それは、突然のことだった。
いつもみたいに朝の調教を終え、草を食べつつ、あれこれ嬉しそうに語っているリョーマの声に耳を傾けていると。
「み、美弥さん、本当に大丈夫ですか? こちらまでお越しいただいて」
「大丈夫ですよ、俊之さん。今日は調子がいいんだから」
「ヒヒン(は)っ!?」
人が来た。それも、とんでもない人が。
まさかの美弥さんが来たんだ。裕二さんと一緒に、俺の馬房へと。
喜多野美弥さん。ウィナーズサークルで、俺をよく褒めたり撫でたりしてくれる人。
そして……メジロのおばあちゃん。総帥だ。メジロの最大責任者、ってことだな。
横にいる裕二さんは、俺の出産にも立ち会ってた人だ。メジロのナンバー2。次期総帥の立場でもある。
(ちょ、マジでびっくりした! なんでいんの!?)
「き、喜多野オーナー! それに、裕二さんも! お、お疲れ様ですッ!」
リョーマもめちゃくちゃびっくりしてる。
そりゃ驚くわ。まさか俺の馬主さんがここに来るとは思わんだろ。
そりゃね、たまに来る時はあったさ。年に数回レベルだけど。
完全に気を抜いていたタイミング。抜き打ちテストされてる気分みたいなもんだ。
ぺこぺこ頭を下げているリョーマ。
美弥さんは少しも気を悪くしておらず、むしろ微笑んでいた。
「草薙さん。いつもウチのシャーロックの面倒を見てくれて、ありがとうございます。大変、お世話になっていますね」
「い、いえ! それが自分のお仕事ですので! いえ、お仕事じゃなくてもシャロ、メジロシャーロックの面倒ならお金を払ってでも見ますが!」
「ふふふ、貴方のような熱心な厩務員さんが担当で、シャーロックも幸せ者ね」
う、羨ましいぞリョーマ! 美弥さんに褒められるなんて!
コツコツと、こっちに歩いてくる美弥さん。
俺のところで立ち止まる。その目は、視線は、とても優しかった。
「共同通信杯の時だけじゃ我慢できなくて、来ちゃったわ。シャーロック」
そんな軽いお茶目みたいな。いや、いいけど。
一体何をされるんだろう? 期待半分、怖さ半分で待っていると。
撫でられた。ウィナーズサークルと同じように、いつもみたいに撫でられる。
「いつも頑張ってえらいわね。調教も、真面目にこなしてるって聞いているわ」
美弥さんの手が頭に、顔に触れている。
リョーマみたいな、ガッチリとした手じゃない。
岳さんのように、大きくてしっかりとした手でもない。
おばあちゃんのしわくちゃな、でも温かい手が。俺を撫でている。
優しく、慈しむように。
子供に頑張ったね、と褒めてるみたいに。
ただ、撫でる手とは違って、美弥さんの表情はよくない。
思うところがあるのだろう。その思いは、次の言葉で分かった。
「貴方のお母さんの件は、本当にごめんなさい。助けてあげられなくて、本当にごめんなさいっ」
「美弥さん……」
俺の母親、メジロコナンの死。そのことを悔やんでいる。
手のひらを通して伝わるんだ。俺への謝罪の気持ちが乗っているから。
……言葉が通じないことを、これほど恨んだことはねぇな。
(喋れれば。俺はもう気にしてない、謝る必要なんてないって、言えるのによ)
「私にこんなことを言う資格はないのかもしれないけど。これからも頑張ってね。貴方のこと、ずっと応援しているわ」
みんなに、こんな気持ちにさせなくても済むってのに。
ひとしきり撫でた後、美弥さんは俺の顔から手を離して、踵を返した。
「それじゃあ草薙さん。後はお願いしますね」
「わ、分かりました! 全力でメジロシャーロックのお世話をします!」
「頼もしい限りだわ。シャーロックも、元気でね。また競馬場で貴方に会えるの、楽しみにしているわ」
裕二さんと俊之さんに連れられて、帰ろうとしている。
その背中を見て俺は。
「ヒヒィィィン(やるよ、俺は)!」
「しゃ、シャロ!?」
嘶いた。美弥さんの言葉に反応するように、頑張るぞって気持ちを込めて。
美弥さんの応援は、しっかり届いているぞって気持ちを伝えるために。
それだけじゃない。これからも頑張って調教して、レースに勝って。
美弥さんが誇れるようなメジロシャーロックになる。
心配することは何もないんだってことを教えるために、元気よく。
美弥さんは一瞬びっくりしたような顔をする。
確かに、いきなり嘶いたらびっくりするか。そこまで考えてなかった。
勢い余っちゃった感じだし。やっべ、失敗した。
でも、美弥さんは朗らかに笑って。
「元気ね、シャーロック。頑張って」
今度こそ帰っていった。頑張ってと、最後に伝えて。
……当たり前だ。頑張りますよ。
頑張りますよ、じゃねぇ。頑張らなきゃいけねぇよ。
(共同通信杯のは気のせいじゃなかった。美弥さんの手……朝日杯の時よりも弱弱しかった)
少しずつ弱っていってる。なんとなく分かるんだ。
撫でられた時の手が、俺を抱きしめる時の強さが。
年が明けてから、少しずつ弱くなってきている。
嫌でも察する。もう、美弥さんは近いんだと。
先は長くないのだと、察してしまう。
だからこそ、やらなきゃいけない。
(頑張るんだ。絶対に結果を残して、美弥さんに喜んでもらうんだ)
メジロは皐月賞と日本ダービーを取ったことがない。
八大競走に区分されるレースで、この2つはまだ取っていない*1。
だから、この2つを俺が取るんだ。
八大競走完全制覇という偉業を、俺の手で現実にする!
また新しい目標が増えたな。
問題はねぇ。最終的な目標の道中に、やらなきゃいけないことが増えただけなんだから。
(まずは弥生賞だ。ここを勝つ!)
皐月賞のステップレース。まずはここを勝たねぇとな。
改めて気合が入った。その日の午後運動は、ユニさんと一緒に気合いを入れて走った。
『“膨張”。とても漲る、だね』
『はい。すっげぇ気合入ることあったんで』
『そう。“応援”をするよ』
頑張るぞ!
◇
日々調教を積み重ね、気づけばやってきた弥生賞。
もはや1番人気での出走にも慣れてきた。
天気は晴れ。
芝の状態は文句なし。良馬場だ。
後頭に入れておくことは、走る距離。
(弥生賞は中山の2000m。皐月賞と同条件での開催だ。前哨戦としてはもってこいの舞台)
今までのレースで最長距離でもある。
ペース配分を間違えないようにしないといけない。
(大丈夫、俺ならやれる)
共同通信杯で一度成功させた。
だから自信をもって臨める。
何も問題はない。やるぞ、俺。
いつものように返し馬を済ませ、ゲートに入る、時のこと。
『へへへ。ここにいるやつら全員、俺がのしてやる!』
えらい気合が入ってるな。誰かは知らんけど。
『しっかし、ちゅーおー? ってのも大したことないな! 今日のレースも、強そうなのは見当たらねぇ……し……っ』
すげぇ威勢が良いな。中央、って言ってたし、もしかして地方馬なのか?
地方馬で、2004年クラシック……あー、大分絞れるな。
(もしかして、コスモバルクか? 分からんねぇけど)
もしコスモバルクと仮定した場合、これはアレだな。タイドの借りを返すことができるな。
年末のレースで負けた、って言ってたし。ここでいっちょ俺が勝ちますか。
仇は俺が取るぜ、タイド。任せてくれ。
で、なんかアイツ俺の方を凝視してるけど。なにかあんの?
『へ、へぇ。中々骨のありそうなやつがいるじゃねぇかっ。け、けど! 勝つのは俺だ!』
声が震えているような気がするのは、俺の気のせいだろうか。
いいか。別に俺のパフォーマンスに影響するわけじゃないし。
俺は俺の走りをすればいい。何も変わらん。
ゲートに入れられ、時をじっと待つ。
しくじりはしない。逃げようってんだから、スタートは特に大事になってくる。
《大外枠のメテオバーストがゲートに収まります。全馬態勢が整いました》
気持ちを落ち着けて、開くその時を待ち続ける。
待って、待って──視界が開けた。
駆け出す。誰よりも早く、抜け出すために脚を動かす!
《スタートしました! 好スタートを見せたのは最内枠のメジロシャーロック、メジロシャーロックが鮮やかなスタート! 他もまずまずのスタートを切ります、出遅れはありません》
《良いスタートを切れましたね。おっと、6番のコスモバルクも抜け出そうとしていますよ》
《最内枠を活かしてグングン進むメジロシャーロック。真ん中からは地方馬コスモバルクが来ているぞ。弥生賞の幕開けは葦毛の馬体の華麗なスタートから始まります》
しっかりとペースを握ることを目標に。
先頭に立ってペースを支配する。前のようにな。
ただ、今回はちょっと違うところがある。
『オラオラオラァ!』
コスモバルクが競りかけてきた。
わざわざ俺の近くまで陣取り、被せるように走ってくる。
競り合い、か。
『ちゅーおーなんかに負けるかよ! 俺が先頭だ!』
先頭が欲しい、ね。
『欲しけりゃやるよ、別に』
『はっ?』
『走りたきゃ走れ。俺はこのペースを崩さんから』
なにがなんでも逃げたい奴ってのはいる。
前にいるのが気に食わないとか、周りに他馬がいるのが怖いとか。理由は様々だ。
じゃあ俺は? 別にんなことはない。
前を走ってようがどうでもいいし、併せられても特には感じない。
闘争心はあるよ。負けたくないとか、馬の本能はちゃんとある。
(けど、大事なのは勝つことだ。ペースを崩して、自滅でもしたらえらいことになる)
優先順位の違いだ。
《コスモバルクが先頭に立ちます。コスモバルクが先頭を奪いました。2番手はメジロシャーロック淡々と進みます》
今この場において優先すべきはペースを乱さないこと。
ただでさえ走ったことがない2000m。無理にペースを上げて、自滅でもしたら洒落にならん。
なので、わざわざ競り合う気はない、ってことだ。
あくまで俺はペースを崩さない。
終始淡々とレースを進め、前を走るコスモバルクを気にも留めない。
《向こう正面から第3コーナーへ。先頭はコスモバルクリードは3馬身。2番手にはメジロシャーロック追走、悠々と進みます。メジロシャーロックの後ろには8頭のサラブレット、メジロシャーロックのペースで進んでいます》
《コスモバルクがキツくなってきますね。メジロシャーロックよりも速いペースで走り切ることができるのか?》
多分だけど、第4コーナー辺りでコスモバルクは限界を迎えるはずだ。
その隙を狙う、なんてことはしない。
(この辺からスパートかけても大丈夫だろ)
第3コーナーに入ったそのタイミングで、俺はスパートをかける。
前を走るコスモバルクとの距離を縮める。
じわり、じわりと。少しずつ底に沈めていく。
真綿で首を締めるかのように。
《上がってきましたメジロシャーロックここでスパートをかけます! メジロシャーロックのロングスパート、中山ならばこれが最適解!》
《後続もつられてペースを上げましたね。さぁ、どうなるか!》
《コスモバルク必死に逃げる、コスモバルク必死に逃げる! 第4コーナーまで必死に逃げるぞコスモバルク逃げ切れるか!》
少しずつ追い詰めていく。
俺の性格が悪いみたいに聞こえるが、これは仕方ない事情があるんだよ。
まず、俺は瞬発力がない。ワープするような末脚がないんだ。
これは今までの調教で分かっている。グルーヴさんに勝てた試しがないし。
(最後の直線でよーいドンになったらまず負ける。だから、ロングスパートしか取れる択がない)
その分末脚の持続力は自慢できるがな。
なんでまぁ、ロングスパートをしているのだが、エンジンのかかりも早い方じゃない。
どうしたってトップスピードに乗るまでは時間が掛かる。
じわりと追い詰めているのは、俺のスピードが徐々にしか上がらないから。それに尽きる。
(でも、これ最初の方からスパートかけるみたいに走ったらどうなんだろうな? ちょっと気になるわ)
大逃げみたいな形になるのだろうか?
だとしたら、ちょっとやってみたいな。逃げのレパートリー増やしたいし。
ラップ逃げだけじゃいずれ限界が来る。この機会に、大逃げもやってみるか。
ま、今は関係ない。第4コーナー辺りでコスモバルクを抜いて、最後の直線に先頭で入る。
《最後の直線、先頭はメジロシャーロックだ! メジロシャーロックが突き放す、メジロシャーロックが突き放す! コスモバルクを突き放していく!》
足音が遠くなっていく。地面を蹴り抜く音がどんどん小さくなっていく。
差を広げている証拠だ。なにもおかしいことじゃない。
このまま手を抜くことなく走り抜ける。
後続との差をどんどん広げて、圧勝ペースを作り上げた。
《メジロシャーロックだメジロシャーロックだ! 盤石の強さを発揮して、今メジロシャーロックが5馬身差を叩き出してゴールイン! メジロシャーロックの強さは陰りなし! コスモバルクら9頭を一蹴!》
《2着にコスモバルクが滑り込みましたが、やはり序盤で無理やり逃げたのが響きましたかね。同じ位置で勝負していたら、あるいはもありましたが》
《これこそがメジロシャーロック! 大歓声に包まれる中山競馬場、メジロシャーロックが見事弥生賞を制しました!》
5馬身差勝利。ラップ逃げも慣れたものである。
レース後。
『な、なんだよあの強さ……ば、バケモンじゃねぇか……っ。これが、ちゅーおーだってのかよ?』
誰がバケモンだコスモバルク。まだ常識の範疇だよ俺は。
来年になったらもっとバケモンが出てくるから。なんなら今年のダービーにも出てくるよバケモン。
(ほんっと~にどうすっかな~。ただのラップ逃げじゃ、ダービー勝てなさそうだし)
「よしよし、今日もよく頑張ったねシャーロック。ラップタイムも、君の望み通りだと思うよ。僕の体感だけど」
岳さんにも褒められた。フハハ、今後も頑張りますよ俺は。
……あぁそうだ。頑張らなきゃいけねぇよ。
それは、俺だけじゃない。
(岳さん。あなたの古傷を抉るみたいになりますけど……俺はやりますよ)
岳さんを乗せて大逃げをする。その意味をしっかりと理解して。
俺は、大逃げで走る選択肢を残しておきます。
選択肢が多いのに、越したことはないから。
俺が大逃げで走ることで、岳さんがどうなってしまうのかは分からない。
だから、覚悟だけは決めておく。どうなってもいいように。
いずれ、走らなきゃいけない日が来るかもしれないから。
使わないに越したことはないけど、それでもやらなきゃいけない日が来るかもしれない。