巡る獣暦   作:ギガマツタケ

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第9話 ヒョウテキ×トンパ×リタイア

 ヒソカが去った後も、広場の空気はしばらく戻らなかった。

 

 乾いた風が吹いている。

 

 岩場の砂が足元を擦り、遠くで飛行船の機械音が低く唸っていた。

 

 けれど、受験者たちの耳に残っていたのは別の音だった。

 

 トガリが地面に叩きつけられた音。

 血が石畳に落ちた音。

 そして、ヒソカの軽い声。

 

 ――君は来なかったんだね。

 ――うん、それでいい。

 

 ユズルは、その言葉を何度も思い出していた。

 

 褒められたのではない。

 責められたのでもない。

 

 ただ、見透かされた。

 

 そう感じた。

 

 ヒソカの前には立てなかった。

 

 立ってはいけなかった。

 

 けれど、眼鏡の少年の前には立った。

 

 それが正しかったのか、今も分からない。

 ただ、間違いではなかったと思いたかった。

 

 黒い子牛は、隣に立っている。

 

 丑は隠で姿を伏せたまま、何も言わない。

 

 いつも通りだった。

 

 その沈黙が、今は少し重かった。

 

 ガドルが広場の中央へ戻ってきた。

 

 先ほどまでトガリが倒れていた場所には、血の跡がまだ薄く残っている。

 医療班が拭き取ったはずなのに、石の隙間に赤黒い色が沈んでいた。

 

 ガドルはその場所を一度だけ見た。

 

 そして、受験者たちへ向き直る。

 

「待たせた」

 

 低い声だった。

 

「四次試験を開始する」

 

 誰も騒がなかった。

 

 ヒソカの失格で、通過者は三十三名になっていた。

 

 三十三名。

 

 ユズルはその数字を、頭の中で繰り返した。

 

 一月七日に始まったハンター試験。

 港で見た時は、まだ多くの受験者がいた。

 

 船にも、受付所にも、地下会場にも、人がいた。

 

 それが今は三十三名。

 

 残った者たちの顔つきは、もう最初とは違っていた。

 

 怯えを隠す者。

 興奮を隠せない者。

 他人を値踏みする者。

 何も感じていないように見せる者。

 

 そして、本当に何も感じていない者は、もうここにはいない。

 

 ヒソカは失格になった。

 

 それだけで、空気は変わっていた。

 

 安心ではない。

 

 むしろ、奇妙な空白ができていた。

 

 あれほど危険な存在が消えたはずなのに、誰も心から息を吐けない。

 ヒソカが去ったことで、今度は受験者同士の視線がはっきりと見えるようになったからだ。

 

 ガドルの横に、協会スタッフが大きな箱を運んできた。

 

 中には、金属製の札が入っているらしい。

 小さくぶつかり合う音がした。

 

「四次試験は個人戦だ」

 

 その言葉で、何人かの受験者の目が鋭くなる。

 

「ここから先の岩迷路に入り、制限時間内に必要点数を集めて出口に到達しろ」

 

 ガドルが箱を指した。

 

「各自に、自分の受験番号が刻まれた守札を一枚渡す。守札は三点」

 

 協会スタッフが見本を掲げた。

 

 手のひらほどの金属札。

 紐が通され、首から下げられるようになっている。

 

「同時に、封筒を一つ渡す。中には標的番号が書かれている。その番号の守札を奪えば三点。それ以外の守札は一点」

 

 受験者たちがざわついた。

 

 標的。

 

 奪う。

 

 ユズルは喉が少し乾くのを感じた。

 

 ガドルは淡々と続ける。

 

「合格条件は、合計四点以上の札を保持し、制限時間内に出口へ到達すること」

 

 つまり、自分の守札を守り、標的の札を取れば六点。

 標的でなくても、他の誰かの札を一つ取れば四点。

 

 逆に、自分の札を失えば、標的札を取っても三点。

 足りない。

 

「制限時間は三時間。岩迷路の中には自然の罠、危険生物、古い採掘用の仕掛けが残っている。殺害は禁止しない」

 

 広場が静まり返った。

 

 ガドルの目は冷たいままだった。

 

「ただし、試験官が悪質な殺害目的、または試験続行不能な破壊行為と判断した場合は失格とする。札の譲渡、交渉、騙し合いは自由だ」

 

 騙し合いは自由。

 

 まただ。

 

 ユズルは、反射的にトンパの方を見た。

 

 トンパは笑っていた。

 

 けれど、いつもの笑いではなかった。

 

 口元は笑っている。

 だが、目の奥に先ほどまでとは違う影がある。

 

 ヒソカ事件の後から、トンパの笑顔は少しだけ鈍くなっていた。

 

 ガドルが言った。

 

「一度岩迷路に入れば、制限時間終了まで戻れない。出口は一つではない。自分で探せ」

 

 協会スタッフが受験者たちに守札と封筒を配り始めた。

 

 ユズルの番が来る。

 

 スタッフから受け取った金属札には、確かに刻まれていた。

 

 二百四十一。

 

 自分の番号。

 

 重さはそれほどない。

 それなのに、首から下げると妙に重く感じた。

 

 次に封筒を渡される。

 

 標的番号。

 

 ユズルは封筒を見つめた。

 

 誰だろう。

 

 ニカだったらどうする。

 ボルドだったら。

 グランだったら。

 

 あるいは、トンパだったら。

 

 そう考えた瞬間、自分の胸が少しだけ熱くなるのを感じた。

 

 怒り。

 

 まだ残っている。

 

 ユズルは封筒を開けた。

 

 中の紙には、番号が一つだけ書かれていた。

 

 二百二十三。

 

 ユズルは息を止めた。

 

 トンパの番号だった。

 

 何度も見た番号ではない。

 けれど、受付後の待機列や、二次試験の審査で聞いた覚えがある。

 

 トンパ。

 

 自分の標的は、トンパ。

 

 まるで、試験がユズルの胸の中を覗いたようだった。

 

 ユズルは紙を握りしめそうになり、慌てて力を抜いた。

 

 落ち着け。

 

 紙を破っても意味はない。

 

 黒い子牛が、ユズルを見た。

 

「……分かってる」

 

 小さく呟く。

 

 感情だけで動いてはいけない。

 

 トンパを嫌っている。

 怒っている。

 でも、それだけで雑に動けば、また誰かを巻き込む。

 

 ニカが近づいてきた。

 

「二百四十一番」

 

 ユズルは顔を上げる。

 

 ニカは封筒を懐にしまっていた。

 

「標的、見た?」

 

「はい」

 

「顔に出てる」

 

「……出てますか」

 

「かなり」

 

 ニカは周囲に聞こえない声で言った。

 

「トンパ?」

 

 ユズルは驚いた。

 

「どうして」

 

「当たり?」

 

「……はい」

 

「分かりやすいね」

 

 ニカは小さく息を吐いた。

 

「気をつけな。あいつは強いわけじゃないけど、面倒」

 

「はい」

 

「怒ってる時のあんたは、たぶん普段より危ない」

 

 ユズルは黙った。

 

 否定できなかった。

 

 ニカは続ける。

 

「トンパを倒したいなら、怒りだけで行かないこと。あいつは、怒ってる新人を転ばせるのがうまい」

 

「……分かりました」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

「そこは言い切りなよ」

 

 ユズルは少し困った。

 

 ニカは呆れたように笑った。

 

「まあ、いいや。落ちないでね、二百四十一番」

 

「ニカさんも」

 

「私は落ちないつもり」

 

 彼女はそう言って、岩迷路の入口へ歩いていった。

 

 ボルドも近くにいた。

 

 彼は自分の守札を首にかけ、封筒をしまっている。

 

「ボルドさんの標的は」

 

「それを聞くのは、あまり試験向きではないのう」

 

「あ、すみません」

 

「冗談じゃ」

 

 ボルドは笑った。

 

「お前さん、また難しい顔をしておる」

 

「トンパが標的でした」

 

「なるほど」

 

 ボルドの顔から、少し笑みが薄れた。

 

「それは、難しい」

 

「はい」

 

「倒しやすい相手ではある。だが、捕まえにくい相手でもある」

 

「分かります」

 

「トンパは逃げるのがうまい。戦う前に、相手の足元を緩ませるのもうまい」

 

 ボルドは杖の先で地面を軽く叩いた。

 

「怒って追うな。見てから動け」

 

 ユズルは頷いた。

 

「はい」

 

「それと」

 

「はい」

 

「トンパが本当に狙っているのは、お前さんではないかもしれん」

 

 ユズルは眉を寄せた。

 

「どういう意味ですか」

 

「新人潰しは、相手を倒すことだけではない。相手に嫌な選択をさせることも含む」

 

 ボルドはそれだけ言うと、岩迷路の入口へ歩き出した。

 

 ユズルはその背中を見送った。

 

 嫌な選択。

 

 トンパならやりそうだった。

 

 ガドルが片手を上げる。

 

「四次試験、開始」

 

 その声と同時に、受験者たちは岩迷路へ散った。

 

 走る者。

 ゆっくり進む者。

 誰かの背後につく者。

 すぐに身を隠す者。

 

 ユズルは少し遅れて歩き出した。

 

 急ぎたい気持ちはある。

 

 トンパを探さなければならない。

 

 けれど、急いで見失う方が怖かった。

 

 岩迷路の中は、外から見るよりも複雑だった。

 

 切り立った岩壁。

 古い採掘跡。

 狭い通路。

 突然開ける広場。

 足元の砂。

 崩れかけた木の支柱。

 

 音がよく響く場所と、逆に吸い込まれる場所があった。

 

 ユズルは足跡を探した。

 

 多くの受験者が一斉に入ったため、足跡は混ざっている。

 トンパのものを見分けるのは難しい。

 

 子の月なら、音を拾えたかもしれない。

 酉の月なら、上空から探せたかもしれない。

 

 でも今は丑。

 

 探す力ではない。

 

 なら、どうする。

 

 トンパが行きそうな場所を考える。

 

 彼は強者と正面からぶつからない。

 危険な場所にも最初から踏み込まない。

 新人や弱そうな相手が迷いそうな場所で待つはずだ。

 

 罠がある場所。

 情報を流しやすい場所。

 逃げ道が複数ある場所。

 

 ユズルは、岩壁に囲まれた分岐へ向かった。

 

 そこには古い標識が立っていた。

 

 右:出口。

 左:給水所。

 奥:採掘場跡。

 

 怪しい。

 

 全部、怪しい。

 

 ユズルは標識の足元を見た。

 

 右の道には足跡が多い。

 左の道にもいくつかある。

 奥の道は少ない。

 

 だが、標識そのものが新しすぎる。

 

 古い採掘場跡のはずなのに、文字の削れ方が不自然だった。

 

 誰かが置いたのかもしれない。

 

 ユズルは右へ行きかけて、止まった。

 

 遠くから声が聞こえた。

 

「こっちだって! 俺が見たんだ!」

 

 若い声。

 

 焦っている。

 

 続いて、別の声。

 

「落ち着きなって。こっちが安全だよ」

 

 トンパの声だった。

 

 ユズルの体が硬くなる。

 

 声は左の道から聞こえた。

 

 給水所と書かれた道。

 

 ユズルは息を潜め、左の道へ進んだ。

 

 通路の先には、小さな谷のような場所があった。

 

 谷底には砂が溜まっている。

 左右の岩壁は高く、上には細い橋のような岩棚がかかっていた。

 

 その入口に、トンパがいた。

 

 彼の前には、眼鏡の少年が立っている。

 

 ボルドと三次試験で組んでいた少年だ。

 

 少年は自分の守札を片手で押さえ、不安そうに周囲を見ていた。

 

 トンパはいつもの笑顔で言っている。

 

「大丈夫。ここを抜ければ出口に近い。俺は何度もこういう試験を見てきたからね」

 

「でも、ここ……足元が」

 

「怖がりすぎると落ちるよ。ハンター試験は度胸も必要だ」

 

 ユズルは岩陰に身を隠しながら、谷底を見た。

 

 砂が不自然だった。

 

 表面は乾いている。

 だが、一部だけ粒が細かく、足を置けば沈みそうに見える。

 

 砂鳴り。

 

 村の近くにも似た場所があった。

 乾いた砂に見えて、下に空洞がある。踏み方を間違えると崩れる。

 

 トンパはそれを知っているのかもしれない。

 

 いや、知っているから少年を誘っている。

 

 少年が一歩踏み出した。

 

 ユズルは、反射的に前へ出そうになった。

 

 だが、止まった。

 

 怒りだけで飛び出すな。

 

 ニカの言葉。

 

 ボルドの言葉。

 

 見てから動け。

 

 ユズルは谷底をもう一度見た。

 

 砂が鳴る場所は、中央寄り。

 右の岩壁沿いなら、まだ足場が固い。

 しかし、少年は中央へ誘導されている。

 

 トンパは自分では入らない位置にいる。

 

 ユズルの胸が熱くなる。

 

 やはり。

 

 トンパは、自分で危険に立たない。

 

 他人をそこへ送る。

 

 少年がもう一歩踏み出した。

 

 砂が、小さく鳴った。

 

 きし、と。

 

 ユズルは出た。

 

「止まってください!」

 

 声が谷に響いた。

 

 少年が振り返る。

 

 トンパも振り返った。

 

 その顔に、一瞬だけ意外そうな色が浮かぶ。

 

 すぐに笑顔へ戻った。

 

「おや、ユズルくん」

 

 ユズルは少年の方へ走った。

 

 ただし、谷底には入らない。

 

 入口で止まる。

 

「そこ、危ないです。中央の砂が崩れます」

 

 少年の顔が青ざめた。

 

「え?」

 

 トンパは困ったように笑った。

 

「またまた。怖がらせちゃ駄目だよ。彼は今、自分の標的を追っていて」

 

「あなたは知ってましたよね」

 

 ユズルはトンパを見た。

 

 声が震えていた。

 

 でも、出た。

 

 トンパは小首を傾げる。

 

「何のこと?」

 

「砂が崩れることです」

 

「証拠は?」

 

 ユズルは言葉に詰まりかけた。

 

 証拠。

 

 確かに、まだ崩れていない。

 

 少年は不安そうにユズルとトンパを見比べている。

 

 トンパは優しい声で言った。

 

「ユズルくんは心配性だからね。悪い子じゃないんだけど、少し考えすぎるところがある」

 

 その言い方は、柔らかかった。

 

 だが、ユズルには分かった。

 

 トンパは、ユズルを「不安を撒く人間」にしようとしている。

 

 少年の判断を揺らしている。

 

 ユズルは息を吸った。

 

 どうする。

 

 証拠を出せばいい。

 

 ユズルは足元の小石を拾った。

 

 谷の中央へ投げる。

 

 小石が砂に落ちた。

 

 軽い音。

 

 その後、砂が少し沈んだ。

 

 きし。

 

 小さな音。

 

 少年の顔色が変わった。

 

 トンパの笑顔が、ほんの少しだけ薄くなる。

 

「……たまたまじゃない?」

 

 ユズルはもう一つ小石を拾った。

 

 今度は少し大きい。

 

 同じ場所へ投げる。

 

 砂が崩れた。

 

 表面が破れ、下に黒い空洞が見える。

 小石はそのまま落ちていった。

 

 少年が息を呑む。

 

 トンパは肩をすくめた。

 

「危ないなあ。気づいてよかったね」

 

 ユズルの拳に力が入った。

 

「あなたが誘導したんです」

 

「そう見えた?」

 

「見えました」

 

「証拠は?」

 

 まただ。

 

 トンパは笑っている。

 

 何もしていない顔で。

 ただ親切に案内しただけの顔で。

 

 ユズルは怒っていた。

 

 でも、その怒りのまま殴っても、トンパの思う壺だ。

 

 トンパは戦いたいのではない。

 ユズルに雑な行動をさせたいのだ。

 

 黒い子牛が、ユズルの横に立つ。

 

 決めろ。

 

 そう言われた気がした。

 

 ユズルは少年に言った。

 

「右の岩壁沿いに、ゆっくり戻ってください」

 

「で、でも」

 

「足元だけ見て。中央には行かないでください」

 

 少年は震えながら頷いた。

 

 ユズルは谷の入口に立つ。

 

「ここは、崩させません」

 

 小さく宣言した。

 

 不動の牛歩。

 

 ただし、谷全体を守るわけではない。

 

 少年が戻るための、右の岩壁沿いの細い足場。

 その一点だけ。

 

 丑の気配が、足元に沈む。

 

 少年はゆっくり戻った。

 

 一歩。

 また一歩。

 

 砂が軋む。

 

 だが、崩れない。

 

 ユズルの体の内側から、少しずつ熱が抜けていく。

 

 長くは保たない。

 

 それでも、少年が戻るまでなら。

 

 少年が最後の一歩で谷の入口へ戻った瞬間、ユズルは力を抜いた。

 

 足元の重さが消える。

 

 少しだけふらついた。

 

 少年が慌てて支えようとする。

 

「大丈夫ですか」

 

「はい」

 

 ユズルは息を整えた。

 

 トンパが拍手をした。

 

 ぱち。

 ぱち。

 ぱち。

 

「すごいねえ。やっぱり君、面白い力を使う」

 

 ユズルはトンパを見た。

 

 トンパは笑っていた。

 

 だが、今度の笑顔には少し疲れが混ざっていた。

 

「君の標的、俺でしょ」

 

 ユズルは黙った。

 

 トンパは続ける。

 

「分かるよ。ずっと俺を見てたし。顔に出るし」

 

「……はい」

 

「正直だねえ」

 

 トンパは首にかけた自分の守札を指で持ち上げた。

 

 二百二十三。

 

 ユズルの標的札。

 

 それを見た瞬間、胸が熱くなる。

 

 取ればいい。

 

 それで三点。

 自分の守札と合わせて六点。

 合格条件は満たせる。

 

 トンパは、札を指先で揺らした。

 

「欲しい?」

 

「必要です」

 

「だよね」

 

 トンパは笑った。

 

「じゃあ、取れば?」

 

 ユズルは動かなかった。

 

 トンパとの距離は、遠くない。

 走れば届くかもしれない。

 

 だが、トンパは逃げ道を確保している。

 背後には別の通路。左右には岩棚。谷底の砂を使えば、ユズルを誘導することもできる。

 

 無理に追えば、また誰かが危ない。

 

 少年がまだそばにいる。

 

 ユズルは言った。

 

「戦うつもりですか」

 

「俺が?」

 

 トンパは大げさに目を丸くした。

 

「嫌だなあ。俺、戦うの苦手なんだよ」

 

「じゃあ、どうするつもりですか」

 

 トンパは少しだけ黙った。

 

 そして、ヒソカが消えていった通路の方角を見た。

 

 ここからは見えないはずなのに。

 

「今年はさ」

 

 トンパの声が、少しだけ変わった。

 

「ちょっと、割に合わないんだよね」

 

 ユズルは眉を寄せた。

 

「割に合わない?」

 

「うん。新人潰しは楽しいよ。楽しいから、俺は何度も受けてる」

 

 少年が息を呑んだ。

 

 トンパは悪びれなかった。

 

「でもさ、命を張ってまで合格したいわけじゃない。俺はハンターになりたいんじゃない。ハンター試験を楽しみたいだけ」

 

 その言葉は、あまりにもトンパらしかった。

 

 ユズルは怒りを感じた。

 

 同時に、少しだけ理解してしまった。

 

 トンパは悪意を持っている。

 でも、目的は単純だ。

 

 勝ちたいのではない。

 受かりたいのでもない。

 人が落ちるところを見たい。

 

 それだけ。

 

「でも今年は、あれがいた」

 

 トンパはヒソカのことを言っているのだろう。

 

「あれは駄目だよ。新人潰しとか、そういう遊びじゃない。近くにいたら、こっちが潰れる」

 

 トンパは笑った。

 

 今度は、はっきり疲れた笑顔だった。

 

「だから、今年はここまで」

 

 トンパは首から自分の守札を外した。

 

 ユズルの体が強張る。

 

「はい」

 

 トンパは、札を軽く投げた。

 

 ユズルは反射的に受け取った。

 

 二百二十三。

 

 標的札。

 

 トンパの守札。

 

 これで、ユズルは条件を満たした。

 

 あまりにあっさりしていた。

 

 ユズルは札を見つめた。

 

「……いいんですか」

 

「いいんだよ。俺はもう落ちる」

 

「どうして」

 

「言ったでしょ。割に合わない」

 

 トンパは肩をすくめた。

 

「それに、君に追いかけ回されるのも面倒そうだしね」

 

「僕は」

 

「怒ってるでしょ」

 

 ユズルは黙った。

 

 トンパは笑った。

 

「そういう新人、嫌いじゃないよ。自分が正しいと思って怒れる子は、見てて面白い」

 

「面白い、ですか」

 

「うん」

 

 ユズルの胸の中で、怒りがまた熱を持つ。

 

 けれど、殴りたいとは少し違った。

 

 この人は、たぶん変わらない。

 

 責めても、説得しても、謝らせても、変わらない。

 

 トンパはトンパのままだ。

 

 それが分かることが、少し苦しかった。

 

 少年が震える声で言った。

 

「なんで……こんなこと」

 

 トンパは少年を見た。

 

「ハンター試験だから」

 

「そんな理由で」

 

「そんな理由で人が落ちる場所だよ、ここは」

 

 トンパは軽く手を振った。

 

「まあ、君は助かったね。ユズルくんのおかげで」

 

 少年は唇を噛んだ。

 

 ユズルはトンパを見た。

 

「もう、誰かを落とそうとしないんですか」

 

「今年はね」

 

「来年は?」

 

 トンパは笑った。

 

 いつもの笑顔に近かった。

 

「さあ。来年のことは、来年考えるよ」

 

 ユズルは、何も言えなかった。

 

 来年。

 

 この男はまた来るのかもしれない。

 

 また新人を騙し、落とし、笑うのかもしれない。

 

 自分が今ここで何かしても、止められない。

 

 それが、悔しかった。

 

 黒い子牛が隣に立っている。

 

 ユズルは札を握った。

 

 トンパを倒したわけではない。

 言い負かしたわけでもない。

 改心させたわけでもない。

 

 ただ、トンパが自分で降りた。

 

 それだけ。

 

 勝った気はしなかった。

 

 それでも、少年は落ちなかった。

 

 自分の標的札は手に入った。

 

 今できたことは、それだった。

 

 トンパは谷の入口とは逆の道へ歩き出した。

 

「じゃあね、ユズルくん」

 

 初めて、名前で呼ばれた気がした。

 

 それが妙に嫌だった。

 

「合格できるといいね」

 

 ユズルは返事をしなかった。

 

 トンパはそのまま岩壁の向こうへ消えた。

 

 抗議も、悲鳴も、怒号もない。

 

 ただ、あっさりと消えた。

 

 少年は地面に座り込んだ。

 

「僕……また、騙されるところでした」

 

 ユズルは隣にしゃがんだ。

 

「僕も、何度も騙されそうになりました」

 

「でも、あなたは止めてくれました」

 

「止められたのは、今回は、です」

 

 ユズルはトンパが消えた道を見た。

 

「全部は止められません」

 

 少年は黙った。

 

 ユズルは自分の守札と、トンパの札を確認した。

 

 自分の三点。

 標的の三点。

 

 六点。

 

 条件は満たした。

 

 だが、このまま出口へ向かうべきか。

 少年をどうするか。

 

 ユズルは少年に尋ねた。

 

「あなたの標的は、誰ですか」

 

 少年は少し迷ったが、封筒を開いて見せた。

 

 番号は、ユズルのものではなかった。

 

 ユズルはほっとした。

 

 だが、少年はまだ点数が足りない。

 

「自分の札はありますか」

 

「あります」

 

「なら、あと一点あれば通れます」

 

「でも、誰かの札を奪わないと」

 

 少年の声は沈んでいた。

 

 さっきの出来事で、誰かから札を奪うこと自体に怯えているようだった。

 

 ユズルは少し考えた。

 

 自分には余裕がある。

 

 ただし、札を渡せばどうなる。

 自分の守札は渡せない。

 トンパの札は標的札だから三点。これを渡すと、自分は三点になり足りない。

 

 他の札は持っていない。

 

 助けたい。

 

 でも、今は渡せるものがない。

 

 ユズルはその事実に、胸の奥が少し痛んだ。

 

「出口まで、一緒に行きましょう」

 

 ユズルは言った。

 

「途中で、点数を取る機会があるかもしれません。でも、危ない場所は避けます」

 

「いいんですか」

 

「はい」

 

 少年は少しだけ表情を緩めた。

 

 だが、ユズルは自分に言い聞かせた。

 

 全部は助けられない。

 

 でも、出口まで同行することはできる。

 

 札を取るかどうかは、その時に判断する。

 

 ユズルは立ち上がった。

 

 丑が隣に立つ。

 

 岩迷路の奥から、遠くで誰かの叫び声が聞こえた。

 別の場所では、受験者同士の争いが始まっているのだろう。

 

 四次試験はまだ終わっていない。

 

 トンパは試験を降りた。

 

 けれど、試験は続く。

 

 ヒソカがいなくなっても。

 トンパが降りても。

 ここに残った者たちは、それぞれ自分の札を守り、誰かの札を狙わなければならない。

 

 ユズルは首から下げた守札に触れた。

 

 金属の冷たさが指先に伝わる。

 

 自分の番号。

 自分の点数。

 自分の立つ場所。

 

 トンパを倒したわけではない。

 

 でも、トンパの罠で誰かが落ちるのを、一つだけ止めた。

 

 それで十分かどうかは分からない。

 

 けれど、今は進むしかない。

 

 ユズルは少年に言った。

 

「行きましょう」

 

 少年は頷いた。

 

 二人は、砂鳴りの谷を迂回して、岩迷路の奥へ進み始めた。

 

 黒い子牛が、その後を静かについてくる。

 

 ユズルの胸には、まだ怒りが残っていた。

 

 けれど、その怒りはもう、足元を焼く火ではなかった。

 

 進むための、小さな熱になっていた。

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