巡る獣暦   作:ギガマツタケ

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第8話 ヒソカ×トガリ×シッカク

 三次試験の終了を告げる鐘が鳴った。

 

 低く、乾いた音だった。

 

 岩場に囲まれた円形施設の広場に、その音がゆっくりと広がっていく。

 

 ユズルは壁際に立ち、息を整えていた。

 

 体は重い。

 足にはまだ、沈黙の回廊で丑を使った時の疲れが残っている。

 

 中央の床を支えた感覚。

 足元から体の内側が削られていく感覚。

 グランに紐を引かれ、崩れ落ちる床から引き上げられた感覚。

 

 どれもまだ、体に残っていた。

 

 黒い子牛は、ユズルの隣に立っている。

 

 丑は隠で姿を伏せたまま、いつものように無口だった。

 だが、ユズルにはその存在がはっきり分かる。

 

 そこにいる。

 

 何も言わず、ただ立っている。

 

 それだけで、ユズルは少し呼吸がしやすくなった。

 

「三次試験、全組終了」

 

 三次試験官ガドルの声が、広場に響いた。

 

 受験者たちの視線が彼へ集まる。

 

 ガドルは手元の記録を確認し、淡々と告げた。

 

「三次試験通過者、三十四名」

 

 ざわめきが起きた。

 

 二次試験を通過した五十二名のうち、ここに残ったのは三十四名。

 

 また、減った。

 

 ユズルは広場を見回した。

 

 ニカはいた。

 彼女は大柄な女と少し離れた場所に立っている。服は汚れているが、大きな怪我はないようだった。

 

 ボルドもいた。

 杖をつき、眼鏡をかけた少年の隣に座っている。少年はひどく疲れた顔をしていたが、無事だった。

 

 グランは少し離れた岩壁にもたれ、腕に残った針の傷を布で巻いている。

 ユズルが視線を向けると、彼は一瞬こちらを見た。

 

 そして、すぐに目を逸らした。

 

 だが、以前のような苛立ちだけの目ではなかった。

 

 トンパも残っていた。

 

 丸顔に笑みを浮かべているが、三次試験で組んだ筋肉質の若い男は、肩を押さえてうつむいている。

 その表情には、疲れだけではなく、どこか疑いの色があった。

 

 そしてヒソカ。

 

 受験番号百一番。

 

 彼は広場の端に立ち、退屈そうにカードを弄んでいた。

 三次試験を通過したことなど、当然だと言うような顔だった。

 

 その隣には、彼と組んだ長髪の男がいた。

 

 男は地面に座り込み、青ざめた顔で震えている。

 怪我らしい怪我はない。

 だが、目だけが壊れたように揺れていた。

 

 何を見たのか。

 何をされたのか。

 

 ユズルには分からない。

 

 でも、その震えを見るだけで、十分だった。

 

 ヒソカという男は、ただ強いだけではない。

 相手の心のどこかを、簡単に折ることができる。

 

 そう感じた。

 

 ガドルは受験者たちを見渡した。

 

「通過者はこのまま待機。四次試験の準備が整い次第、移動する」

 

 誰かが息を吐いた。

 

 休憩。

 

 そう思いたい空気が、受験者たちの間に流れかける。

 

 だが、誰も完全には気を抜かなかった。

 

 ここまで来た者たちは、知っている。

 

 ハンター試験では、休憩という言葉が安全を意味しないことを。

 

 ユズルは近くの岩に腰を下ろそうとして、やめた。

 

 座ると、立ち上がるのに時間がかかる気がした。

 

 今はまだ、立っていたかった。

 

 ニカが近づいてきた。

 

「通ったね」

 

「はい」

 

「グランと組んだんでしょ。よく無事だったね」

 

「グランは、思ったより……」

 

「思ったより?」

 

 ユズルは少し考えた。

 

 何と言えばいいのか分からなかった。

 

 乱暴だった。

 怖かった。

 すぐ怒った。

 念を気味悪がった。

 

 でも、助けられた。

 

「約束は守る人でした」

 

 ニカは少し意外そうに目を細めた。

 

「へえ」

 

「たぶん」

 

「そこはまだ、たぶんなのね」

 

 ユズルは小さく頷いた。

 

 少し離れた場所から、グランがこちらを睨んでいた。

 

「聞こえてんぞ」

 

 ユズルは少し肩を跳ねさせた。

 

「すみません」

 

「謝るな」

 

 グランはそれだけ言うと、また腕の布を巻き直した。

 

 ニカが笑いをこらえるように口元を押さえた。

 

「なんか、少し仲良くなってない?」

 

「なってません」

 

 ユズルとグランの声が、ほとんど同時に重なった。

 

 ニカは今度こそ笑った。

 

 その時だった。

 

 広場の入口側から、別の足音が響いた。

 

 こつん。

 こつん。

 こつん。

 

 受験者たちの視線が、そちらへ向く。

 

 円形施設の通路から、一人の男が現れた。

 

 長い黒髪を後ろで束ねている。

 鋭い目。細い顔。身軽そうな服装。腰には刀のような武器を差していた。

 動きに無駄がなく、歩いているだけで周囲の受験者を自然に下がらせる圧があった。

 

 ただ者ではない。

 

 ユズルはすぐにそう感じた。

 

 ガドルがその男を見て、わずかに頷く。

 

「遅かったな、トガリ」

 

 トガリ。

 

 ユズルはその名を覚えた。

 

 トガリと呼ばれた男は、受験者たちを一瞥した。

 

「四次試験の準備はほぼ整った。移動前に、通過者の危険度確認を行う」

 

 声は冷たかった。

 

 ガドルが説明する。

 

「トガリは四次試験の監視補佐だ。以降、試験進行中に受験者の危険行為が確認された場合、彼の判断で警告を行うことがある」

 

 受験者たちがざわつく。

 

 警告。

 

 危険行為。

 

 トガリはそのざわめきを気にも留めず、広場の中を歩いた。

 

 そして、ある一点で足を止めた。

 

 ヒソカの前だった。

 

 ヒソカはカードを指で回しながら、顔を上げる。

 

「ん?」

 

 軽い声だった。

 

 まるで知り合いに呼び止められたような調子。

 

 トガリは表情を変えなかった。

 

「百一番。ヒソカ」

 

 ヒソカは薄く笑った。

 

「なにかな?」

 

「お前には警告しておく」

 

 空気が少し変わった。

 

 ユズルの背中に、冷たいものが走る。

 

 ニカの表情も消えた。

 グランが腕を巻く手を止めた。

 ボルドが杖を握り直した。

 

 トガリは続ける。

 

「次に試験官、補佐官、協会関係者への挑発、または明確な殺意を向けた場合、即時失格とする」

 

 ヒソカは、カードを止めた。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 それから、ゆっくりと首を傾げた。

 

「殺意って、どこからが殺意なのかな?」

 

 声は穏やかだった。

 

 それなのに、ユズルの喉が乾いた。

 

 ヒソカは笑っている。

 

「思っただけなら、まだ安全?」

 

 トガリは答えない。

 

 ヒソカの指先でカードが一枚、ひらりと回った。

 

「試験官を殺したら失格?」

 

 周囲の受験者が息を呑む。

 

 ヒソカは続けた。

 

「半分くらいなら?」

 

 その瞬間だった。

 

 空気が、薄くなった。

 

 いや、違う。

 

 重くなったのではない。

 

 鋭くなった。

 

 丑の「不動の牛歩」が作る重さとはまったく違う。

 ユズルの丑は、地面に根を張るような重さを持つ。そこにあるものを動かさず、崩さず、踏みとどまらせる力だ。

 

 だが、ヒソカの周囲に生まれたものは違った。

 

 薄い。

 鋭い。

 肌の表面を撫でるだけで切れそうな気配。

 

 呼吸をすれば、肺の内側まで裂かれそうだった。

 

 これが念なのか。

 

 ユズルは思った。

 

 自分も念を使える。

 発もある。

 丑もいる。

 

 でも、これは違う。

 

 ヒソカは、念を持っているのではない。

 

 念が、ヒソカの呼吸の一部になっている。

 

 自分とはまるで違う。

 

 トガリが、わずかに腰を落とした。

 

 刀の柄に手をかける。

 

「それ以上、口を開くな」

 

「怖いなあ」

 

 ヒソカは笑う。

 

 楽しそうだった。

 

 心底、楽しそうだった。

 

 トガリの目が細くなる。

 

「最後の警告だ」

 

「うん」

 

 ヒソカが頷いた。

 

「じゃあ、最後にするね」

 

 次の瞬間、トガリが動いた。

 

 速かった。

 

 ユズルの目では、最初の一歩しか追えなかった。

 

 トガリの体が低く沈み、刀が抜かれる。

 刃が光を引いた。

 

 普通の受験者なら、それだけで終わっていただろう。

 

 そのくらい、速く、鋭い動きだった。

 

 しかし、ヒソカはそこにいなかった。

 

 半歩。

 

 たぶん、それだけだった。

 

 ヒソカはほんの少しだけ体をずらし、トガリの刃を避けた。

 

 そして、カードが舞った。

 

 何が起きたのか、ユズルには見えなかった。

 

 見えたのは、結果だけだった。

 

 トガリの腕から、血が噴き出した。

 

 赤い線が空中に走る。

 

 受験者の誰かが悲鳴を上げた。

 

 トガリは後ろへ跳び、すぐに体勢を立て直した。

 片腕から血が流れている。

 

 だが、目は折れていない。

 

 トガリは強い。

 

 ユズルはそう思った。

 

 あれだけの傷を受けても、まだ前を見ている。

 念を纏い、呼吸を整え、次の一手を探している。

 

 自分とは違う。

 

 念能力者として、足腰ができている。

 

 ヤクモの言葉が頭を過ぎる。

 

『発があることと、念能力者として強いことは別だ』

 

 その意味が、目の前にあった。

 

 トガリは本物だ。

 

 だが。

 

 ヒソカは、それを見て笑っていた。

 

 まだ遊びの途中だという顔だった。

 

「いいね」

 

 ヒソカが言った。

 

「思ったより、壊れにくい」

 

 トガリの気配が変わる。

 

 怒り。

 殺気。

 そして、職務としての冷静さ。

 

 それらが混ざり合い、鋭い線になる。

 

 トガリが再び踏み込もうとした時、広場の端で、眼鏡の少年が動いた。

 

 ボルドと組んでいた少年だった。

 

 三次試験では、ボルドと共に通過した受験者。

 飛行船の食堂で、トンパの話を聞いていた少年でもある。

 

 少年は顔を真っ青にしながら、トガリとヒソカの方へ一歩踏み出していた。

 

 逃げようとしたのか。

 助けに行こうとしたのか。

 あるいは恐怖で方向を間違えたのか。

 

 分からない。

 

 だが、その先は危険だった。

 

 トガリとヒソカの間合いに近い。

 あの鋭い空気が漂う範囲。

 

 そこに入れば、巻き込まれる。

 

 ユズルの体が動いた。

 

 ヒソカの方へではない。

 

 トガリの方へでもない。

 

 少年の前へ。

 

「二百四十一番!」

 

 ニカの声が聞こえた。

 

 制止だったのか、警告だったのかは分からない。

 

 ユズルは止まらなかった。

 

 ただし、ヒソカには近づかない。

 トガリにも近づかない。

 

 少年と、危険な間合いの間。

 

 そこに立つ。

 

 黒い子牛が、ユズルの横に出る。

 

 隠で姿を伏せたまま、丑の密度が増した。

 

 ユズルは少年に向かって、小さく言った。

 

「ここから先には、行かないでください」

 

 少年は、目を見開いていた。

 

 聞こえているのかも分からない。

 

 ヒソカの殺気に呑まれ、トガリの血に目を奪われ、足だけが勝手に前へ出ていたのかもしれない。

 

 だから、ユズルは足元に力を込めた。

 

「ここは、通しません」

 

 不動の牛歩。

 

 ただし、ヒソカを止めるためではない。

 

 トガリを守るためでもない。

 

 少年を、これ以上前へ出さないため。

 

 それだけの一点。

 

 ユズルが決めた場所は、少年と危険範囲の境目だった。

 

 空気が、ほんの少し重くなる。

 

 少年の足が止まった。

 

 彼はびくりと体を震わせる。

 

 見えない壁に触れたように。

 

 ユズルは振り返らずに言った。

 

「下がってください」

 

 少年は唇を震わせた。

 

「で、でも」

 

「下がってください」

 

 ユズルの声も震えていた。

 

 怖かった。

 

 ヒソカの方を見たくない。

 トガリの血も見たくない。

 今すぐ逃げたい。

 

 それでも、ここだけは退かない。

 

 ヒソカの前には立てない。

 

 今の自分では、絶対に立ってはいけない。

 

 でも、この少年の前には立てる。

 

 ここなら。

 

 ここだけなら。

 

 ボルドが少年の腕を掴んだ。

 

「下がるぞ」

 

 少年はようやく我に返ったように頷き、ボルドに引かれて後ろへ下がった。

 

 ユズルはその場に立ったまま、ようやく息を吸った。

 

 その時、背後で戦いが動いた。

 

 トガリが三度目の踏み込みをした。

 

 今度は刀ではなく、足運びが変わった。

 真正面ではない。斜めに入り、ヒソカの死角へ滑り込む。

 

 トガリは強い。

 

 ユズルは改めてそう感じた。

 

 傷を負った状態で、なお戦い方を変えられる。

 

 だが、ヒソカは笑っている。

 

 カードが増えた。

 

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 

 白い紙片のように見えたそれが、次の瞬間には刃になった。

 

 トガリの足が止まる。

 

 いや、止められた。

 

 何かが絡んだのか。

 引かれたのか。

 ユズルには分からない。

 

 トガリの体勢が、ほんのわずか崩れた。

 

 そのほんのわずかで、十分だった。

 

 ヒソカが懐へ入った。

 

 音が消えた。

 

 次の瞬間、トガリの体が地面に叩きつけられた。

 

 血が石畳に散る。

 

 腕。

 脚。

 肩。

 

 複数の傷が見えた。

 

 トガリは動こうとした。

 だが、体が言うことを聞いていないようだった。

 

 それでも彼はヒソカを睨んでいた。

 

 ヒソカは、倒れたトガリを見下ろしている。

 

 表情は変わらない。

 

 笑っている。

 

 ユズルの胃が冷えた。

 

 これは戦いではない。

 

 少なくとも、ヒソカにとっては違う。

 

 遊びだ。

 

 壊れるか壊れないかを確かめる遊び。

 

 ガドルが動いた。

 

 その瞬間、広場の四方から協会スタッフが走り出した。

 ラゴウもいた。ミナリとロッカの姿も見える。

 

 試験官たちが一斉に動く。

 

 ヒソカは倒れたトガリへもう一歩踏み出そうとしていた。

 

 ガドルの声が響く。

 

「百一番、ヒソカ」

 

 その声には、怒りよりも冷たい決定があった。

 

「失格だ」

 

 広場が静まり返った。

 

 失格。

 

 ヒソカは足を止めた。

 

 そして、少しだけ残念そうに肩をすくめる。

 

「残念。もう少し遊べると思ったんだけど」

 

 トガリは、血の混じった息を吐きながらヒソカを睨んでいる。

 

 ヒソカはその視線を、楽しそうに受け止めた。

 

「また今度ね」

 

 その言葉が、トガリに向けられたのか、他の誰かに向けられたのか、ユズルには分からなかった。

 

 協会スタッフがトガリを囲む。

 医療班が傷を確認し、止血を始める。

 

 受験者たちは誰も動かない。

 

 動けない。

 

 トンパですら、笑っていなかった。

 

 彼の顔からいつもの親切そうな笑みが消えている。

 額に汗が浮かび、口元がわずかに引きつっていた。

 

「今年は……ちょっと、割に合わないな」

 

 誰にも聞こえないような小声だった。

 

 だが、ユズルには聞こえた。

 

 トンパが初めて、本気で引いたように見えた。

 

 グランは少し離れた場所で、固い顔をしていた。

 

「あれは無理だ」

 

 彼が低く呟く。

 

 ユズルは振り返った。

 

 グランはヒソカを見ている。

 

「念がどうとかじゃねぇ。あれは、近づいたら終わるやつだ」

 

 ユズルは何も言えなかった。

 

 同じことを感じていた。

 

 自分が念能力者であることなど、何の安心にもならない。

 丑がいることも、発があることも、あの男の前では理由にならない。

 

 ヒソカのいる場所には、今の自分は立てない。

 

 立ってはいけない。

 

 それは敗北感に近かった。

 

 でも、違う気もした。

 

 逃げたのではない。

 

 守る場所を選んだのだ。

 

 ユズルは自分の足元を見た。

 

 自分が立っていた場所。

 

 少年を止めた境目。

 

 そこには何も残っていない。

 けれど、確かに自分はそこに立った。

 

 ヒソカが、ふとこちらを見た。

 

 ユズルの心臓が跳ねる。

 

 ヒソカの視線は、まっすぐユズルを捉えていた。

 いや、ユズルの隣にいる黒い子牛も、まとめて見ているようだった。

 

 ヒソカはゆっくりと歩いてくる。

 

 試験官たちが警戒する。

 

 だが、ヒソカはもう攻撃しなかった。

 

 失格になった受験者として、広場を出ていくだけ。

 その途中に、ユズルがいる。

 

 ユズルは動けなかった。

 

 丑が隣に立っている。

 

 逃げたい。

 下がりたい。

 目を逸らしたい。

 

 それでも、ユズルはその場にいた。

 

 ヒソカはユズルの少し前で足を止めた。

 

 近い。

 

 近すぎる。

 

 ヒソカは微笑んだ。

 

「君は来なかったんだね」

 

 ユズルは喉が動かなかった。

 

 言葉が出ない。

 

 ヒソカは、ユズルが自分の前に立たなかったことを知っている。

 

 見ていた。

 

 そのうえで、笑っている。

 

 ヒソカは続けた。

 

「うん」

 

 ほんの少し、満足そうに。

 

「それでいい」

 

 それだけだった。

 

 ヒソカはユズルの横を通り過ぎ、広場の出口へ歩いていく。

 

 誰も止めない。

 

 いや、止められない。

 

 ガドルも、ラゴウも、ただ警戒しながら彼を見送っている。

 

 失格者として退場する男が、まるで勝者のように広場を去っていった。

 

 ヒソカの背中が通路の奥へ消える。

 

 ようやく、広場に息が戻った。

 

 誰かが深く息を吐く。

 誰かが座り込む。

 誰かが悪態をつく。

 

 医療班はトガリを担架に乗せ、急いで運び出そうとしていた。

 

 トガリはまだ意識があるようだった。

 

 目だけが、ヒソカが消えた通路を睨んでいる。

 

 あの目を、ユズルは忘れられないと思った。

 

 怒り。

 屈辱。

 恐怖。

 それでも消えない執着。

 

 何かが、あの人の中に刻まれた。

 

 ユズルはそう感じた。

 

 ボルドが近づいてきた。

 

 眼鏡の少年を連れている。

 

 少年は青ざめていたが、先ほどよりは呼吸が落ち着いていた。

 

「助かった」

 

 ボルドが言った。

 

 ユズルは首を横に振った。

 

「僕は、少し止めただけです」

 

「それが助かったのじゃ」

 

 ボルドは静かに言った。

 

 眼鏡の少年も、小さく頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

 ユズルはどう答えればいいか分からなかった。

 

 礼を受け取るのは、まだ少し苦手だった。

 

 でも、謝ることではない。

 

 ユズルは小さく頷いた。

 

「無事で、よかったです」

 

 ニカが隣に来た。

 

「ヒソカの方に行かなかったね」

 

 ユズルは俯いた。

 

「行けませんでした」

 

「違う」

 

 ニカは短く言った。

 

「行かなかったんでしょ」

 

 ユズルは顔を上げる。

 

 ニカは、ヒソカが去った通路を見ていた。

 

「あれに突っ込んでたら、あんた死んでたよ」

 

「……はい」

 

「だから、正解」

 

 正解。

 

 その言葉は、ヒソカの「それでいい」と似ているようで、全然違って聞こえた。

 

 ユズルは自分の手を見た。

 

 まだ震えている。

 

 怖かった。

 

 今も怖い。

 

 ヒソカの気配を思い出すだけで、喉が詰まる。

 

 でも、少年を止めた時の感覚も残っている。

 

 ここから先には行かせない。

 

 ヒソカを止めるためではない。

 誰かを倒すためでもない。

 自分が守れる範囲を決めるために、立った。

 

 それは、小さなことだった。

 

 トガリを救えたわけではない。

 ヒソカを止めたわけでもない。

 試験全体を変えたわけでもない。

 

 でも、一人を危険範囲から下げた。

 

 それだけは、できた。

 

 黒い子牛が隣に立っている。

 

 ユズルは丑を見た。

 

「僕には、立てない場所がある」

 

 小さく呟いた。

 

 丑は答えない。

 

 ユズルは続けた。

 

「でも、立てる場所まで見失ったら駄目なんだ」

 

 丑が、ようやく短く言った。

 

「決めたな」

 

 ユズルは少しだけ息を吸った。

 

「うん」

 

 決めた。

 

 どこにでも立てるわけではない。

 

 今の自分では、まだ届かない場所がある。

 近づいてはいけない場所がある。

 守れないものがある。

 

 でも、それを理由に何もしない自分にはなりたくない。

 

 守れる場所を選ぶ。

 そこだけは、退かない。

 

 ガドルが受験者たちへ向き直った。

 

 トガリが運ばれ、ヒソカが消えた後の広場には、重い沈黙が残っていた。

 

 ガドルはその沈黙を切るように言った。

 

「失格者一名。百一番、ヒソカ」

 

 誰も声を出さなかった。

 

「四次試験は予定通り行う。ただし、開始時刻を一時間遅らせる。通過者はこの場で待機」

 

 予定通り。

 

 その言葉が、ユズルには恐ろしく聞こえた。

 

 人が半殺しにされても。

 試験官補佐が運ばれても。

 ヒソカが失格になっても。

 

 試験は続く。

 

 ハンター試験は止まらない。

 

 受験者たちは、それぞれの場所で沈黙していた。

 

 グランは腕の傷を押さえたまま、空を見上げている。

 ニカは刃物の柄に触れ、何かを考えている。

 ボルドは眼鏡の少年の背を軽く叩いている。

 トンパは、いつもの笑顔を戻そうとして、うまく戻せないでいる。

 

 ユズルはその場に立っていた。

 

 丑と共に。

 

 広場に吹く乾いた風が、血の匂いを少しずつ薄めていく。

 

 けれど、ヒソカの残した鋭さは、まだ空気の中に残っているようだった。

 

 ユズルは拳を握った。

 

 自分はまだ弱い。

 

 発はある。

 獣もいる。

 でも、念能力者としてはまだ足腰ができていない。

 

 ヒソカのいる場所には立てなかった。

 

 でも、立てる場所はあった。

 

 その違いを、忘れてはいけない。

 

 四次試験は、まだ始まっていない。

 

 けれどユズルは、この日一つ、試験とは別のことを学んだ。

 

 立つとは、どこにでも立つことではない。

 

 立つ場所を選ぶことだ。

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