乾いた風が、岩場を吹き抜けた。
森の湿り気はもうない。
地下の冷たさも、飛行船の油と金属の匂いも薄れている。
ここにあるのは、岩と砂と鉄の匂いだった。
ユズルは飛行船の昇降口から降り、円形の施設を見上げた。
大きな建物だった。
外壁は灰色の石で組まれている。
高さはそこまでないが、横に広い。中央だけが少し高く、上から見ればおそらく円形なのだろう。壁には細い窓がいくつも並び、その奥は暗い。
闘技場にも見える。
牢獄にも見える。
あるいは、獲物を中に入れて逃がさない檻のようにも見えた。
三次試験会場。
ユズルは、肩にかけた荷物の紐を握り直した。
受験者は五十二名。
一次試験開始時にいた多くの顔は、もうここにはいない。
二次試験の鎧鹿で落ちた者もいる。
地下迷宮で戻ってこなかった者もいる。
それでも、まだ五十二人もいる。
その全員が、ここまで残った者たちだった。
油断できる相手は、一人もいない。
黒い子牛が、ユズルの隣に立っている。
丑は隠で姿を伏せたまま、円形施設の入口を見ていた。
表情はいつも通り動かない。
だが、ユズルには分かる。
丑も、待っている。
次に何を問われるのかを。
施設の入口に立つ男――三次試験官のガドルは、受験者たちを見渡していた。
短い髪。
鋭い目。
腕に走る古い傷跡。
彼は飛行船内の誰よりも、静かに危険な雰囲気を持っていた。
ヒソカとは違う。
ヒソカの危険は、こちらを見て笑う刃物のようだった。
触れたくなる者だけを誘い、触れた瞬間に斬る。
ガドルの危険は、もっと無機質だった。
試す。
落とす。
必要なら、切り捨てる。
そういう冷たさがある。
ガドルは言った。
「三次試験では、お前たちに組んでもらう」
受験者たちの間に、ざわめきが広がった。
「ただし、組む相手は自分では選べない」
ユズルの胸が、少し重くなる。
組む相手を選べない。
ニカやボルドと一緒になれるとは限らない。
むしろ、そうならない可能性の方が高い。
飛行船で、三人で交代して休んだ。
鎧鹿はニカと協力して捕った。
ボルドには水を分けてもらった。
頼れる相手が近くにいることに、少し慣れ始めていた。
その直後に、引き離される。
ハンター試験は、嫌なところを突いてくる。
ガドルは続けた。
「ここから先は、信じる相手を選ぶ試験ではない。選べなかった相手を、どこまで信じるかを試す」
信じる。
その言葉が、ユズルには重かった。
信じたい相手を信じるのは、まだ分かる。
信じてもよさそうな相手を選ぶのも、分かる。
でも、選べなかった相手を信じる。
それは、ユズルにとって難しかった。
信じるというより、怖い。
裏切られるかもしれない。
足を引っ張るかもしれない。
自分が迷惑をかけるかもしれない。
相手に嫌われるかもしれない。
頭の中に、いくつもの不安が浮かぶ。
ニカが隣で小さく言った。
「嫌な試験」
「はい」
「こういうの、あんた苦手そう」
「……はい」
「まあ、私も好きじゃない」
ニカは顔をしかめた。
少し離れた場所で、ボルドが髭を撫でている。
「組む相手を選べぬ、か」
「ボルドさんは平気そうですね」
「平気ではない。ただ、選べぬなら仕方ない」
「強いですね」
「年を取ると諦めが早くなるだけじゃ」
ボルドは笑った。
ユズルは少しだけ肩の力が抜けた。
しかし、それも長くは続かなかった。
ガドルが片手を上げる。
協会スタッフが、大きな箱を運んできた。
箱の上部には穴があり、中には番号札のようなものが入っているらしい。
「今から全員に札を引かせる。札には番号が書かれている。同じ番号を引いた二人が組む」
受験者たちがざわつく。
「五十二名だから、二十六組か」
「相手次第じゃ終わりだな」
「逆に利用できる」
「強い奴と組めば楽だ」
「弱い奴なら切り捨てればいい」
切り捨てる。
その言葉が聞こえ、ユズルは息を詰めた。
ガドルは、そのざわめきを放置してから言った。
「三次試験の内容は、施設内の各試験区画を二人一組で突破すること。制限時間は四時間。各組には同じ課題が与えられるわけではない。組み合わせによって区画を変える」
同じ課題ではない。
つまり、誰と組むかで試験の内容も変わる。
「合格条件は、二人とも出口へ到達すること」
ユズルは顔を上げた。
二人とも。
ガドルは受験者たちを見渡す。
「片方だけが出口へ出ても、その組は失格だ。相手を置いていった時点で失格。相手を故意に殺した場合も失格。ただし、事故や自衛による結果は審査する」
受験者たちの表情が変わった。
利用するだけでは駄目。
切り捨てても駄目。
相手と一緒に出なければならない。
それは、ユズルには少しだけ救いに聞こえた。
だが、すぐに別の不安が来る。
自分が足を引っ張ったら、相手も落ちる。
相手が足を引っ張ったら、自分も落ちる。
責任が重い。
ガドルはさらに続けた。
「組ごとに一つ、共有の鍵を渡す。その鍵がなければ出口は開かない。鍵をなくした組は失格。鍵を奪った組は、その時点で失格だ。他組への直接的な妨害は禁じる。だが、情報交換、交渉、誘導、嘘は自由だ」
嘘は自由。
まただ。
ハンター試験は、嘘を禁止しない。
信じることを試す試験で、嘘が自由。
ユズルは、思わずトンパの方を見た。
トンパは楽しそうに笑っていた。
あの男にとって、この試験はやりやすいのかもしれない。
誰かと組まされても、その相手を利用する方法を考えるだろう。
ただし、相手を置いていけない。
そこが、トンパにとっては少し面倒なはずだ。
トンパはユズルの視線に気づき、にこりと手を振った。
ユズルは返さなかった。
ガドルが言った。
「札を引け。番号順に前へ」
受験者たちが順に進む。
箱の中に手を入れ、札を引く。
数字を確認し、スタッフに見せる。
同じ番号の相手が出るまで待機する。
ヒソカは、退屈そうに札を引いた。
彼は札を見て、薄く笑う。
相手が誰になるのか、ユズルには分からない。
ただ、ヒソカと組まされる相手が気の毒だと思った。
トンパが札を引く。
彼は数字を確認すると、すぐに周囲を見回した。
相手を探しているのだろう。
ニカの番が来た。
彼女は箱に手を入れ、無造作に札を取った。
数字を見る。
表情は変わらない。
スタッフが番号を確認する。
「十三番」
ニカはユズルをちらりと見た。
「じゃ、また後で。落ちなければ」
「はい。ニカさんも」
「祈られるの苦手」
「すみま……」
ユズルは途中で止めた。
ニカが少し笑う。
「今のは良し」
ニカは十三番の札を持って、待機場所へ向かった。
ボルドの番が来る。
彼は杖をつきながらゆっくり進み、箱に手を入れた。
「十九番」
ボルドは札を見て頷いた。
「十九か。悪くない」
「番号に意味があるんですか」
「ない」
ボルドはそう言って、にこにこしながら待機場所へ行った。
そして、ユズルの番が来た。
受験番号二百四十一番。
前へ出る。
箱の前に立つと、急に喉が乾いた。
誰と組むのか。
ニカではない。
ボルドでもない。
ヒソカだったらどうする。
トンパだったら。
あの大柄な男だったら。
考えれば考えるほど、手が動かなくなる。
ガドルの視線がこちらに向いた。
「引け」
「はい」
ユズルは箱の中に手を入れた。
木札が指に触れる。
いくつもある。
どれでも同じ。
そう思いたい。
けれど、指先が迷う。
結局、手に触れた一枚を掴んだ。
引き抜く。
札には、数字が書かれていた。
七。
スタッフが確認する。
「七番」
ユズルは札を握った。
七番。
相手はまだ分からない。
ユズルは七番の待機位置へ移動した。
心臓が落ち着かない。
黒い子牛が、隣についてくる。
丑は何も言わない。
それから数人が札を引いた。
七番はまだ来ない。
十三番の相手が決まったらしく、ニカのところへ、無口そうな背の高い女性が向かった。
鎧鹿の時に少しだけ一緒だった、大柄な女だ。
ニカは相手を見ると、少しだけ頷いた。
悪くない組み合わせに見えた。
十九番の相手は、眼鏡をかけた少年だった。
飛行船の食堂で、トンパの話を聞いていた者の一人だ。
ボルドは柔らかく笑って話しかけている。
少年は緊張しているようだった。
トンパの相手も決まった。
相手は、筋肉質な若い男だった。
こちらも飛行船でトンパの周囲にいた受験者の一人だ。
トンパは親しげに肩を叩いている。
「いやあ、知ってる相手でよかったよ。よろしくな」
相手の若い男は少し安心したように頷いていた。
ユズルは、それを見て胸がざわついた。
トンパは、相手が誰でも利用する。
でも相手は、トンパを経験者として信じているように見える。
見ておく。
ニカに言われたことを思い出す。
今は、見ておく。
残りの受験者が少なくなっていく。
ユズルの相手は、まだ来ない。
そして。
「七番」
スタッフの声がした。
ユズルは顔を上げた。
札を持ってこちらへ歩いてくる男がいる。
背が高い。
目つきが鋭い。
肩幅が広く、歩くたびに周囲の空気を押しのけるようだった。
船の大柄な男。
ユズルの胸が凍った。
男はユズルを見つけると、一瞬驚いたような顔をした。
すぐに、その表情が笑みに変わる。
「は」
短く笑う。
「よりによって、お前かよ」
ユズルは札を握る手に力を込めた。
七番。
組む相手は、自分では選べない。
選べなかった相手を、どこまで信じるか。
ガドルの言葉が、頭の中で響く。
黒い子牛が、ユズルの横に立つ。
男はユズルの前まで来ると、見下ろすように言った。
「最悪だな、二百四十一番」
ユズルは何か言おうとした。
よろしくお願いします。
そう言いそうになった。
でも、言葉が喉で止まった。
よろしくと言えば、相手を信じることになるのか。
言わなければ、最初から関係が壊れるのか。
考えている間に、男が舌打ちする。
「黙ってんじゃねぇよ」
ユズルは息を吸った。
「……ユズルです」
「あ?」
「名前です。二百四十一番じゃなくて、ユズルです」
言ってから、自分で少し驚いた。
男も、わずかに目を細めた。
「知るか」
「でも、組むなら、番号だけよりは」
「俺はグランだ」
男が吐き捨てるように言った。
グラン。
ユズルはその名前を心の中で繰り返した。
「グランさん」
「さん付けすんな。気色悪い」
「……グラン」
「それでいい」
グランは不機嫌そうに顔を逸らした。
会話はそれで終わった。
しかし、ユズルにとっては少しだけ大きかった。
名前を聞いた。
相手は大柄な男ではなく、グランになった。
それだけで怖さが消えるわけではない。
むしろ、因縁のある相手であることに変わりはない。
だが、名前を知った。
それは、ただの敵として見ることとは少し違う気がした。
ガドルが全員の組み合わせを確認した。
「全二十六組、決定したな」
受験者たちが、それぞれの相手と並ぶ。
不安そうな組。
すでに打ち合わせをしている組。
険悪な組。
沈黙している組。
笑っている組。
ヒソカの相手は、長髪の男だった。
顔色が悪い。明らかに怯えている。
ヒソカは優しそうに微笑んでいる。
それが、かえって怖かった。
ガドルは施設の入口を指した。
「中に入れ。組ごとに別室へ案内する。そこで詳細を伝える」
受験者たちは、協会スタッフに従って施設内へ進んだ。
ユズルとグランも歩き出す。
並んで歩くと、グランの体格の大きさがよく分かった。
肩が広く、腕が太い。動きは粗いが、力はある。
ユズルは横を歩くだけで、少し圧迫感を覚えた。
「おい」
グランが低く言う。
「はい」
「足引っ張ったら置いてく」
「置いていったら失格です」
「知ってる。だから、置いてかなくて済むように動け」
「……はい」
「あと、あの見えねぇ念。勝手に俺に使うな」
ユズルは息を止めた。
やはり、グランは念の存在を知っている。
見えてはいない。
でも、あの重さを覚えている。
「使わないと危ない時は?」
「俺に聞け」
「聞く余裕がない時は?」
言ってから、ユズルは自分で驚いた。
少し言い返した。
グランも意外そうにこちらを見る。
「……その時は勝手にしろ。ただし、俺の邪魔をするな」
「分かりました」
それが、合意なのかは分からない。
でも、何も話さないよりはましだった。
施設内は、外から見た印象よりも複雑だった。
石の廊下が円形に続き、ところどころに鉄の扉がある。
壁には古い傷跡があり、床には削れた跡が残っている。
ここで何度も試験が行われてきたのかもしれない。
協会スタッフは、七番の扉の前で止まった。
「七番組はこちらです」
扉が開く。
中は、小さな待機室だった。
石の壁。
中央に机。
壁には大きな扉が一つ。
机の上には、金属製の鍵と、紙が一枚置かれている。
スタッフは言った。
「説明を読み、準備ができたら扉を開けて進んでください。試験開始は扉を開けた時点です。制限時間は四時間」
「説明は口でしないのか」
グランが問う。
「組ごとに内容が異なるため、紙面で確認してください。試験官は全区画を監視しています」
スタッフはそれだけ言うと、外へ出て扉を閉めた。
待機室に、ユズルとグランだけが残される。
空気が重い。
黒い子牛は、ユズルのそばに立っている。
グランには見えていない。
だが、彼はユズルの周囲をちらりと睨んだ。
「いるのか」
ユズルは少し迷った。
否定しても、意味はない。
かといって、詳しく説明するべきかは分からない。
「います」
短く答えた。
グランの眉が動く。
「やっぱりか」
「見えるんですか」
「見えねぇよ。気持ち悪いだけだ」
グランは吐き捨てるように言った。
だが、今の言い方は少しだけ正直に聞こえた。
気持ち悪い。
見えないものがそばにいる。
それは確かに、怖いかもしれない。
ユズルは紙を手に取った。
そこには、三次試験七番組の課題が書かれていた。
⸻
三次試験・七番組課題。
試験区画名:沈黙の回廊。
合格条件:二人で出口へ到達すること。
制限時間:四時間。
追加条件:
一、区画内には複数の分岐と仕掛けがある。
二、回廊内では一定以上の音を立てると、区画内の危険装置が作動する。
三、共有鍵を出口まで保持すること。
四、片方が鍵を所持し続けても、出口は開かない。出口前で二人が鍵に触れている必要がある。
五、途中で相手を拘束、放置、故意に負傷させた場合は失格。
⸻
ユズルは読み終え、少しだけ眉を寄せた。
沈黙の回廊。
音を立ててはいけない。
グランは紙を奪うように取り、目を走らせた。
「ちっ。面倒くせぇ」
彼はすぐにそう言った。
「大声を出すと装置が作動するみたいです」
「読めば分かる」
「歩き方も気をつけた方が」
「分かってるって言ってんだろ」
その声が少し大きかった。
ユズルは思わず身を縮める。
しかし、待機室では装置は作動しなかった。
試験開始は、扉を開けてから。
ユズルは小さく息を吐いた。
グランは鍵を手に取った。
金属製の古い鍵だった。
大きめで、二人が同時に触れられる程度の幅がある。
「俺が持つ」
グランが言った。
ユズルは少し迷った。
鍵を持たせるべきか。
奪われたら。
いや、出口では二人で触れなければ開かない。
グラン一人で持っていても、ユズルを完全には切れない。
だが、鍵を一方が持ち続けるのは不安だった。
「交代で持ちませんか」
「あ?」
「片方が落としたり、奪われたりしたら困るので。紐で二人の間に結ぶとか」
「俺が落とすと思ってんのか」
「僕が落とすかもしれません」
グランは言い返しかけて、少し黙った。
ユズルは荷物から細い紐を取り出した。
村から持ってきた紐だ。護符を結ぶのにも使う。
「鍵に紐を通して、お互いの手首に繋げば、どちらか一人だけが持っていくことはできません」
「邪魔くせぇ」
「でも、出口で二人とも触る必要があります」
「……」
グランは不機嫌そうに舌打ちした。
「好きにしろ」
許可が出た。
ユズルは鍵に紐を通し、片側を自分の手首に、片側をグランの手首に結んだ。
近い。
この距離で動かなければならない。
怖い。
だが、条件としては理にかなっているはずだ。
グランは自分の手首を見て、嫌そうに顔をしかめた。
「犬の散歩かよ」
「すみません」
「謝るな。気が抜ける」
その言葉に、ユズルは少しだけ意外そうにした。
グランも気づいたのか、目を逸らした。
「行くぞ」
「はい」
二人は大扉の前に立った。
ユズルは深く息を吸う。
黒い子牛が、隣に立つ。
沈黙の回廊。
音を立ててはいけない。
グランは乱暴で、大声を出しやすい。
自分は怖がりで、反射的に声が出るかもしれない。
相性は悪い。
でも、組んだ。
選べなかった相手を、どこまで信じるか。
ユズルは扉に手をかけた。
グランも反対側に手を置く。
二人で押す。
扉は重かった。
石が擦れる音が、低く響く。
その音だけで、ユズルは緊張した。
だが、装置は作動しない。
扉の向こうには、細長い通路が続いていた。
天井は低く、壁には黒い鉄板が何枚も埋め込まれている。
床は石。ところどころに古い傷がある。
通路の奥は暗い。
音が吸い込まれるような、奇妙な静けさだった。
ユズルは一歩踏み出した。
靴音が、思ったより大きく響いた。
かつん。
その瞬間、壁の鉄板がかすかに震えた。
ユズルは固まる。
グランが小声で言った。
「歩き方、下手か」
「……すみません」
「だから謝るな」
グランは苛立ったように言ったが、声量は抑えていた。
意外にも、彼は試験の条件を守ろうとしている。
ユズルは足の置き方を変えた。
踵からではなく、足裏全体を静かに置く。
山道で枯れ枝を踏まないように歩く時の感覚を思い出す。
グランも、思ったより静かに歩いた。
体は大きいが、完全に不器用ではない。
むしろ、力を抑えればそれなりに動ける。
ただ、抑えるのが嫌いなのだろう。
しばらく進むと、最初の分岐があった。
右と左。
どちらも同じように暗い。
壁には文字が刻まれていた。
右:早い道。
左:静かな道。
グランはすぐに右を指した。
「右だ」
ユズルは左を見た。
早い道。
静かな道。
音を立ててはいけない試験で、早い道。
罠に見える。
「左の方がいいと思います」
「あ?」
「この試験は音が危険です。早い道は、足場が悪いか、急がせる仕掛けがあるかもしれません」
「静かな道って書いてる方が嘘かもしれねぇだろ」
「はい」
「なら同じだ」
「でも、今の条件なら、早さより静けさを優先した方が」
グランの顔が険しくなる。
「お前は何でも遅ぇんだよ」
ユズルは息を詰めた。
その通りだと思った。
決めるのが遅い。
動くのが遅い。
怖がって、迷って、考える。
けれど。
「遅くても、音を立てたら失格かもしれません」
ユズルは小声で言った。
グランの目が細くなる。
「俺の判断に逆らう気か」
「……はい」
言った。
喉が痛い。
でも、言った。
「左に行きたいです」
沈黙が落ちる。
黒い子牛が、ユズルの横に立っている。
グランはしばらくユズルを睨んだ。
それから、低く言った。
「外したら殴る」
「飛行船ではないので、殴っても穴は開きませんね」
言ってから、ユズルは自分で驚いた。
なぜそんなことを言ったのか分からない。
グランも、一瞬ぽかんとした。
次に、口元を歪める。
「……少しは言うようになったじゃねぇか」
「すみません」
「謝るなっつってんだろ」
グランは舌打ちしながら、左へ進んだ。
ユズルも続く。
左の道は、確かに静かだった。
床には薄い布のようなものが敷かれており、足音が吸収される。
壁の鉄板も少ない。
ただし、通路は狭かった。
二人で並んでは歩けない。
紐で繋がったまま、前後になって進む必要がある。
先頭はグラン。
ユズルは後ろ。
鍵の紐が、二人の間で揺れる。
しばらく進むと、天井から細い糸のようなものが垂れている場所に出た。
糸は透明に近く、見落としそうになる。
何本も、通路を横切るように張られていた。
グランが足を止めた。
「糸か」
「触ると音が鳴る仕掛けかもしれません」
「だろうな」
グランはしゃがみ、糸の下を潜ろうとした。
しかし、体が大きい。
通れなくはないが、少しでも触れれば危険だ。
ユズルは後ろから見ていた。
グランは乱暴だが、こういう時に焦ってはいない。
慎重に動けば、器用ではないが通れる。
だが、途中で紐が引っかかる。
二人の手首を繋ぐ鍵の紐。
ユズルが止まるのが遅れると、グランの手を引いてしまう。
グランが小声で唸った。
「動くな」
「はい」
ユズルは動きを止めた。
グランは糸の下を慎重に抜ける。
だが、あと少しのところで、肩が糸に触れそうになった。
ユズルは反射的に手を伸ばした。
グランの袖を、ほんの少し引く。
力は弱い。
しかし、方向が変わった。
グランの肩が糸を避けた。
通れた。
グランは向こう側で振り返る。
「勝手に引くな」
「すみません」
「……助かった」
ユズルは顔を上げた。
今、助かったと言ったのか。
グランは不機嫌そうに顔を逸らす。
「早く来い」
「はい」
今度はユズルの番だった。
ユズルは体が細いので、糸の間を抜けやすい。
だが、緊張で手が震える。
糸の一本が、顔のすぐ横にある。
触れたらどうなるのか。
警報か。
矢か。
落とし穴か。
考えすぎると体が固まる。
グランが向こう側で低く言った。
「見すぎるな」
「え」
「そういうのは、見すぎると動けなくなる。見る場所を一つにしろ」
ユズルは驚いた。
助言。
グランから。
「……はい」
「今は右肩だけ見ろ。そこだけ通せば抜ける」
ユズルは右肩を見る。
そこだけ。
糸全体ではなく、右肩が通る場所だけを見る。
すると、少し動きやすくなった。
一歩。
また一歩。
糸を抜ける。
最後に紐が引っかかりそうになったが、グランが静かに手首を上げてくれた。
通れた。
ユズルは小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「礼も今いらねぇ。進むぞ」
そう言いながらも、グランの声は少しだけ柔らかかった。
だが、数歩進んだところで、グランがふと足を止めた。
「なあ」
「はい」
「お前、念を使えるんだよな」
ユズルは少しだけ身構えた。
「……はい」
「だったら、もっと楽に進めんじゃねぇのか」
ユズルは答えに詰まった。
それは、自分でも何度も考えたことだった。
念が使える。
発もある。
十二支の獣たちもいる。
それなのに、自分は走るだけで息が切れる。罠に怯える。相手に怒鳴られると固まる。丑の力を使えば、すぐに内側が削られる。
ユズルは、少し時間を置いて答えた。
「発は、あります」
「あ?」
「でも、念能力者としては、まだ弱いんです。練も、堅も、凝も、実戦だと安定しません。丑を隠したまま出しているだけでも、集中力を使います」
グランは眉をひそめた。
「つまり、武器だけ立派で、腕が追いついてねぇってことか」
ユズルは少し苦笑した。
「ヤクモにも、似たようなことを言われました」
「師匠か」
「はい」
グランは鼻を鳴らした。
「なら、なおさら足引っ張るなよ。武器が立派なら、使い方くらい覚えろ」
「……はい」
乱暴な言い方だった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
グランは、ユズルが念を使えるのに弱いことを馬鹿にしている。
だが同時に、ユズルの力をまったく無視しているわけでもない。
それは、怖い相手から初めて向けられた、少しだけ現実的な評価だった。
二人はさらに進んだ。
沈黙の回廊は、名前の通り音を嫌う仕掛けが多かった。
床に置かれた薄い金属板。
踏むと音が鳴る石。
壁に反響する小部屋。
扉の蝶番がわざと軋む通路。
大声を出せば、危険装置が作動する。
実際、一度だけ遠くで金属音と悲鳴が聞こえた。
別の組が失敗したのかもしれない。
ユズルはそのたびに体を強張らせた。
グランは苛立ちながらも、声を抑えた。
少しずつ、二人の呼吸が合ってきた。
ユズルが足場を見る。
グランが先に危険な物をどける。
グランが力で重い扉を押さえる。
ユズルが紐や音の仕掛けを確認する。
相性は悪い。
でも、役割はあった。
それが分かると、ユズルの中の恐怖が少しだけ形を変えた。
怖い相手。
嫌な相手。
でも、何もできない相手ではない。
グランも、ただ怒鳴るだけの男ではない。
そう思った時だった。
通路の先に、広い部屋が現れた。
床は円形。
中央に石の台。
その上に、もう一つ鍵が置かれている。
壁には文字が刻まれていた。
出口の鍵は一つでは足りない。
中央の鍵を取れ。
ただし、鍵を取れば部屋は鳴る。
ユズルは眉を寄せた。
「部屋は鳴る……」
グランが部屋を見回す。
天井には無数の小さな穴がある。
壁には鉄板。床の周囲には溝。
鍵を取ると、何かが作動する。
音に反応する区画で、部屋自体が鳴る。
つまり、危険装置が発動する前提なのかもしれない。
「どうする」
グランが言った。
初めて、先に尋ねられた。
ユズルは少し驚いた。
「考えます」
「早く考えろ」
「はい」
ユズルは部屋を見た。
中央の鍵。
部屋が鳴る。
天井の穴。
床の溝。
鍵を取れば音が鳴り、おそらく何かが飛んでくる。
矢か、針か、石か。
普通に取れば危険。
だが、鍵を取らなければ出口へ行けない。
守る場所。
ここで丑を使うなら、どこを守る。
中央の石台か。
自分たちか。
天井からの攻撃か。
しかし、丑は動く守りには向かない。
場所を決める必要がある。
ユズルは床の溝を見た。
溝は部屋の外周にある。
何かが流れるのか。
それとも、落とし穴の境目か。
中央の石台の周囲だけ、床の色が少し違う。
もしかすると、鍵を取ると中央周辺が沈む。
その瞬間、音が鳴り、天井から何かが降る。
なら。
「グラン」
「あ?」
「鍵を取った瞬間、中央の床が沈むかもしれません」
「だから?」
「僕が石台の横に立ちます。床が沈むのを、少しだけ止めます」
「お前の念でか」
「はい」
グランは眉をひそめた。
「俺は何をする」
「鍵を取って、すぐ戻ってください」
「危ないのはお前じゃねぇか」
ユズルは少し驚いた。
心配されたのか。
いや、グランは自分が失格になるのを嫌がっているだけかもしれない。
でも、その言葉は少し意外だった。
「僕の能力は、立つ場所を守るものです。動きながら使うより、ここで使う方が向いています」
「失敗したら?」
「その時は、たぶん僕が潰れます」
「馬鹿か」
グランは即座に言った。
「じゃあ俺が立つ。お前が鍵を取れ」
「でも」
「俺の方が頑丈だ」
「丑の力は、僕が立たないと」
「なら一緒に立て」
ユズルは言葉に詰まった。
一緒に。
グランは苛立ったように言う。
「鍵も二人で持ってんだろうが。お前一人で踏ん張るんじゃなくて、俺も支える。お前の見えねぇ牛が何するか知らねぇが、足場くらいは俺が持つ」
ユズルは、グランを見た。
乱暴で、怖くて、何度も衝突した相手。
でも今、彼は一緒に立つと言った。
信じられるのか。
分からない。
けれど、ここで一人で抱え込むのは違う。
飛行船でボルドに言われた。
荷物を守ったのは良い。
だが、一人で抱え込む癖はまだある。
ユズルは息を吸った。
「分かりました。一緒に立ちます」
「最初からそう言え」
二人は中央の石台へ近づいた。
ユズルは石台の右側。
グランは左側。
共有鍵の紐が、二人の手首を繋いでいる。
黒い子牛が、ユズルの前に立つ。
ユズルは小さく言った。
「ここは、崩させません」
丑の体が大きくなる。
隠は維持されたまま、空気が重くなる。
グランが顔をしかめた。
「これだよ。この気持ち悪い重さ」
「すみません」
「謝るな。今は使え」
「はい」
グランが中央の鍵に手を伸ばす。
ユズルも、同時に石台へ手を置いた。
「取るぞ」
「はい」
グランが鍵を掴んだ。
その瞬間。
部屋が鳴った。
低い音が、床から壁へ、壁から天井へ広がる。
ごおん。
音が重なり、鉄板が震える。
中央の床が沈み始めた。
ユズルの足元が落ちる。
だが、丑が立つ。
見えない重さが、床を押し留める。
グランも足を踏ん張った。
「ぐっ……!」
天井の穴から、細い針のようなものが落ちてきた。
雨のように。
ユズルは息を呑む。
正面ではない。
上から。
丑の守る場所は床。
全部は防げない。
グランが咄嗟に腕を上げた。
厚い外套を広げ、ユズルの頭上を覆う。
針が外套に刺さる。
何本かは腕にも刺さった。
「グラン!」
「声出すな!」
グランが低く唸る。
ユズルは歯を食いしばった。
床を守る。
今はここ。
ここを崩させない。
丑の影が、床に根を張る。
音はさらに大きくなる。
壁の鉄板が震え、床が軋む。
ユズルの足が震えた。
オーラが削られる。
長くは持たない。
「鍵、取りましたか」
「取った!」
「戻ります」
「どうやって!」
中央の床は沈みかけている。
外周までは少し距離がある。
このままでは、足場が崩れる。
ユズルは周囲を見た。
沈んでいるのは中央だけ。
外周はまだ残っている。
床を完全に守るのではなく、ほんの一瞬、傾きを止める。
グランが飛べるだけの時間。
「僕が一瞬止めます。先に跳んでください」
「またそれか!」
「今度は、後で僕を引いてください!」
グランの目が見開かれた。
ユズルは、自分でも驚いていた。
後で引いてください。
頼んだ。
頼めた。
グランは一瞬だけ黙り、それから歯を剥いた。
「絶対離すなよ!」
「はい!」
ユズルは床を押さえる。
丑が低く唸った。
立て。
退くな。
ユズルは踏ん張る。
グランが外周へ跳んだ。
鍵の紐が伸びる。
グランは着地し、すぐに振り返った。
「来い!」
ユズルは走った。
中央の床が落ちる。
足元が消える。
グランが紐を引いた。
強い力。
ユズルの体が前へ投げ出される。
外周の床に胸から転がった。
音が鳴る。
壁が震える。
だが、中央の床は完全に落ちた。
暗い穴が開いている。
針の雨が止まった。
部屋の音も、少しずつ収まっていく。
ユズルは床に倒れたまま、息を荒げた。
グランも肩で息をしている。
腕には針が何本か刺さっていた。
「大丈夫ですか」
「針ぐらいで死ぬか」
「毒があるかも」
「だったらお前が困るな」
「はい。困ります」
グランは少しだけ笑った。
本当に少しだけだった。
「変な奴だな、お前」
「よく言われます」
「だろうな」
ユズルは起き上がった。
体は重い。
丑の力を使った反動で、足が震えている。
だが、鍵はある。
共有鍵と、中央の鍵。
二つとも無事だった。
グランが腕の針を抜きながら言った。
「お前の念、守るだけか」
「今月は」
「今月?」
ユズルはしまったと思った。
話しすぎた。
だが、グランはそれ以上深く聞かなかった。
「まあいい。守るだけでも、使い方次第じゃ厄介だな」
それは、褒めているのかもしれなかった。
たぶん。
二人は部屋を出た。
その後の回廊は、以前よりも進みやすくなった。
危険が消えたわけではない。
むしろ、罠は増えていた。
音に反応する扉。
鍵を同時に差し込まないと開かない小部屋。
二人が離れすぎると床が傾く通路。
片方が足場を押さえ、もう片方が進路を確認する仕掛け。
この区画は、最初から二人で進むように作られていた。
一人では無理。
片方を置いていっても無理。
相手を信じきる必要はないが、相手の役割を認めなければ進めない。
ユズルは少しずつ、それを理解していった。
グランは乱暴だが、力がある。
動きも荒いが、危険に対する反応は早い。
また、思ったより約束を守る。
グランの方も、ユズルを見る目が少し変わった。
弱い。
遅い。
すぐ謝る。
でも、見ている。
考える。
立つと決めた場所では、逃げない。
そのことを、少しは認めたようだった。
やがて、通路の先に出口らしき扉が見えた。
大きな鉄扉。
左右に二つの鍵穴がある。
一つは共有鍵。
もう一つは中央の部屋で得た鍵。
扉の前には文字が刻まれていた。
二人で触れよ。
二人で開けよ。
一人で進む者は、ここまで来ても出口を見ない。
ユズルとグランは顔を見合わせた。
「最後くらい、分かりやすいですね」
「逆に嫌だな」
グランはそう言いながら、共有鍵を持つ。
ユズルもその鍵に触れる。
もう一つの鍵は、グランが持ち、ユズルも手を添えた。
二人で同時に差し込む。
回す。
重い音がした。
扉が開く。
外の光が差し込んだ。
ユズルは思わず目を細めた。
出口だ。
二人は並んで外へ出た。
そこは円形施設の反対側にある広場だった。
すでに何組かが到着している。
ニカもいた。
相手の大柄な女と並んで、壁際に立っている。二人とも少し汚れているが、大きな怪我はなさそうだった。
ボルドもいた。
眼鏡の少年と一緒に座り込んでいる。少年は顔色が悪いが、無事らしい。
ユズルは胸を撫で下ろした。
トンパの姿は、まだ見えない。
ヒソカもいない。
ガドルが広場に立っていた。
彼はユズルとグランを見ると、番号を確認した。
「七番組、通過」
ユズルは息を吐いた。
三次試験、通過。
まだ全体の結果は出ていない。
だが、自分たちは出口に来た。
グランは腕の針の跡を気にしながら、ユズルを見た。
「おい」
「はい」
「お前の念、気持ち悪い」
「……はい」
「でも、邪魔ではなかった」
ユズルは少し驚いた。
グランは目を逸らす。
「それだけだ」
「はい」
「あと、さっきの紐」
グランは手首に結ばれた紐を見る。
「切るぞ」
「あ、はい」
ユズルは慌てて紐を解こうとした。
しかし、グランは自分で雑に解いた。
そして、鍵から抜いた紐をユズルへ放る。
「持ってろ。お前のだろ」
「ありがとうございます」
「礼もいらねぇ」
グランはそう言って、少し離れた場所へ歩いていった。
ユズルは紐を握った。
選べなかった相手。
怖い相手。
信じられないと思っていた相手。
それでも、出口までは一緒に来た。
信じる、というほど綺麗なものではなかったかもしれない。
互いに疑い、苛立ち、文句を言いながら進んだ。
でも、役割を認めた。
助けられた。
頼んだ。
頼まれた。
それで十分なのかもしれない。
黒い子牛が、隣に立っている。
ユズルは小さく言った。
「一人じゃ、出られなかった」
丑は短く答えた。
「そうだ」
いつものように、短い言葉だった。
だが、ユズルにはそれが妙に重く響いた。
やがて、次の組が出口から出てきた。
トンパと、筋肉質な若い男の組だった。
若い男は肩を押さえ、顔を歪めている。
トンパは汗を拭きながら笑っていた。
「いやあ、危なかった。彼が頑張ってくれて助かったよ」
若い男は何も言わない。
その目には、少しだけ疑いが浮かんでいた。
ユズルはそれを見た。
見ておく。
覚えておく。
トンパはまだ残った。
そして少し遅れて、ヒソカが出てきた。
一人だった。
ユズルは息を止めた。
相手はどうしたのか。
ガドルの目が細くなる。
「百一番。相手は」
ヒソカは肩をすくめた。
「いるよ」
出口の奥から、長髪の男がふらふらと出てきた。
顔は真っ青で、体は震えている。
大きな怪我はない。
だが、何かを見てしまったような目をしていた。
ヒソカは楽しそうに微笑む。
「ちゃんと二人で出たでしょ?」
ガドルはしばらくヒソカを見ていたが、やがて言った。
「二十一番組、通過」
ヒソカは退屈そうにあくびをした。
ユズルは、長髪の男の震えを見ていた。
何があったのかは分からない。
でも、分からないままでも怖かった。
三次試験の制限時間が終わるまで、まだ時間はある。
しかし、ユズルの中にはすでに一つの実感が残っていた。
自分で選べる相手ばかりではない。
好きな相手とだけ歩けるわけではない。
怖い相手、嫌な相手、理解できない相手とも、時には同じ出口を目指さなければならない。
その時、自分はどこに立つのか。
丑の月の問いは、まだ続いていた。