ユニさんが栗東を離れた。もう、ここで見ることはないだろう。
(ユニさんに言われたな。長く健やかに走ってほしい、って)
ぶっちゃけ、長く走れるかどうかは現オーナーである裕二さん次第だ。
少なくとも来年までは走れるはず。その先は分からんけど。
来年まで走れる理由はたった1つ。天皇賞の存在だ。
(メジロにとって天皇賞は特別だ。ダービーと同等、下手すりゃそれ以上の価値がある)
天皇賞の存在がある限り、よしんば俺が無敗の三冠馬になったとしても、間違いなく走らせるはずだ。
二連覇を目指しての現役続行もあり得るライン。
下手すりゃ、メジロマックイーンが成し遂げられなかった三連覇も視野にするかもしれん。
俺が天皇賞に勝てば、の話だけど。
とにかく、来年の現役続行はほぼ確だ。
後は健やかの部分だな。これは、俺が体調に気を配っておけば大丈夫だろう。
(今のところ、ケガらしいケガはなし。菊花賞も問題なく走れる)
菊花賞まであと1週間を切った。
康夫さんも、かなり慎重に動いている。
調教が良い例だ。京都大賞典を走り終えた後の調教は、かなり軽めになっている。
「万が一にも疲労を残すわけにはいかん。万全の状態で、菊花賞に送り出すで」
調子と体重を維持するための調整。
追い切りみたいな無理な運動は一切せず、とにかく体調を崩さないようにと気を配っている。
本来なら2頭で併せるところも、俺のためにと単走での調教を指示。
「シャーロックは自分で調整できる。レース感は京都大賞典で養えとるし、なんも問題あらへんわ」
徹底的に管理していた。
そのおかげもあってか、俺は万全の状態で向かうことが出来そう。
となると、是が非でも取りたくなるよな。三冠の称号は。
(菊花賞。ユニさんが取れなかったのもそうだけど、メジロとして初の三冠馬にもなる)
三冠馬は特別だ。
種付け料にだって影響するし、三冠馬というだけでとにかく種付けしよう! なんて魔法の魅力がある。
特に、俺の場合は血統が血統だ。箔はあればあるだけいい。
(パーソロン系。悪いとは言わないし、むしろ希少性を考えたらプラスなんだが)
『相手がサンデーサイレンス系、ってのがなぁ。どこまでも不安にさせるぜ畜生め』
それだけ、この時代のサンデーは影響力がある。
そりゃまぁ産駒がバカスカ走ったわけだし、強い馬が欲しいからそうなるわな。
確実に勝てる馬を獲得したい。誰だってそう思うし。
ま、カメハメハも非サンデーかつ強かった馬だったので、重宝されていた。
そこに俺が加わることもできる、だろう。いや、さすがにできるわ。
間近に迫る菊花賞。俺の第一の目標が達成できるかどうかが掛かっている。
(絶対に勝つ)
気合いが入るってもんよ。
……で、菊花賞はこれくらいでいいんだが。
実は今別の問題が浮上している。
緊急性が高いわけじゃないし、なんなら微笑ましいぐらいの問題なのだが。
その問題というのが、ディープのことである。
『ね~ね~シャロさ~ん。ぼくと一緒に走ろ~よ~』
『他の誘えばいいだろ。なんでわざわざ俺なんだよ?』
『だってシャロさん速いし。シャロさんなら全力をぶつけられるし。一緒に入った子だと物足りないんだもん』
どういうわけか、俺はディープにかなり懐かれていた。
わざわざ俺のとこまできて、走りの誘いに来るくらいに。
ディープが栗東に入厩してからほぼ毎日。
最初こそ他の新馬に混ざっていたが、数日経ったら俺の方にやってきた。
曰く、俺が一番走っていて楽しいから、とのこと。
なんだ、俺なら全力をぶつけてもいいって。
一緒に入った子、新馬だと物足りないってか? バケモンじゃ……
(俺も大概だったわ)
いかん、俺も同じようなことしてたから強く言えんぞこれ。
え? まさか俺ってディープ側だったの? 俺もバケモノ枠に加わる感じ?
いやいやそんなまさか。俺はいたって普通の競走馬のはずだ。
ちょっと新馬戦大差勝ちしてその後重賞2連勝からの朝日杯制覇。
無敗で皐月とダービーの二冠を達成して、古馬を相手に大逃げで勝っただけだぞ?
そんなまさか怪物枠……苦しいわ。無理だわコレ。
(言い訳のしようがねぇ。よくよく思い返せば、俺がやってきたこと全部バケモノ側だわ)
改めて思い返すとアレだな。
俺ってディープのこととやかく言えねぇな、本当に。
『シャロさん走ろうよ~』
『分かった分かった。走ってやるから顔を舐めるんじゃありません。バッチィぞ』
ディープの走りに付き合うことに。
これも放牧で恒例となりつつある。
ただ、本気は出さない。
こっちは菊花賞を控えている身なんでね。
あくまで軽く。負担にならないように走るのがコツだ。
『よ~し、シャロさんに負けないぞ~!』
『言っておくけど、俺は本気出して走らんからな。レース近いし』
『えぇ!? そんなのやだやだやだ~!』
『ワガママ言うんじゃありません。レースが終わったら、いっぱい走ってやるから』
『本当!? やったー! 楽しみ楽しみー!』
ディープからはえらい不評を買っているが、なんとか宥めつつ放牧の時間を過ごす。
つかディープはアレだな。情緒が子供のそれだ。
(かなり扱いにくい馬、なんて言われてたな。岳さん以外は乗れなかったとか)
走ることを楽しんでいる、というか。レースそのものに頓着してなさそうな感じ。
俺に負けない、なんて口にしているから、競争意識自体はあるんだろうが。
(不思議な奴だな。ディープインパクト。これが後の無敗の三冠馬、か)
とはいえ、ディープはめっちゃ強い。こうして走っているから分かる。
そもそも俺に絡むのも、同世代じゃ相手にならないからだ。
能力が突出しすぎている。俺と同じように。
純真無垢な天才。それがディープインパクト。
ま、今はいいかもしれん。
康夫さん曰く、デビューはまだ先の方らしいし。
俺の菊花賞よりも後だ。
『いくぞいくぞ~!』
『そんな早く走っても、俺は本気出したりしないからな?』
果たしてどんな道を歩むことになるのか? ちょっと楽しみにしている自分がいる。
◇
菊花賞を目前に控え、競馬ファンの興奮は最高潮に達しようとしている。
「ルドルフ以来の無敗の三冠が掛かった菊花賞! しかも、あのメジロの馬だぜ?」
「サンデーじゃない競走馬でここまで来たんだ。楽しみにならないはずがない!」
「母父オグリキャップ。オグリが走れなかったクラシックで、孫がここまでの活躍を残すなんてなぁ……!」
言うまでもなくメジロシャーロックの存在だ。
戦績9戦9勝のクラシック二冠馬。
前哨戦に古馬との戦いになる京都大賞典を選び、見事大逃げで勝ち切った。
日本ダービーの出来事は、まだ記憶に新しい。
メジロの元総帥、故・喜多野美弥のためと言わんばかりの大逃げを発揮したあのレースは、目を閉じれば今も鮮明に思い出せるほどの戦いだった。
勝ち方も文句なし。取り巻く環境も語らずにはいられない。
メジロシャーロックの人気は、もはや全国津々浦々と広がりつつあった。
これにはJRAも大興奮。
興行的にも美味しく、なにより欲していたスターホースの存在。
現実でも、競馬場の客入りは凄まじい。
前年度と比べてかなりのプラスになっており、メジロシャーロックが出走する日は、普段の倍近い人数が押し寄せるのだ。
「この勝ちっぷり、プッシュするしかない!」
「もうすぐ完成だよな? 京都競馬場に展示するぞ!」
「メジロシャーロックの像。これはいけるな!」
そりゃあもう掛かり気味にもなる。
あの手この手を使って、メジロシャーロックの存在を前面に押し出していた。
すでに銅像さえも作っている始末。記念品も作るのもやむなし、お金になりそうなことはどんどんとやっている。
さらには他の陣営のこともある。
ライバル候補だった一頭であり、神戸新聞杯を制したキングカメハメハは菊花賞を回避。天皇賞・秋へ駒を進めることを発表。
調教師曰く。
「長い距離は走れそうにないので、距離の短い天皇賞・秋に照準を定めています」
元々マイラー気質のキングカメハメハでは適性が合わないから、と説明がされた。
こうなると、有力となるのはダービー3着のハーツクライ。
他のライバル候補も、ほとんどがメジロシャーロックに敗れた馬。
優位は揺らがないと、大多数は判断していた。
しかし、そこで待ったをかけたのが一部の専門家。
とりわけローテのことについて言及する。
「京都大賞典で大逃げしたのだろう? 疲れが残っている可能性が捨てきれないな」
「派手に勝ったのはいいが、中1週で菊花賞。前哨戦で、2400mの大逃げしたんだ。疲労が溜まっているに違いない」
「ローテについて疑問が残るね。これは、少々厳しい戦いになるんじゃないか?」
京都大賞典の疲労が残っている可能性。
古馬相手に大逃げで走った代償は決して安くないはずだ。
完調じゃない状態で3000mを逃げ切れるかは疑問が残る。
一部の人間は、そう指摘した。
だが、世論はすでにメジロシャーロックの応援に傾いている。
「シャーロックならいける! 無敗の三冠は秒読みだ!」
「負けるはずがねぇ! メジロシャーロックは無敵だ!」
「クラシックを走れなかったオグリの孫が無敗の三冠。こんなロマンあふれることはないだろ!」
「しかも、勝てばメジロマックイーンとの親子制覇だ! 期待するしかないっしょー!」
そんな声には耳を貸さない。
メジロシャーロックが勝つことだけを望んでいるような、そんな空気感に支配されている。
これまでの実績が、取り巻く境遇が。そんな空気を作り出す。
半々なんてレベルじゃない。賛9.9割の否が0.1割と言ってもいいほどだ。
それほどの期待がメジロシャーロックにかかっている。
「シンボリルドルフ以来の偉業」
無敗の三冠を勝ち取ることを。
「メジロ初のクラシック三冠馬」
名門復活の呼び水となることを。
「果たせなかったクラシック制覇を」
偉大なアイドルホースである祖父の夢を。
「菊花賞を勝ってほしい」
ただ勝ってほしいという純粋な願いを。
メジロシャーロックにはかけられていた。
管理する側である生江康夫は気が気でない。
胃がキリキリしている。菊花賞が近づくにつれて、どんどん酷くなっていた。
「アカン、ホンマにあかんわ。プレッシャーで俺の胃がおしゃかになる」
「バカなこと言ってないで仕事してください、テキ」
「俊之ぃ! お前には人の心っちゅうもんがないんか!?」
「気持ちは分かりますけどね」
涼しい表情の俊之と冷や汗だらだらの康夫。
こんなやり取りができるのも、2人が親しい間柄だからだ。
「ホンマにえらい人気や。元々ファン人気高い馬やったけど、最近はホンマに凄い。社会現象にすらなるんやないか?」
「無敗の三冠馬になったら、なるかもしれませんね。話題性しかないですし」
「……良し悪しはあれど、やな」
自分達を取り巻く現状。
嘆くものではないが、当事者としては胃が痛くて仕方がない。
メジロシャーロックに問題はないとはいえ、周りの空気が問題だ。
「シャーロックのレースは盤石やから、安心して見れるんやけどなぁ。万が一があったら……っ! おぉこわ」
「心配してどうするんですか。俺達は常に最善を尽くしています。今度の菊花賞だって、調整はばっちりしてあるでしょう?」
「それはそうやけどな」
弱音を吐きたくもなるだろう。最悪を想像した場合が怖すぎる。
ただ、康夫はすでに覚悟を決めていた。
「最後の冠も取って、メジロシャーロックを三冠馬にする。それだけやな」
「それだけです。だから、なにも心配いりませんよ。シャーロックの強さなら」
「脚元掬われんように、ってな」
準備は万全に整えた。
後はなるようになれ、だ。
できることは尽くしたのだから、後は天命に身を委ねるのみである。
「寛くんもえらい気合が入っとったわ。京都だから任せてください、なんて言うてな」
「なら、安心できますよ。京都の寛さんなんですから」
「安心できる要素しかないな! わっはっは!」
胃がキリキリしていた姿から一転。
生江康夫は高笑いをし、俊之はそんな姿をやれやれと言った様子で見守っていた。
メジロシャーロック側に問題はなし。
となると、後怖いのは……夏の上がり馬。
夏を経て急成長を遂げた馬の存在だ。
調子の良さそうな馬が一頭、栗東にいる。
「お~しおし、いい感じだぞデルタブルース! 磐田さんも、頼みますよ!」
「はい。やるからには勝ちますよ」
デルタブルース。つい最近1000万の条件戦を勝ったばかりの馬。
重賞を勝っていないので、とりわけ注目すべきところがない。
メジロシャーロックの相手にはならなそう、と思われそうな戦績だ。
だが、調教師の隅井は自信を深める。
(夏を経て、筋肉に厚みが増した。相手はバケモンだけど、十分渡り合えるはず!)
いける、と。デルタブルースならやってくれると信じていた。
人気薄なことが予想される。マークはメジロシャーロックに集中する。
大逃げで走るかもしれない。それはそれでよしだ。
(自滅するのを待つ。ダービー逃げ切ったけど、3000m逃げ切るのは至難の業)
「絶対に負けんぞ。デルタブルースで勝つ!」
極めて冷静だった。
騎手である磐田も、どんな動きにも対応できるようにとチェックを欠かさない。
「寛さんの逃げは絶対に警戒されるだろうからな。その警戒の包囲網をかいくぐって、漁夫の利を狙う」
最悪自分達もマークに加わることを視野に。
絶対に勝つためにと、遅くまで作戦を練っていた。
様々な思いが交錯する菊花賞。
三冠最後の戦いの幕が、上がろうとしていた。
次回 菊花賞