大逃げ、という脚質がある。
簡単に言えば、逃げよりもさらに前の位置で勝負、ハイペースを刻んで後続を大きく突き放す逃げだ。
スタートから他馬を一気に突き放し、とにかく序盤でリードを稼ぐ。
後半は稼いだリードを保ちながら、逃げ切れるように粘るのみ。
言葉にしちまえば簡単な戦法だ。
だが、この大逃げはやろうとするとかなり難しい。
(要求されるスタミナとスピードが莫大だ。最低でも、後続を10馬身以上引き離す必要があるからな)
スタートが上手くないと話にならないし、基礎スペックがぶっ飛んでないと他馬を突き放せない。
2着以下を大きく離して逃げる。これがかなり難しいわけだ。
差しや追込同様、展開にだって左右される。着いてくるかどうかも運任せ。
マークされているほど難しくなる。結構厄介な脚質だ。
その分大逃げはド派手。
ツインターボやパンサラッサに脳を焼かれた人は多いだろう。
見た目も派手だし、最後の直線に先頭で入ってきた時のワクワク感は異常。
もしかして、このまま逃げ切れるのか!? なんて思ったファンは少なくないはずだ。俺もそうだし。特にパンサラッサの秋天。
で、俺のやりたいこととしては、大逃げと呼ばれるようなレースをしたい、ってところだ。
いや、正確には大逃げじゃなくても構わない。
ラップ逃げではない、別の逃げ。消耗戦の逃げをしたい、ってのが俺の願望。
(他の馬よりもスタミナはある方だ。それに、ラップ逃げだけじゃない他の選択肢も欲しい)
それこそ、ハイペース逃げ以外にも幻惑逃げもやりたい。
やりたいことは3つ。ラップ逃げ・大逃げもといハイペース逃げ・幻惑逃げの3つを完成させるのが、この先勝ち抜くために必要だと考えている。
(……冷静に、ハイペース逃げに擬態した幻惑逃げとか相手したくねぇな)
相手からしたら嫌なことこの上ない。俺がやろうとしていることなんだけど。
これもメジロ復活のため。妥協する気は一切ないぞ。
しかし、問題点が1つある。
俺自身の問題ではない。騎手である岳さんの問題が。
岳さんで、大逃げ。もはや分からない人はいないだろう。
そう、サイレンススズカだ。大逃げ馬といえば、と聞かれたら、真っ先に名を上げる人も多い。
スタートから一気に先頭を奪い、後続を瞬く間に突き放して逃げる。
圧倒的なスピードが実現可能にした、逃げの理想形。
追いつく者なき【異次元の逃亡者】。サイレンススズカは逃げ馬の理想とも言える。
ただ、そのサイレンススズカは天皇賞・秋で骨折。手の施しようがなく、安楽死処分が下された。
その時の鞍上が、俺の主戦騎手でもある岳さん。
岳さんは目の前で、サイレンススズカを喪ってしまった。
(俺とサイレンススズカは違うとはいえ、だ。下手したらトラウマを刺激しかねん)
かつて大逃げで喪ってしまった相棒。
岳さんが深く悲しんでいたのは、誰もが知っている。
泥酔するまで酒を飲み、同じ騎手の人達があれほど落ち込んだ姿は見たことがない、と証言するほどだ。
サイレンススズカの悲しみは、今も深く心に刻まれているだろう。
今が2004年。事故が起きたのは1998年……まだ、6年ぽっちしか経ってない。
(最低だとは思っている。俺の目的のために、岳さんの古傷を抉ろうとしているんだから)
人でなし、気持ちを考えろ。
そんなことは分かっている。本当ならやめるべきだ、ラップ逃げでも十分戦えるなんてことは、分かってはいるんだ。
だが、そうは言ってられない。
クラシック戦を、とりわけ日本ダービーを、2004年の日本ダービーを見据えるなら……生半可な逃げじゃ勝てないのだから。
絶対に勝つならば、今の逃げだけじゃ到底足りないんだ。
(断言してもいい。生半可なラップ逃げは間違いなく通用しない。少しでもハイペースの逃げに慣れておく必要がある)
だからこそ、最低と罵られようが俺はやる。
岳さんのトラウマを掘り起こすことになっても、絶対にやり遂げる。
たとえこの先、岳さんが乗ってくれなくなったとしても。
と、決意を新たにしたところで。
まずは何をやるべきか? これを明確にするか。
これに関しては決まっている。調教で、いつも以上に早いペースで走るつもりだ。
(普段から平均的なペースでしか走ってないからな。調整は問題ない)
少なくとも、岳さんは違和感を抱いてくれるはずだ。
いつものペースから逸脱して走る俺に。なんでいつものペースから逸脱するのかを。
次いで、どうしてかを考える。いつも以上のペースで走る理由を。
そこから先は、分からん。岳さんがどんな感想を抱いてくれるか、だ。
(ぶっちゃけ、意識させることが大事だ。ハイペースのラップタイムを刻んでやる)
一体、岳さんはどんな反応をするのか?
俺の選択が、吉と出るか凶と出るか。
いや、吉にしてやる。吉にしなきゃいけねぇ。
「シャロ~。今日の調教だぞ~」
やれるだけのことはやってやる。
◇
いつもと変わらない栗東トレセン。
「今日も絶好調やな~シャーロックは。馬体が輝いとる!」
「はいはい。それでは寛さん、お願いします」
「はい。よし、シャーロック。今日も頑張ろうな」
シャーロックに騎乗して、普段通りの調教になる、はずだった。
最初こそ特に変わらない。
いつものように軽い準備運動を済ませたシャーロックは、緩やかなペースで走りだす。
(いつ乗ってもがっしりとしている。こっちに自信を与えてくれる、逞しい背中だ)
馬体の肉全てが筋肉であるかのような重厚感。
それでいて、柔らかさも兼ね備えるしなやかさ。
やっぱり騎乗していて飽きない。シャーロックに乗るのはとても楽しい。
違和感を感じたのは、タイムを測る時だった。
「よ~し、一本測るで~」
康夫さんの指示で走りだすシャーロック。僕は手綱を握って、上から指示を飛ばす。
シャーロックはペースを乱すことを好まない。
自分が望んだペースで走るのを重視している。
だから今日も、いつも通りの緩やかなペースで走る……そんな風に、楽観視していた。
「ッ!?」
「うん?」
「あれ?」
康夫さんと俊之さんの気の抜けた声。かくいう僕も驚いている。
手綱を凄い力で引っ張られた。気を抜いていたわけじゃないけど、持っていかれると思った。
緩いペースで走ると思っていたシャーロックは。
(この、ペースはっ!)
まるでスパートをかけんばかりの勢いで、走ろうとしていた。
とにかく早く走ることを重点しているような、後先のことを考えていない走り方。
普段とは正反対だ。決まったタイムを計測する、ラップ逃げとは違う形。
なんで今更? 調教にやる気が出てきた?
(……この、ペースだとっ)
楽観的な考え方は浮かばない。
頭に浮かぶのは、序盤から飛ばして走るこの走り方はっ!
「緩めるんだ! シャーロック!」
急いで手綱を締める。
暴走して走ろうとしているシャーロックを止めるために。
「普段通りのペースで走るんだ! 最後まで走り切れないよ!」
けど、シャーロックは止まらない。手綱を締めても関係ないとばかりに暴走をしている。
(いつもは聞き分けがいいのに、どうして!?)
大人しいシャーロックじゃない。僕の言うことに、人の指示に従順な彼じゃない。
異常事態だ。すぐにでも調教を止めるべきだ。
ここにきて気性が悪化したのか? そんな兆候はなかったのにどうして?
「今日はえらいやる気やなシャーロック。なんかあったんか?」
「いつものペースから逸脱していますね。珍しい」
とにかく止めないと。
「落ち着いて、落ち着くんだシャーロック! 一体、どうしたんだ!?」
叫ぶように呼び掛ける。止まってくれと、これ以上はダメだと呼びかける。
普段の君らしくないから。いつものように、ゆったりとしたペースを刻む君じゃないから。
……違う。嫌でも思い出すからだ。
(スズカ……っ!)
脳裏に浮かぶ栗毛の馬が。僕にとって最大の後悔ともいえる、彼のことが頭に浮かぶ。
序盤から飛ばして逃げるハイペースのラップタイム。
風を切る感覚が心地良く、世界に僕達だけしかいないように錯覚する。
とても気持ちがよくて、いつまでも乗っていたいと思えるような、夢見心地の気分。
その果てに得たものが──悪夢のような結末だということを。
重なる。スズカとシャーロックの影が、凄まじいペースで走ろうとする姿が重なる。
「止まれ……止まれ……っ、止まってくれ!」
手が震える。心臓の音がうるさいくらいに聞こえる。
頭が真っ白になりそうだ。早くこの調教が終わってほしいと願うほどに。
悪夢の終わりは、唐突に訪れた。
「……あれ?」
もはや手綱を必死に握るだけだった僕。その手綱が、不意に緩んだような気がして。
気づいた頃には、シャーロックのペースはいつものペースに戻っていた。
序盤のハイペースが嘘のようにゆったりとしている。
いつもの調子に、戻ったように。
「シャーロックっ」
その日の悪夢は、唐突に終わりを告げた。
タイムを見せてもらう前に、康夫さん達の心配するような表情が目に入った。
「大丈夫か寛君! えらいげっそりしとるで!?」
「大丈夫ですか寛さん! なにかありましたか!」
「い、いえ。大丈夫、です。ちょっとびっくりしててっ」
気遣うお2人を手で制しつつ、タイムの紙をシャーロックに見せる。
いつもの彼ならば、タイムに納得がいかないはず。
自分のペースを崩した走りに、憤りを覚えるんだ。
不機嫌そうにそっぽを向いて、僕が宥める。そう、いつも通り。
なのに。
「ヒヒン」
「……シャーロック」
紙を一瞥したら、僕の顔を舐めた。
様子が違う僕を心配しているのかもしれない。自分のタイムよりも僕を心配してくれている。
心配してくれるのはありがたい。
でも、僕の疑問は晴れない。
(今日のシャーロックは、どこかおかしい)
全然様子が違う。その原因が何なのか、僕には分からない。
康夫さん達も不思議がっているみたいだ。
「今日は序盤飛ばしとったな。いつもはそんなことないのに」
「初めてのことですね。ですが、草薙さんはいつもと変わらないと言ってました」
「気性の悪化……っちゅうわりには、今は普段通りやしなぁ」
突然暴走した理由に心当たりがないと、全員が口を揃えた。
本当に、なんでなんだろう?
「シャーロック。君はどうしてっ」
「ブルル」
「……なんでもないよ。今日もお疲れ様」
「寛君! まだ調教終わってへん! まだあるで!?」
その日のうちに、疑問が晴れることはなかった。
それからだ。シャーロックは調教で、暴走するようになったのは。
「今日もハイペースで走るんか? ホンマに何があったんや、シャーロック」
「う~ん……草薙さんはいつも通りで何も変わらない、と言ってますし。他の厩務員も同じように証言してますし」
「寛君との調教だけ、暴走しとる感じか。序盤からガンガン飛ばして走っとる」
後先考えずに飛ばして逃げる。レースにおいてはスズカのような、大逃げのような走りをするようになった。
さすがにスズカほどの加速ではない。シャーロックの方がまだ遅い。
けれども確かに感じる。スズカと同じことをしようとしていると。
全てを置き去りにする大逃げ。逃げの理想、完成系の1つをやろうとしている。
あの、賢いシャーロックが、だ。
(なんでいきなり、そんなことを)
分からない。シャーロックがなにを考えているのか、全くもって理解できない。
おそらくだけど、僕になにかを伝えたいんだと思う。
暴走するのは単走の調教だけ。アドマイヤグルーヴと調教する時は見られない。
気性面の悪化という線はすでに消えている。いつも通りのシャーロックだからだ。
となると、僕になにかを伝えようとしているんじゃないか? そう思い至った。
でも、これも根拠が薄い戯言。これだ、と確信できることはない。
(最初に暴走した時、情けない姿を見せたからかな? だとしても、なんでいきなり?)
理解できない。彼が、シャーロックがなにをしようとしているのか。
僕には、とても分からなかった。
何度目かの調教で、暴走するシャーロックにも慣れてきた。
それでも、あの悪夢のような景色は見る。
(他の騎乗に影響はないけど、それでもっ)
あまり見たくない、というのが本音。あんなのは、二度とごめんだから。
調教が終わってひと段落している時。
顔を舐められる感覚が襲う。
びっくりしてのけ反るけど、犯人はすぐに分かった。
「シャー、ロック」
「ヒヒン」
件のメジロシャーロック。僕を悩ませている、元凶だ。
申し訳なさそうにしている。心なしか、しょげているみたいだ。
「僕を心配しているのかな?」
頷くように首を縦に振った。はは、本当に賢いな。
微笑ましい。少しだけ、気が楽になる。
「暴走するようになったね。やめるつもりは、ないのかな?」
次は首を横に振る。
今の状態を止めるつもりはない。そう言っているようにも見えた。
思わず溜息を吐く。そしたらシャーロックが慰めるように顔を舐める。
(シャーロックも、意地悪でやっているわけじゃなさそうだ)
僕が苦しんでいるからやっているわけじゃない。今の状況が良い証拠だ。
シャーロックが何を考えているのか……この先、答えが分かる日が来るのかもしれない。
(その時もどうか。僕が君の鞍上でありますように)
「今日もお疲れ様。頑張ったね、シャーロック」
「ヒヒィン!」
「はは、元気いっぱいだ」
よし、頑張ろう。他の馬のレースもある、調子を落としてはいられないのだから。
今後のためにはやるしかない。