ヒソカが去った後も、広場の空気はしばらく戻らなかった。
乾いた風が吹いている。
岩場の砂が足元を擦り、遠くで飛行船の機械音が低く唸っていた。
けれど、受験者たちの耳に残っていたのは別の音だった。
トガリが地面に叩きつけられた音。
血が石畳に落ちた音。
そして、ヒソカの軽い声。
――君は来なかったんだね。
――うん、それでいい。
ユズルは、その言葉を何度も思い出していた。
褒められたのではない。
責められたのでもない。
ただ、見透かされた。
そう感じた。
ヒソカの前には立てなかった。
立ってはいけなかった。
けれど、眼鏡の少年の前には立った。
それが正しかったのか、今も分からない。
ただ、間違いではなかったと思いたかった。
黒い子牛は、隣に立っている。
丑は隠で姿を伏せたまま、何も言わない。
いつも通りだった。
その沈黙が、今は少し重かった。
ガドルが広場の中央へ戻ってきた。
先ほどまでトガリが倒れていた場所には、血の跡がまだ薄く残っている。
医療班が拭き取ったはずなのに、石の隙間に赤黒い色が沈んでいた。
ガドルはその場所を一度だけ見た。
そして、受験者たちへ向き直る。
「待たせた」
低い声だった。
「四次試験を開始する」
誰も騒がなかった。
ヒソカの失格で、通過者は三十三名になっていた。
三十三名。
ユズルはその数字を、頭の中で繰り返した。
一月七日に始まったハンター試験。
港で見た時は、まだ多くの受験者がいた。
船にも、受付所にも、地下会場にも、人がいた。
それが今は三十三名。
残った者たちの顔つきは、もう最初とは違っていた。
怯えを隠す者。
興奮を隠せない者。
他人を値踏みする者。
何も感じていないように見せる者。
そして、本当に何も感じていない者は、もうここにはいない。
ヒソカは失格になった。
それだけで、空気は変わっていた。
安心ではない。
むしろ、奇妙な空白ができていた。
あれほど危険な存在が消えたはずなのに、誰も心から息を吐けない。
ヒソカが去ったことで、今度は受験者同士の視線がはっきりと見えるようになったからだ。
ガドルの横に、協会スタッフが大きな箱を運んできた。
中には、金属製の札が入っているらしい。
小さくぶつかり合う音がした。
「四次試験は個人戦だ」
その言葉で、何人かの受験者の目が鋭くなる。
「ここから先の岩迷路に入り、制限時間内に必要点数を集めて出口に到達しろ」
ガドルが箱を指した。
「各自に、自分の受験番号が刻まれた守札を一枚渡す。守札は三点」
協会スタッフが見本を掲げた。
手のひらほどの金属札。
紐が通され、首から下げられるようになっている。
「同時に、封筒を一つ渡す。中には標的番号が書かれている。その番号の守札を奪えば三点。それ以外の守札は一点」
受験者たちがざわついた。
標的。
奪う。
ユズルは喉が少し乾くのを感じた。
ガドルは淡々と続ける。
「合格条件は、合計四点以上の札を保持し、制限時間内に出口へ到達すること」
つまり、自分の守札を守り、標的の札を取れば六点。
標的でなくても、他の誰かの札を一つ取れば四点。
逆に、自分の札を失えば、標的札を取っても三点。
足りない。
「制限時間は三時間。岩迷路の中には自然の罠、危険生物、古い採掘用の仕掛けが残っている。殺害は禁止しない」
広場が静まり返った。
ガドルの目は冷たいままだった。
「ただし、試験官が悪質な殺害目的、または試験続行不能な破壊行為と判断した場合は失格とする。札の譲渡、交渉、騙し合いは自由だ」
騙し合いは自由。
まただ。
ユズルは、反射的にトンパの方を見た。
トンパは笑っていた。
けれど、いつもの笑いではなかった。
口元は笑っている。
だが、目の奥に先ほどまでとは違う影がある。
ヒソカ事件の後から、トンパの笑顔は少しだけ鈍くなっていた。
ガドルが言った。
「一度岩迷路に入れば、制限時間終了まで戻れない。出口は一つではない。自分で探せ」
協会スタッフが受験者たちに守札と封筒を配り始めた。
ユズルの番が来る。
スタッフから受け取った金属札には、確かに刻まれていた。
二百四十一。
自分の番号。
重さはそれほどない。
それなのに、首から下げると妙に重く感じた。
次に封筒を渡される。
標的番号。
ユズルは封筒を見つめた。
誰だろう。
ニカだったらどうする。
ボルドだったら。
グランだったら。
あるいは、トンパだったら。
そう考えた瞬間、自分の胸が少しだけ熱くなるのを感じた。
怒り。
まだ残っている。
ユズルは封筒を開けた。
中の紙には、番号が一つだけ書かれていた。
二百二十三。
ユズルは息を止めた。
トンパの番号だった。
何度も見た番号ではない。
けれど、受付後の待機列や、二次試験の審査で聞いた覚えがある。
トンパ。
自分の標的は、トンパ。
まるで、試験がユズルの胸の中を覗いたようだった。
ユズルは紙を握りしめそうになり、慌てて力を抜いた。
落ち着け。
紙を破っても意味はない。
黒い子牛が、ユズルを見た。
「……分かってる」
小さく呟く。
感情だけで動いてはいけない。
トンパを嫌っている。
怒っている。
でも、それだけで雑に動けば、また誰かを巻き込む。
ニカが近づいてきた。
「二百四十一番」
ユズルは顔を上げる。
ニカは封筒を懐にしまっていた。
「標的、見た?」
「はい」
「顔に出てる」
「……出てますか」
「かなり」
ニカは周囲に聞こえない声で言った。
「トンパ?」
ユズルは驚いた。
「どうして」
「当たり?」
「……はい」
「分かりやすいね」
ニカは小さく息を吐いた。
「気をつけな。あいつは強いわけじゃないけど、面倒」
「はい」
「怒ってる時のあんたは、たぶん普段より危ない」
ユズルは黙った。
否定できなかった。
ニカは続ける。
「トンパを倒したいなら、怒りだけで行かないこと。あいつは、怒ってる新人を転ばせるのがうまい」
「……分かりました」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは言い切りなよ」
ユズルは少し困った。
ニカは呆れたように笑った。
「まあ、いいや。落ちないでね、二百四十一番」
「ニカさんも」
「私は落ちないつもり」
彼女はそう言って、岩迷路の入口へ歩いていった。
ボルドも近くにいた。
彼は自分の守札を首にかけ、封筒をしまっている。
「ボルドさんの標的は」
「それを聞くのは、あまり試験向きではないのう」
「あ、すみません」
「冗談じゃ」
ボルドは笑った。
「お前さん、また難しい顔をしておる」
「トンパが標的でした」
「なるほど」
ボルドの顔から、少し笑みが薄れた。
「それは、難しい」
「はい」
「倒しやすい相手ではある。だが、捕まえにくい相手でもある」
「分かります」
「トンパは逃げるのがうまい。戦う前に、相手の足元を緩ませるのもうまい」
ボルドは杖の先で地面を軽く叩いた。
「怒って追うな。見てから動け」
ユズルは頷いた。
「はい」
「それと」
「はい」
「トンパが本当に狙っているのは、お前さんではないかもしれん」
ユズルは眉を寄せた。
「どういう意味ですか」
「新人潰しは、相手を倒すことだけではない。相手に嫌な選択をさせることも含む」
ボルドはそれだけ言うと、岩迷路の入口へ歩き出した。
ユズルはその背中を見送った。
嫌な選択。
トンパならやりそうだった。
ガドルが片手を上げる。
「四次試験、開始」
その声と同時に、受験者たちは岩迷路へ散った。
走る者。
ゆっくり進む者。
誰かの背後につく者。
すぐに身を隠す者。
ユズルは少し遅れて歩き出した。
急ぎたい気持ちはある。
トンパを探さなければならない。
けれど、急いで見失う方が怖かった。
岩迷路の中は、外から見るよりも複雑だった。
切り立った岩壁。
古い採掘跡。
狭い通路。
突然開ける広場。
足元の砂。
崩れかけた木の支柱。
音がよく響く場所と、逆に吸い込まれる場所があった。
ユズルは足跡を探した。
多くの受験者が一斉に入ったため、足跡は混ざっている。
トンパのものを見分けるのは難しい。
子の月なら、音を拾えたかもしれない。
酉の月なら、上空から探せたかもしれない。
でも今は丑。
探す力ではない。
なら、どうする。
トンパが行きそうな場所を考える。
彼は強者と正面からぶつからない。
危険な場所にも最初から踏み込まない。
新人や弱そうな相手が迷いそうな場所で待つはずだ。
罠がある場所。
情報を流しやすい場所。
逃げ道が複数ある場所。
ユズルは、岩壁に囲まれた分岐へ向かった。
そこには古い標識が立っていた。
右:出口。
左:給水所。
奥:採掘場跡。
怪しい。
全部、怪しい。
ユズルは標識の足元を見た。
右の道には足跡が多い。
左の道にもいくつかある。
奥の道は少ない。
だが、標識そのものが新しすぎる。
古い採掘場跡のはずなのに、文字の削れ方が不自然だった。
誰かが置いたのかもしれない。
ユズルは右へ行きかけて、止まった。
遠くから声が聞こえた。
「こっちだって! 俺が見たんだ!」
若い声。
焦っている。
続いて、別の声。
「落ち着きなって。こっちが安全だよ」
トンパの声だった。
ユズルの体が硬くなる。
声は左の道から聞こえた。
給水所と書かれた道。
ユズルは息を潜め、左の道へ進んだ。
通路の先には、小さな谷のような場所があった。
谷底には砂が溜まっている。
左右の岩壁は高く、上には細い橋のような岩棚がかかっていた。
その入口に、トンパがいた。
彼の前には、眼鏡の少年が立っている。
ボルドと三次試験で組んでいた少年だ。
少年は自分の守札を片手で押さえ、不安そうに周囲を見ていた。
トンパはいつもの笑顔で言っている。
「大丈夫。ここを抜ければ出口に近い。俺は何度もこういう試験を見てきたからね」
「でも、ここ……足元が」
「怖がりすぎると落ちるよ。ハンター試験は度胸も必要だ」
ユズルは岩陰に身を隠しながら、谷底を見た。
砂が不自然だった。
表面は乾いている。
だが、一部だけ粒が細かく、足を置けば沈みそうに見える。
砂鳴り。
村の近くにも似た場所があった。
乾いた砂に見えて、下に空洞がある。踏み方を間違えると崩れる。
トンパはそれを知っているのかもしれない。
いや、知っているから少年を誘っている。
少年が一歩踏み出した。
ユズルは、反射的に前へ出そうになった。
だが、止まった。
怒りだけで飛び出すな。
ニカの言葉。
ボルドの言葉。
見てから動け。
ユズルは谷底をもう一度見た。
砂が鳴る場所は、中央寄り。
右の岩壁沿いなら、まだ足場が固い。
しかし、少年は中央へ誘導されている。
トンパは自分では入らない位置にいる。
ユズルの胸が熱くなる。
やはり。
トンパは、自分で危険に立たない。
他人をそこへ送る。
少年がもう一歩踏み出した。
砂が、小さく鳴った。
きし、と。
ユズルは出た。
「止まってください!」
声が谷に響いた。
少年が振り返る。
トンパも振り返った。
その顔に、一瞬だけ意外そうな色が浮かぶ。
すぐに笑顔へ戻った。
「おや、ユズルくん」
ユズルは少年の方へ走った。
ただし、谷底には入らない。
入口で止まる。
「そこ、危ないです。中央の砂が崩れます」
少年の顔が青ざめた。
「え?」
トンパは困ったように笑った。
「またまた。怖がらせちゃ駄目だよ。彼は今、自分の標的を追っていて」
「あなたは知ってましたよね」
ユズルはトンパを見た。
声が震えていた。
でも、出た。
トンパは小首を傾げる。
「何のこと?」
「砂が崩れることです」
「証拠は?」
ユズルは言葉に詰まりかけた。
証拠。
確かに、まだ崩れていない。
少年は不安そうにユズルとトンパを見比べている。
トンパは優しい声で言った。
「ユズルくんは心配性だからね。悪い子じゃないんだけど、少し考えすぎるところがある」
その言い方は、柔らかかった。
だが、ユズルには分かった。
トンパは、ユズルを「不安を撒く人間」にしようとしている。
少年の判断を揺らしている。
ユズルは息を吸った。
どうする。
証拠を出せばいい。
ユズルは足元の小石を拾った。
谷の中央へ投げる。
小石が砂に落ちた。
軽い音。
その後、砂が少し沈んだ。
きし。
小さな音。
少年の顔色が変わった。
トンパの笑顔が、ほんの少しだけ薄くなる。
「……たまたまじゃない?」
ユズルはもう一つ小石を拾った。
今度は少し大きい。
同じ場所へ投げる。
砂が崩れた。
表面が破れ、下に黒い空洞が見える。
小石はそのまま落ちていった。
少年が息を呑む。
トンパは肩をすくめた。
「危ないなあ。気づいてよかったね」
ユズルの拳に力が入った。
「あなたが誘導したんです」
「そう見えた?」
「見えました」
「証拠は?」
まただ。
トンパは笑っている。
何もしていない顔で。
ただ親切に案内しただけの顔で。
ユズルは怒っていた。
でも、その怒りのまま殴っても、トンパの思う壺だ。
トンパは戦いたいのではない。
ユズルに雑な行動をさせたいのだ。
黒い子牛が、ユズルの横に立つ。
決めろ。
そう言われた気がした。
ユズルは少年に言った。
「右の岩壁沿いに、ゆっくり戻ってください」
「で、でも」
「足元だけ見て。中央には行かないでください」
少年は震えながら頷いた。
ユズルは谷の入口に立つ。
「ここは、崩させません」
小さく宣言した。
不動の牛歩。
ただし、谷全体を守るわけではない。
少年が戻るための、右の岩壁沿いの細い足場。
その一点だけ。
丑の気配が、足元に沈む。
少年はゆっくり戻った。
一歩。
また一歩。
砂が軋む。
だが、崩れない。
ユズルの体の内側から、少しずつ熱が抜けていく。
長くは保たない。
それでも、少年が戻るまでなら。
少年が最後の一歩で谷の入口へ戻った瞬間、ユズルは力を抜いた。
足元の重さが消える。
少しだけふらついた。
少年が慌てて支えようとする。
「大丈夫ですか」
「はい」
ユズルは息を整えた。
トンパが拍手をした。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
「すごいねえ。やっぱり君、面白い力を使う」
ユズルはトンパを見た。
トンパは笑っていた。
だが、今度の笑顔には少し疲れが混ざっていた。
「君の標的、俺でしょ」
ユズルは黙った。
トンパは続ける。
「分かるよ。ずっと俺を見てたし。顔に出るし」
「……はい」
「正直だねえ」
トンパは首にかけた自分の守札を指で持ち上げた。
二百二十三。
ユズルの標的札。
それを見た瞬間、胸が熱くなる。
取ればいい。
それで三点。
自分の守札と合わせて六点。
合格条件は満たせる。
トンパは、札を指先で揺らした。
「欲しい?」
「必要です」
「だよね」
トンパは笑った。
「じゃあ、取れば?」
ユズルは動かなかった。
トンパとの距離は、遠くない。
走れば届くかもしれない。
だが、トンパは逃げ道を確保している。
背後には別の通路。左右には岩棚。谷底の砂を使えば、ユズルを誘導することもできる。
無理に追えば、また誰かが危ない。
少年がまだそばにいる。
ユズルは言った。
「戦うつもりですか」
「俺が?」
トンパは大げさに目を丸くした。
「嫌だなあ。俺、戦うの苦手なんだよ」
「じゃあ、どうするつもりですか」
トンパは少しだけ黙った。
そして、ヒソカが消えていった通路の方角を見た。
ここからは見えないはずなのに。
「今年はさ」
トンパの声が、少しだけ変わった。
「ちょっと、割に合わないんだよね」
ユズルは眉を寄せた。
「割に合わない?」
「うん。新人潰しは楽しいよ。楽しいから、俺は何度も受けてる」
少年が息を呑んだ。
トンパは悪びれなかった。
「でもさ、命を張ってまで合格したいわけじゃない。俺はハンターになりたいんじゃない。ハンター試験を楽しみたいだけ」
その言葉は、あまりにもトンパらしかった。
ユズルは怒りを感じた。
同時に、少しだけ理解してしまった。
トンパは悪意を持っている。
でも、目的は単純だ。
勝ちたいのではない。
受かりたいのでもない。
人が落ちるところを見たい。
それだけ。
「でも今年は、あれがいた」
トンパはヒソカのことを言っているのだろう。
「あれは駄目だよ。新人潰しとか、そういう遊びじゃない。近くにいたら、こっちが潰れる」
トンパは笑った。
今度は、はっきり疲れた笑顔だった。
「だから、今年はここまで」
トンパは首から自分の守札を外した。
ユズルの体が強張る。
「はい」
トンパは、札を軽く投げた。
ユズルは反射的に受け取った。
二百二十三。
標的札。
トンパの守札。
これで、ユズルは条件を満たした。
あまりにあっさりしていた。
ユズルは札を見つめた。
「……いいんですか」
「いいんだよ。俺はもう落ちる」
「どうして」
「言ったでしょ。割に合わない」
トンパは肩をすくめた。
「それに、君に追いかけ回されるのも面倒そうだしね」
「僕は」
「怒ってるでしょ」
ユズルは黙った。
トンパは笑った。
「そういう新人、嫌いじゃないよ。自分が正しいと思って怒れる子は、見てて面白い」
「面白い、ですか」
「うん」
ユズルの胸の中で、怒りがまた熱を持つ。
けれど、殴りたいとは少し違った。
この人は、たぶん変わらない。
責めても、説得しても、謝らせても、変わらない。
トンパはトンパのままだ。
それが分かることが、少し苦しかった。
少年が震える声で言った。
「なんで……こんなこと」
トンパは少年を見た。
「ハンター試験だから」
「そんな理由で」
「そんな理由で人が落ちる場所だよ、ここは」
トンパは軽く手を振った。
「まあ、君は助かったね。ユズルくんのおかげで」
少年は唇を噛んだ。
ユズルはトンパを見た。
「もう、誰かを落とそうとしないんですか」
「今年はね」
「来年は?」
トンパは笑った。
いつもの笑顔に近かった。
「さあ。来年のことは、来年考えるよ」
ユズルは、何も言えなかった。
来年。
この男はまた来るのかもしれない。
また新人を騙し、落とし、笑うのかもしれない。
自分が今ここで何かしても、止められない。
それが、悔しかった。
黒い子牛が隣に立っている。
ユズルは札を握った。
トンパを倒したわけではない。
言い負かしたわけでもない。
改心させたわけでもない。
ただ、トンパが自分で降りた。
それだけ。
勝った気はしなかった。
それでも、少年は落ちなかった。
自分の標的札は手に入った。
今できたことは、それだった。
トンパは谷の入口とは逆の道へ歩き出した。
「じゃあね、ユズルくん」
初めて、名前で呼ばれた気がした。
それが妙に嫌だった。
「合格できるといいね」
ユズルは返事をしなかった。
トンパはそのまま岩壁の向こうへ消えた。
抗議も、悲鳴も、怒号もない。
ただ、あっさりと消えた。
少年は地面に座り込んだ。
「僕……また、騙されるところでした」
ユズルは隣にしゃがんだ。
「僕も、何度も騙されそうになりました」
「でも、あなたは止めてくれました」
「止められたのは、今回は、です」
ユズルはトンパが消えた道を見た。
「全部は止められません」
少年は黙った。
ユズルは自分の守札と、トンパの札を確認した。
自分の三点。
標的の三点。
六点。
条件は満たした。
だが、このまま出口へ向かうべきか。
少年をどうするか。
ユズルは少年に尋ねた。
「あなたの標的は、誰ですか」
少年は少し迷ったが、封筒を開いて見せた。
番号は、ユズルのものではなかった。
ユズルはほっとした。
だが、少年はまだ点数が足りない。
「自分の札はありますか」
「あります」
「なら、あと一点あれば通れます」
「でも、誰かの札を奪わないと」
少年の声は沈んでいた。
さっきの出来事で、誰かから札を奪うこと自体に怯えているようだった。
ユズルは少し考えた。
自分には余裕がある。
ただし、札を渡せばどうなる。
自分の守札は渡せない。
トンパの札は標的札だから三点。これを渡すと、自分は三点になり足りない。
他の札は持っていない。
助けたい。
でも、今は渡せるものがない。
ユズルはその事実に、胸の奥が少し痛んだ。
「出口まで、一緒に行きましょう」
ユズルは言った。
「途中で、点数を取る機会があるかもしれません。でも、危ない場所は避けます」
「いいんですか」
「はい」
少年は少しだけ表情を緩めた。
だが、ユズルは自分に言い聞かせた。
全部は助けられない。
でも、出口まで同行することはできる。
札を取るかどうかは、その時に判断する。
ユズルは立ち上がった。
丑が隣に立つ。
岩迷路の奥から、遠くで誰かの叫び声が聞こえた。
別の場所では、受験者同士の争いが始まっているのだろう。
四次試験はまだ終わっていない。
トンパは試験を降りた。
けれど、試験は続く。
ヒソカがいなくなっても。
トンパが降りても。
ここに残った者たちは、それぞれ自分の札を守り、誰かの札を狙わなければならない。
ユズルは首から下げた守札に触れた。
金属の冷たさが指先に伝わる。
自分の番号。
自分の点数。
自分の立つ場所。
トンパを倒したわけではない。
でも、トンパの罠で誰かが落ちるのを、一つだけ止めた。
それで十分かどうかは分からない。
けれど、今は進むしかない。
ユズルは少年に言った。
「行きましょう」
少年は頷いた。
二人は、砂鳴りの谷を迂回して、岩迷路の奥へ進み始めた。
黒い子牛が、その後を静かについてくる。
ユズルの胸には、まだ怒りが残っていた。
けれど、その怒りはもう、足元を焼く火ではなかった。
進むための、小さな熱になっていた。