暗いどこかにいた。
上も下も。右も左も。
どこを見渡しても黒一色。一寸先まで闇の景色。
不安を煽る色のはずなのに、どこか心地良くて。
ふわふわと浮いている感覚が、気持ちよくて。
(ずっと、このままでもいいのかもしれない)
柄にもなく、そう思った。
浮いている。宙をさまよっている。
真っ暗闇の空間を。何も見えない闇の中を。
俺はただ、漂う。全てを忘れて、流れに身を任せる。
ずっとこのままでもいいかもしれない。
なのに。
(……なにか、大切なことを忘れているような気がする)
心のどこかで感じる不安は、拭えないままだった。
◇
第131回 天皇賞(春)
| 枠順 | 番号 | 馬名 | 牡/牝 | 人気 |
1 | 1 | ザッツザプレンティ | 牡5 | 8 |
2 | 2 | アクティブバイオ | 牡8 | 12 |
2 | 3 | メジロシャーロック | 牡4 | 1 |
3 | 4 | リンカーン | 牡5 | 3 |
3 | 5 | シルクフェイマス | 牡6 | 7 |
4 | 6 | ヒシミラクル | 牡6 | 4 |
4 | 7 | ハイアーゲーム | 牡4 | 15 |
5 | 8 | スズカマンボ | 牡4 | 13 |
5 | 9 | サンライズペガサス | 牡7 | 9 |
6 | 10 | チャクラ | 牡5 | 11 |
6 | 11 | マイソールサウンド | 牝6 | 10 |
7 | 12 | マカイビーディーヴァ | 牡3 | 5 |
7 | 13 | アイポッパー | 牡5 | 6 |
8 | 14 | ビッグゴールド | 牡7 | 14 |
8 | 15 | ハーツクライ | 牡4 | 2 |
◇
朝から曇り空が続いていた京都競馬場。
時間が経つにつれ、どんどん雲行きが怪しくなる。
「こら、一雨きそうやな」
誰かがそう口にした。
その言葉の通り、雨が降ってきた。
とはいえ小雨。傘をさすほどではない、パラパラと降っている程度のもの。
「こんくらいやったら合羽もいらんな。このまま観戦や!」
「そうだな。それに、合羽を着たら視界が遮られちまう。メジロシャーロックが見えなくなっちまうよ」
「つっても、な~んか不吉だよな。雨が降るなんて」
第3Rから降ってきた雨。メインレースである天皇賞に影響が出るか否か。
そうでないにしても、どことなく不吉な予感を感じさせるには十分すぎた。
幸いにも、馬場には影響が出ていないらしく、全レースが良馬場での発表。芝の状態は問題なさそうだ。
問題があるとすれば、メジロシャーロックの状態か。
「確か、厩務員が車にはねられたんだろ? メジロシャーロック」
「ホンマこないな時にっ! 恨むで神様!」
「影響が出てなきゃいいんだけどな。調教のタイムは問題ないらしいけど」
先日、メジロシャーロックの担当厩務員が事故に遭った。
最初こそ競馬コミュニティの間で噂になっていただけだが、記者の手によって拡散。
今ではほとんどの人が知る事態にまで発展する。
「かなり気を許してたんだろ? メジロシャーロック。少なからず影響出てくるんじゃ」
「……いや! 大丈夫や。パドックでも問題なさそうにしてたやろ? しっかりやれるっちゅう証拠や!」
「確かに、パドックは大丈夫だったよな。なら、いけるか」
ただ、パドックでは問題がなかった。
なら大丈夫かと、人々は楽観視している。
「頑張れよシャーロックー! 勝ってくれー!」
「草薙厩務員に勝利報告してやろうぜー!」
「気張れよー!」
勝ってくれと願いを乗せる。
返し馬を済ませ、ゲートに入ろうとしているメジロシャーロックを応援する。
春の天皇賞1番人気。無敗の三冠馬にして、現役無敗の最強馬。
期待するなという方が、無理な話だ。
ゲートに入るメジロシャーロック。
観客の声援は、当然聞こえている。
(言われなくても勝つさ)
「ブルル……」
気合いが入っている。
いや、入りすぎている。
鞍上の岳がすぐに察することができるほど、メジロシャーロックは力んでいた。
(まずいな、これは)
「落ち着いて、シャーロック。ゲートは怖くないよ」
とにかく気を逸らす。別のことを思い出させて、緊張を解そうとする。
が、効果はなかった。
力んだままゲートに入り、早く出せとばかりに落ち着かない。
岳の声にすら反応しない。
もはや、どんな声も届かないだろう。
(……覚悟を決めるか。どう走るかは、もう決めた)
だから岳は、腹をくくることにした。
一頭、また一頭と入る。
観客の声援は、自然と収まっていく。
《この日を迎えました。春の大一番、天皇賞・春。京都競馬場芝3200m、小雨が降っていますが、馬場の状態は良馬場発表。注目されているのはやはり》
《メジロシャーロックですね! いや~、本当に凄い馬ですよ! 京都競馬場に集まった観客、ほぼ全員が彼を見に来たと言っても過言ではないですからね!》
《足の踏み場がないほどの大観衆、その数は13万を超えていると発表されていますからね。2枠3番のメジロシャーロック、ダントツの1番人気です。続く2番人気は》
最後の馬が入る頃には完全なる0へ。
誰一人、声を発することなく。
視線はゲートへと向けられていた。
完全なる静寂を切り裂き。
《今、大外枠のハーツクライがゲートに収まりました。古馬の頂上決戦、春の天皇賞。盾をかけた戦いが今っ、幕を開けますっ!?》
ゲートが開いて、各馬一斉に飛び出した。
……いや。一頭だけ、出遅れる。
「嘘だろおい!? 何やってんだ!」
「大丈夫かよー!」
完全な出遅れ。一拍置いてスタートした、と言われても納得する。
それが12戦走って、一度しか出遅れなかった馬ならば、衝撃は人一倍だろう。
加えるように、ダントツの一番人気で。
社会現象になるほどのムーブメントを起こしている馬で。
出走前から不安要素がチラついていた馬ならば──観客の反応は当然とも言える。
《で、出遅れ! メジロシャーロック痛恨の出遅れ! メジロシャーロックが出遅れました! 逃げ馬にとってあまりにも痛い出遅れです!》
メジロシャーロックの出遅れ。
第131回天皇賞・春は、一番人気の出遅れから始まった。
◇
序盤からハラハラする展開が起こる。
観客は気が気でない。
「やっぱ影響あったじゃねぇか畜生! ふざけやがってあの運転手!」
「今更言うてもしょうがないやろ! もう起こってしもうたんやから!」
「焦んじゃねぇぞー!」
出遅れ。それが逃げ馬のメジロシャーロックならば、どれほど痛い出来事かよく分かっているからだ。
ただ、焦らないファンもいる。
「いや、問題ない。朝日杯も出遅れたが、途中で落ち着きを取り戻せたからな」
「逃げばかりで走ってるけど、本来はどこでも走れる万能型! メジロシャーロックならば心配はない!」
「おまけに長距離だ。岳が上手いこと調節してくれるさ!」
元来メジロシャーロックはどこでも走れること。
先の2戦も、先行からの横綱相撲を披露していたこと。
そして、2歳の朝日杯で指し切り勝ちを収めたこと。
以上のことから、問題はないと踏んでいた。
ここから冷静さを取り戻していけばいい、と。
……だが、そうは問屋が卸さない。
《メジロシャーロックが果敢に前へ行こうとしている。鞍上の岳寛、必死に手綱を絞ります! これは騎手と馬が喧嘩をしている! その間にも先頭を走るのはシルクフェイマスとビッグゴールド、5番のシルクフェイマスと14番のビッグゴールドがハナで進みます!》
《これは完全に掛かっていますね。冷静さを取り戻してほしいところですが》
《3200mの長距離戦、この掛かりはあまりにも痛い! いまだ後方集団の後ろ、最高峰の位置にメジロシャーロック! 鞍上の岳寛、必死に手綱を絞っています、まもなく正面スタンド前を通過!》
メジロシャーロックと岳寛が喧嘩をしていた。
前で勝負をしたいメジロシャーロック。
今は控えるべきだと手綱を絞る岳寛。
相反するコンビの意見。今まで一度たりともなかった光景が、この大一番で起こってしまった。
嘘だろ、と口にするファン。
「ホンマに大丈夫かいな!? ありゃ相当まずいで!」
「そもそもメジロシャーロックがあそこまで掛かったことがねぇ。かなりまずいぞコレ……!」
「マジかよ~!? 負けないでくれー!」
ありえなかった光景を目の当たりにして、焦りを覚える。
場所もよりにもよって。長距離かつ、メジロにとって特別な意味を持つ天皇賞。
《スタンド前を走る各馬。シルクフェイマスとビッグゴールドがペースを握ります。縦に長くなる隊列、ザッツザプレンティ、チャクラ、ヒシミラクルが先行集団を形成。最後方にはハーツクライとメジロシャーロック、メジロシャーロックは前に行こうとしている。その手綱を岳寛が必死に握っている!》
あまりにも不安材料が揃いすぎていた。
騎乗している岳寛はというと、手間取っていた。
(やっぱり、僕の予想通りだね! 君は出遅れて、絶対に焦るって!)
「落ち着くんだシャーロック! 落ち着いて!」
普段ならば絶対にありえない、相棒の掛かっている姿。
自分が冷静になって指示をする必要があると、手綱を必死に握っている。
だが、意味をなしていない。
なんとか前に行かないようにはしているが、いたずらに体力ばかり消耗していく。
「落ち着くんだシャーロック! 君はどこでも勝負ができる、タイミングを見誤ったらダメだ!」
必死に呼びかけて、冷静さを取り戻すように指示をする。
いつものスタイルに戻ってくれと、真面目で素直なメジロシャーロックになってくれと。
岳寛は手綱を握っていた。
当のメジロシャーロックは──冷静でいられるはずがなかった。
(邪魔すんじゃねぇよ岳さん! 俺は勝たなきゃいけねぇんだ! 勝って、勝ってリョーマに良い報告をするんだよ!)
事故に遭った、自分のお世話をしてくれた人。
今も目を覚まさない大切な人の目を覚ますためにも、負けるわけにはいかない。
(勝つんだ、絶対に勝つんだ! そうじゃなきゃダメなんだ!)
観客の期待も乗っかっている。
周りからの期待も背負っている。
メジロの、天皇賞制覇の期待を背負っている。
(天皇賞は、メジロにとって特別なレースだ。絶対に取りこぼすわけにはいかない! だから、だから……邪魔しないでくれよ、岳さん!)
もはや岳寛の声など、聞こえていなかった。
《第1コーナーを回って第2コーナー。隊列は落ち着いてきているか? 動きがなくなりました。しかし、最高峰のメジロシャーロックは依然として前へ前へと行こうとしています》
《スタミナを余分に消耗していますね。大外を回っていますし、かなり消費しているでしょう》
《序盤から出遅れ。さらにはかかって焦りを覚えています。かなりまずい状況、これはかなりまずい状況だ。しかし、先行集団は逆に落ち着き払っている。冷静にレースを展開しています》
最悪も最悪。
勝つ以前の問題。レースにすらなっていない。
掲示板に入ることすら怪しい、そんな有様のレースを──あのメジロシャーロックが展開している。
「いや、さすがにアレはっ」
「でも、メジロシャーロックならあそこからでも!」
「そう言いたいけどよ、さすがに」
観客も不安が隠せない。
あのメジロシャーロックが負ける。そんな、一抹の不安がよぎる。
「……負けんなー! お前はメジロシャーロックだろー!」
「絶対に負けたらあかんでー! お前に賭けとるんやー!」
「なんとかしろ岳ー! 平成の盾男ー!」
もはや、どうしようもなかった。
◇
……諦めない。絶対に、諦めてたまるものか。
(このままだと最悪の未来が待っている。天皇賞を負けてしまって、何もかもが最悪の状況に向かいかねない)
そうならないためにも、僕は。
いや、違う。
他の理由がある。今のシャーロックが焦っていて、その焦りの原因が分かってて。
その原因を取り除くための手助けをしたいと思っている。
理由は簡単だ。
(僕は日本ダービーで、君に助けられた。僕のトラウマを、君が払拭してくれた)
かつて悪夢に苛まれていた僕を、君が救ってくれた。
大逃げで走ることで、スズカに囚われていた僕を救ってくれたんだ。
君はそんなことを考えていなかったかもしれない。
それでも僕は、確かに救われた。君のおかげで、逃げで走らせることになんの躊躇いもなくなった。
君に助けられた。
だから今度は、僕が助ける番だ!
手綱を通して、伝わってきているような気がする。
このレースにかける、シャーロックの思いを。
絶対に勝たなきゃ
負けられない
だから邪魔をするな
勝ちたいという気持ちが、負けたくないという強い意志が。
草薙さんのためにも
ファンのみんなのためにも
岳さん達のためにも
その気持ちが誰によってもたらされているのかも。
なんとなく分かる。シャーロックの気持ちが。
だからこそ、だ。焦ってはいけないことを教えないと。
「シャーロック。君の気持ちは痛いほどよく分かるよ。草薙さんが大変なことになっていて、彼のためになんとかしてあげたいんだよね?」
第2コーナーを走る。
向こう正面半ば。そこがリミットだ。そこまでに何とかしなければいけない。
「それだけじゃない。観客が君の勝利を期待している。勿論、僕や康夫さんだって、裕二さんだって。君が勝つことを望んでいる」
今も焦っている相棒を。どうにかして落ち着かせるためにも。
「期待に応えたいよね? みんなの喜んでいる顔が見たいんだよね? その気持ちは、僕にも分かるよ」
僕の気持ちを、偽りのない本音を。
「だから──僕にも背負わせてくれないかな?」
君にぶつけよう!
僕も背負う。そういった瞬間だろうか?
必死に絞っていた手綱が、少しだけ緩んだ。
逆らうように引っ張っていた力がなくなり、楽になった。
っよし、この調子だ。このまま続ける。
「今の状況はとてもまずい。出遅れたのもそうだし、君自身が気負い過ぎている。前に出てしまったら、最後に使う脚がなくなる」
冷静に、落ち着きを取り戻させる。
勝つためのプランを提示する。シャーロックは賢いから、口頭で理解できるはずだ。
「ここは落ち着くんだ。我慢を覚えよう、シャーロック。君ならできるだろう?」
手綱を引っ張る力がどんどん0へ。
僕に逆らっていた力が、気づけばなくなっていく。
「勝つんだ、シャーロック。僕の力だけじゃない、君の力だけじゃない」
向こう正面に入る頃。シャーロックでは初めてとなる、京都競馬場の向こう正面を最後方で走りながら。
「──僕達の力で、天皇賞を勝とう。僕達ならやれる、僕達ならできる。だから、力を貸してくれ」
手綱をしっかりと握りしめる。
逆らう力は。
すでになくなっていた。
手綱を通して伝わってくる、シャーロックの感情は。
どうすればっ、いい?
後悔と、次どうすればいいかの指示待ち。
ここにきてようやく、シャーロックは落ち着きを取り戻した。
よし、どうにかなった。
(冷静さを取り戻したなら、後はどうとでもなる)
冷静になったシャーロックは最強だ。
こうなればまず負けない。
そう、たとえ。
(状況は最悪。いつものロングスパートは、短めになるな。だけど、どこで仕掛けるべきかはもう検討は終わっている)
「大丈夫だよ、シャーロック。僕がどこで仕掛けるべきかを指示するって、言っても。君なら察しがついていると思うけどね」
絶望的な状況だろうと、僕とシャーロックなら問題なく勝てる。
それだけの自信が、僕らにはあった。
「呼吸を合わせよう。向こう正面ではスタミナを回復することに徹するんだ。大丈夫、みんなここでは脚を溜めるからね。溜めないにしても、最後には脚が上がる。ここでブレイクタイムだ」
喧嘩しなくなったからだろう。
先ほどよりも視界はクリア。全体を見渡せるんじゃないか、ってぐらい余裕がある。
もう、問題はない。
勝利に向かって、視界良し。