本当に俺は、良縁に恵まれていると心の底から思う。
それ以外の要素が、終わっているとしか思えないが。
それでも、お釣りが出るくらい。俺は恵まれている。
種牡馬としてのお仕事にも慣れてきた。
2年目に251頭、3年目に279頭、そして4年目に突入。
4年目は282頭だった。どうして金額は年々上がり続けてるのに、数は増えてるんですかね。
(4年目で4000万の大台に乗るとは思わんかったわ。どないなっとんねん、俺の価値)
俺の種付け金額、実に4000万である。ディープインパクトの全盛期に並んだ。
まだ産駒走ってないのに、コレである。
これでもし産駒が走ることが分かれば、どうなってしまうことやら。
さて、4年目ということで、俺の産駒もぼちぼち走り始める頃。
というか、実際にもう中央で走り始めているらしい。人間たちが話題に出していた。
結果はというと──無事に新馬戦を勝利する馬がいた。
しかも、それがメジロの馬。裕二さんが所有しているメジロを筆頭に、高い勝ち上がり率を叩き出している。
まだあんまり走ってないとはいえ、これからに期待できる内容なんだとか。
(確か、最初に勝ちあがったのは……ドーベルさんとの子だっけか。名前は聞いてないから、分からんけど)
後は、母父メジロブライトの子。
こちらは新馬戦で勝ち上がり。内容も圧倒的なことから、将来が期待できるものだと話題を集めている。
どうも、俺の不安は早々に払拭できそうだ。
無論、メジロの子達だけではなく。
俺の産駒はバカスカ走るわ、調教でも良いタイムを出してくれるわで絶賛されているらしい。
(母系統の強さを、しっかりと出してくれる。その上、サンデーの脚の脆さを補ってくれる、とか。いや、サンデー産駒の弱点を補うとか、やべー無法だな)
これで気性も、大人しめの子が多いと来たもんだ。
周りを振り回すことはあるが、それでも大人しい方だと。
騎手としても、助かっているらしい。
いやはや。これは、あれじゃないか?
(メジロの未来は明るいな~! メジロ帝国の建設、夢物語で終わらなさそうだ!)
俺の子はたくさん走ってくれそうだな!
メジロの馬には何頭か種付けしている。
その馬が全頭走ってくれれば、賞金が稼げるわけだ。
賞金が稼げれば、それだけメジロの牧場存続に繋がる。廃業しなくてよくなる。
そもそも、俺が稼いだ金を蓄えているからな。当面は大丈夫だと、この前裕二さんが言っていたそうだ。
(種付けのお金って、どこに流れるんだろうな? 冷静に考えたら舎台と裕二さんだけど)
種付けのお金じゃなくても、今でもグッズがたくさん出ている。
そのグッズが売れ行き好調だからな。
今でも競馬ファンだけでなく、競馬を知らない若者にも売れているんだとか。
(ドラマとかも作られた、って話があったな。我ながらドラマ性はばっちりだし、視聴率高そうだ)
余談だが、アメリカで映画も作られているんだとか……知らないところで、俺の馬生がハリウッドデビューする未来もあるのか?
つか、アメリカで走ったことねぇのに。なんで俺の映画が作られそうになってんだよ。
今の俺は、放牧地でのんびりしている。
珍しく俺だけ。ディープとかカメハメハは、後からやってくるんだろう。
自分だけの時間を謳歌しようとする、そんな時だった。
柵の方に人影が見える。
見慣れた姿、俺が所属していたメジロの、オーナー。
「今日も元気そうですね、シャーロックは」
「はい。体調も問題なく、のんびりとしていますよ。他の馬にも慕われていて、ボスみたいに扱われています」
「ははは。昔は一匹狼気質だったので心配でしたが、今はたくさんの友達ができたみたいで。嬉しい限りです」
喜多野裕二さんだ。朗らかな笑みを浮かべて、俺を見ている。
また来てくれたのか、裕二さん。
寝転がろうとするのを止めて、裕二さんの方へと歩いていく。
近づいて、柵の方までやってきて。
顔を近づけると、裕二さんも嬉しそうに笑顔になった。
「ヒヒン(また来てくれたんだな)」
「また来ましたよ、シャーロック。お前が元気そうで何よりだ」
「ヒン(元気だぜ)」
俺を撫で回してくれる。めちゃくちゃ気持ちいい。
実は裕二さん、俺が舎台に入厩した時から、時間を見つけては会いに来てくれるのだ。
1ヶ月に一度、は言い過ぎだが、それなりの頻度で来てくれる。
本業が忙しいだろうに、合間を縫って俺を労いに来るんだ。
元気か、大丈夫か、みんなと仲良くやれているか。
出てくる言葉はどれも俺を心配する言葉で。
無事なことが分かると、笑顔で俺を褒めてくれる。
……正直な話、期待が重くなる時の方が多い。
俺の産駒は間違いなく走るとか、シャーロックの子がデビューするとか。
大々的に報道されて、それで結果が出せない、なんて思うと。
気にしてしまう。俺のせいではないのに、どうしても気になるんだ。
だけど。
「種付けのお仕事は、辛いかもしれない。けど、もう今年のシーズンは終わった。後はゆっくり休んで、ケガをしないようにしないように。それが、私の願いです」
この言葉があるから、頑張れる。
たとえ結果が出せなかったとしても、裕二さんは俺を笑って許してくれる、って。
「お前のために、牧場はいつまでも残しておくからな。お前が分かりやすいように、メジロの看板と一緒に」
「ヒヒン(マジかよ)!?」
「お、嬉しいみたいですね。分かりやすく喜んでいますよ」
「はは、その通りみたいですね。こりゃ、メジロの看板は下ろせないか」
「下ろすつもりもありませんよ。なにせ、ここ数年の不振が嘘のように、躍進し始めてきてますから」
それに、メジロを残してくれる。そう言ってくれた。
巌崎さんと相談して、継続の意向を固めたと。この先も、最低でも俺が種牡馬を引退するまでは残すと。
そう決めたことを、語ってくれた。
は、はは。
俺の目標、達成したじゃねぇか。メジロの復活、メジロの牧場の存続、出来たじゃねぇか!
(火山、に関しては。こればかりはどうしようもない。自然の被害を抑えることなんて、無理に等しいんだから)
それでも、どうにかする。
約束してくれた。
裕二さんは、メジロの牧場を残す意向で固める、って。
なんというか、気が抜けたな。
俺の目標が達成できて、一安心だ。
「泰敏さんの厩舎で面倒を見てもらっている子がね、こちらも素晴らしい馬でして。康夫さんも絶賛しているんですよ」
「……あの人の場合、シャーロックの産駒ってだけで褒めませんか?」
「う~ん、ちょっと否定しづらいですね。ですが、調教の併せで、素晴らしいタイムを出しているそうですから」
未来は明るいな。
あ、ちなみに康夫さんもたまにこっちに来てくれる。
その時は嬉しそうに俺を見て。
「お~、お前は種牡馬の体つきになっても、気品があるな~! ホンマにええ馬や! さすがは俺が心底惚れ込んだ馬!」
絶賛してくれる。何年経っても変わらないな、あんた。
褒められて悪い気はしない。近づいて、顔を一舐めする。
これが日常となっていた。
で、来ると言えば。
岳さんも来てくれた。俺とディープに会いに。
「2頭とも元気そうだ。こっちでも、2頭で併せて走ってるんだね」
「はい。ディープがシャーロックを振り回していますよ。シャーロックも、元がお兄ちゃん気質なんでしょうね。放っておけない、というか」
「栗東の頃からそうだったなぁ。こっちでも変わらないようで、なによりだ」
俺達の様子を見て、微笑ましそうに笑顔を浮かべて。
嬉しそうにしていた。安心しきった表情をしていたんだ。
……ただ、その岳さんは現在、大怪我を負ってしまっている。
落馬事故。騎手には付きまとう問題とは言え、やはり心配だ。
(無事ではあるらしいが、油断はできねぇ。もう史実とは違う道になってるんだから)
岳さんが無事という保証はない。
だから、舎台から祈っていた。岳さんが復帰できることを。
まぁ、その祈りはしっかりと届いたのか。
「岳さん!? お、お怪我の方は」
「はは、なんとか大丈夫ですよ。今日は、リフレッシュと、元気を貰いに」
無事な姿を、俺達に見せてくれた。
リハビリの合間に、俺達の姿を見て元気を貰おうと来たらしい。
なら、と。
俺は岳さんを慰める。
元気を出せ、と。これからも頑張ってくれ、と。
エールの意味を込めて。岳さんに頭を押し付ける。
「……うん。分かっているよ、シャーロック。頑張れ、ってコトだろう?」
「ヒヒン(そうだ。頑張ってくれよ岳さん)」
「勿論、頑張るさ。僕はまだまだ、こんなところじゃ終われないからね。君の子にも、乗らなきゃいけないから」
頭を押し付けたら、にっと笑って。
心配はないことをアピールしていた。
岳さんは大丈夫だろう。
大怪我をしても、現役復帰を微塵も諦めていない。
「まだ、凱旋門賞を獲れてないからね。凱旋門賞を獲るまでは、意地でも現役を続行するよ」
とても頼もしい人だ。相変わらず。
裕二さん、康夫さん、岳さん。
それだけじゃない。俊之さんも、隈澤さんもだ。
俺に関わってくれた人が、みんな会いに来てくれた。
あの時と変わらない優しさで、俺を褒めてくれる。
(俺は縁に恵まれている。間違いなく言える)
嬉しくて仕方なかった。
と、まぁ。
種付けの仕事は辛いし、嫌になることは多いけれど。
どうにかこうにかやれている。些細な幸せを、噛みしめていた。
そして、種付けシーズンも終わったある日のこと。
放牧地で寝そべって。どうしたものかと考えていると。
『シャロさーん! 走ろ走ろ!』
ディープがやってきた。
いつものように、俺の名前を呼んで。うるさいくらいに鳴いて。
俺のところに、一目散にやってきた。ついでに顔も舐めて。
全く。本当に相変わらずだわコイツ。
『分かったから顔を舐めるな本当に。何度言っても直らねぇな』
『えへへ~』
『褒めてねぇよ。ったく』
そんなディープだからこそ、ありがたみがあるというか。
なんだかんだ、コイツと走るのは楽しい。気分転換になるし、お構いなしに引っ張ってくれるから、たまに助かっていることもある。
ま、助からない日の方が多いけどな。
無理やりだし、こっちの事情ほぼガン無視だし。
(それでもなんだかんだ走ってやるのは、ディープのことを憎からず思っているから、か)
『わーい! シャロさんとたくさん走るぞー!』
『はいはい。ったく、クリスエスさんがいないからって、全部俺の方に来るんだからよ』
さて、今日も走るとするかね。
カメハメハ達もその内来るだろうし、アイツらも誘って。
みんなで走ろう。楽しく、な。
◇
シャロさんと走る。それが、前のお家から続く楽しみだった。
なんだかんだ言いつつも、いつも走ってくれる。
僕と一緒に走ってくれるんだ。
今日もシャロさんと走ろうとした。
起き上がろうとしているシャロさんの顔を舐めて、走ろうと誘う。
『分かった分かった。走ってやるよ』
『やったやったー! わーい!』
いつもみたいにOKしてくれた。
シャロさんは、本当に優しい。
……なのに、どうしてかな?
走ってくれる、っていったのに。シャロさんったらいつまでも起き上がらなくて。
『あれ? シャロさん?』
寝ちゃったのか、僕の呼びかけにも反応しなかった。
ちょっと待てば起き上がってくれる。そう信じて待ったけど……一向に起き上がる気配がない。
やっぱり寝たんだ。も~、仕方ないなぁシャロさんは。
『シャロさ~ん。起きてよ~。起きて僕と走ろうよ~』
また近づいて。顔を舐める。
そうすれば起き上がるって、知ってるから。
シャロさんは起き上がって、顔を舐めるなって怒って。
そして、僕と走ってくれる。
そう、信じていたから。
ペロペロと舐める。
シャロさんは、起き上がらない。
(凄く眠いのかな? でも、さっきまでは平気そうにしてたしな)
もっと舐めよう。そしたらいつか、起き上がってくれる。
僕と一緒に走ってくれる。楽しいことを、してくれるんだ。
舐める。
起きない。
もっと舐める。
全然起きない。
ずっと顔を舐め続けているのに。
シャロさんは、全然起きなかった。
どれだけの時間が経ったのかな?
『あれ、何してるの? ディープ』
『あ、カメハメハさん』
いつの間にか、カメハメハさん達がやってきた……ハーツさんもいる。
シャロさんと仲の良い子達。いつも楽しそうにしている。
とにかく、今の状況を説明しないと。
『シャロさん、一緒に走ってくれるって言ったのに、寝ちゃった』
『え、シャロくんが? は~、珍しいこともあるもんだねぇ。いつもなら走ってくれるのに』
『確かに珍しいな。コイツが寝ることを優先するのは』
そしたら、カメハメハさん達もおかしいと思ってくれたみたい。
でも、それはちょっとだけ。
『まぁ疲れてるんじゃない? シャロくん、ぼくたちのなかで一番お仕事の数が多いし。たまにはゆっくり休ませてあげれば?』
『え~……分かった』
『そんな嫌そうにしないでも。代わりにぼくが走ってあげるからっ?』
疲れているんだろうと、休ませたらどうかと提案してきた。
う~ん、本当は嫌だ。僕と走って欲しい。
でも、シャロさんが疲れているのは本当かもしれないし。
休ませた方がいいかもしれない。そう思って、渋々納得した。
そんな時だった。
『……』
『どうしたの? ハーツ。シャロくんをジッと見て』
ハーツさんが、ジッとシャロさんを見ていて。
僕と同じように、顔を近づけて──その瞬間。
「ビヒヒヒィィィィィン!!」
大きく、啼いた。凄く、びっくりした。
カメハメハさんもびっくりしてる。周りの子達も、何事かとこっちを見ていた。
『びっくりした! もうハーツ、いきなり啼かないで』
抗議の声を上げようとしたカメハメハさん。
でも、ハーツさんは。
『カメハメハ! 貴様は今すぐ人間を呼んで来い! どんな手段を使っても構わん、とにかく人間を呼ぶんだ!』
焦ったように、僕達を見ていた。
分からない。カメハメハさんも分からないのか、ボーっとしてた。
ハーツさんは今も焦っている。寝ているだけの、シャーロックさんの傍らで。
『いや、本当にどうしたの? ハーツ。意味が分からないんだけど』
『そのままの意味だ! とにかく人間を呼んでっ、あぁもういい! 俺が呼ぶ! クソ、なんで……なんで……っ!』
『いいから事情を説明してよハーツ! いきなりどうしたのさ!?』
離れようとしたハーツさんを呼び止めて。
ハーツさんは、今すぐにでも走りたいって衝動を我慢しながら。
『コイツ──明らかに様子がおかしい! いくらなんでも静かすぎる!』
様子がおかしいって、言って。
カメハメハさんも、それだけで事情を察したのか。
『そんな……嘘だよね? シャロくん、シャロくんッ!!』
慌て始めた。ハーツさんと一緒に。
おかしいな。シャロさんは寝ているだけなのに、大げさだ。
きっとすぐ起き上がってくれる。起きて、僕と走ってくれるんだ。
『大丈夫だよ、カメハメハさん。ほら、こうして顔を舐めたら、いつもみたいに起き上がってくれるよ』
『っ、ディープっ』
『ほら、シャロさん起きてよ。カメハメハさんもハーツさんも来たよ? 心配してるよ?』
顔を舐める。少しも動かないシャロさんの顔を、僕は舐め続ける。
『んだそんなに慌てて。なにかあったのか』
『ゼンノロブロイ! 今すぐ人間を呼べ! シャーロックがヤバい!』
『へ? は!? んだいきなり……ってもういねぇし!? 仕方ねぇ、俺が走れば人間が不審がって来てくれるだろ』
起きてよ、シャロさん。
みんな心配してるよ? シャロさんが全然起きないから、不安がってるよ?
ねぇ、シャロさん。
『“親友”……“そうるめいと”っ。シャロ、シャロ!!』
『とにかく、動き、回るぞ! ロブロイ! 人間が、異常を、察知する!』
『分かってますよクリスエスさん! くそ、何だって……っ!』
起きてよ、シャロさん。どうして起きないの?
「放牧地が慌ただしいな。なにがあった……え? しゃ、シャーロック?」
「寝そべってるだけ、じゃない!!」
「おい、今すぐ医者を呼んで来い! 代表もだ! とにかくできる限りの人員を集めろ!」
人間さんも来たよ。来たのに、なんで起きないの?
シャロさん。お願いだから。
「シャーロック、シャーロック!」
お願いだから、起きてよ。
その後は、よく覚えていない。
覚えているのは、どれだけ顔を舐めても、シャロさんは起きなかったということ。
そして、シャロさんを連れて行った人間さん達はみんな……暗い表情をしていたことだけ。
◇
──その日、世界中が悲しみに暮れた。
【メジロシャーロック死去。放牧地で急性心不全】
【世界を魅了したアイドルホース突然の死。9歳の若さで】
2010年11月28日。ジャパンカップが開催されている裏で、メジロシャーロックが息を引き取ったというニュースが流れる。
9歳。たった9歳だ。この世に生を受けて、9年しか生きていない。
「う、そ……だろ? 悪い夢、だよな?」
「そ、そんなの信じられるわけないし! 冗談にしても質悪すぎ!」
「嘘だって言ってくれよ! オグリが4ヶ月前に亡くなったばかりじゃねぇか!」
あまりにも早すぎる死を、人々は受け入れることは出来ず。
だが、舎台の代表の声明。
「メジロシャーロックは、放牧地で横たわっていて。獣医師の診断によると、心臓が活動を停止していた、と。原因は、不明とのことです」
沈痛な面持ち。現実を受け入れられていない、そんな表情で、それでもなんとか説明をしなければと出てきた。
声はかすれ、目は赤い。先程まで泣いていたのが分かる様子だった。
誰一人として例外なく。メジロシャーロックの死を悲しみ、悼み。
現実を飲み込もうと、必死だった。
その姿にファンは、嫌でも認識する。
「あまりにも早すぎる……まだ、まだたったの9歳じゃねぇか!」
「ねぇ、これって種付けのし過ぎだったりしないの? じゃあ、舎台のせいじゃない!?」
「嘘だ、嘘だ! シャーロックが死んだなんて嘘だ!」
メジロシャーロックの死を。
受け入れざるを得なかった。
それは、オーナーである喜多野裕二も同様である。
「……嘘、ですよね? 芳田さん。シャーロックが、亡くなったなんて」
震える手。落とさないようにしているのが奇跡と言えるほど。
なんとか理性を保ち、電話越しの相手に、震える声で応対している。
だが、いつ緊張の糸が切れてもおかしくない。
その場でへたり込みそうなほどだ。
「だって、あの子には数日前に会ったんですよ? その時は、とても元気そうに走っていたんですよ? なのに、亡くなっていたなんて。じょ、冗談にしても、質が悪すぎます」
《……本当に、申し訳ございません!》
「い、嫌ですね。そんなに謝らなくても。ただ一言、冗談だと言ってくださいよ。今なら許しますから」
嘘であってくれと願う。きっと何かの間違いだと、震える声で縋る。
舎台の代表である芳田は……何も言わない。
無言。沈黙。それが、メジロシャーロックの死が現実であることの、裏付けとなる。
喜多野裕二の涙腺が、決壊する。
「なん、な、なん、で。あの子、あの子は、ついこの間まで、元気だったのにっ!」
《ごめんなさい、ごめんなさい……!》
「どうして、ですか。なん、で、ですか! どうして、あの子が、まだ若い、あの子がっ」
嗚咽。涙。止めることができない。
メジロの牧場を、廃業から救った救世主。
畳むことを考えていた喜多野裕二に、続けさせる判断をさせてくれた孝行息子。
前オーナーの夢を叶えてくれた。
たくさんの希望をファンに届けた。
日本の夢を、凱旋門賞まで取ってくれた。
彼の子は今中央で走っている。
メジロで所有している彼の子も、順調に勝ち上がった。
まだまだこれからだったはずなのだ。
これからだったのに……メジロシャーロックは。
「どうして、シャーロックがっ!」
亡くなってしまった。その現実を、受け入れることができない。
電話は切った。今はもう、誰の声も聴きたくなかったから。
一人残った部屋で、喜多野裕二は泣き続ける。
メジロシャーロックの死を悼み、悲しみ、深い絶望の海に沈む。
「う、うぅ……っ。しゃーろっく……」
どれだけの時間泣いたのか。きっと、一日中泣いていた。
立ち上がり。泣きはらした顔で、真っ赤になった目のまま。
「せめて、せめてあの子が帰ってくる場所だけは……守らなくては。メジロの牧場だけは、何としても守らないといけない。でないと、美弥さんに合わせる顔がない」
覚悟を決めた。メジロを残し続ける、と。
「メジロの名を、残し続ける。なんとしても、あの子が帰ってくる場所として。あの子が、分かるように。メジロの名を……残さなければ」
悲痛ながらも、不退転の覚悟。
メジロの名をなんとしても残す。メジロシャーロックの帰ってくる場所を、守り続ける。
喜多野裕二は、そう決意した。
また、メジロシャーロックの訃報はここにも。
「……メジロシャーロックが、亡くなった?」
「はい。繋養先の牧場で、心不全で亡くなったと。そう、報道されています」
女王陛下。
メジロシャーロックに特に惚れ込んでいた一人。
彼のために繁殖牝馬を用意した。
その牝馬と相性が良く、4回も種付けしたことは覚えている。
牝馬側がシャーロック以外との種付けを許さないため、苦労をしたことも。
現役時代は素晴らしい走りだった。
思わず魅了されて、心底惚れていた。
彼のためならば苦労は惜しまない。それだけの熱意だった。
そんな彼が、生まれ故郷で亡くなった。
「そう、ですか。メジロシャーロックが、亡くなった……」
深い悲しみに暮れる。
目尻を抑え、今にも泣きだしそうな感情を、必死に抑えている。
周りのSPは無力感に苛まれる。なにもできない、声をかけてあげられない自分達に。
仕える主の深い悲しみを、癒すことができないのだから。
どれほどの時間が経ったか。
女王陛下は、顔をあげて。
「日本に、赴きましょう」
たった一言だけ。そう告げた。
断る気は一切ない。
すぐに手筈を整えて、渡航の準備を済ませる。
数日の間に準備を整えて、女王陛下の来日は実現した。
メジロシャーロックの墓前。メジロの牧場に作られた石造りの墓。
その前に女王陛下は立ち。静かに手を合わせる。
「……『向こうで安らかに。親愛なるメジロシャーロック』」
悲しみを堪え、涙を流すまいとし。
深く、長い時間。ずっと手を合わせていた。
帰り際。オーナーである喜多野裕二から、あるものを渡される。
「メジロシャーロックの鬣です」
亡くなったメジロシャーロックの鬣だ。
お守りとして作られたものを、女王陛下に手渡す。
女王は、震える手で受け取った。
「……『ありがとう、喜多野裕二さん。とても嬉しいわ』」
お礼の言葉を伝える。お守りをぎゅっと握る。
メジロシャーロックが側にいるように感じられて、温かさを感じた。
後、もう一つ。
「『不躾なお願いがあるのだけれど、構わないかしら? 彼の尻尾の毛で、作りたいものがあるの』」
「……『分かりました。女王陛下さえよろしければ』」
お願いをして。承諾してもらい。
女王陛下は作った……彼の尻尾の毛で、バイオリンの弓を。
「彼のための曲を作りましょう。曲名はそうですね……【Dear Sherlock.】」
メジロシャーロックのための、曲を作った。
また、後年にこの曲名と同じ名前を競走馬に名付ける。
アルトアイリーニの4番仔。メジロシャーロックのラストクロップに。
その4番仔が凄まじい活躍を残すのは、もう少し後の話だ。
あまりにも突然だった。
管理していた舎台には、非難が殺到した。
このことを教訓に、種付けは特に気を配るようになった。
死因は突然死とはいえ、影響がない、因果関係が全くないとは言い切れないから。
多すぎないようにと、制限を設けることにする……あまりにも、遅すぎる対応だが。
23戦23勝。日本のG1を7勝、海外のG1を6勝のG1計13勝。
数々の日本記録を塗り替え、レーティング144と世界最強の座に君臨した紛うことなき名馬。
産駒が走り始め、これからという時期だ。
9歳の若さで亡くなった。あまりにも早すぎる死である。
悲劇的な馬生。競走成績以外、あまりにも恵まれていなかった彼の生涯と、早逝から人々は彼を指しこう言った。
──【神に愛されすぎた競走馬】、と。
そして時は流れ。
10年以上の長い月日を経て、彼の名前はとあるコンテンツで目にすることとなる。
《俺はメジロシャーロックと申します。どうか気軽に、シャロとお呼びください》
「かわ、かっこいい~! いや、かわいい~!」
「ついに来たんだな、シャーロックのウマ娘! 待ち望んでいたぞ!」
「待ってたぜ、この時をよぉ!」
一世を風靡したコンテンツ。【ウマ娘プリティーダービー】で。
また、彼の魂も。
「え? また死んだの? 俺。しかもまた心臓麻痺?」
「そうなるね。死因が一緒なんて稀だよ」
「嬉しくねぇよ神様」
再び、自身を馬に転生させた神と対面していた。
次回からウマ娘編です。
Q.やたらディープがシャーロックの顔を舐めてる描写が多かったけどなんで?
A.これをやりたかったから