9月の初め。栗東のオフィスにて。
喜多野裕二は決めかねていた。顎に手をやり、呻くような声を出している。
「うぅむ……結果的に影響はなかった、ということだが」
「はい。それどころか、輸送疲れもありませんわ。やろうと思えば、いつでも欧州に行けまっせ」
「タフなんてレベルではないな、いつものことながら」
この場にいるのは生江康夫調教師と、生江俊之調教助手。
3人で集まって確認しているのは、メジロシャーロックの状態だ。
激戦だったキングジョージ。
帯同馬だったハーツクライが屈腱炎を発症したこともあり、念のためにと帰国させた。
シャーロックも無事ではないかもしれない。最悪を想定して、日本に一度帰ってきた方がいい。
引退するかどうかは、状態を見て決めよう。
反論はない。自分達の相違だった。
結果は……全くの問題なし。
最初から最後まで続いた消耗戦。どこかにダメージが蓄積していてもおかしくないはずなのに。
どこにも異常は見当たらなかった。ひとまず、安堵したのは記憶に新しい。
無事なのは分かった。
では、次走はどうするか? どこで走るのが良いか?
次の焦点は、レースへと向けられた。
第一案は、もう一度欧州に渡るというもの。
前哨戦を挟まず、凱旋門賞に直接挑もう、というプランだ。
また長距離輸送になるので、馬によってはかなりのストレスになるのだが。
「シャーロックは輸送に強いです。もう一度渡ることになっても、ケロッとしとるでしょう」
「その姿は容易に想像がつきますね。最初のイギリス遠征の時もそうでした」
「本来無視できないストレスがあるものですが、シャーロックは苦にしません。康夫調教師の言うように、問題自体はないかと」
メジロシャーロックならば問題にはならない。
最初の遠征でも、すぐさま放牧地で走り回るほどの元気があったのだ。
輸送疲れもない、ストレスもない。
短期間で出戻りになったとしても、好調を維持したまま走ることが出来る。
康夫たちはそう断言した。
とはいえ、あまりやりたくないというのが現実。
「やはり、馬のことを思えば無理強いはできない、というのが私の意見です。ただでさえ一度帰ってきているわけですから」
「ん~……まぁ、裕二さんの意見も分かりますわ。っちゅうか、普通はそうやし」
「また1週間後には検疫厩舎、なんて事態になりますからね」
いくらタフとはいえ、60日ルールを避けるためみたいな出戻りはいかがなものか?
これもまた事実として存在していた。
見えないところで消耗しているかもしれない。もしもを考えたら、そう簡単にGOサインは出せない。
難しい判断だった。
となれば、日本で走るのか?
これもまた厳しい。
「やけども裕二さん。シャーロックは日本やとほぼ確で避けられます。出走登録した瞬間、蜘蛛の子を散らすように回避される。よう分かっとるでしょ?」
「そこがまた、我々の頭を悩ませているところですね……。シャーロックが日本で走れるレースは、あまりにも少ない」
シャーロックは日本で格の違いを見せつけ過ぎた。
出走すると分かれば、賞金積以外での出走がほぼなくなる。
勝てない勝負はしたくない、自分達の馬が惨めな思いをするのは嫌だ。
強くなりすぎたがための、弊害だ。
現状、シャーロックが走れるのは海外戦しかない。
その海外戦でさえも、シャーロックは避けられている。
もはや引退した方がいいのではないか? そう思ってしまうほどに。
だが、つい最近フランスの報道陣からこんなニュースが発信された。
主に欧州の競走馬に向けられたものである。
「真の王者がいない世界最強決定戦に何の意味があるのか?」
「今年の凱旋門賞は、逃げ腰の弱腰しか集まらなかったレースだ」
「強い馬がいるから出走回避など、凱旋門賞の名誉を汚す行為である」
なんともまぁ、恐れを知らない報道陣である。
自国どころか、欧州の競走馬と携わる関係者相手にケンカを売ったのだから。
そりゃあメジロシャーロックがフランスで走る! なんて思っていたところに、出走回避が相次いでレース自体が危ぶまれるなど、許せるわけもないだろう。
このニュースに対し、関係者側は当然激怒。
抗議文を即座に出して対抗、真っ向から殴り合うことを選択した。
判断としては間違ってないのかもしれない。バカにされているのだから、我慢はできないはずだ。
ただ、問題があるとすれば……市民サイドがメディア側に回っていることだろう。
「シャーロックを凱旋門賞に、て言うてるらしいですよ? 連日のように、デモみたいなことになっとるみたいです」
「は、はは。あの子は本当に、愛されている……の、ですかね?」
「愛されてはいると思います。暴走しているだけで」
フランス市民はメディアの意見を全面的に支持。
メジロシャーロックを凱旋門賞に、と今でも声を上げているそうだ。
さすがは帰国する、と発表した際にめちゃくちゃ引き止めてきた人達である。
「我が国でもレースを! 現地で観戦したいんだ!」
「お願い! もう観戦する準備を万全に整えているの! シャーロックを凱旋門賞に!」
「お願いだ日本! どうかメジロシャーロックを凱旋門賞に出してくれ!」
ほんの一部だが、今もこんな声が自分達の耳に届いている。
ファンからの愛されっぷりに、苦笑いを浮かべるしかなかった。
「大事にならなければいいんですが……」
「まぁ、大丈夫やと思います。警察も動いとるでしょうし」
「警察が動くような事態になってる時点で、もうダメだと思いますテキ」
相変わらず、ファンと関係者の間で対立を生んでいる。
なんとも難しい状況だった。
だが、今はその状況にも変化が出ている。
理由は、ハリケーンラン陣営の言葉だ。
ハリケーンランはキングジョージに出走していた。
世紀の大決戦、死闘を演じた馬の一頭。
前年度の凱旋門賞覇者は、インタビューでこんな言葉を零した。
「世界王者がこないのが残念でならない。こちらは迎え撃つ準備を済ませていたというのに」
残念そうに、戦うことを楽しみにしていた発言を残している。
どの陣営も回避を選択する中で、真っ向から戦う道を選んでいた。
また、回避を選択する陣営についても。
「仕方がないかもしれない。彼は、メジロシャーロックはそれほど強い馬だ。勝つのは容易ではないし、回避も視野に入るだろう」
「だが、彼ほどの馬と同じ時代に生まれたのはある種幸運だ。神に挑むチャンスを与えられているわけだからね」
「神を倒せば箔がつく。我々の馬は素晴らしい、という証明にもなるんだ。ならば挑むさ。負けないような強さを持っていると、我々は自負しているからね」
納得はしている。悪いことではないと擁護し。
それでもなお、自分達が挑む理由について語った。
メジロシャーロックは神に愛された競走馬であり、まさしく神話の世界から出てきたような馬だと。
その神と戦い競うことは栄誉であり、勝つのを目指すのは当然のことであると残した。
最初聞いた時は大仰な、と思ったが、同時に嬉しく思った。
「シャーロックのことをこんなにも評価してくれて。嬉しい限りですよ」
「ホンマにですわ。避けられるんが当たり前みたいになっとったのに、真っ向から向かってくれるんですから」
「感謝しなければなりませんね。ハリケーンラン陣営のおかげで、変化が起き始めていますから」
俊之の言葉に頷く、康夫と裕二の2人。
そう、この発言が広がったところで、変化が起き始めていたのだ。
まず、出走回避を撤回する声が上がるようになった。
やはり凱旋門賞に出ると、メジロシャーロックがいても関係ないと口にする陣営が多数。
出走を仄めかすようになってきたのだ。
まだメジロシャーロックは、凱旋門賞出走を取り消したわけじゃない。
可能性は0じゃない、低くとも十分にある。
けど、回避を撤回した。
メジロシャーロックと戦うことを選択した。
シャーロックの走る姿が見れる、楽しそうに走る姿が見れる。
それの、なんと嬉しいことか。
「今んとこ、出走表明は10を超えとるらしいです。シャーロックも入れて、ですね」
「……前までが1、ということを考えれば」
「10倍ですね。不成立、っちゅうことにはまずならんでしょう」
思わず目頭を押さえる裕二だった。
と、ポジティブな話題が増えたことにより、メジロシャーロック陣営には迷いが生まれている。
このまま日本に留まって引退するか、それとも凱旋門賞、もしくはそれ以外のレースに出走する道を選ぶか。
ちなみに、凱旋門賞の次点はBCターフだ。
アメリカの芝2400m。ここにも一応登録はしてある。
「期間を考えたら、BCターフなのでしょうが。それでも、求めてしまうのが人間の性、なのかもしれません」
「凱旋門賞はスピードシンボリの時代からありましたからね。挑戦の歴史は長い」
「近年やったら、マンハッタンカフェにタップダンスシチー。惜しいっちゅうことやったら、エルコンドルパサーが挙げられるな」
しかし、凱旋門賞は特別な称号だ。
日本が欲してやまない栄誉。是が非でも取りたい称号。
エルコンドルパサーが2着に入ったことで、制覇が現実味を帯びてきた。
そして、出てきたのである。
凱旋門賞を取れる馬が、間違いなく制覇できるサラブレッドが誕生した。
世界に通用する馬、なんてレベルじゃない。すでに世界の頂点を獲った馬が出てきたのだ。
となれば、夢を見たくなるのが人間。期待をしたくなる。
「シャーロックを凱旋門賞に、っちゅう声がめっちゃ多いっすわ。ま~仕方ないと思います」
「勝利がほぼ確実視されていますからね。そのせいで、テキは胃が痛いらしいですが」
「胃潰瘍になりそうやわ。洒落抜きで」
凱旋門賞制覇という夢を、乗せたくなるのだ。
夢はいつしか呪いになる。
呪いになる前に、断ち切って欲しい。
メジロシャーロックならば、それができる。ファンはそう信じている。
現実的な見方をするなら、BCターフの出走。
夢を追いかけるのであれば、凱旋門賞の出走。
より安全な道を取るのであれば、引退して種牡馬に。
2つのレースと1つの選択肢で悩むオーナー、喜多野裕二。
悩みに悩んだ。どうするのが正解であるのかを。
(悩ましい問題だ、本当に。美弥さんがいたならば、なんて答えたのだろうか?)
今は亡き前オーナーのことを思い出す。
あの人ならばどんな選択をしたのか? シャーロックに、どんな道に進ませたのか?
少しだけ気になって。頭を横に振って考えを振り払う。
(考えるべきは私、責任を負うのは私だ。私が、やりたいことはっ)
「では、康夫さん。次のレースですが」
覚悟を決めた。
メジロシャーロックの次走を決めた。
生江康夫は姿勢を正す。
一言一句聞き逃さないように、耳を澄ませる。
喜多野裕二の口から出てきた、レースの名前は。
「──凱旋門賞に出ましょう。夢を、追いかけたくなりました」
「……ホンマにええんですか?」
「勿論、出発前にシャーロックの体調です。大丈夫かどうかをチェックするのを大前提に、問題がないようなら凱旋門賞に出ます」
凱旋門賞。
フランスの、世界最高峰のレースを、選択した。
「全ての責任は私が負います。一緒に夢を追いかけてくれませんか?」
手を差し出す裕二。
その手を康夫は……迷うことなく取った。
「任せたってください。シャーロックも勿論、ばっちり管理しますわ」
「テキがそう判断したのであれば、俺はそれに従うのみです。日本のことはお任せを」
メジロシャーロックの次走は、凱旋門賞に決まった。
世界最高峰の舞台へと、世界最強の神に愛された馬が挑む。
◇
また、凱旋門賞挑戦はメジロシャーロックだけではない。
「やったら、向こうにおるディープと合流ですね。寛君もえぇ顔……せんわな。またディープと選択せなあかんわけやし」
「確か、金古さんをどうにか説得したんでしたよね? なんて説得したんですか?」
「ディープかて勝てる素質は十分あります、敵はシャーロック以外日本におりません。世界に目を向けましょう言うて、なんとか説き伏せたわ」
ディープインパクトもまた、凱旋門賞へと挑戦する。
ステップレースにフォワ賞を挟んで、出走を予定していた。
これに関して、馬主である金古氏は。
「正直、相手が相手ですが。挑まずに逃げるのはもったいないかな、と」
「折れていました、諦めようと思っていました。けれども……やはり、夢は捨てきれなかったのかもしれません」
「なにより、キングジョージのハーツクライ陣営に勇気づけられました。諦めずに挑む姿が、かっこよく映り、自分は何をやっているのかと、そう見つめ直す良い機会になりました」
「男らしくないかもしれませんが、発言を撤回します。シャーロックが出走するかもしれない凱旋門賞に。日本の夢に、照準を合わせようと思っています」
そう語った。
次走は凱旋門賞に。後岳さんはまた曇らされる。