岳寛。競馬を知っている人間で知らない人はいない。そう断言できるレベルで有名な人だ。
俺の前世でもまだまだ現役だったうえ、しっかりとG1を勝ったりする大ジョッキー。
日本最高レベルの騎手、と言ってもいい人だ。日本競馬界のレジェンド、と呼ばれている。
なお、ウマ娘ではトンチキなCMによく出演している印象が強い。金箔塗った姿で出た時は噴き出したわ。
そんな生ける伝説なお方が俺の前に。にこやかに笑って俺を見ている。
はっきりと今の気持ちを言おう。超緊張しているわ。
(ジョッキーとしての腕なんて、疑いようがないくらいに超一流。そんな人が俺の鞍上なのかよ)
しかも、俺に対する騎乗依頼を二つ返事で了承したらしいですよ? 怖いわ、なんか。
真偽は不明だけど、こうして目の前にいるってことは、俺に騎乗するのは間違いない。
「いや~、寛君。どや? シャーロックは。えぇ馬やろ?」
康夫さん何てこと聞いてるんですか。いつもみたいな感じで俺を褒めんでください。
これで岳さんに酷評でもされてみろ。俺は半端じゃなく落ち込むぞ。
世界のトップジョッキーのお眼鏡に適わなかった。それだけで落ち込むには十分すぎるわ。
いや、まぁそんなこと言わなさそうだけど。建前でも褒めそうな気がするけど。
肝心の岳さんはというと、じっくりと俺の馬体を見ている。穴が空くぐらい。
何分経ったか。俺の感覚的には数時間レベルの観察。
一通り見終わった岳さんは、満面の笑顔で。
「うん、うん。やっぱり良い馬ですね。本当に、僕にお声かけしてくださってありがとうございます」
「やろ? この子は将来、メジロマックイーンに比肩するだけの馬になるわ。やったら、騎手は寛君しかおらんと思うてな」
「光栄です。いや、それにしても凄い。新馬とは思えないほどの筋肉ですね」
しゃあ認められた! 落ち込むことは回避したわ! 下手すりゃ三日三晩寝込むところだったわ!
というか、岳さんからしても俺は凄い馬なのか。
口々に褒めているし、嘘にも聞こえないし。
俺、アレなのでは? 凄い素質を秘めた馬なのではないだろうか。
なんせ名伯楽とトップジョッキーに褒められているんだ。これはきっと、俺が凄い馬だからに違いない。
「今日から早速頼むわ。新馬戦もあるし、早い段階から慣れさせとこ」
「今日からいいんですか!? やった、楽しみすぎるっ!」
「はは、寛君からそんな言葉が聞けるなんてなぁ! ホンマにえぇ馬やでシャーロック!」
いや、油断するな俺。油断するだけの出来事だけど、油断しちゃいかんぞ。
どんなに凄い馬でも、ちょっとの油断で負けてしまうことがある。一番やっちゃいけないことだ。
目標は無敗の三冠、ではなく、喜多野さんが馬主事業を継続してくれること。
そのためには、素質馬ってだけで終わらせちゃいけない。素質があったうえで、しっかりと結果を残さなきゃいけないんだ。
分かっている、分かっているが。
(でもニヤけるわ。いや~、あの岳さんに褒められるなんてな~。俺、マジで凄い馬なんじゃね?)
嬉しさは隠しきれんよね。ふふふ、今後が楽しみで仕方ない。
よっしゃ、今日は気合い入れて頑張るぞ!
◇
朝の栗東トレセン。騎乗予定のメジロシャーロックに会いに来た。
顔合わせだけかと思っていたけど、まさか調教で騎乗できるなんてね。
「大丈夫ですか? 僕は初対面ですけど」
確認する。馬の中には怖がりな子もいるから、情報はしっかりと聞いておかないといけない。
生江さんは、気にした様子を見せない。
「大丈夫や。この子はメンタルも強くてな。滅多なことじゃ物怖じせん。現に、初対面の寛君相手にも堂々としとるわ」
精神的にも強い馬であると、太鼓判を押していた。
本当に惚れ込んでいる。その気持ちは分かるけど。
肝心のメジロシャーロックは、僕をジッと見ていた。
僕が観察したように、メジロシャーロックもまた僕のことを観察している。
品定めをされているみたいだ。まるで、自分に騎乗する資格がお前にあるのか? と言わんばかりの。
だから、堂々とする。舐められてはいけない、かといって怖がらせてはいけない。
自然体でにこやかに。君の敵じゃないってことを態度で示す。
僕の態度に満足したのか、メジロシャーロックは無言で頭を下げる。
よろしく。そう言っているように見えた。
改めて彼の体に触れる。葦毛、だけどまだ完全に抜け落ちて白になっていない、黒っぽい肌に。
(凄いな。とても新馬とは思えない)
初見で感じた時と一緒だ。完成度が段違い、今まで見てきた新馬の中でもトップレベル。
鍛え抜かれた筋肉。これは走る、と思わされる肉体。
まだ見てはいないけど、柔軟性もあると聞いている。果たしてどんな走りをするのか。
今からこの子に騎乗する。そう考えただけで、身体が震えるっ。
(本当にこの出会いには感謝しないと)
声をかけてくれた生江さんには頭が上がらないな。
あの日のことは、今でも思い出せる。
始まりは康夫さんからの誘いだった。
「寛君。メジロマックイーンの仔で凄いのがおるから見にこんか?」
かつて騎乗していたメジロマックイーンの仔。康夫さんが興奮気味に語っていたものだから、どんな子なのか気になった。
最初はそこまでだった。康夫さんのオーバーリアクションだ、って。
「メジロシャーロックって言うんだが、この子が凄くてな~!」
「もうホンマに、一目見てビビっ! って来たわ! こらえらい馬が出たもんやと!」
「ついにマックイーンの産駒からG1馬が出るんや!」
会うまでの道中、隣でずっとこんなこと言われ続けたら仕方ない気もする。
さすがに褒め過ぎ。程々に期待しておこう。
メジロシャーロックに会うまでの第一印象は、その程度だった。
その認識は、調教で走ってる姿を見た時に消し飛んだ。
「俊之~! 最後にもう一本、キツめに頼むで!」
「分かりましたテキ。それじゃあシャーロック、あと一本頑張るぞ」
目の前で走っている姿は躍動感が凄くて、2歳の馬とは思えないほどに圧倒される。
まだまだ粗削り。発展途上で成長の余地を感じさせる走り。
スピードは中々のもの。特筆すべきは、他の新馬の倍近い量をこなしているのに、ケロッとしているところだ。
圧倒される。心臓を鷲掴みにされそうになる。
いや、もうされているな。だって、僕はすでに。
(彼に騎乗したいと、思っている)
あの背に跨ってみたい。レースで手綱を握りたい。
たった一度。調教している姿を見ただけで、僕はそう感じている。
気づいた時には、隣で機嫌良さそうにしている康夫さんの肩を掴んでいた。
「康夫さん。彼の主戦は、騎乗する予定の騎手は決まっているんですか?」
「い、いや? まだおらんで。でも寛君に頼もう思うて」
「ぜひお願いします! 彼の手綱を、僕に握らせてください! 僕を彼の主戦にしてください!」
困惑している康夫さんを無視して、土下座する勢いで頼み込んだ。
まぁ、康夫さんは僕を主戦にする気だったらしく。見に来ないか? と誘ったのもその為だったらしい。
「あん時の寛君凄い剣幕やったわ~。一目見ただけで見抜いたんやな!」
「ホントに、本当に止めてくださいよ康夫さん……今でも恥ずかしいんですから」
「まさか寛君にそこまで言わせるとは。ここまで惚れ込んでいるんだ。シャーロックの未来も安泰だな」
「き、喜多野さんまでっ」
メジロのオーナーブリーダーである喜多野さんにもからかわれたのは良い思い出、なのかな?
そして今日、初めてメジロシャーロックに騎乗する。
おそるおそる、確かめるように、彼の背に跨った。
(……厚いな。いざ騎乗すると、より強く感じる)
安心感すら抱く筋肉の厚み。ひょっとして3歳馬なんじゃないか? と思うくらい。
でも、まだ2歳。新馬戦すら終えていない、競走馬になったばかりの子。
これは本当に、将来が楽しみな馬だ。
「それじゃ、今日は坂路走ろか。他の馬もおるし、気をつけて走るで」
「シャーロックなら大丈夫でしょう。それじゃあ寛さん」
「はい。行きましょうか」
坂路コースで走ることに。
なんでも、メジロシャーロックは坂路で走るのが好きらしい。坂道を苦にしない、とはね。
坂路の影響は凄まじい。どんどん強くなっていくことだろう。
坂路コースでは他の馬も走っている。
シャーロックは、周りなんて気にしてないとばかりに走ってるな。
我関せず。後ろから追い抜かれても、前に他の馬がいても気にした素振りを見せない。
(自分を貫いている、って感じだ)
それに、ペースも穏やか。
序盤から飛ばすわけでもなく、かといってやる気がないわけじゃない。
最初からずっと、一定のペースで緩やかに走っている。
落ち着いた、堂々とした走りだ。
坂路コースを走り終わった後、タイムを康夫さん達と確認する。
確認できたタイムはというと……感じた通り、並だ。普通の新馬のタイムと変わらない。
「なんというか、普通ですね。もっと走れると思うんですけど」
本来ならもっと早く走れるはずだ。それだけの素質はある。
その割には、タイムは平凡というか。並の域を出ないもの。
十分ではあるけど、それにしてもって感じだ。
康夫さん達も同じ感想らしい。
「あんまタイム出さんのよな、シャーロック」
「もっと時計、出せそうなものですけどね……あ、こらシャーロック。またか」
不思議そうに首を傾げているお2人。
そこにシャーロックが頭を突っ込んできた。
俊之さんが持っているタイムが書かれた紙を、ひょいっと口で咥える。
「こら、シャーロック。これは食べ物じゃないよ。分かったら離しなさい」
紙を地面に落とし、ジッと見つめる。
見つめているのは数字、なのか? 文字が気になっている?
かと思えば、興味を失ったかのようにプイっとそっぽを向いた。
紙を拾い上げて、溜息を吐く俊之さん。
「いつものことだけど、この癖はどうにかならないのでしょうか。紙を咥えて、地面に落としてはジッと見てますし」
「いつも、なんですか?」
「はい。調教でタイムを計測した後はいつも、ですよ。癖ではなさそうなんですけど、不思議で不思議で」
う~ん。どうして紙を見るのか。さっきよりも少し不機嫌になっているのと関係があるのか。
怒られたからへそを曲げた、とかではない。シャーロックは明らかに、紙を見た後に不機嫌になった。
分からない、な。
「まぁええやないか俊之。これも愛嬌や」
「食べたりしないからまだいいですけど、変な癖に繋がったら困りますよ、これは」
今日は調教初日。これから理解を深めよう。
その後の調教も順調にこなす。中々の好感触だった。
「では、これからもよろしくお願いします、康夫さん」
「あぁ。寛君に受けてもろうてホンマに良かったわ!」
「いえいえ。メジロシャーロックほどの馬、僕の方からお願いしたいくらいです」
「あん時みたいにな!」
その話は蒸し返さないでください、本当に。
その後、何度かメジロシャーロックの調教を繰り返し。
「……あ! そうか、そういうことなんだ!」
「なにがや? 寛君」
ついに見つけた。シャーロックが紙をじっと見つめている理由を。
見つけることは出来た。それは良いけど、この仮説通りならとんでもないことだ。
不思議そうな表情をしている康夫さん達に、僕が気づいたことを伝える。
「シャーロック、タイムが記録されている紙をジッと見ているじゃないですか。その理由が分かったんですよ」
「ほ~。で、なんや?」
「彼、多分数字を見ているんだと思います。文字が読めるんじゃないですか?」
聞いた瞬間、2人とも驚いていた。
確かに驚くだろうな。まさか文字が読めるなんて思いもしないから。
「とんでもなく賢いですよ、シャーロックは。凄い馬です」
「は~……ダイタクヘリオスやカブトシローは新聞の読める馬、って言われとったけど」
「それは揶揄したものですからね。本当に文字が読める馬がいるとは」
「あくまで僕の主観ですけど。もしかしたらそうじゃないかな~って」
仮に読めていなかったとしても、彼の賢さの一片に触れた、ような気がした。
◇
月日は流れ、ついに決まった。
「康夫さん、寛君。では、この日程で行きましょう」
「分かりました。精一杯頑張ります」
「大船に乗ったつもりでおってください喜多野さん。シャーロックはやれますよ!」
メジロシャーロックの新馬戦。
7月13日、阪神競馬場の第6R、2歳新馬戦。芝の1600mで開催されるレース。
初陣が決まった。
初陣が決まったので次回は新馬戦。