メジロにとって、喜多野美弥にとって、日本ダービー制覇は夢だ。
古くは1961年のメジロオーの2着から始まった因縁。
これまで何度もダービーにメジロの輩出したが、勝利することは叶わず。
時には惜しいこともあったが、勝ち切ることは出来なかった。
何度、今回はいけると思っただろう?
何度、次こそはと考えただろう?
その度に阻まれ、年月だけを重ねた今では、諦めすらも頭に浮かんでいた。
ダービーは競馬に携わる人間にとっての夢。これまで何度も敗れてきた。
敗れる度に思うのだ。
「今回も、ダメだったわね」
「……はい、美弥さん」
「もう、この先も勝てないのかしらねぇ」
自分達の番は、一生こないのかもしれないと。メジロの馬ではダービーに勝てないのではないかと、頭によぎってきた。
海外種牡馬の台頭による、競馬全体の高速化。
メジロも海外の血を取り入れなかったわけではないが、どうにも結果は振るわない。
もうダメか。諦める他ないか。
喜多野美弥の頭には、そんなことばかりが浮かんでいた。
しかし、出会った。自分の夢を叶えてくれるかもしれない、途方もない才能を持った競走馬に。
「ねぇ裕二、シャーロックの様子はどうかしら? あの子は早くに母親を亡くして、寂しがってないかしら?」
「大丈夫です。メジロラモーヌが母親として、しっかりと面倒を見ています」
「そう……それは良かったわ。今度、また様子を見に行こうかしら」
「またですか。近頃体調がよろしくありません。あまりご無理をなさらないように」
メジロシャーロック。種牡馬成績が振るわないメジロマックイーンから出てきた、今後の日本競馬を牽引するかもしれない大物。
ついに出会えた。日本ダービーを制するかもしれない、メジロの競走馬に。
メジロマックイーンのスタミナを受け継ぎながら、現代のスピードにも対応できるサラブレッド。
かつて父馬に携わっていた生江康夫調教師が太鼓判を押す、惚れ込んだ才能。
それどころか、日本競馬界の最前線を走り続けている岳寛すらも認めた、天才と呼ぶに相応しいサラブレッドだ。
美弥も最初こそは無事に走ってほしいとだけ願っていたが、勝ち星を積み重ねるほどによくは大きくなる。
新馬戦を大差で圧勝した。
最初の重賞で危なげなく完勝した。
2歳王者を決める朝日杯で豪快な勝ち方を決めた。
そしてつい最近。まだメジロが取ったことがない八大競走の1つ、皐月賞を見事制したのだ。
オーバーペースで逃げるメイショウボーラーにつられることなく、自分のペースを作り出し。
マークしていた馬を自分のペースに引きずり込んで、見事勝利を手繰り寄せた。
「やった、やったわっ、裕二! シャーロックが、シャーロックがっ……!」
「えぇ、やりましたね! あの子が、コナンが遺した仔がっ! 皐月賞を勝ってくれた!」
「ありがとう、シャーロック。本当に、本当にありがとうっ!」
馬主席で喜多野裕二と一緒に、涙を流して喜んだ。
シャーロックの勝利を、メジロの皐月賞初制覇を手を取り合って喜んだ。
だからこそ、欲が出てきた。
「皐月賞でこの内容なら、日本ダービーもきっと」
「はい。ついに、勝てるかもしれません! シャーロックなら、やってくれる!」
日本ダービーを勝ってほしい、と。
最後はメジロブライトの3着。これまでの雪辱を果たす日が来た。
メジロシャーロックならやってくれる。きっと日本ダービーを勝ってくれる。
そう思うようになった。
しかし、神は時として残酷だ。
皐月賞から数日経ったある日のこと。喜多野美弥は自宅で倒れこむ。
「ゴホッ、ゴホッ!」
「美弥さん!? 大丈夫ですか、大丈夫ですか!?」
「だ、だい、じょうぶよ。ちょっと、調子がっ」
「っ! 今救急車を呼びます。どうかご安静に!」
激しく咳き込み、ついには体に力が入らず倒れこむ。
偶然にも裕二が側にいたため、まもなくして緊急搬送された。
皐月賞後の急激な体調悪化。なんともなかったのに、一体何があったのか。
病院で、診断結果が下される。
「肺炎、です。それも、軽いものではありません。ご高齢の身である喜多野美弥さんには、症状が重すぎます」
「……つまり、美弥さんは」
「どうか、覚悟だけはお願いします」
肺炎。医師は多くを語らなかったものの、悲痛な表情からある程度のことは察せられる。
ようやく現れたのに。もうすぐ日本ダービーなのに。メジロシャーロックが走るというのに。
叶わないかもしれない。見ることが、出来ないかもしれない。
ここにきて喜多野美弥は、病床に伏してしまった。
用意された病室。裕二は美弥の看病をしつつ、メジロシャーロックの現状を教えている。
「小白は今日も順調だそうです。毎日の調教も、頑張っているみたいですよ」
「……そう」
「飼葉ももりもり食べて。でも、草薙さんの用意する量にちょっとうんざりしているみたいで。食べてはいるけど、抗議するような目をしているみたいなんですよ」
せめて少しでも楽しく。ベッドの上で今も戦っている美弥に、少しでも笑ってほしくて。
面白い話題を提供する。シャーロックに起きたことや、頑張っていることを。
「寛さんも褒めていました。こんなにも真面目に取り組んでくれる馬は他にいないって。才能があって、真面目で、偉ぶりもしない。本当に希少な子だ」
「ねぇ、裕二」
そんな折、裕二の言葉を遮って、美弥が口を開く。
視線は定まっていない。虚空をさまよっており、うわ言のような呟きだった。
「……なんですか? 美弥さん」
蒼白の表情。もう先が長くないことを嫌でも分かってしまう、胸が締め付けられる顔つき。
それでも美弥は。
「日本ダービーは、絶対にっ……観たい、わねぇ」
「っ! そう、ですね。絶対に観に行きましょう」
「あの子の、シャーロックの、晴れ舞台。絶対に、観ないと」
朦朧とした意識の中で、己の願いを口にする。
シャーロックのダービーだけはなんとしても見たいと。
考えすらまとまらない、痛みがある中で。純粋に願う。
裕二はそんな彼女の手を取り、きっと大丈夫だと励ます。
観に行くことは出来る。晴れ舞台を観戦することは叶う。
希望を捨てちゃいけない。諦めなければ夢は叶うのだと鼓舞する。
(もう、長くない。日本ダービーまで、生きられないかもしれないっ)
たとえ担当医に、喜多野美弥は来月まで生きることは出来ないと、宣告されていたとしても。
「はい。シャーロックの日本ダービーは観にいかないと。あの子、拗ねちゃうかもしれないですから。頑張りましょう、美弥さん」
「あの子、寂しがり屋だもの、ね。早くに母を亡くしたから、余計に、寂しがりっ」
「はい、はい。寂しがらせるわけには、いかないですからね。絶対に、応援しにいかないと」
自分にできることを精一杯にやらなければいけない。
そう、やれるだけのことをやる。
「水垢離、ですか。それは、喜多野美弥さんのために?」
「はい。どうかお願いします」
「……分かりました。では、こちらにどうぞ」
少しでも長生きできるように。せめて、日本ダービーを観戦することができるように。
「神様、どうかお願いします……! 美弥さんを、どうか美弥さんを健康に!」
冷水を浴び、身が凍えるような思いをしたとしても構わない。それで、喜多野美弥の日本ダービー観戦ができるのならば。
「どうか……どうか……っ!」
日課のように神社へと足繫く通い、神仏へと願い続けた。
その頃、メジロシャーロックはというと。
「まだ、やれるだろう? シャーロック! もっと飛ばして構わない! ハイペースを刻み続けるんだ!」
『分かってるよ岳さん! やってやる、絶対にやってやるさ!』
皐月賞以上に全力で、調教に取り組んでいた。
◇
皐月賞が終わってから日が経った。
なのに俺の気持ちは滾り続けている。やる気が漲っている、って感じだ。
「シャーロックも寛君も、えらい気合が入っとるわ……それは、俺もやけどな」
「はい、テキ。俺達全員、次の日本ダービーはなんとしても勝ちたい、という思いが強いです」
「当たり前や。生江康夫、一世一代の大勝負。次のダービーだけは、絶対に負けられへんわ! 気張れよシャーロック、寛君! ダービー、絶対取るんやろ!?」
康夫さん達も同じだ。
いつもは俺を褒めちぎる康夫さんも、冷静に諫める俊之さんもいない。
眼差しは真剣そのもの。次のレースに向けて、恐ろしく気合が入っている。
理由? そんなもの、一つしかねぇだろ。
(次のレースだけは絶対に勝たなきゃいけねぇ……! メジロのためにも、美弥さんのためにも!)
美弥さんのためだ。
皐月賞が終わった数日後。美弥さんが自宅で倒れたらしい。
とある日、辛そうな顔で厩舎を訪れた裕二さんがそう言っていた。
怪訝な顔をする康夫さん達。一体何事かと心配する。
告げられたのは……美弥さんの余命宣告。
「もう、先は長くないそうです。次の日本ダービーも観れるかどうか。そう、仰っていました」
「……嘘やろ? そんなん、悪い冗談やろ?」
「私も信じられない気持ちでいっぱいです。ですが、それほどまでに重い」
ダービーまで生きられないかもしれないと、そう言われたそうだ。
信じられなかった、なんてことはないのかもしれない。
ただ、いざ言われると、戸惑うし信じたくない。
(皐月賞は観に来れたのに、ダービーまではっ)
もう美弥さんの先は長くないなんて。1ヵ月も生きられないかもしれない、なんて信じたくなかった。
落ち込んだ。泣きたくなった。
レース後は俺を褒めてくれて、高齢なのにいつもレースを観に来てくれて。
俺の勝利を喜んで、朗らかな笑顔を向けてくれたおばあちゃんのような人が、もう死んでしまうかもしれないのは。
だけど、落ち込んでいる暇なんてないんだ。
「ですが、美弥さんは今も頑張っています。毎日ダービーを見たいと、シャーロックの晴れ舞台を観戦したいと、そう口にしています」
「……そう、か」
「はい。だからこそ、私も私にできる精一杯をするつもりです。厚かましいお願いではありますが、どうかみなさんもご協力してもらえないでしょうか?」
頭を下げる裕二さんがいる。美弥さんのためにと、土下座をする裕二さんがいる。
「どうか、どうかシャーロックをっ。メジロシャーロックを日本ダービーで勝たせてください!」
「……裕二さん」
「難しいお願いなのは分かっています、無知甚だしいことなのは十分理解しています! それでも、それでも……っ!」
涙声で懇願する、裕二さんがいる。
「どうかシャーロックを……日本ダービーで……っ!」
そんな姿を見せられて、落ち込んでいる暇なんてあるわけねぇだろうがよ!
馬房の扉を開ける。簡易的なものだから、抜け出そうと思えばいつでも抜け出せる。
「シャーロック、お前っ」
「えぇ、俊之。逃げ出そうとはしとらん。どちらかと言えば……滾っとるわ。やる気に溢れとる」
俊之さんを制する康夫さん。
裕二さんの肩を叩いて、立ち上がらせる。
「安心してください、裕二さん。今ので俺ら全員──燃え上がっとりますわ」
「やすお、さんっ」
「俊之、次のダービーは絶対に負けられん。生江康夫厩舎の威信にかけて、絶対に勝つで」
「当然です。負けるつもりで挑むバカはいませんから。俺達も、全力を尽くす所存です」
そして安心させるように、全力を尽くすと約束した。
いまだに涙を流している裕二さん。康夫さんの手を取って。
「ありがとうございます……ありがとうございます……っ!」
ずっと、お礼の言葉を口にしていた。
その時の話は、後日岳さんも聞いたらしい。
覚悟を決めた顔で、俺の前に立っていた。
「シャーロック。遠慮はいらない……君の本気を、ハイペースの逃げをぶつけてくれ」
やめてくれないかと口にしていた人が、むしろやってくれとお願いしてきた。
分かっているんだろう。逃げるわけにはいかない、負けないためにもやるしかないと思っているんだ。
限りなく勝率を100%近づけるためにも、俺の大逃げを容認した。
「もう自分の過去から逃げない。いや、逃げるなんて言ってられない。美弥さんのためにも、僕は負けられないんだ」
「ブルル(岳さん)っ」
「だから、遠慮なく全力を出してほしい。僕は──絶対に逃げないから」
岳さんからの覚悟を、俺は受け取ったんだ。
もうやるしかない。負けるなんて選択肢はどこにもない。
(絶対に勝つんだ、勝つんだ!)
「ハァ……ハァ……! 大丈夫だ、僕は大丈夫だ、シャーロック! そのまま、遠慮なく走ってくれ!」
「やる気はえぇけど、ケガだけは絶対にしたらアカン! 草薙、よう見張っとけよ!」
「分かっています、康夫調教師! 俺が絶対にケガさせません!」
勝ってやる。日本ダービーを、絶対にっ!
ただ、悪いことは重なるもので。
「ブラックタイドが、左前浅屈腱炎っ?」
「はい。長い休養が必要になると、獣医が」
5月入ろうかという時期。友達のタイドの長期離脱が決定してしまった。
曇らせ「そろそろ自分、いけますよ」