最悪の報せを聞いたのは、その日のレースプログラムが全て終わった後だった。
「──シャーロックが、亡くなった?」
「っ、はい。今日のお昼頃、放牧地で亡くなっていたそうです。シンボリクリスエス達が騒いでいたのを不審に思ったスタッフが、息を引き取った姿を発見したと」
ローズキングダムでジャパンカップを制覇。
ケガの影響で思うようにならなくなった中で、なんとか掴んだG1勝利。
それでも、勝つことができて。ここから頑張ろうと、思っていた。
そんな矢先に。
かつて騎乗した相棒で、ついぞ勝てなかったライバルでもあった。
メジロシャーロックが亡くなったという報せを、僕は受け取った。
正直、その日のことと、その後のことは思い出したくない。
僕にとっての暗黒期。競馬そのものが嫌いになりかけていた、人生でも最悪の期間だったから。
◇
最初こそ信じられなかった。
冗談にしても質が悪すぎる。もし嘘だったら一発殴ってやろうか、なんて言葉。
しかし、報せてくれた人の顔は、冗談でもなんでもなく。
同じように聞かされたであろう隈澤さんが、黙って首を横に振って。
競馬場を出た後、夜に裕二さんからの電話が入り。
「メジロシャーロックが、息を引き取りました。明日、彼のお葬式を開こうと思っています。どうか岳さんも、来ていただけませんか?」
彼の葬式を開くことを聞かされて。
事態を、飲み込まざるを得なかった。信じたくないけれど、信じるしかなかった。
葬式に参列したのは関係者のみ。
調教師を務めた康夫さんと、調教助手だった俊之さん。
担当厩務員の2人、草薙さんと柏崎さん。
騎手として主戦を務めた僕と、代打を務めることが多かった隈澤さん。
後は牧場関係者のごくわずかな人数。
メジロシャーロックの葬式に参列したのは、それだけだった。
仕方ないだろう。大人数でやるわけにはいかないし、影響を考えたら、この人数がベストだ。
表情は──皆一様に暗い。
特に、裕二さんは憔悴しきっていた。僕と同じように、シャーロックの死を飲み込めていないんだと思う。
「シャーロック……シャーロックっ。どうして、どうしてお前がっ。まだ若いお前が、どうしてっ!」
誰も声をかけられなかった。
みんな同じ気持ちだ。どうしてシャーロックが死ななければ。
口にはしなくても、心は一致している。
(9歳。たったの9歳だ。この世界に生まれ落ちて、彼は9年しか生きていない)
あまりにも、残酷すぎる現実だった。
生まれた時に母と兄弟を亡くし。
現役中に育ての母と父を亡くし。
そして最後には、年若くしてシャーロックすらも連れ去っていった。
「ホンマのホンマにっ、恨むぞ神様ァ! シャーロックまで連れていきよってっ、そんなにシャーロックが嫌いかぁ!?」
「落ち着いてください康夫さん! 気持ちは、十分に分かります!」
「なんでや、なんで、なんで……! やっとゆっくりできるとこやったのに、なんでこないなことになんねん!? あんなに頑張ったシャーロックが、どうしてこんな目に遭わないかんのや!」
康夫さんのように、嘆きたくもなる。
やっとゆっくりできると思った矢先に、死んでしまったのだから。
世間、だけじゃない。
世界中が大混乱だった。
【メジロシャーロック死す。わずか9歳の若さで】
【9歳の若さでこの世を去ったメジロシャーロック。涙の別れ】
人々は悲しみに暮れ、中には体調を崩し、仕事がままならなかった人までいると聞いている。
黙とうをささげる人に、やるせなさに怒鳴り散らす人。
繋養先の舎台を批判する人、無力さを嘆く人。
(シャーロックの死を、受け入れることができない。その気持ちは、痛いほど分かる)
誰もがメジロシャーロックの死を悼み、悲しんでいた。
僕もその一人だ。
彼が死んでしまった日は、記憶がなくなるぐらいに酒を飲んでいた。
「寛さん、その辺りにしておいた方が」
「放っておいてくれ! 僕のことはもう、ほっといてくれ!」
「寛さん……」
「覆永さん、後は私が寛君の面倒を見ます。私も……飲まずにはいられませんので」
どれだけ飲んでも、消せなかったけれども。
それでも、飲まなければやってられなかった。
騎乗にも影響が出た。
いろんな馬に乗ってきたけれど、理想通りの競馬が出来なくなって。
どうしてもシャーロックに乗っていた頃のことがチラついて、思うように乗れなかった。
ケガの影響もある。否定はできない。
けれども、シャーロックの死が、あまりにも大きすぎて。
【岳寛の成績低迷!やはり落馬負傷の影響か?】
【全盛期は過ぎた。もはや岳寛は終わり】
メンタル面でも、過去最高レベルに落ち込んでいた。
どうしようもない。どうすることもできない。
悪いことばかりが頭に浮かぶ。
在りし日のシャーロックとの記憶が、どんどん甦ってくる。
「シャーロック……っ」
甦ってきて、もう彼には会えないことが分かって。
涙が、止まらなくなる。
喪失感が酷かった。
胸にぽっかりと穴が空いた、なんてレベルじゃない。
自分の半身を失ったような、何物にも代え難いものを失った悲しみ。
二度と取り戻すことのできない、嘆いても帰ってくることのない彼。
先の見えない暗闇を、僕は歩かされていた。
長い長い暗闇を。抜け出すことのできない道を歩く。
いつ抜け出すことができるのか? そもそも本当に抜け出せるのか?
一生このままではないか? ずっと引きずって、終わった騎手として騎乗を続けるのか?
そんな暗闇にいた僕を救ってくれたのは……ディープと、やっぱりシャーロックだった。
◇
苦境に立たされていた僕を救ってくれたのは、ディープインパクト産駒のキズナだった。
ラジオNIKKEI杯、今のホープフルステークスの頃から騎乗して、毎日杯で白星。
この時からだろう。僕がケガから吹っ切れることができたのは。
その後、キズナで京都新聞杯を制し。
続く大本命、日本ダービーも勝った。
皐月賞馬ロゴタイプ、後に菊花賞とジャパンカップを制するエピファネイア、シャーロックの子で鉄の馬と呼ばれたメジロアンダンテ。
ライバル達を下し、キズナとダービーを勝つことができた。
あの日の光景は、忘れることができない。
「おかえりー! ユタカー!」
「やっぱあんたが一番だー!」
「ユタカ! ユタカ! ユタカ!」
お帰りというファンの声援。
暖かくて、暗闇にいた僕を引っ張ってくれるような、声で押してくれるような。
心強さを感じた僕は、気づけば口にした。
「僕は帰ってきました! 応援、ありがとうございます!」
ただいま、と。
キズナ以降、成績は徐々に回復。
ケガをする前まで、とはいかないけれど、暗黒期に比べればマシだった。
「寛君、最近調子が戻ってきたみたいだね。それに、前よりいい顔をするようになった」
「ありがとうございます、利市さん。なんとか、持ち直せましたよ」
騎乗依頼も少しずつ増え始めた頃。
アドマイヤの馬主である今藤利市さんから、とある馬への騎乗を依頼される。
(アドマイヤムーンの一件から、もうないかなと思ってたけど)
利市さんは、それはもう熱心に僕へと声をかけてくれた。
この馬は是非とも乗って欲しい。誰に何と言われようと、この馬には岳寛しか乗せる気はない。
周りにそう吹聴していたそうだ。なんだか恥ずかしい。
そして、その馬というのが。
「あぁ。寛君に乗ってもらいたいのは──アドマイヤコナンだ」
「っその、仔は」
「お察しの通り。アドマイヤグルーヴの仔で……メジロシャーロックのラストクロップ。この馬は是非、君に騎乗してもらいたい」
シャーロックのラストクロップ。
利市さんが裕二さんにお願いして、メジロシャーロックの母であるメジロコナンの名前をもじった鹿毛の牝馬。
(許可を取る必要は、本当はないのに。わざわざお願いしてまで、この名前を付けた意味は)
「私はね、この子に騎乗する寛君の姿を見たいんだ。願わくば、G1を勝つほどの名馬になることをね」
気づけば僕は、二つ返事で了承していた。
「是非、騎乗させてください。その子の鞍は、僕以外に渡さないで欲しいです」
「君なら、そう言ってくれると思っていた。では、頼むよ寛君」
シャーロックが遺した仔。生涯忘れることはない。
嬉しそうに笑う利市さんの顔が、印象的だった。
アドマイヤコナンの性格は、どちらかと言えばアドマイヤグルーヴ寄り。
気性が激しく、コントロールするのが大変な馬だった。
とはいえ、過去乗ってきた子達よりはマシ。
(シャーロックの子は、気性が和らぐことが多い。種牡馬としても、君は大活躍するんだね)
それに素質も一級品。
アドマイヤグルーヴの末脚に、メジロシャーロックの心肺機能をしっかり受け継いだ、将来が期待できる子だった。
予想した通り、アドマイヤコナンは期待に応える活躍を見せる。
《桜の冠はアドマイヤの手に渡る! アドマイヤコナンがハープスターの猛追を優雅に振り切って! アドマイヤコナンが桜花賞を制しました! まずは一冠目、まずは一冠目だ岳寛! アドマイヤコナンが桜花賞を制しました!》
4戦4勝。無敗で挑んだ桜花賞を勝ち。
《これは圧勝、これは圧勝です! これは楽勝ムードだアドマイヤコナン! ヌーヴォレコルトとハープスターの競り合いのはるか先、4馬身先を駆け抜けるアドマイヤコナン! その差を5馬身に広げたところで勝ちましたアドマイヤコナン二冠達成! なんという強さだ、恐ろしい強さだアドマイヤコナン!》
5連勝でオークスを制し、二冠を達成した。
「アドマイヤコナンつえー! やっぱシャーロック産駒は牝馬が強いぞ!」
「アホ抜かせ! 天皇賞勝ったプレリュード忘れたんか! シャーロック産駒は牡馬も牝馬も関係なしや!」
「メジロシャーロック神過ぎんだろ!」
圧巻。ファンを虜にするような圧勝。
アドマイヤコナンは、牝馬三冠を確実視されていた。
だけど、牝馬三冠路線には進まなかった。
「凱旋門賞、ですかっ」
「そうだ。アドマイヤコナンは、凱旋門賞に出走させようと思っている」
利市さんが選んだのは、凱旋門賞。
世界の頂。今なお色褪せることのない、芝の頂点。
かつてディープインパクトと挑んで……メジロシャーロックの前に敗れた舞台だ。
日本馬は、メジロシャーロック以降勝っていない。
近年では、オルフェーヴルが2年連続で挑んだけれど。
3着に2着と、惜しい止まりだった。
僕もまだ、勝てていないタイトル。
最も欲しいタイトルの1つ。是が非でも勝ちたい気持ちはある。
「どうしてこの時期に? 牝馬三冠の方は、どうされますか?」
「アドマイヤコナンならばいける。そう判断したからだ。この子の素質は日本に留めていいレベルではない。寛君も、そう言ってなかったかな?」
「確かに言ってましたが……いや、それにしても。思い切った決断ですね。秋華賞を捨てるなんて」
ただ、秋華賞を捨ててまで行くのかと。
利市さんの決断に驚く。
今この時期、斤量が最も有利だからこそ行く。
アドマイヤコナンの素質は世界にも届く。そのことを証明するために、今この時期に凱旋門賞へと挑むべきだ。
力説する利市さんを前に、僕は。
「分かりました。では、凱旋門賞に行きましょう。アドマイヤコナンで、勝ってきます」
「君ならば、そう言ってくれると思っていた。では、向こうでも頼むぞ、寛君」
これまた二つ返事で了承した。
アドマイヤコナンの騎乗を決めた時みたいに。
迷う余地はなかった。全部を信じていたから。
(不安は払拭できた。素質は十分にある。アドマイヤコナンは、凱旋門賞を勝てる)
そんな僕らの前に現れたのは──英国史に残る名馬。
半世紀ぶりの偉業を成し遂げた馬で、なおかつメジロシャーロックが遺したラストクロップの一頭。
欧州競馬の盛り上がりを牽引する馬。メジロシャーロックの後継者とも呼ばれている。
ニジンスキー以来44年ぶり、史上初となる白毛の三冠馬。
セントレジャーステークスを終えても無敗。キングジョージも制した怪物。
「また、君が立ちはだかるんだね。シャーロック」
ディアシャーロック。
女王陛下の持ち馬にして、圧倒的強さで欧州競馬界を沸かせている、世界最強と呼ばれる馬が。僕とコナンの前に立ちはだかることになる。
ちなみにオークスの翌週のダービーでは隈澤騎乗のメジロスケルツォがダービー制覇をしてたりする。後長くなったので前後編。