リョーマが交通事故に遭った。
今も意識が戻らないらしい。
生きるか死ぬか。その瀬戸際だと、医者は言っていたそうだ。
「道路に飛び出した子供を庇うために……状態も酷く、後遺症が残る可能性も」
「……嘘やろ。なんで、アイツが」
報せに来たスタッフも、康夫さんも。
俊之さんも、俺に騎乗するためにいる隈澤さんも。
みんなが信じられない表情をしている。リョーマが事故に遭っただなんて、信じたくないと思っている。
けれど、現実だ。
スタッフからもたらされたこの情報は、紛れもない現実なんだ。
(リョーマ。お前、言ったじゃねぇかよ)
俺が寂しさを感じないようにしてやるって。目一杯愛してやるって。
この前言ってたじゃねぇか。あの言葉は、嘘だったのかよ。
なんでだよ。どうしてだよ。
「……テキ。調教は、どうしますか?」
「すんません、世戸口さん。今日のところは、ちょっと勘弁してもろうてもええですか?」
「いえ、構いません。また日を改めて、よろしくお願いします」
「シャーロック。今日はもう終わろうか。さ、お家に帰りましょ?」
なんで、どうしてっ。
(あんないい奴が、事故に遭わなきゃいけねぇんだよ!)
叫びたい。イライラを、モヤモヤを吐き出したい。
けど、ダメだ。叫んだら、調教場所にいる馬がびっくりしてしまう。
飲み込まなきゃいけない。俺が我慢できなかったことで、悪いことが連鎖するのは避けたい。
結局、その日の調教は中止になる。
「柏崎、シャーロックのことよろしく頼む。草薙が事故に遭うて、苦しんどるはずやからな。些細な変化を見逃さんでくれ」
「難しいことなのは分かります、柏崎さん。ですが、春の天皇賞も近い。最悪を想定して動かなければなりません。どうか、お願いします」
「っはい、分かりました。康夫さん、俊之さん」
朝一でもたらされた情報は、衝撃を与えるには十分すぎるものだった。
◇
リョーマが事故に遭ってからどれだけ経ったか。
今でもあいつは目を覚まさないらしい。
ずっと、病院のベッドに横たわったままだと。リョーマの家族が教えてくれた。
「テキ、草薙さんの調子は?」
「あんま、よくはないわ。今も目を覚まさんし、死んだように眠っているそうや。こんまま、一生起きひんことも覚悟しとけ言われた」
「そう、ですか。まさか、草薙さんが」
「事故の原因も、アイツらしいっちゃアイツらしい。やけど、なんで草薙が、あないにえぇヤツが事故に遭わなあかんねん……!」
リョーマらしいと言えばらしい。康夫さんの言う通りだ。
子供を守るために道路に飛び出し、自動車から庇った。
子供の方は軽い擦り傷程度で済んだ。大きなケガはしていない。
はねた運転手も、すぐに警察と救急車を呼んだ。
応急処置もしっかりと施し、救急隊員が到着するまでの間、ずっとリョーマに呼びかけていたそうだ。
必死に命を繋ぎ止めようとしていた、というのが、現場に駆け付けた人の証言。
リョーマをはねた人間は、やれるだけのことをやっていた。
道路に飛び出した子供にだって悪気はない。きっと、なにか飛び出すほどのことがあったんだろう。
自分にだって覚えはあるはずだ。親に叱られたことだってある。
そんなことは分かっている。分かって、いるんだ。
だが、だからといって。
(割り切れるもんじゃない。親しい人間が事故に遭って、やるだけやったんだから許してやれなんて言われて……そうすぐには、納得できねぇ)
事故を起こした人間を許すなんて、俺にはできそうにない。
ふざけんじゃねぇって、なんでリョーマが事故に遭わなきゃいけねぇんだよって、声を大にして言いたい。
もっと気をつければよかっただろとか、親が目を光らせておけよとか、文句は山ほど出てくる。
でも。
(命を繋ぎ止めようとしていた、リョーマを助けようとしてくれた。それもまた事実で、優しい人だってのが分かる)
子供の親は、泣きながら謝罪をしたそうだ。
ごめんなさい、申し訳ありません、自分がもっと注意していれば。
必死に頭を下げて、自分の過ちをしっかりと反省していた。
運転手も同様だ。涙ながらに謝罪の言葉を繰り返し、一生をかけて償うと。
リョーマの家族に対し、そう口にしていたそうだ。
俺が直接見たわけじゃない。康夫さん達の言葉だ。
本当の話なのだとしたら、絶対に許さないのは違う。
反省している人間に、後悔している人間に。お前らを絶対に許さないなんて……言えるわけがない。
どうすればいいんだろうな、俺は。
(現状分かっていることは、リョーマの状況はよくないってこと。いつ死んでもおかしくない状況だ)
今俺にできることは、リョーマにしてやれることは。
きっと、走ることだけなんだろう。
(俺は馬だ。医者じゃないし、そもそも人じゃない。できることなんて、走ることぐらいしかない)
歯がゆいもんだ。なにもできないのと同じなんだから。
だけど、俺にはやるべきことがある。
リョーマのことも大事だが、それと同じくらい大事なことが控えていた。
「シャーロック。調教の時間だよ」
「ヒヒン(分かった)」
春の天皇賞だ。俺にとっての大一番が、少しずつ近づいている。
メジロにとって天皇賞は特別。絶対に勝たなければならないレース。
リョーマのことが心配で、調教でやらかして出走停止なんて事態は避けなきゃいけない。
(そうだ。勝たなきゃいけない)
そんなことはリョーマだって望んでないはずだ。
もし俺が出走停止になるか、負けてしまったとして。
そのことを起きた時に知ったら、アイツは悲しむ。
自分のせいで、自分がやらかしたから。シャーロックは調子を崩してしまった。
そう思ってしまうはずだ。
(大丈夫だ。俺は、やれる)
「おし、シャーロックも来おったな。ご苦労さん柏崎」
「それじゃあ寛さん。お願いします」
「はい。頑張ろうな、シャーロック」
それはダメだ。リョーマが気に病む必要なんてないのだから。
問題がないことをアピールしないといけない。
いつも通りのことをいつも通りにこなす。
たった、それだけのことだ。
「テキ、タイムは?」
「問題あらへんな。えぇ感じのタイムを出しとる。これやったら、春天も出走で大丈夫やろ」
よし、これなら大丈夫だ。
康夫さん達も出走の方向で考えている。
よほどやらかさない限り、取り止めなんて事態にはならないだろう。
(後はこの調子を、春天まで維持するだけ。しくじるわけにはいかない)
勝てばいい。それだけのことだ。
ただ、気がかりなのは。
「……シャーロック?」
「どうかしたんか、寛君? 変な顔しとるけど」
「あ、あぁいえ。大丈夫です」
岳さんが納得してなさそうだったのが、少しだけ気になった。
◇
おかしい。漠然とそう思った。
ディープの皐月賞を終えて、今度はシャーロックの春天。
大一番が続くけど、楽しみにしている自分がいる。
(どちらも才能が最高峰の馬だ。それに、シャーロックはディープと違って賢いからね)
皐月賞であわや落馬しかけたことを思い出して、ちょっとだけ安堵する。
シャーロックならディープのようにはならない。
素直で真面目なあの子は、僕が乗りやすいように動いてくれる。指示もしっかり聞いてくれる。
「楽しみだな、今日の騎乗」
足取り軽く、僕はシャーロックが待つ調教場所へと向かった。
違和感には、すぐに気づいた。
騎乗して、一つ走って。
いつもとは違う感じがした。
(なんだろう? 今までと、ちょっと違うような)
どこが違うかって言われたら迷う。
康夫さん達は良いタイムと言ってるし、とても満足げに春の天皇賞のことについて話している。
実際悪くない。
(良い時計なのは事実。でも、なんでか不安が押し寄せてくる)
今のままではよくない。
春の天皇賞が危うくなってしまう。
そんな危機感を、僕は抱いた。
「……シャーロック?」
「どうかしたんか、寛君? 変な顔しとるけど」
「あ、あぁいえ。大丈夫です」
まだ判断するだけの材料が揃っていない。
もし口にしてしまったら、余計な混乱を招いてしまう。
僕の勝手な思い込みで、現場を混乱させるわけにはいかないな。
(せめて分かってからだ。それからでも遅くはない)
春天までの時間はない。急いで見つけないとな。
その日の調教は何事もなく終わる。
「康夫さん。今日の調教のタイム、紙でもらってもいいですか?」
「へ? まぁそんくらい構へんけど。どうかしたんか?」
「いえ、ちょっとだけ気になることがあるので。些細なこぼしがないようにしないと、ってところです」
さて、僕のやるべきことをやらないと。
何度目かの調教、その度に紙を貰って。
「……僕の感じた違和感は、間違いじゃなかったか」
どうして違和感を感じたのか、理解することができた。
シャーロックの調教タイムが、ブレている。
精密機械のように正確なラップを刻む彼の体内時計が、狂っている。
理由は分からない。
ただ、なんとなくこうじゃないか? というのは分かる。
「いつもより早い時計を出している。気持ちを、闘争心を前面に押し出している、のかな?」
きっと、草薙さんが関わっている。
草薙さんは先日事故に遭った。
今も意識不明の重体で、目を覚まさない可能性もあるほど。
なんとか命は繋ぎ止めているけれど、少しの猶予もない。
最悪を想像する必要がある。そんな状況。
草薙さんはシャーロックの担当をしていた厩務員。
とても懐いていたし、草薙さん自身もシャーロックを溺愛していた。
そんな相手が、不幸にあったんだ。
賢いシャーロックはきっと、全てを理解してしまう。
(草薙さんのために、か)
だから、必要以上に頑張ってしまっている。
元々が真面目な子だ。そして、気負い過ぎてしまう節がある。
想像はしやすかった。
やる気があるのは本来良いことだ。
闘争心を出すのも、普通なら悪くない要素だ。
けれど、今のシャーロックは……よくない。
「気負い過ぎている。なんとしても結果を出さないと、って焦りを感じる」
僕の主観、といえばそれまでの話だ。
でも、この違和感は無視できない。これまで騎乗してきた身として、不安を拭わないわけにはいかない。
あらゆる懸念は排除すべきだ。
とはいえ、なぁ。
「今から出走取り止めませんか? なんて言えないし」
出走停止は受け入れてもらえない可能性が高い。
なんせ、傍目には大丈夫なんだ。調教タイムも悪くないどころか好調、回避する理由がない。
「こういう真面目なところがね。僕達を心配させまい、としているのかな? これが厄介だ」
僕の言葉を聞いてくれるかもしれないけど、可能性は低い。
なんせメジロにとって天皇賞は特別なのだから。
よほどのことがない限り、出走回避にはならないだろう。
ケガをするとか、このままだと危ないとか。そんなの全レースに言えることだし。
「……とりあえず、報告だけはしないと。僕が感じた違和感について」
情報を共有することぐらいしかできない。歯がゆいことだ。
康夫さん達の反応は。
「う~ん、確かにタイムはブレとるけど……いや、よう気づいたなコレ。俺らも言われてようやく気付けたレベルやで」
「ここまで騎乗してきたから、でしょうね。ですが、さすがにここまで細微な変化だと」
「……ですよね。まぁ、頭の片隅にでも入れてもらえればと」
僕の違和感は分かったけれど、だからどうした? みたいな感じだ。
「まぁでも。確かに草薙はシャーロックを溺愛しとったからな。シャーロックかて、草薙には一番気を許しとった」
「注意をしておく必要があるでしょう。柏崎さんも頑張ってくれてはいますが、やはり」
「草薙がなぁ。アイツが一番ようわかっとるし」
そんなことないな。しっかり僕の意見を聞き入れてくれている。
まぁ、分かったとはいえ。
「……天皇賞の最終追い切り終わった段階でする話ちゃう気がするけどな、これ」
「出走取り止めなんてできませんからね、もう。余程の事態でもない限り」
「縁起でもないこと言うなや。これはもう、寛君になんとかしてもらうしかあらへん」
もう取り返しがつかない段階まで来たんだけど。
いや、シャーロックが隠すのが上手すぎる。
この違和感に気づくまでここまでかかってしまった。
元々時間がなかったとはいえ、ここまで気づかないなんて。
(自分を隠すのが上手い。本当に、シャーロックは)
「ある意味、ディープよりも厄介かもしれないなぁ」
「いや、ディープよりははるかにマシやろ乗り心地。皐月賞の件、忘れてへんぞ」
「見ててハラハラしますからね。勝ってるからいいですけど」
本当に、どこまでも真面目な良い子だ。シャーロックは。
もう時間がない。
矯正する時間も、出走を止める時間も。
だから、レースでどうにかするしかない。
(……僕の腕次第、か)
責任重大だな。
だけど、やるさ。
君のためにもね、シャーロック。
「春の天皇賞、なんとかしてみせます。僕の全力をもって」
「頼むで、寛君。なんも心配はしとらんけど」
康夫さんに肩をポン、と叩かれる。
不安要素が拭えないシャーロック。
天皇賞は、目前に迫っていた。
不安だらけの天皇賞が始まる