ついに来た、凱旋門賞の日が。
パリロンシャンに集った優駿達。ファンは拍手で迎え入れる。
今回の凱旋門賞に集ったファンは、分からない。
ただ、パリロンシャン競馬場を埋め尽くすほどの人だ。
国籍問わず、この日のために訪れたと言っても過言ではない。
世界最強の競走馬、メジロシャーロックのラストラン。
歴史と伝統、栄誉のあるレース。世界一を決めるに相応しい舞台で、世界最強が走る。
遠い異国の地を訪れるには、十分すぎる理由だ。
集ったメンバーも豪華。ほぼ全ての馬が最高峰のG1レースを制した経験がある。
日本の無敗の三冠馬。昨年の凱旋門賞馬。
イギリス3歳馬の頂点に、フランス3歳馬の若武者。
まさしく、芝の世界一を決めるのに相応しい舞台が整った、と言っていい。
「『ついに、ついにこの日が来たんだな。待ちわびたぞ、凱旋門賞!』」
「メジロシャーロックのために、日本から応援に来たんだ。頑張ってくれよ、シャーロック!」
「『地元の意地を見せてくれよー、連覇だハリケーンラーン!』」
ターフに姿を現す競走馬を見て、会場のボルテージは上がり続けている。
いま世界で最も暑い場所は、間違いなくここ──パリロンシャン競馬場だ。
各馬返し馬を済ませる中で、ディープインパクトに騎乗する岳寛は、メジロシャーロックのいる方を睨みつける。
お互いに絶好のコンディションであることは確認済み。
メジロシャーロックもディープインパクトも、風邪一つ引かないでここまで来た。
(正真正銘、シャーロックに挑むラストチャンスだ。ここで、勝つ。勝って、僕は凱旋門賞ジョッキーの栄誉を手に入れてみせる)
「勝負だ、メジロシャーロック。僕は、ディープインパクトと一緒に、君に勝つ」
気合十分、闘志溢れる背中。
標的はただ一頭のみ。メジロシャーロックだけだ。
他の騎手もまた、視線が一ヵ所に集中している。
「『完璧、だね。これは、手強いレースになりそうだ。彼が走るレースで、楽だったことなんて一度もないけど』」
「『初めて対峙する、世界最強の競走馬。けれど、サーパーシーならば』」
「『斤量の差はこちらが有利。後は、メジロシャーロックをどう攻略するか、だ』」
メジロシャーロック。圧倒的一番人気にして、頂に君臨する神に愛された競走馬。
22戦22勝。重賞21連勝に、G1を12連勝。
騎乗する騎手は、世界一の騎手とも呼ばれるフランキー。ステファーノ・フランキー・デルトリ。
相手にとって不足はない。一度は臆した相手だが、この場に立つ以上臆することはない。
世界最強のコンビを相手に勝ち星をあげる。
名実ともに、世界一の称号を手に入れる。そのために、ここに集ったのだから。
負けられない。決意を新たにして、12頭と12人は気合を入れていた。
そして、視線を受け止めるデルトリとシャーロックのコンビは。
「オレら、大人気みたいだネ、シャーロック。誰も彼もが、オレたちに注目しているヨ」
(だろうな。これまでのこと考えたら、当然だけど)
変わらない。
プレッシャーもなにもない。デルトリに至っては笑みすら浮かべている。
余裕? 違う。
あくまでいつも通りを貫いているだけだ。
メジロシャーロックの引退レースだろうが関係ない。
無敗の競走馬だろうが関係ない。
大観衆に注目されていようが関係ない。
デルトリはただ、いつも通りに騎乗するだけ。
メジロシャーロックに騎乗して、最高のパフォーマンスを発揮する。そして勝つ。
たった、それだけのことだ。
「いいかイ、シャロ。声を出して指示はしないヨ。下手したラ、聞かれちゃうかもしれないしネ」
(さすがにねぇと思うけどなぁ。了解)
「手綱の動きで指示を出ス。絞ったリ、緩めたりしてナ。ペースを貫けバ、負けないサ」
順調に済ませて、悠然と迎え撃つのみ。
自分達は王者。挑まれる立場のコンビだ。
挑戦者を跳ね除け、レースの栄光を手にする。それだけだ。
デルトリの言葉を分かっているように、シャーロックは首を下げて頷く。
確認して、デルトリは満足げに笑った。
「『それでは、ゲート入りの準備をお願いします。まずは』」
枠入りの時間がやってくる。
一頭、また一頭と。
ゲートに収まっていく。
《この日を迎えました。第85回凱旋門賞。晴れ空が広がるパリロンシャン競馬場、芝は良馬場の発表です。集った馬は一流ばかり、その中でも選りすぐりの精鋭達です。ですが、標的とするのはただ一頭。このレースで引退を表明している世界最強の競走馬、メジロシャーロックに絶対勝つ。どの陣営も、そう答えました》
《ファンに惜しまれながらだね。引退レースをここロンシャンでやってくれてありがとうなのか、それともまだ走って欲しいなのか。我々も気持ちの整理がつかないよ》
《同じ気持ちのファンはたくさんいることでしょう。ダントツの一番人気、メジロシャーロックは10枠からの出走となります。外目の番号、これがどう影響するのか? すでに鞍上デルトリの頭の中には、勝利の道筋が描けているのか? 注目が集まります》
最後の馬がゲートへと入る。
緊張した空気。
泣いても笑っても、メジロシャーロックはこのレースが最後。
(……勝つさ。それが、ファンの期待だ)
シャーロック自身も、気合いを入れて臨んでいる。
静まり返ったフランスの空気を切り裂いて──ゲートが開く。
競走馬達が一斉に飛び出す。
《凱旋門賞が今っ、スタートしました! 始まりました凱旋門賞、芝の世界一決定戦! まずまずのスタートを切ります各馬、メジロシャーロックが外から行きます。逃がさないとシロッコも前に出る、大外エンフォーサーも来ました》
《内からはハリケーンランとディープインパクトが飛び出しているね。マンデシャとサーパーシーは、控えるかな?》
《誰がペースを握るか? メジロシャーロックにペースを握らせるわけにはいかないとシロッコが競りかけます。果敢に競りかけるシロッコ、メジロシャーロックはどう動くか!》
凱旋門賞が始まった。
◇
展開は、おおよそ予想通りだった。
メジロシャーロックに集中するマーク。必然、後方のマークはおざなりに。
《先頭を走るのはシロッコ、シロッコが先頭でペースを握ります。半馬身後ろ、外目につけますメジロシャーロック。エンフォーサーがさらに外から被さる、内の4番手にディープインパクト、そしてハリケーンラン。ディープインパクトはフォワ賞と同じ積極的な先行策に出ました》
《後方からの捲りを得意とする馬だけど、対メジロシャーロック用の秘策かな? フォワ賞でも勝てることを十分に証明したし、これは面白いことになりそうだ》
《固まった馬群が向こう正面を走ります。歓声の上がる場内、メジロシャーロックは現在2番手追走。おっと、少しペースを上げてシロッコに並ぶか? いや、これはシロッコも負けじと上がります。メジロシャーロックの好きにはさせないぞと動く》
熾烈な位置取り争いが繰り広げられる先頭集団。
その後ろで、サーパーシーと先頭とした後方集団は待機する構えだ。
無理にはいかない、漁夫の利を狙う。
自分のペースを貫いて、仕掛けどころを見誤らないように。落ち着いてレースを展開することが大事だと、前を見据える。
(そうだ。いくらマークすべきだからと言って、自分達のペースを崩してはいけない)
(確かにメジロシャーロックは強い。あのマークも、どれほど効いているか。しかし)
(自分達の馬の実力を信じるのみだ!)
崩れる気は毛頭ない。前で勝手に潰し合え。
後続勢は早々に位置取り争いを終え、ペースの維持に努めていた。
では、先行勢はどうか?
内を走るディープインパクト、鞍上の岳はしきりに外を見る。
(……シャーロックのペースは、どうなっている?)
外を走っているであろう、メジロシャーロックを観察するためだ。
自分でペースを作れる馬。
外で走りつつ、今どんなペースで走っているのか? 探るために外へと視線を送る。
だが、上手くいかない。
内側を走っている岳と、外を走るシャーロックの間には別の馬がいる。
上手く壁になっているせいで、中止することができない。観察は不可能だった。
なら、仕方ない。
(ディープの気性を抑えつつ、ペースを維持する。それが最適解だ)
早々に切り替えた。
シャーロックの注視を止め、ディープの手綱を動かすことに意識を向ける。
元々、ディープインパクトはいきたがりの気性だ。
走りたがり、とでも言うべきか。加減が効かない、出来ないタイプ。
馬本来の気性であるため、矯正することは出来ず。むしろディープの強みをなくすと思い、そのままにしていた。
いかにこの気性をコントロールするかが腕の見せ所。
しっかりと制御できれば、シャーロックにだって負けない強さを発揮できる。
(ディープならば勝てる。そう信じているからこそ、僕は手綱を握っているんだ)
「勝つさ。もう、負けない!」
隣を走る馬を見る。
本当なら、もう一つの弱点として併せられると気を抜く癖もあった。
そちらはすでに矯正済み。しっかりと、前を向いて走れている。
少しも気を抜いていない。
シャロさんには負けないぞ
それでいい、ディープ。その調子だ
メジロシャーロックのおかげである。目標があるおかげで、ディープの悪癖は改善されていた。
不安要素はなし。勝利に向かって、視界を広げる。
《位置取り争いは落ち着いてきたか? いや、またもシロッコに競りかけるメジロシャーロック。追われるシロッコ、お前に先頭は譲らないとペースを上げます。エンフォーサーがシロッコに追いついた。シロッコとエンフォーサー、そしてペイパルブルの3頭が先頭争い。4番手になったメジロシャーロック、果敢に行きます》
問題はない。岳はそう信じていた。
さぁ、外を走るメジロシャーロックだが。
鞍上のデルトリが手綱を握る。
時折締め、かと思えば緩め。と思ったらまた締め。
しきりに手綱を動かしている。
デルトリの手綱に反応して、シャーロックはペースをコントロールする。
ペースを指示するデルトリは、内側を見ながらレースを展開。
(さて、ト。イイ感じに内からは見えない位置ダ。この調子デ、仕込みを整えヨウ)
全体のペースを……狂わせていた。
傍から見たら、メジロシャーロックの動きは不可解だ。
先頭を奪うように動いた。
かと思えば、引き下がって番手を下げる。
下がったと思えばまた行き、なにかを確認したら再び下がる。
およそまともなペースで走っているとは思えない。
マークしている側も、動きについてこれていない。
《シロッコが先頭で走ります。シロッコそしてエンフォーサー、内からペイパルブル。エンフォーサーのさらに外からシックスティーズアイコンが競りかけてきました。熾烈な先頭争い、もうそろそろ落ち着きたいところだぞ》
《これは、メジロシャーロックにあてられたね。マークするあまり、周りが見えてないみたいだ》
《おっと、ペイパルブルを追走し始めるか? ディープインパクトも少し行く素振りを見せている。だがここは岳寛が抑えている、必死に抑えている岳寛。まもなくコーナー、下りに入ります。サーパーシーを先頭にした後方集団は悠々とついていきます。先行集団の一番後ろ、メジロシャーロックから3馬身ほど離れた位置に後方集団はつけている》
上手い具合に誘導され、馬のコントロールが効かなくなる。
必死に手綱を抑えるが、喧嘩をするよりは行かせた方が消耗は少ないと、道中で落ち着かせるべきだと判断して諦める。
結果として、全体のペースが上がった。
ここまでが、デルトリの目論見通り。
(本当に凄い馬ダネ。こんな変則的なペースでモ、しっかりと応えてくれるんだから)
「『さすがは世界最強だ。叶うことなら、ずっと騎乗していたいよ。岳が羨ましくて仕方ない』」
周りのペースを撹乱した。
望み通りのハイペースを作り出せた。
そして自分達は……適宜休憩しながら走ることができている。
普通は無理だ。
ハロンごとにハイペースとスローペース、交互に織り交ぜて走ることなんて。
相当賢くないとできない。馬の気性が穏やかでないと無理な芸当。
騎手側の技量も求められる。正確な体内時計に、制御する力。どちらも備わってないと実現不可能だ。
だが、出来る。
メジロシャーロックとデルトリならば可能だ。
実際に実現している。
幻惑逃げのような芸当を、メジロシャーロックはやっていた。
もっと恐ろしいことに、周りを煽ってペースをかき乱している。
マークされていることを逆手にとって、オーバーペースで走らせた。
前のペースが上がれば、我慢できない馬はついていく。
一頭釣られたらまた一頭。あれよあれよと術中に嵌っていく。
すでにシャーロックとデルトリの手中に収まりつつあった。
……ごくわずかな馬を除いて。
《内を走るハリケーンラン、メジロシャーロックに並びます。メジロシャーロックに併せるハリケーンラン、お前は逃がさないぞと並んできました。キングジョージの雪辱を果たしたいハリケーンラン、お前は逃がさないとぴったりとマークする!》
《マンマークしているね。これはメジロシャーロック側も相当厳しいと思うよ》
《内を走るディープインパクトようやく落ち着いたか? ハリケーンランとメジロシャーロックの前を走るディープインパクト先頭から6番手7番手の位置。メジロシャーロックとハリケーンランから4馬身ほど離れてサーパーシー、プライド、マンデシャ、レイルリンクと続きます。最後方はアイリッシュウェルズ》
ハリケーンランが競りかけてきた。
逃がさない。そう言わんばかりに隣を走る。
デルトリは、笑う。
「『競り合い、か。なら、これでも着いてくるかい!』」
手綱を緩めた。
行けの合図。メジロシャーロックは攻め立てる。
負けじとペースを上げるハリケーンラン。
騎手側は、躊躇する。
なぜならば、そこはロンシャンのコーナー。
まだ半分も走り終わっていない地点。もうすぐ下り坂に入ろうとする場面。
メジロシャーロックは、5馬身は先にいる先頭に追い付こうとペースを上げ始めた。
一瞬躊躇したが、キッと前を睨んで覚悟を決める。
《コーナーを前にして、メジロシャーロックが上がってきました。メジロシャーロックとハリケーンランが上がっていく、2頭が外から上がっていく! これは随分と早い仕掛けだ、どういう意図があるのかデルトリ!》
決めていた。メジロシャーロックをマークすると。
ならば最後まで着いていく。それがベストな選択肢だ。
腹を括るハリケーンランの騎手。
その選択に対してデルトリは──笑みを浮かべた。
(さて、と。ここから第二段階。場合によっては)
これで勝負が決まる。誰にも聞こえない声で、そう呟いた。