、二十六組か」

 

「相手次第じゃ終わりだな」

 

「逆に利用できる」

 

「強い奴と組めば楽だ」

 

「弱い奴なら切り捨てればいい」

 

 切り捨てる。

 

 その言葉が聞こえ、ユズルは息を詰めた。

 

 ガドルは、そのざわめきを放置してから言った。

 

「三次試験の内容は、施設内の各試験区画を二人一組で突破すること。制限時間は四時間。各組には同じ課題が与えられるわけではない。組み合わせによって区画を変える」

 

 同じ課題ではない。

 

 つまり、誰と組むかで試験の内容も変わる。

 

「合格条件は、二人とも出口へ到達すること」

 

 ユズルは顔を上げた。

 

 二人とも。

 

 ガドルは受験者たちを見渡す。

 

「片方だけが出口へ出ても、その組は失格だ。相手を置いていった時点で失格。相手を故意に殺した場合も失格。ただし、事故や自衛による結果は審査する」

 

 受験者たちの表情が変わった。

 

 利用するだけでは駄目。

 切り捨てても駄目。

 相手と一緒に出なければならない。

 

 それは、ユズルには少しだけ救いに聞こえた。

 

 だが、すぐに別の不安が来る。

 

 自分が足を引っ張ったら、相手も落ちる。

 相手が足を引っ張ったら、自分も落ちる。

 

 責任が重い。

 

 ガドルはさらに続けた。

 

「組ごとに一つ、共有の鍵を渡す。その鍵がなければ出口は開かない。鍵をなくした組は失格。鍵を奪った組は、その時点で失格だ。他組への直接的な妨害は禁じる。だが、情報交換、交渉、誘導、嘘は自由だ」

 

 嘘は自由。

 

 まただ。

 

 ハンター試験は、嘘を禁止しない。

 

 信じることを試す試験で、嘘が自由。

 

 ユズルは、思わずトンパの方を見た。

 

 トンパは楽しそうに笑っていた。

 

 あの男にとって、この試験はやりやすいのかもしれない。

 誰かと組まされても、その相手を利用する方法を考えるだろう。

 

 ただし、相手を置いていけない。

 そこが、トンパにとっては少し面倒なはずだ。

 

 トンパはユズルの視線に気づき、にこりと手を振った。

 

 ユズルは返さなかった。

 

 ガドルが言った。

 

「札を引け。番号順に前へ」

 

 受験者たちが順に進む。

 

 箱の中に手を入れ、札を引く。

 数字を確認し、スタッフに見せる。

 同じ番号の相手が出るまで待機する。

 

 ヒソカは、退屈そうに札を引いた。

 

 彼は札を見て、薄く笑う。

 

 相手が誰になるのか、ユズルには分からない。

 ただ、ヒソカと組まされる相手が気の毒だと思った。

 

 トンパが札を引く。

 

 彼は数字を確認すると、すぐに周囲を見回した。

 相手を探しているのだろう。

 

 ニカの番が来た。

 

 彼女は箱に手を入れ、無造作に札を取った。

 

 数字を見る。

 

 表情は変わらない。

 

 スタッフが番号を確認する。

 

「十三番」

 

 ニカはユズルをちらりと見た。

 

「じゃ、また後で。落ちなければ」

 

「はい。ニカさんも」

 

「祈られるの苦手」

 

「すみま……」

 

 ユズルは途中で止めた。

 

 ニカが少し笑う。

 

「今のは良し」

 

 ニカは十三番の札を持って、待機場所へ向かった。

 

 ボルドの番が来る。

 

 彼は杖をつきながらゆっくり進み、箱に手を入れた。

 

「十九番」

 

 ボルドは札を見て頷いた。

 

「十九か。悪くない」

 

「番号に意味があるんですか」

 

「ない」

 

 ボルドはそう言って、にこにこしながら待機場所へ行った。

 

 そして、ユズルの番が来た。

 

 受験番号二百四十一番。

 

 前へ出る。

 

 箱の前に立つと、急に喉が乾いた。

 

 誰と組むのか。

 

 ニカではない。

 ボルドでもない。

 ヒソカだったらどうする。

 トンパだったら。

 あの大柄な男だったら。

 

 考えれば考えるほど、手が動かなくなる。

 

 ガドルの視線がこちらに向いた。

 

「引け」

 

「はい」

 

 ユズルは箱の中に手を入れた。

 

 木札が指に触れる。

 いくつもある。

 

 どれでも同じ。

 そう思いたい。

 

 けれど、指先が迷う。

 

 結局、手に触れた一枚を掴んだ。

 

 引き抜く。

 

 札には、数字が書かれていた。

 

 七。

 

 スタッフが確認する。

 

「七番」

 

 ユズルは札を握った。

 

 七番。

 

 相手はまだ分からない。

 

 ユズルは七番の待機位置へ移動した。

 

 心臓が落ち着かない。

 

 黒い子牛が、隣についてくる。

 

 丑は何も言わない。

 

 それから数人が札を引いた。

 

 七番はまだ来ない。

 

 十三番の相手が決まったらしく、ニカのところへ、無口そうな背の高い女性が向かった。

 鎧鹿の時に少しだけ一緒だった、大柄な女だ。

 

 ニカは相手を見ると、少しだけ頷いた。

 悪くない組み合わせに見えた。

 

 十九番の相手は、眼鏡をかけた少年だった。

 飛行船の食堂で、トンパの話を聞いていた者の一人だ。

 

 ボルドは柔らかく笑って話しかけている。

 少年は緊張しているようだった。

 

 トンパの相手も決まった。

 

 相手は、筋肉質な若い男だった。

 こちらも飛行船でトンパの周囲にいた受験者の一人だ。

 

 トンパは親しげに肩を叩いている。

 

「いやあ、知ってる相手でよかったよ。よろしくな」

 

 相手の若い男は少し安心したように頷いていた。

 

 ユズルは、それを見て胸がざわついた。

 

 トンパは、相手が誰でも利用する。

 でも相手は、トンパを経験者として信じているように見える。

 

 見ておく。

 

 ニカに言われたことを思い出す。

 

 今は、見ておく。

 

 残りの受験者が少なくなっていく。

 

 ユズルの相手は、まだ来ない。

 

 そして。

 

「七番」

 

 スタッフの声がした。

 

 ユズルは顔を上げた。

 

 札を持ってこちらへ歩いてくる男がいる。

 

 背が高い。

 目つきが鋭い。

 肩幅が広く、歩くたびに周囲の空気を押しのけるようだった。

 

 船の大柄な男。

 

 ユズルの胸が凍った。

 

 男はユズルを見つけると、一瞬驚いたような顔をした。

 すぐに、その表情が笑みに変わる。

 

「は」

 

 短く笑う。

 

「よりによって、お前かよ」

 

 ユズルは札を握る手に力を込めた。

 

 七番。

 

 組む相手は、自分では選べない。

 

 選べなかった相手を、どこまで信じるか。

 

 ガドルの言葉が、頭の中で響く。

 

 黒い子牛が、ユズルの横に立つ。

 

 男はユズルの前まで来ると、見下ろすように言った。

 

「最悪だな、二百四十一番」

 

 ユズルは何か言おうとした。

 

 よろしくお願いします。

 

 そう言いそうになった。

 

 でも、言葉が喉で止まった。

 

 よろしくと言えば、相手を信じることになるのか。

 言わなければ、最初から関係が壊れるのか。

 

 考えている間に、男が舌打ちする。

 

「黙ってんじゃねぇよ」

 

 ユズルは息を吸った。

 

「……ユズルです」

 

「あ?」

 

「名前です。二百四十一番じゃなくて、ユズルです」

 

 言ってから、自分で少し驚いた。

 

 男も、わずかに目を細めた。

 

「知るか」

 

「でも、組むなら、番号だけよりは」

 

「俺はグランだ」

 

 男が吐き捨てるように言った。

 

 グラン。

 

 ユズルはその名前を心の中で繰り返した。

 

「グランさん」

 

「さん付けすんな。気色悪い」

 

「……グラン」

 

「それでいい」

 

 グランは不機嫌そうに顔を逸らした。

 

 会話はそれで終わった。

 

 しかし、ユズルにとっては少しだけ大きかった。

 

 名前を聞いた。

 

 相手は大柄な男ではなく、グランになった。

 

 それだけで怖さが消えるわけではない。

 むしろ、因縁のある相手であることに変わりはない。

 

 だが、名前を知った。

 

 それは、ただの敵として見ることとは少し違う気がした。

 

 ガドルが全員の組み合わせを確認した。

 

「全二十六組、決定したな」

 

 受験者たちが、それぞれの相手と並ぶ。

 

 不安そうな組。

 すでに打ち合わせをしている組。

 険悪な組。

 沈黙している組。

 笑っている組。

 

 ヒソカの相手は、長髪の男だった。

 顔色が悪い。明らかに怯えている。

 

 ヒソカは優しそうに微笑んでいる。

 

 それが、かえって怖かった。

 

 ガドルは施設の入口を指した。

 

「中に入れ。組ごとに別室へ案内する。そこで詳細を伝える」

 

 受験者たちは、協会スタッフに従って施設内へ進んだ。

 

 ユズルとグランも歩き出す。

 

 並んで歩くと、グランの体格の大きさがよく分かった。

 肩が広く、腕が太い。動きは粗いが、力はある。

 

 ユズルは横を歩くだけで、少し圧迫感を覚えた。

 

「おい」

 

 グランが低く言う。

 

「はい」

 

「足引っ張ったら置いてく」

 

「置いていったら失格です」

 

「知ってる。だから、置いてかなくて済むように動け」

 

「……はい」

 

「あと、あの見えねぇ念。勝手に俺に使うな」

 

 ユズルは息を止めた。

 

 やはり、グランは念の存在を知っている。

 

 見えてはいない。

 でも、あの重さを覚えている。

 

「使わないと危ない時は?」

 

「俺に聞け」

 

「聞く余裕がない時は?」

 

 言ってから、ユズルは自分で驚いた。

 

 少し言い返した。

 

 グランも意外そうにこちらを見る。

 

「……その時は勝手にしろ。ただし、俺の邪魔をするな」

 

「分かりました」

 

 それが、合意なのかは分からない。

 

 でも、何も話さないよりはましだった。

 

 施設内は、外から見た印象よりも複雑だった。

 

 石の廊下が円形に続き、ところどころに鉄の扉がある。

 壁には古い傷跡があり、床には削れた跡が残っている。

 

 ここで何度も試験が行われてきたのかもしれない。

 

 協会スタッフは、七番の扉の前で止まった。

 

「七番組はこちらです」

 

 扉が開く。

 

 中は、小さな待機室だった。

 

 石の壁。

 中央に机。

 壁には大きな扉が一つ。

 机の上には、金属製の鍵と、紙が一枚置かれている。

 

 スタッフは言った。

 

「説明を読み、準備ができたら扉を開けて進んでください。試験開始は扉を開けた時点です。制限時間は四時間」

 

「説明は口でしないのか」

 

 グランが問う。

 

「組ごとに内容が異なるため、紙面で確認してください。試験官は全区画を監視しています」

 

 スタッフはそれだけ言うと、外へ出て扉を閉めた。

 

 待機室に、ユズルとグランだけが残される。

 

 空気が重い。

 

 黒い子牛は、ユズルのそばに立っている。

 

 グランには見えていない。

 だが、彼はユズルの周囲をちらりと睨んだ。

 

「いるのか」

 

 ユズルは少し迷った。

 

 否定しても、意味はない。

 かといって、詳しく説明するべきかは分からない。

 

「います」

 

 短く答えた。

 

 グランの眉が動く。

 

「やっぱりか」

 

「見えるんですか」

 

「見えねぇよ。気持ち悪いだけだ」

 

 グランは吐き捨てるように言った。

 

 だが、今の言い方は少しだけ正直に聞こえた。

 

 気持ち悪い。

 

 見えないものがそばにいる。

 それは確かに、怖いかもしれない。

 

 ユズルは紙を手に取った。

 

 そこには、三次試験七番組の課題が書かれていた。

 

 

 三次試験・七番組課題。

 

 試験区画名:沈黙の回廊。

 

 合格条件:二人で出口へ到達すること。

 

 制限時間:四時間。

 

 追加条件:

 

 一、区画内には複数の分岐と仕掛けがある。

 

 二、回廊内では一定以上の音を立てると、区画内の危険装置が作動する。

 

 三、共有鍵を出口まで保持すること。

 

 四、片方が鍵を所持し続けても、出口は開かない。出口前で二人が鍵に触れている必要がある。

 

 五、途中で相手を拘束、放置、故意に負傷させた場合は失格。

 

 

 ユズルは読み終え、少しだけ眉を寄せた。

 

 沈黙の回廊。

 

 音を立ててはいけない。

 

 グランは紙を奪うように取り、目を走らせた。

 

「ちっ。面倒くせぇ」

 

 彼はすぐにそう言った。

 

「大声を出すと装置が作動するみたいです」

 

「読めば分かる」

 

「歩き方も気をつけた方が」

 

「分かってるって言ってんだろ」

 

 その声が少し大きかった。

 

 ユズルは思わず身を縮める。

 

 しかし、待機室では装置は作動しなかった。

 

 試験開始は、扉を開けてから。

 

 ユズルは小さく息を吐いた。

 

 グランは鍵を手に取った。

 

 金属製の古い鍵だった。

 大きめで、二人が同時に触れられる程度の幅がある。

 

「俺が持つ」

 

 グランが言った。

 

 ユズルは少し迷った。

 

 鍵を持たせるべきか。

 奪われたら。

 いや、出口では二人で触れなければ開かない。

 グラン一人で持っていても、ユズルを完全には切れない。

 

 だが、鍵を一方が持ち続けるのは不安だった。

 

「交代で持ちませんか」

 

「あ?」

 

「片方が落としたり、奪われたりしたら困るので。紐で二人の間に結ぶとか」

 

「俺が落とすと思ってんのか」

 

「僕が落とすかもしれません」

 

 グランは言い返しかけて、少し黙った。

 

 ユズルは荷物から細い紐を取り出した。

 村から持ってきた紐だ。護符を結ぶのにも使う。

 

「鍵に紐を通して、お互いの手首に繋げば、どちらか一人だけが持っていくことはできません」

 

「邪魔くせぇ」

 

「でも、出口で二人とも触る必要があります」

 

「……」

 

 グランは不機嫌そうに舌打ちした。

 

「好きにしろ」

 

 許可が出た。

 

 ユズルは鍵に紐を通し、片側を自分の手首に、片側をグランの手首に結んだ。

 

 近い。

 

 この距離で動かなければならない。

 

 怖い。

 

 だが、条件としては理にかなっているはずだ。

 

 グランは自分の手首を見て、嫌そうに顔をしかめた。

 

「犬の散歩かよ」

 

「すみません」

 

「謝るな。気が抜ける」

 

 その言葉に、ユズルは少しだけ意外そうにした。

 

 グランも気づいたのか、目を逸らした。

 

「行くぞ」

 

「はい」

 

 二人は大扉の前に立った。

 

 ユズルは深く息を吸う。

 

 黒い子牛が、隣に立つ。

 

 沈黙の回廊。

 音を立ててはいけない。

 グランは乱暴で、大声を出しやすい。

 自分は怖がりで、反射的に声が出るかもしれない。

 

 相性は悪い。

 

 でも、組んだ。

 

 選べなかった相手を、どこまで信じるか。

 

 ユズルは扉に手をかけた。

 

 グランも反対側に手を置く。

 

 二人で押す。

 

 扉は重かった。

 

 石が擦れる音が、低く響く。

 

 その音だけで、ユズルは緊張した。

 

 だが、装置は作動しない。

 

 扉の向こうには、細長い通路が続いていた。

 

 天井は低く、壁には黒い鉄板が何枚も埋め込まれている。

 床は石。ところどころに古い傷がある。

 

 通路の奥は暗い。

 

 音が吸い込まれるような、奇妙な静けさだった。

 

 ユズルは一歩踏み出した。

 

 靴音が、思ったより大きく響いた。

 

 かつん。

 

 その瞬間、壁の鉄板がかすかに震えた。

 

 ユズルは固まる。

 

 グランが小声で言った。

 

「歩き方、下手か」

 

「……すみません」

 

「だから謝るな」

 

 グランは苛立ったように言ったが、声量は抑えていた。

 

 意外にも、彼は試験の条件を守ろうとしている。

 

 ユズルは足の置き方を変えた。

 

 踵からではなく、足裏全体を静かに置く。

 山道で枯れ枝を踏まないように歩く時の感覚を思い出す。

 

 グランも、思ったより静かに歩いた。

 

 体は大きいが、完全に不器用ではない。

 むしろ、力を抑えればそれなりに動ける。

 

 ただ、抑えるのが嫌いなのだろう。

 

 しばらく進むと、最初の分岐があった。

 

 右と左。

 

 どちらも同じように暗い。

 

 壁には文字が刻まれていた。

 

 右:早い道。

 左:静かな道。

 

 グランはすぐに右を指した。

 

「右だ」

 

 ユズルは左を見た。

 

 早い道。

 静かな道。

 

 音を立ててはいけない試験で、早い道。

 

 罠に見える。

 

「左の方がいいと思います」

 

「あ?」

 

「この試験は音が危険です。早い道は、足場が悪いか、急がせる仕掛けがあるかもしれません」

 

「静かな道って書いてる方が嘘かもしれねぇだろ」

 

「はい」

 

「なら同じだ」

 

「でも、今の条件なら、早さより静けさを優先した方が」

 

 グランの顔が険しくなる。

 

「お前は何でも遅ぇんだよ」

 

 ユズルは息を詰めた。

 

 その通りだと思った。

 

 決めるのが遅い。

 動くのが遅い。

 怖がって、迷って、考える。

 

 けれど。

 

「遅くても、音を立てたら失格かもしれません」

 

 ユズルは小声で言った。

 

 グランの目が細くなる。

 

「俺の判断に逆らう気か」

 

「……はい」

 

 言った。

 

 喉が痛い。

 

 でも、言った。

 

「左に行きたいです」

 

 沈黙が落ちる。

 

 黒い子牛が、ユズルの横に立っている。

 

 グランはしばらくユズルを睨んだ。

 

 それから、低く言った。

 

「外したら殴る」

 

「飛行船ではないので、殴っても穴は開きませんね」

 

 言ってから、ユズルは自分で驚いた。

 

 なぜそんなことを言ったのか分からない。

 

 グランも、一瞬ぽかんとした。

 

 次に、口元を歪める。

 

「……少しは言うようになったじゃねぇか」

 

「すみません」

 

「謝るなっつってんだろ」

 

 グランは舌打ちしながら、左へ進んだ。

 

 ユズルも続く。

 

 左の道は、確かに静かだった。

 

 床には薄い布のようなものが敷かれており、足音が吸収される。

 壁の鉄板も少ない。

 

 ただし、通路は狭かった。

 

 二人で並んでは歩けない。

 紐で繋がったまま、前後になって進む必要がある。

 

 先頭はグラン。

 

 ユズルは後ろ。

 

 鍵の紐が、二人の間で揺れる。

 

 しばらく進むと、天井から細い糸のようなものが垂れている場所に出た。

 

 糸は透明に近く、見落としそうになる。

 何本も、通路を横切るように張られていた。

 

 グランが足を止めた。

 

「糸か」

 

「触ると音が鳴る仕掛けかもしれません」

 

「だろうな」

 

 グランはしゃがみ、糸の下を潜ろうとした。

 

 しかし、体が大きい。

 通れなくはないが、少しでも触れれば危険だ。

 

 ユズルは後ろから見ていた。

 

 グランは乱暴だが、こういう時に焦ってはいない。

 慎重に動けば、器用ではないが通れる。

 

 だが、途中で紐が引っかかる。

 

 二人の手首を繋ぐ鍵の紐。

 

 ユズルが止まるのが遅れると、グランの手を引いてしまう。

 

 グランが小声で唸った。

 

「動くな」

 

「はい」

 

 ユズルは動きを止めた。

 

 グランは糸の下を慎重に抜ける。

 だが、あと少しのところで、肩が糸に触れそうになった。

 

 ユズルは反射的に手を伸ばした。

 

 グランの袖を、ほんの少し引く。

 

 力は弱い。

 

 しかし、方向が変わった。

 

 グランの肩が糸を避けた。

 

 通れた。

 

 グランは向こう側で振り返る。

 

「勝手に引くな」

 

「すみません」

 

「……助かった」

 

 ユズルは顔を上げた。

 

 今、助かったと言ったのか。

 

 グランは不機嫌そうに顔を逸らす。

 

「早く来い」

 

「はい」

 

 今度はユズルの番だった。

 

 ユズルは体が細いので、糸の間を抜けやすい。

 だが、緊張で手が震える。

 

 糸の一本が、顔のすぐ横にある。

 

 触れたらどうなるのか。

 警報か。

 矢か。

 落とし穴か。

 

 考えすぎると体が固まる。

 

 グランが向こう側で低く言った。

 

「見すぎるな」

 

「え」

 

「そういうのは、見すぎると動けなくなる。見る場所を一つにしろ」

 

 ユズルは驚いた。

 

 助言。

 

 グランから。

 

「……はい」

 

「今は右肩だけ見ろ。そこだけ通せば抜ける」

 

 ユズルは右肩を見る。

 

 そこだけ。

 

 糸全体ではなく、右肩が通る場所だけを見る。

 

 すると、少し動きやすくなった。

 

 一歩。

 また一歩。

 

 糸を抜ける。

 

 最後に紐が引っかかりそうになったが、グランが静かに手首を上げてくれた。

 

 通れた。

 

 ユズルは小さく息を吐いた。

 

「ありがとうございます」

 

「礼も今いらねぇ。進むぞ」

 

 そう言いながらも、グランの声は少しだけ柔らかかった。

 

 だが、数歩進んだところで、グランがふと足を止めた。

 

「なあ」

 

「はい」

 

「お前、念を使えるんだよな」

 

 ユズルは少しだけ身構えた。

 

「……はい」

 

「だったら、もっと楽に進めんじゃねぇのか」

 

 ユズルは答えに詰まった。

 

 それは、自分でも何度も考えたことだった。

 

 念が使える。

 発もある。

 十二支の獣たちもいる。

 

 それなのに、自分は走るだけで息が切れる。罠に怯える。相手に怒鳴られると固まる。丑の力を使えば、すぐに内側が削られる。

 

 ユズルは、少し時間を置いて答えた。

 

「発は、あります」

 

「あ?」

 

「でも、念能力者としては、まだ弱いんです。練も、堅も、凝も、実戦だと安定しません。丑を隠したまま出しているだけでも、集中力を使います」

 

 グランは眉をひそめた。

 

「つまり、武器だけ立派で、腕が追いついてねぇってことか」

 

 ユズルは少し苦笑した。

 

「ヤクモにも、似たようなことを言われました」

 

「師匠か」

 

「はい」

 

 グランは鼻を鳴らした。

 

「なら、なおさら足引っ張るなよ。武器が立派なら、使い方くらい覚えろ」

 

「……はい」

 

 乱暴な言い方だった。

 

 けれど、不思議と嫌ではなかった。

 

 グランは、ユズルが念を使えるのに弱いことを馬鹿にしている。

 だが同時に、ユズルの力をまったく無視しているわけでもない。

 

 それは、怖い相手から初めて向けられた、少しだけ現実的な評価だった。

 

 二人はさらに進んだ。

 

 沈黙の回廊は、名前の通り音を嫌う仕掛けが多かった。

 

 床に置かれた薄い金属板。

 踏むと音が鳴る石。

 壁に反響する小部屋。

 扉の蝶番がわざと軋む通路。

 

 大声を出せば、危険装置が作動する。

 実際、一度だけ遠くで金属音と悲鳴が聞こえた。

 

 別の組が失敗したのかもしれない。

 

 ユズルはそのたびに体を強張らせた。

 

 グランは苛立ちながらも、声を抑えた。

 

 少しずつ、二人の呼吸が合ってきた。

 

 ユズルが足場を見る。

 グランが先に危険な物をどける。

 グランが力で重い扉を押さえる。

 ユズルが紐や音の仕掛けを確認する。

 

 相性は悪い。

 

 でも、役割はあった。

 

 それが分かると、ユズルの中の恐怖が少しだけ形を変えた。

 

 怖い相手。

 嫌な相手。

 でも、何もできない相手ではない。

 

 グランも、ただ怒鳴るだけの男ではない。

 

 そう思った時だった。

 

 通路の先に、広い部屋が現れた。

 

 床は円形。

 中央に石の台。

 その上に、もう一つ鍵が置かれている。

 

 壁には文字が刻まれていた。

 

 出口の鍵は一つでは足りない。

 中央の鍵を取れ。

 ただし、鍵を取れば部屋は鳴る。

 

 ユズルは眉を寄せた。

 

「部屋は鳴る……」

 

 グランが部屋を見回す。

 

 天井には無数の小さな穴がある。

 壁には鉄板。床の周囲には溝。

 

 鍵を取ると、何かが作動する。

 

 音に反応する区画で、部屋自体が鳴る。

 

 つまり、危険装置が発動する前提なのかもしれない。

 

「どうする」

 

 グランが言った。

 

 初めて、先に尋ねられた。

 

 ユズルは少し驚いた。

 

「考えます」

 

「早く考えろ」

 

「はい」

 

 ユズルは部屋を見た。

 

 中央の鍵。

 部屋が鳴る。

 天井の穴。

 床の溝。

 

 鍵を取れば音が鳴り、おそらく何かが飛んでくる。

 矢か、針か、石か。

 

 普通に取れば危険。

 

 だが、鍵を取らなければ出口へ行けない。

 

 守る場所。

 

 ここで丑を使うなら、どこを守る。

 

 中央の石台か。

 自分たちか。

 天井からの攻撃か。

 

 しかし、丑は動く守りには向かない。

 場所を決める必要がある。

 

 ユズルは床の溝を見た。

 

 溝は部屋の外周にある。

 何かが流れるのか。

 それとも、落とし穴の境目か。

 

 中央の石台の周囲だけ、床の色が少し違う。

 

 もしかすると、鍵を取ると中央周辺が沈む。

 

 その瞬間、音が鳴り、天井から何かが降る。

 

 なら。

 

「グラン」

 

「あ?」

 

「鍵を取った瞬間、中央の床が沈むかもしれません」

 

「だから?」

 

「僕が石台の横に立ちます。床が沈むのを、少しだけ止めます」

 

「お前の念でか」

 

「はい」

 

 グランは眉をひそめた。

 

「俺は何をする」

 

「鍵を取って、すぐ戻ってください」

 

「危ないのはお前じゃねぇか」

 

 ユズルは少し驚いた。

 

 心配されたのか。

 

 いや、グランは自分が失格になるのを嫌がっているだけかもしれない。

 

 でも、その言葉は少し意外だった。

 

「僕の能力は、立つ場所を守るものです。動きながら使うより、ここで使う方が向いています」

 

「失敗したら?」

 

「その時は、たぶん僕が潰れます」

 

「馬鹿か」

 

 グランは即座に言った。

 

「じゃあ俺が立つ。お前が鍵を取れ」

 

「でも」

 

「俺の方が頑丈だ」

 

「丑の力は、僕が立たないと」

 

「なら一緒に立て」

 

 ユズルは言葉に詰まった。

 

 一緒に。

 

 グランは苛立ったように言う。

 

「鍵も二人で持ってんだろうが。お前一人で踏ん張るんじゃなくて、俺も支える。お前の見えねぇ牛が何するか知らねぇが、足場くらいは俺が持つ」

 

 ユズルは、グランを見た。

 

 乱暴で、怖くて、何度も衝突した相手。

 

 でも今、彼は一緒に立つと言った。

 

 信じられるのか。

 

 分からない。

 

 けれど、ここで一人で抱え込むのは違う。

 

 飛行船でボルドに言われた。

 

 荷物を守ったのは良い。

 だが、一人で抱え込む癖はまだある。

 

 ユズルは息を吸った。

 

「分かりました。一緒に立ちます」

 

「最初からそう言え」

 

 二人は中央の石台へ近づいた。

 

 ユズルは石台の右側。

 グランは左側。

 

 共有鍵の紐が、二人の手首を繋いでいる。

 

 黒い子牛が、ユズルの前に立つ。

 

 ユズルは小さく言った。

 

「ここは、崩させません」

 

 丑の体が大きくなる。

 

 隠は維持されたまま、空気が重くなる。

 

 グランが顔をしかめた。

 

「これだよ。この気持ち悪い重さ」

 

「すみません」

 

「謝るな。今は使え」

 

「はい」

 

 グランが中央の鍵に手を伸ばす。

 

 ユズルも、同時に石台へ手を置いた。

 

「取るぞ」

 

「はい」

 

 グランが鍵を掴んだ。

 

 その瞬間。

 

 部屋が鳴った。

 

 低い音が、床から壁へ、壁から天井へ広がる。

 

 ごおん。

 

 音が重なり、鉄板が震える。

 

 中央の床が沈み始めた。

 

 ユズルの足元が落ちる。

 

 だが、丑が立つ。

 

 見えない重さが、床を押し留める。

 

 グランも足を踏ん張った。

 

「ぐっ……!」

 

 天井の穴から、細い針のようなものが落ちてきた。

 

 雨のように。

 

 ユズルは息を呑む。

 

 正面ではない。

 上から。

 

 丑の守る場所は床。

 

 全部は防げない。

 

 グランが咄嗟に腕を上げた。

 

 厚い外套を広げ、ユズルの頭上を覆う。

 

 針が外套に刺さる。

 

 何本かは腕にも刺さった。

 

「グラン!」

 

「声出すな!」

 

 グランが低く唸る。

 

 ユズルは歯を食いしばった。

 

 床を守る。

 今はここ。

 

 ここを崩させない。

 

 丑の影が、床に根を張る。

 

 音はさらに大きくなる。

 壁の鉄板が震え、床が軋む。

 

 ユズルの足が震えた。

 

 オーラが削られる。

 

 長くは持たない。

 

「鍵、取りましたか」

 

「取った!」

 

「戻ります」

 

「どうやって!」

 

 中央の床は沈みかけている。

 外周までは少し距離がある。

 

 このままでは、足場が崩れる。

 

 ユズルは周囲を見た。

 

 沈んでいるのは中央だけ。

 外周はまだ残っている。

 

 床を完全に守るのではなく、ほんの一瞬、傾きを止める。

 

 グランが飛べるだけの時間。

 

「僕が一瞬止めます。先に跳んでください」

 

「またそれか!」

 

「今度は、後で僕を引いてください!」

 

 グランの目が見開かれた。

 

 ユズルは、自分でも驚いていた。

 

 後で引いてください。

 

 頼んだ。

 

 頼めた。

 

 グランは一瞬だけ黙り、それから歯を剥いた。

 

「絶対離すなよ!」

 

「はい!」

 

 ユズルは床を押さえる。

 

 丑が低く唸った。

 

 立て。

 

 退くな。

 

 ユズルは踏ん張る。

 

 グランが外周へ跳んだ。

 

 鍵の紐が伸びる。

 

 グランは着地し、すぐに振り返った。

 

「来い!」

 

 ユズルは走った。

 

 中央の床が落ちる。

 

 足元が消える。

 

 グランが紐を引いた。

 

 強い力。

 

 ユズルの体が前へ投げ出される。

 

 外周の床に胸から転がった。

 

 音が鳴る。

 

 壁が震える。

 

 だが、中央の床は完全に落ちた。

 

 暗い穴が開いている。

 

 針の雨が止まった。

 

 部屋の音も、少しずつ収まっていく。

 

 ユズルは床に倒れたまま、息を荒げた。

 

 グランも肩で息をしている。

 

 腕には針が何本か刺さっていた。

 

「大丈夫ですか」

 

「針ぐらいで死ぬか」

 

「毒があるかも」

 

「だったらお前が困るな」

 

「はい。困ります」

 

 グランは少しだけ笑った。

 

 本当に少しだけだった。

 

「変な奴だな、お前」

 

「よく言われます」

 

「だろうな」

 

 ユズルは起き上がった。

 

 体は重い。

 丑の力を使った反動で、足が震えている。

 

 だが、鍵はある。

 

 共有鍵と、中央の鍵。

 

 二つとも無事だった。

 

 グランが腕の針を抜きながら言った。

 

「お前の念、守るだけか」

 

「今月は」

 

「今月?」

 

 ユズルはしまったと思った。

 

 話しすぎた。

 

 だが、グランはそれ以上深く聞かなかった。

 

「まあいい。守るだけでも、使い方次第じゃ厄介だな」

 

 それは、褒めているのかもしれなかった。

 

 たぶん。

 

 二人は部屋を出た。

 

 その後の回廊は、以前よりも進みやすくなった。

 

 危険が消えたわけではない。

 

 むしろ、罠は増えていた。

 

 音に反応する扉。

 鍵を同時に差し込まないと開かない小部屋。

 二人が離れすぎると床が傾く通路。

 片方が足場を押さえ、もう片方が進路を確認する仕掛け。

 

 この区画は、最初から二人で進むように作られていた。

 

 一人では無理。

 片方を置いていっても無理。

 相手を信じきる必要はないが、相手の役割を認めなければ進めない。

 

 ユズルは少しずつ、それを理解していった。

 

 グランは乱暴だが、力がある。

 動きも荒いが、危険に対する反応は早い。

 また、思ったより約束を守る。

 

 グランの方も、ユズルを見る目が少し変わった。

 

 弱い。

 遅い。

 すぐ謝る。

 

 でも、見ている。

 考える。

 立つと決めた場所では、逃げない。

 

 そのことを、少しは認めたようだった。

 

 やがて、通路の先に出口らしき扉が見えた。

 

 大きな鉄扉。

 左右に二つの鍵穴がある。

 

 一つは共有鍵。

 もう一つは中央の部屋で得た鍵。

 

 扉の前には文字が刻まれていた。

 

 二人で触れよ。

 二人で開けよ。

 一人で進む者は、ここまで来ても出口を見ない。

 

 ユズルとグランは顔を見合わせた。

 

「最後くらい、分かりやすいですね」

 

「逆に嫌だな」

 

 グランはそう言いながら、共有鍵を持つ。

 

 ユズルもその鍵に触れる。

 

 もう一つの鍵は、グランが持ち、ユズルも手を添えた。

 

 二人で同時に差し込む。

 

 回す。

 

 重い音がした。

 

 扉が開く。

 

 外の光が差し込んだ。

 

 ユズルは思わず目を細めた。

 

 出口だ。

 

 二人は並んで外へ出た。

 

 そこは円形施設の反対側にある広場だった。

 

 すでに何組かが到着している。

 

 ニカもいた。

 相手の大柄な女と並んで、壁際に立っている。二人とも少し汚れているが、大きな怪我はなさそうだった。

 

 ボルドもいた。

 眼鏡の少年と一緒に座り込んでいる。少年は顔色が悪いが、無事らしい。

 

 ユズルは胸を撫で下ろした。

 

 トンパの姿は、まだ見えない。

 

 ヒソカもいない。

 

 ガドルが広場に立っていた。

 

 彼はユズルとグランを見ると、番号を確認した。

 

「七番組、通過」

 

 ユズルは息を吐いた。

 

 三次試験、通過。

 

 まだ全体の結果は出ていない。

 だが、自分たちは出口に来た。

 

 グランは腕の針の跡を気にしながら、ユズルを見た。

 

「おい」

 

「はい」

 

「お前の念、気持ち悪い」

 

「……はい」

 

「でも、邪魔ではなかった」

 

 ユズルは少し驚いた。

 

 グランは目を逸らす。

 

「それだけだ」

 

「はい」

 

「あと、さっきの紐」

 

 グランは手首に結ばれた紐を見る。

 

「切るぞ」

 

「あ、はい」

 

 ユズルは慌てて紐を解こうとした。

 

 しかし、グランは自分で雑に解いた。

 

 そして、鍵から抜いた紐をユズルへ放る。

 

「持ってろ。お前のだろ」

 

「ありがとうございます」

 

「礼もいらねぇ」

 

 グランはそう言って、少し離れた場所へ歩いていった。

 

 ユズルは紐を握った。

 

 選べなかった相手。

 

 怖い相手。

 

 信じられないと思っていた相手。

 

 それでも、出口までは一緒に来た。

 

 信じる、というほど綺麗なものではなかったかもしれない。

 互いに疑い、苛立ち、文句を言いながら進んだ。

 

 でも、役割を認めた。

 助けられた。

 頼んだ。

 頼まれた。

 

 それで十分なのかもしれない。

 

 黒い子牛が、隣に立っている。

 

 ユズルは小さく言った。

 

「一人じゃ、出られなかった」

 

 丑は短く答えた。

 

「そうだ」

 

 いつものように、短い言葉だった。

 

 だが、ユズルにはそれが妙に重く響いた。

 

 やがて、次の組が出口から出てきた。

 

 トンパと、筋肉質な若い男の組だった。

 

 若い男は肩を押さえ、顔を歪めている。

 トンパは汗を拭きながら笑っていた。

 

「いやあ、危なかった。彼が頑張ってくれて助かったよ」

 

 若い男は何も言わない。

 

 その目には、少しだけ疑いが浮かんでいた。

 

 ユズルはそれを見た。

 

 見ておく。

 

 覚えておく。

 

 トンパはまだ残った。

 

 そして少し遅れて、ヒソカが出てきた。

 

 一人だった。

 

 ユズルは息を止めた。

 

 相手はどうしたのか。

 

 ガドルの目が細くなる。

 

「百一番。相手は」

 

 ヒソカは肩をすくめた。

 

「いるよ」

 

 出口の奥から、長髪の男がふらふらと出てきた。

 

 顔は真っ青で、体は震えている。

 大きな怪我はない。

 だが、何かを見てしまったような目をしていた。

 

 ヒソカは楽しそうに微笑む。

 

「ちゃんと二人で出たでしょ?」

 

 ガドルはしばらくヒソカを見ていたが、やがて言った。

 

「二十一番組、通過」

 

 ヒソカは退屈そうにあくびをした。

 

 ユズルは、長髪の男の震えを見ていた。

 

 何があったのかは分からない。

 

 でも、分からないままでも怖かった。

 

 三次試験の制限時間が終わるまで、まだ時間はある。

 

 しかし、ユズルの中にはすでに一つの実感が残っていた。

 

 自分で選べる相手ばかりではない。

 好きな相手とだけ歩けるわけではない。

 怖い相手、嫌な相手、理解できない相手とも、時には同じ出口を目指さなければならない。

 

 その時、自分はどこに立つのか。

 

 丑の月の問いは、まだ続いていた。

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