日本ダービーが近づいている。
例年通りならば、競馬ファンだけが盛り上がる季節だ。
一般人はいつもの日常を過ごすだけ。なんでもない、普通の日を過ごしている。
ただ、今年に限っては違った。
普段は新聞を読まないような一般人さえも、スポーツ新聞を買っている。
「メジロシャーロックのレース、もうすぐなんだってな。ついつい買っちまったよ」
「お、あんたご新規さんか? だったらいい時に興味が出てきたな! シャーロックのレースは凄いぞ~?」
「一度現地に来てみ? 虜になること間違いなしだ!」
理由はメジロシャーロックだ。
JRAの力もあり、朝に限らず、夕方のニュース番組でも取り上げられるようになり。
話題沸騰中の競走馬として名前が挙がるようになってきた。
普段興味がないと言っても、ニュースで目にすれば興味が沸くというもの。
それも、ドラマのような馬生を送っているのだ。応援したくなる気持ちも、相応に湧いてくる。
「この子、生まれた時に母親を亡くしてるのね……なんだか可哀想」
「あぁ。それに、シャーロックに関してはそれだけじゃないんだ」
「オーナーさんも今病気だなんて。それでもこの子は頑張っているのね」
一般人にも、メジロシャーロックの名は広く認知されるようになった。
それもあってか、現在のメジロを取り巻く状況は、一般のファンにも広く伝わっている。
「メジロの馬主って、かなりの高齢なんだろ? まずくねぇか?」
「医者も、奇跡でも起きない限り生きられないって言ってるらしい。なんとか生きて欲しいけどよ」
「歯に衣着せぬ物言いが好きだったなぁ」
メジロの総帥、喜多野美弥が病床に伏していることも認知されていた。
92歳の高齢馬主。いつ亡くなってもおかしくない中、肺炎に罹ってしまった。
もうダメじゃないかと誰もが分かっている。長く生きられないと、悟っている。
それでも、奇跡に縋りたくなるのが人。
「せめて、せめてよ。ダービーまでは生きて欲しいよ俺。喜多野オーナーによ」
「あぁ。ようやくダービーを勝てるかもしれないメジロの馬が出てきたんだ。シャーロックがダービーを走るまではさ、何とか生きて欲しいわ」
「あの人、ダービーの称号を欲しがってただろ? ようやくチャンスが巡ってきたのかもしれないのに……こんなのあんまりだ」
贅沢は言わない。後ほんの少しでもいい。
メジロシャーロックがダービーを走るまではどうか、喜多野美弥に生きていて欲しいと。
古くからの競馬ファン程、願いを切望していた。
いや、願うだけじゃない。
「……俺達も俺達で、出来ることをやろう! 千羽鶴とかどうだ?」
「悪くない。メジロ宛に、千羽鶴を折ろう!」
「祈りを、願いを込めて。美弥さんが健康に過ごせるようにって、神社に参拝もするぞ!」
「俺、お守りとか買ってくる! 今はとにかく、やれることをやらなきゃ!」
行動に移す人もいた。どうか生き長らえて欲しいと、神に縋りつく。
そこには新規も古参も関係ない。
人々の純粋な願いだけがある。
どうか喜多野美弥オーナーを日本ダービーまで生かしてほしい。そんな、簡単な願いだ。
当然、マスコミが目をつけないわけがなく。
【病気と闘うオーナーのために。生江康夫「厩舎一丸となって戦う覚悟」】
【日本ダービーは負けられない!気合が入った調教をするメジロシャーロック】
【メジロ悲願のダービー制覇へ。オーナーのためにも頑張れメジロシャーロック!】
新聞の一面にでかでかと。
それどころか、枠を割いてドキュメンタリー方式で放送する局すらも現れる始末だ。
視聴率が取れるのか? という問題もクリアしている。そこそこの視聴率を叩き出していたため、上役としても文句は出なかったようだ。
これまで勝てなかったダービーの悲願。
今なお病気と闘うオーナーの存在。
出生から他とは違うドラマ性に富んだ馬生。
そのどれもが、人々の興味を惹いて止まない。
誰もがメジロシャーロックを応援していた。
そんな中開催されたNHKマイルカップ。
クラシック級限定のマイルG1。かつては世界に羽ばたいたエルコンドルパサーが勝利するなど、歴史は新しいながらも注目されるレースだ。
肝心のレース内容はというと──あまりにも一頭が突出しすぎていたレース内容だった。
《さらに大外からはキングカメハメハ、間からはメイショウボーラー伸びてきた! 大外からキングカメハメハ、キングカメハメハ! 内からコスモサンビームが伸びている、しかしこれはキングカメハメハだ! キングカメハメハが先頭に立った!》
最後の直線。坂を駆け上がっていた後に待っていた、キングカメハメハによる独擅場。
気づけばあっという間に差を広げる。まさにモノが違うと言わんばかりの末脚。
《内からコスモサンビーム、外からキングカメハメハ! 3番手争いは接戦、2番手コスモサンビーム伸びてくる! だがこれはキングカメハメハだキングカメハメハだ、外から駆け上がって突き放したキングカメハメハ今ゴールインっ! 圧勝でレースを制したキングカメハメハ!》
最終的に、2着に6馬身差をつけての圧勝。
マイル戦で6馬身という、常識外の記録を叩きつけたのだ。
場内も沸き上がっている。新たなスターの誕生に。
「なんだあのすげぇ末脚!? 完璧なレースだった!」
「新しいライバルの誕生だ! こりゃ、シャーロックもうかうかしていられねぇぞ!」
「次走は日本ダービーらしい。タニノギムレットも勝てなかった末邦ローテ*1、ここにきて達成できるんじゃねぇか!?」
「アホ抜かせ! シャーロックが負けるかい! いや、言うてもあの末脚はごっついからのう……もしかしたら、があるかもしれんな」
メジロシャーロックを脅かす馬が誕生したことに、次の日本ダービーも盛り上がると期待に胸を膨らませていた。
新たな実力者キングカメハメハ。皐月賞馬メジロシャーロック相手に、どんなレースを展開するのか?
誰もがキングカメハメハに注目する中、一際鋭い視線を向ける人物がいる。
「これが、キングカメハメハの強さっ。確かに、これは」
今回のNHKマイルカップ、シーキングザダイヤに騎乗していた、岳寛だ。
敵意、警戒。
頭の中は、すでに日本ダービーのことでいっぱいになっている。
ただ、あまり芳しくないのか、苦々しい表情を浮かべるだけ。
絞り出すような一言。
「……やるしか、ないんだ」
覚悟を、決意を固めていた。
◇
近頃、夢を見るようになった。最悪な夢を。
日本ダービーでメジロシャーロックに騎乗する夢。
凄く調子が良くて、どこまでも行けそうなほど浮かれて。
後続を大きく突き放して逃げる大逃げ。そう、まるでスズカのような逃げだ。
このまま勝てる、美弥さんによい報告ができる。
そう思って、大欅を超えた矢先。
《め、メジロシャーロック失速、メジロシャーロック失速っ!? な、なんということだ! 魔の大欅でまたも失速! これはかつての天皇賞、1枠1番の悲劇が、日本ダービーの舞台でまた起こってしまった! メジロシャーロック失速だ!》
突如としてバランスを崩す。シャーロックの馬体が倒れこむ。
投げ出され、宙を舞う僕の体。
東京競馬場の芝生に叩きつけられる。
痛みはない。ないはずなのに、凄く痛い。
這いずって、シャーロックを見つめる。
黒く淀んだ何かが、僕を見つめていて。
「お前はまた繰り返すのか?」
そう、責められているような気がして……っ!
「うわぁぁぁあああっ!」
決まったこの場面で飛び起きる。
整わない呼吸を整えて。1つ深呼吸をした後に、安心するんだ。
さっきのは夢なんだって。夢でよかった、って。
けれども。
「君はいまも、僕を恨んでいるのかな……スズカ」
かつての愛馬の姿が、頭の中から離れなかった。
目覚めは最悪でも仕事はある。
今日もまた、シャーロックに騎乗するために、栗東へと足を運んでいた。
「おはようございます、康夫さん、俊之さん」
「おー、おはようさん寛君……その様子やと、またあの夢を見たんか?」
心配している康夫さん。どうも、見抜かれているみたいだ。
適当に頷きながらも、僕はシャーロックへと視線を向ける。
白くなってきた馬体に、いつもと変わらない惚れ惚れする完成度。
僕を心配しているみたいに覗き込んで、大丈夫か? と顔を舐めてくれる。励ますように。
優しい子だ。優しくて、強い子だ。
そんな彼を心配させたくない。弱さを見せないようにしないと。
「大丈夫だよ、シャーロック。さ、今日も頑張ろうか」
「ヒヒン」
「今日も……大逃げだ。ハイペースの逃げを練習しよう」
それに、僕はもう逃げるわけにはいかないんだ。
この前のNHKマイルカップで、思い知らされたのだから。
キングカメハメハ。調教で何度か見たことがあるけれど、レースで体感するとその強さはより際立つ。
(とんでもない素質を持った競走馬。シャーロックに勝るとも劣らない資質の持ち主)
シャーロックほど器用に立ち回れるわけじゃない。
けど、あの末脚に関しては疑う余地がないほど強い。
特に、最近のNHKマイルカップ。まさに圧巻だった。
(少しも追いつける気配がなかった)
強い。純粋に、そう思ってしまった。
シャーロックが劣っているとは思わない。むしろシャーロックの方が強いとさえも思っている。
ただ、勝つにはかなり厳しい勝負を強いられるだろう。
それこそ、今までの逃げじゃ絶対に勝てない。
(展開にもよりけりだけど、生半可な逃げは絶対に追いつかれる。それこそ、後続が追いつけないほど差をつけて逃げるしかない)
シャーロックは調教で感じ取っていたのかもしれないね。
キングカメハメハの強さを。今のままじゃ勝てない、ってことを勘づいた。
ハイペースの逃げをするようになったのは、それが理由かもしれない。
僕の勝手な思い込みかもしれないけどね。
好都合だ。最初こそやってほしくなかったけど、今ではどんどんやってほしいとさえも思っている。
「ホンマにええんか? 寛君。シャーロックやったら控える競馬もできる。抑えて走るっちゅう選択肢も」
「いえ、大丈夫です。僕は大丈夫なので、今のままでいきます」
「……無理だけはせんでくれよ? 寛君が騎乗できんくなるの、俺らも嫌やからな」
康夫さんの心配を振り切って、僕はシャーロックに騎乗する。
ハイペースの逃げを、かつてスズカでやっていたような逃げを打つ。
全ては前を向くために。
確かに、シャーロックの賢さなら抑える競馬もできるんだ。
朝日杯の一件でそれは分かっている。
馬群を嫌がることもないし、定石通りならばそれが正解なんだ。
でも、それでも僕は。
(今のスタイルを崩して、負けに繋がる要因を作るわけにはいかない。勝ちに繋げるためには、今の道こそが最善なんだ。不思議と、そう思っている)
やるしかない。恐怖を乗り越えて、前に進むしかないんだ。
もしもだ。仮に控える競馬をして、ダービーを勝ったとしよう。
今はそれでいいかもしれない。喜べるかもしれない。
刹那的な喜びのためならば、正解の道だ。
だがその先。未来のことを考えたら……良い選択とは言えない。
この先も僕は大逃げに及び腰になってしまう。恐怖から逃げてばかりの、情けない男になる。
別に責められはしないかもしれない。トラウマの1つや2つ、誰にだってあるのだから。
じゃあ僕は? ずっと逃げ続けるのか? 自分のトラウマから、スズカから目をそらし続けるのか?
そんなの──ごめんだ。
(逃げた先でまた同じ壁にぶち当たったら? そうなった場合、僕はまた逃げるのか?)
「大丈夫です、康夫さん。僕はもう、逃げるわけにはいかない。シャーロックは、僕に克服する機会をくれているんです」
「克服する機会、か」
「はい。このチャンスから逃げる真似はしたくない。誰よりも一生懸命で、真面目なこの子の期待を。僕は裏切りたくない」
シャーロックの背を撫でながら答える。僕の意思を、康夫さん達に宣言する。
きっと、シャーロックは僕にやり直させようとしているんだ。
かつての後悔を、スズカを喪ってしまったあの事件から立ち直れないでいる僕のために。
自分の力を使って、全力で立ち直らせようとしているんだ。
(僕に都合の良い思い込みかもしれない。けど、それだといろいろと辻褄が合う)
なんで急にハイペースの逃げをし始めたのか? 大人しくて従順だったシャーロックが、どうして僕の意思を無視し始めたのか?
僕にやり直しの機会を、トラウマと向き合う機会を作ってくれたんだ。
もしかしたら、スズカが乗り移っているのかもしれない。
(ふふ。それこそ僕に都合の良い思い込みか)
どちらにせよ、覚悟は決まっている。
シャーロックの期待に、康夫さん達の期待に……美弥さんの願いに、応える覚悟は。
「大丈夫です。日本ダービーまで日がありません。必ず勝たなきゃいけないんですから」
僕の言葉に、康夫さんは目を瞑り。
やがて、カッと見開いた。
「……えぇ覚悟や。俊之ぃ! 聞いとったな!?」
「勿論です。だからこそ、俺達も全力でサポートする、でしょう? テキ」
「そういうことや! 万全の態勢で日本ダービーに送り込む。やるで、みんな!」
厩舎一丸の覚悟。
絶対に本ダービーを獲るぞという決意を胸に、今日も調教をする。
最大の敵はキングカメハメハ。彼こそが、日本ダービーにおける一番の強敵。
予想される展開は、シャーロックの作戦からある程度割り出せる。
(大逃げは都合が良い。美弥さんに、分かりやすい勝利を届けられる)
「やろう、シャーロック! まだ、僕はまだ大丈夫だ!」
今もハイペースのタイムを刻むと汗が滲む。
嫌な汗が、脂汗が浮かんでびっしょりに濡らす。
そんな汗を振り払うように手綱を強く握り、シャーロックを鼓舞する。
「勝つんだ、絶対にッ!」
「ヒヒィィィン!」
日本ダービーは、もうすぐだ。
◇
それぞれの思いが重なる。
「そろそろ、メジロシャーロックの快進撃を止めようじゃないか」
「凄い自信だな、安堂。それだけキングカメハメハの状態が?」
「最高ですよ。誰が騎乗しても勝てます」
競馬史上最高の栄誉のために。
「そろそろ、ガツンとかまそうか。ハーツクライの状態も悪くない、日本ダービーはいける!」
「メジロシャーロックは逃げてくるはずだ。なら、無理にでも競り合って」
「ダービーは絶対に負けられない。全ジョッキーの夢舞台なんだから」
夢の祭典で勝利を勝ち取るために。
「お願いします! どうか美弥さんを東京競馬場に!」
「……分かりました。どうにか許可が出るように掛け合ってみます」
歴史の目撃者となるために。
「美弥さん、日本ダービー観戦の許可が下りました。現地で、観ることができますっ」
「……それ、は……うれし、いっ、わねぇ……。あの、こ……はれ……っ、ぶたい……」
「はい、はいっ。シャーロックの晴れ舞台です。美弥さんは、現地で観ることができるんですっ」
悲願成就のために。可愛い我が子のために。
願いと期待、夢と思いが交錯する日本競馬。
期待に胸を膨らませる中で。
次回、日本ダービー開幕。