コーナーを待たずに、メジロシャーロックが仕掛けた。
デルトリの手綱に応えるように、位置取りを押し上げていく。
《外から上がるメジロシャーロックとハリケーンラン、2頭が上がっていきます! この動きを見て周りはどうするか? 内で控えるディープインパクト、この動き出しにはついていかないっ、いや、着いていくか? 迷う素振りを見せている》
《ただ、前が厳しいね。シロッコら先頭集団が邪魔になっているから、容易には上がれないよ》
《鞍上の岳寛ここはいきません。コーナーの手前ということを考えて、ここはいかない選択を取りました。シロッコら先頭集団はペースを落とさない、後方集団はまだ控える形だ》
内側を走るディープインパクトは、まだいくべきではないと判断。
(間違いなく、シャーロックのことだからなにかしてくる。というよりも、すでに仕掛けている。だけど……ここで動くのは悪手だ)
ロンシャンのコーナーは下り坂。
加えて、前が壁になっている。抜くためには、外を回る必要があるだろう。
ようやく中盤戦の初め。無理をして強引に抜かすよりは、最後の勝負のために温存しておくべきだと考えていた。
ただ、岳の胸中は穏やかではない。
このタイミングでメジロシャーロックが動いた。
それ即ち、なにか仕掛けてくる合図。長年の勘と、手綱を握ってきた信頼、なによりも……騎乗しているのがあのデルトリだから。
(いやらしい技だ。分かっていても、ここは動かない選択肢を取るしかない。下手したら、掲示板外に沈まされる)
「厄介だよ、本当にっ」
行きたがるディープインパクトを抑え込み、後方勢と一緒に静観する構えを取る。
その間にも、メジロシャーロックはどんどん前へ。
下り坂を利用して、加速をつけている。
(シャーロック最大の弱点である加速の甘さ。それを補うための下り坂、か。だとしても、仕掛けるのが早すぎるっ)
油断はしない。慢心もない。
感じるのは焦燥。間違いなくなにかを仕掛けられているのに、その仕掛けが分からない。
考えを巡らせるが、答えは一向に出てこない。
迷った末に、岳は動かない選択をした。
ディープインパクトの勝負所はここではない。
見誤って、勝ちを逃すことだけは避けたいから。勝負の分かれ目を見極めるために、ここで動くのは分が悪いと判断した。
《メジロシャーロックとハリケーンランが外から上がります。サーパーシーら後方集団は、まだ動かない。じっくりと機会を窺います》
《ハイペースで流れているから後方有利だ。3歳馬は後方に固まっているね》
《最初はいく素振りを見せていたペイパルブル、ここで折り合いがついたか? ディープインパクトに並びます。先頭集団から5馬身、6馬身離れた位置につけているディープインパクト。メジロシャーロックは先頭集団まで2馬身圏内に迫りました。ハリケーンランがぴったりとマークしています》
不安を振り払い、自分の技術と馬の素質を信じて手綱を握る。
(春天のようにはいかない!)
キッと、前を見据えていた。
外から上がるメジロシャーロック。鞍上のデルトリは内へと視線を送る。
壁が外れた、というよりは外した。
間にいた馬は先頭集団に混ざったので、ディープインパクトの姿がよく見える。
位置を確認。
大まかなペースを把握した後、下り坂を一気に駆け降りる。
(ハリケーンランのマークは構わない。想定していたし、問題ないようにしてきた。だって……消耗戦で潰せばいいのだから)
これは、メジロシャーロック唯一の弱点を補うためのものだ。
加速が甘いという弱点を、この下り坂で帳消しにする。
(エンジンを温める時間。後半戦で0を100にするのではなく、50を100にできるように。準備をしっかり整えておかなきゃね)
周りを見ることを怠らずに、惑わすようなペースで支配。
マークされていることを逆手に取って、わざと乱れたペースで走っていた。
無論、シャーロックも相応の消耗があるが。
(オレとの呼吸が合っている。無理やり動かしていない、連携が上手く取れているから、消耗は少なく済んでいる)
「『本当に、最高の馬だよシャロ。世界最強の競走馬、騎手にとっての理想形だ』」
他馬よりも少ない消耗で済んでいる。
それも、圧倒的に。他よりも明らかに余裕を持って進軍していた。
騎乗していてつくづく思う。
メジロシャーロックはとてつもない馬だと。
(馬は生き物だ。馬には馬のやりたいことがある。そのやりたいことが、オレたちジョッキーと一致するとは限らない)
馬は意思のある生き物。当然、自分のやりたいこと、優先したいことというものがある。
それをいかにしてコントロールするかが、騎手としての腕の見せ所。
一流と呼ばれるジョッキーは、このコントロールが上手い。馬の力を限りなく100%、発揮することができる。
100%とは言わずとも、限りなく近い数値をいかにして出すか。これが、競馬では大事になってくる。
対して、シャーロックはどうか?
騎手の指示に従順、かつ自分で最適解を選べる。
喧嘩をすることはないし、無理に行こうともしない。
自分の手足のように動かせるのだ。これほど乗っていて気持ちの良い馬はいない。
(常に100%の実力を発揮できる馬。その日におけるベストを披露することができる!)
デルトリもまた、シャーロックに騎乗して感じた。
底知れない強さ。周りを圧倒する知性に、突き抜けた才覚。
全てを高水準でこなす完璧な競走馬──パーフェクトサラブレッド、と。
現代競馬における最高到達点。今この世界に、メジロシャーロック以上の馬はいない。
コーナーの下り坂を駆け抜けながら、胸の高揚が抑えきれずにいた。
(……っとと。ちょっとでも気を抜いたら、我を忘れて乗っちまうな。それだけの名馬、ってことなんだけど)
しかし、頭は冷静に。
自らの体内時計に従い、ペースをコントロールする。
《コーナーを曲がって、勝負はフォルスストレートへと入ります。先頭はシロッコ、やや脚色が鈍くなってきたか? シロッコ、エンフォーサー、シックスティーズアイコンと続いて、ついにシックスティーズアイコンらに並びました! メジロシャーロックとハリケーンランが先頭集団に追いつきます!》
《さて、早いペースで流れているけど、これは大丈夫かな? 先頭のペースは鈍くなりつつあるけど》
《メジロシャーロックから離れて2馬身の位置にペイパルブル。ペイパルブルからさらに3馬身離れてディープインパクトが単独で走っています。ちょっと外目につけているか? ディープインパクトの後ろからじわじわと上がってくるサーパーシー、サーパーシーが上がってきました》
正確。ほぼ誤差なしで刻めている。
確認する術はない。けれど経験則で理解できる。
(さて、後はじわりと上がり続けるだけ。内側は、もう終わりだ)
「ゴー、シャロ! カケヌケロ!」
全てを理解した上で、デルトリはゴーサインを出した。
フォルスストレート。偽りの直線と呼ばれる場所であり、最後の直線ではない。
残りは約800mほど。下り坂で加速していたことを考えれば、スパート距離はもっと長いだろう。
ロングスパート。先行争いをしながら、変則的なペースを刻みつつのロングスパートだ。
求められるスタミナは尋常ではないだろう。
それでも、デルトリはいけると確信していた。
シャーロックならばできる、シャーロックならばやれる、と。
期待を込めて、デルトリは手綱を緩めてゴーサインを出す。
シャーロックは──躊躇なく動く。
《フォルスストレートに入ってっ、ここでメジロシャーロックがさらに仕掛けたぁ! メジロシャーロックが果敢に行きます、じわりとまたペースを上げようとした先頭集団、その虚をつくスパートだぁ!》
《ここで仕掛けるのかい!? スタミナは保つのか!?》
《仕掛けたメジロシャーロック、追うハリケーンラン! 2頭がグングン上がってっ、ついにシロッコを抜きましたメジロシャーロック先頭! ハリケーンランが必死に追いかけます、メジロシャーロックを追いかける! ディープインパクトはどうか! ディープインパクトは外に振らされている!》
元から動くつもりだった。
そう言わんばかりに、位置をさらに上げていく。
ハイペースで走らされた。
シロッコら先頭勢は、体力が枯渇しつつある。
後方勢は追い上げてくるだろう。
シャーロックの体力は十分、届かないだけの差を広げるだけだ。
残る敵は──ハリケーンラン。そして、内側で息をひそめ続けたディープインパクト。
(ハリケーンランは直に落ちる。ディープインパクトは、あの分だと)
内を一瞥した後、デルトリは前を見据える。
前に誰もいない。自分達がロンシャンを先頭で駆け抜けている。
《フォルスストレートを駆け抜けるメジロシャーロック、さぁメジロシャーロックだメジロシャーロックだ! ハリケーンランが必死に追い縋る! 少し遅れてハリケーンランが追いかける展開! ディープインパクトもやや反応が遅れた! 追走していますがっ!》
《先頭集団が垂れてきたね! これは、外に回らざるを得ない!》
《外を回るディープインパクト、しかし外目につけていたことが功を奏しました! さぁ加速するディープインパクト、後続もギアを上げてきた! 先頭はメジロシャーロック、メジロシャーロックが最後の直線に先頭で入ってきましたぁぁぁ!》
先頭集団はすでに散り散り。
粘っていたが、メジロシャーロックは容易く振り払う。
(うん、これは)
「ジ・エンド。終わりダ」
鞭は入れない。最初から最後まで、ずっと。
自分が支持をする前に、意図を理解しているように動くのだ。
入れる必要がない。仕掛けどころもペースも、手綱だけで伝えられる。
メジロシャーロック先頭。ハリケーンランが半馬身後ろで追い縋るが……その脚色は、鈍かった。
当然だ。乱れたペースで走らされたのだから。
スムーズにペースを変えていたシャーロックに対し、後手で変えざるを得なかったハリケーンラン。
車で言えば、急発進と急停止を繰り返していたようなもの。体力が持つはずがない。
もはや、気力のみで走るしかなかった。
そして、気力だけで走って追いつけるほど──メジロシャーロックは甘くはない。
《メジロシャーロックが突き放す、メジロシャーロックが突き放す! ハリケーンランはここまでだここまでだ! ハリケーンランが落ちていく! 先頭勢と同じように落ちていくハリケーンランここまでだ!》
《頑張ってマークしていたけれど、これは厳しかったね。メジロシャーロックのペースで走れなかったか!》
《突き放すメジロシャーロック、2番手ハリケーンランとの差を4馬身、5馬身と広げていく! 後続からディープインパクトがようやくシロッコらに追いついた! サーパーシーらも上がってくるが、これはメジロシャーロックに届くか!?》
突き放される。差を広げられる。
無慈悲に、冷酷に。
メジロシャーロックとデルトリが描く芸術の、一つにされる。
大歓声に包まれるロンシャン競馬場。
もはや勝負は決したと言わんばかり。
競馬場のファンだけではない。映像を見ている、世界中のレースファンが思ったことだろう。
もう番狂わせは起こらない。
差が広がるだけ。すでに勝負は終わった。
追いつけるはずがない。完全で、完璧なまでの勝利。
《残り200を切ってその差が6馬身、7馬身と開く! メジロシャーロックが差を広げて走ります! 8馬身ほど差を広げてここでようやくディープインパクトとサーパーシー、レイルリンクが2番手に浮上! 2番手争いは接戦、2番手争いは接戦! しかし1着は変わらない変わらない! これは圧倒的なウイニングランだ!》
《いやぁ、強すぎる、強すぎるよいくらなんでも! これがメジロシャーロックの強さか!》
《メジロシャーロック先頭! メジロシャーロック先頭! 他馬を圧倒するこの走り、この強さこそが!》
危なげなく。最後の直線では、一切競り合いに持ち込ませなかった。
対抗として挙げられていたディープインパクト。内側に閉じ込めて、外に回らざるを得ない状況を作り。
自分達の動きを一切悟らせず。余力を十分に残した状態で、最後の勝負へと持ち込んだ。
差は縮まらない。
マックスのスピードを出せるメジロシャーロックが垂れることなど、万が一にもない。
誰かが言った。
「シーバード*1の再来だ!」
誰かが口にした。
「生涯最高の芸術が、凱旋門賞で描かれた!」
レースファンが確信した。
「メジロシャーロックこそが世界最強だ!」
最後の最後まで盤石。
安心できる、不安を感じさせない圧勝劇。
《メジロシャーロックだ、メジロシャーロックだ。メジロシャーロックだァァァ! 第85回凱旋門賞を制したのは現代競馬の最高到達点、至高の芸術! クオリティオブパーフェクト、神に愛された競走馬! メジロシャーロックだァァァ! 並みいる強豪馬を圧倒、全く寄せ付けないままに勝利を手繰り寄せました! これが強さ、これが世界最強の走り! 盤石のレース、全く不安を感じさせない走りだァァァ!》
《生で観れて、最高だよ! 他の馬も強かったけど、メジロシャーロックはさらに強かった!》
《2着入線はレイルリンク、サーパーシー、ディープインパクトの3頭! 3頭は写真判定へともつれ込みました!》
万雷の喝采と、祝福に包まれて。
誰かの歓声につられて、ほぼ全員が歓声を上げるパリロンシャン競馬場で。
メジロシャーロックが、凱旋門賞を制した。
◇
どうしてだろうか。
(すげぇ量の声援と、拍手を貰っている)
ファンの人達から祝福されている。
俺が勝って嬉しいんだ。
いつものことながら、俺も嬉しくなる。
(デルトリさんから褒められている)
「ヤッパリ、キミは最高の馬ダ!」
撫でてくれて、目一杯褒めて。
それだけ嬉しいんだって気持ちが、伝わってくる。
ウィナーズサークルでは、康夫さん達が涙を流して喜んでいた。
「ホンマのホンマに、日本にとってのデカい壁でした。デカい壁やったけど、シャーロックが壊してくれましたわ! ホンマ、シャーロックに携われたことが、自分の調教師人生最高の誉れですっ」
「日本にとって浅からぬ因縁があるレースでした。そのレースをね、こんなにも大きく差をつけて勝つことができてね。本当に、本当に感無量ですっ」
「えらいね、頑張ったね、シャーロックっ」
みんな嬉しいんだ。俺が勝って、抱き合って喜んでいるんだ。
スピードシンボリから始まった挑戦。阻まれ続け、エルコンドルパサーの惜敗を経て。ついにこの日を迎えた。
勝利の日を。それも、圧倒的で、文句のつけようがない勝利だ。
日本人だけじゃない。いろんな国の人が、俺の勝利を祝福してくれている。
(……なんでだ?)
凱旋門賞を制した。
俺は、みんなの期待に応えることができた。成し遂げたんだ。
もう、後腐れなく引退できる。
満足したまま、レース界から去ることができるはずだ。
少なくともレース前は、そう思っていたんだ。
なのに。
(どうして俺は、こんなにも)
なのに、俺は。
少しも盛り上がっていない。高揚した気持ちが沸き上がらない。
あぁ、勝ったんだなとか。呆けた気持ちすら湧いてこない。
あるのは、たった一つ。
(虚しさを、感じているんだ?)
虚無感。何の感情も沸き上がらない。
どうした? 俺。
みんなの期待に応えることができたんだぞ。
喜んでいいだろ。もっと、嬉しさを爆発させろよ。
ほら、みんな俺におめでとうって言ってくれてる。
「おめでとうー、シャーロックー! やっぱお前が最強だー!」
「『最高の名馬、メジロシャーロック! 感動するレースを、ありがとーう!』」
「『お願いだからもっと走ってー! 貴方のレース、本当に感動的だわー!』」
言葉が分からなくても伝わるじゃねぇか。
今のファンがどんな気持ちでいるのか、聞いているだけで伝わってくるだろうが。
喜べよ。嬉しがれよ。
なんでだよ。どうして、どうして俺は。
(……虚しさしか感じねぇ)
凱旋門賞の凄さは分かっている。
数多の名馬達が阻まれた高い壁。俺の生きていた時代では、ついぞ制覇する馬は現れなかった。
そんなレースを勝ったんだ。嬉しいに決まっている。
ファンの期待に応えられた。デルトリさんの要求に応えられた。
康夫さん達の期待に応えられた。全力を尽くして、ディープ達の期待に応えられた。
応えた。応えた。応えた。
ずっとずっと、今までもずっと応え続けてきた。
その度に嬉しくなった。もっと期待に応えたいと思うようになった。
その先に幸せが待っている。そう信じて疑わなかった。
際限なく人々の期待に応え続けて。
勝ちを重ね続けて。辿り着いた先にあった景色は──虚無。
(は、はは。なんで、だろうな? 俺、どうしちまったんだろうな?)
なんにも、ない。
あると思っていたものは当然なくて。
(勝ってすげぇ嬉しいはずなのに。いつも通り喜ばしいことのはずなのに)
『少しも、嬉しくねぇ……』
ただひたすらに、虚しさだけが残っていた。
いや~勝ちましたね。圧勝ですよ圧勝。ほら、笑えよ。