親愛なるシャーロックへ   作:カニ漁船

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不安要素だらけの天皇賞


開幕する天皇賞

 暗いどこかにいた。

 上も下も。右も左も。

 どこを見渡しても黒一色。一寸先まで闇の景色。

 

 不安を煽る色のはずなのに、どこか心地良くて。

 ふわふわと浮いている感覚が、気持ちよくて。

 

(ずっと、このままでもいいのかもしれない)

 

 柄にもなく、そう思った。

 

 浮いている。宙をさまよっている。

 真っ暗闇の空間を。何も見えない闇の中を。

 俺はただ、漂う。全てを忘れて、流れに身を任せる。

 

 ずっとこのままでもいいかもしれない。

 なのに。

 

(……なにか、大切なことを忘れているような気がする)

 

 心のどこかで感じる不安は、拭えないままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

第131回 天皇賞(春)

 

 

枠順番号馬名牡/牝人気

1
1ザッツザプレンティ牡58

2
2アクティブバイオ牡812

2
3メジロシャーロック牡4
1

3
4リンカーン牡5
3

3
5シルクフェイマス牡67

4
6ヒシミラクル牡64

4
7ハイアーゲーム牡415

5
8スズカマンボ牡413

5
9サンライズペガサス牡79

6
10チャクラ牡511

6
11マイソールサウンド牝610

7
12マカイビーディーヴァ牡35

7
13アイポッパー牡56

8
14ビッグゴールド牡714

8
15ハーツクライ牡4
2

 

 

 

 

 

 

 朝から曇り空が続いていた京都競馬場。

 時間が経つにつれ、どんどん雲行きが怪しくなる。

 

「こら、一雨きそうやな」

 

 誰かがそう口にした。

 

 その言葉の通り、雨が降ってきた。

 とはいえ小雨。傘をさすほどではない、パラパラと降っている程度のもの。

 

「こんくらいやったら合羽もいらんな。このまま観戦や!」

「そうだな。それに、合羽を着たら視界が遮られちまう。メジロシャーロックが見えなくなっちまうよ」

「つっても、な~んか不吉だよな。雨が降るなんて」

 

 第3Rから降ってきた雨。メインレースである天皇賞に影響が出るか否か。

 そうでないにしても、どことなく不吉な予感を感じさせるには十分すぎた。

 幸いにも、馬場には影響が出ていないらしく、全レースが良馬場での発表。芝の状態は問題なさそうだ。

 

 問題があるとすれば、メジロシャーロックの状態か。

 

「確か、厩務員が車にはねられたんだろ? メジロシャーロック」

「ホンマこないな時にっ! 恨むで神様!」

「影響が出てなきゃいいんだけどな。調教のタイムは問題ないらしいけど」

 

 先日、メジロシャーロックの担当厩務員が事故に遭った。

 最初こそ競馬コミュニティの間で噂になっていただけだが、記者の手によって拡散。

 今ではほとんどの人が知る事態にまで発展する。

 

「かなり気を許してたんだろ? メジロシャーロック。少なからず影響出てくるんじゃ」

「……いや! 大丈夫や。パドックでも問題なさそうにしてたやろ? しっかりやれるっちゅう証拠や!」

「確かに、パドックは大丈夫だったよな。なら、いけるか」

 

 ただ、パドックでは問題がなかった。

 なら大丈夫かと、人々は楽観視している。

 

「頑張れよシャーロックー! 勝ってくれー!」

「草薙厩務員に勝利報告してやろうぜー!」

「気張れよー!」

 

 勝ってくれと願いを乗せる。

 返し馬を済ませ、ゲートに入ろうとしているメジロシャーロックを応援する。

 

 春の天皇賞1番人気。無敗の三冠馬にして、現役無敗の最強馬。

 期待するなという方が、無理な話だ。

 

 

 ゲートに入るメジロシャーロック。

 観客の声援は、当然聞こえている。

 

(言われなくても勝つさ)

「ブルル……」

 

 気合いが入っている。

 いや、入りすぎている。

 

 鞍上の岳がすぐに察することができるほど、メジロシャーロックは力んでいた。

 

(まずいな、これは)

「落ち着いて、シャーロック。ゲートは怖くないよ」

 

 とにかく気を逸らす。別のことを思い出させて、緊張を解そうとする。

 

 が、効果はなかった。

 力んだままゲートに入り、早く出せとばかりに落ち着かない。

 

 岳の声にすら反応しない。

 もはや、どんな声も届かないだろう。

 

(……覚悟を決めるか。どう走るかは、もう決めた)

 

 だから岳は、腹をくくることにした。

 

 一頭、また一頭と入る。

 観客の声援は、自然と収まっていく。

 

《この日を迎えました。春の大一番、天皇賞・春。京都競馬場芝3200m、小雨が降っていますが、馬場の状態は良馬場発表。注目されているのはやはり》

《メジロシャーロックですね! いや~、本当に凄い馬ですよ! 京都競馬場に集まった観客、ほぼ全員が彼を見に来たと言っても過言ではないですからね!》

《足の踏み場がないほどの大観衆、その数は13万を超えていると発表されていますからね。2枠3番のメジロシャーロック、ダントツの1番人気です。続く2番人気は》

 

 最後の馬が入る頃には完全なる0へ。

 誰一人、声を発することなく。

 視線はゲートへと向けられていた。

 

 完全なる静寂を切り裂き。

 

《今、大外枠のハーツクライがゲートに収まりました。古馬の頂上決戦、春の天皇賞。盾をかけた戦いが今っ、幕を開けますっ!?》

 

 ゲートが開いて、各馬一斉に飛び出した。

 

 ……いや。一頭だけ、出遅れる。

 

「嘘だろおい!? 何やってんだ!」

「大丈夫かよー!」

 

 完全な出遅れ。一拍置いてスタートした、と言われても納得する。

 それが12戦走って、一度しか出遅れなかった馬ならば、衝撃は人一倍だろう。

 加えるように、ダントツの一番人気で。

 社会現象になるほどのムーブメントを起こしている馬で。

 

 出走前から不安要素がチラついていた馬ならば──観客の反応は当然とも言える。

 

《で、出遅れ! メジロシャーロック痛恨の出遅れ! メジロシャーロックが出遅れました! 逃げ馬にとってあまりにも痛い出遅れです!》

 

 メジロシャーロックの出遅れ。

 第131回天皇賞・春は、一番人気の出遅れから始まった。

 

 

 

 

 

 

 序盤からハラハラする展開が起こる。

 観客は気が気でない。

 

「やっぱ影響あったじゃねぇか畜生! ふざけやがってあの運転手!」

「今更言うてもしょうがないやろ! もう起こってしもうたんやから!」

「焦んじゃねぇぞー!」

 

 出遅れ。それが逃げ馬のメジロシャーロックならば、どれほど痛い出来事かよく分かっているからだ。

 

 ただ、焦らないファンもいる。

 

「いや、問題ない。朝日杯も出遅れたが、途中で落ち着きを取り戻せたからな」

「逃げばかりで走ってるけど、本来はどこでも走れる万能型! メジロシャーロックならば心配はない!」

「おまけに長距離だ。岳が上手いこと調節してくれるさ!」

 

 元来メジロシャーロックはどこでも走れること。

 先の2戦も、先行からの横綱相撲を披露していたこと。

 そして、2歳の朝日杯で差し切り勝ちを収めたこと。

 

 以上のことから、問題はないと踏んでいた。

 ここから冷静さを取り戻していけばいい、と。

 

 

 ……だが、そうは問屋が卸さない。

 

《メジロシャーロックが果敢に前へ行こうとしている。鞍上の岳寛、必死に手綱を絞ります! これは騎手と馬が喧嘩をしている! その間にも先頭を走るのはシルクフェイマスとビッグゴールド、5番のシルクフェイマスと14番のビッグゴールドがハナで進みます!》

《これは完全に掛かっていますね。冷静さを取り戻してほしいところですが》

《3200mの長距離戦、この掛かりはあまりにも痛い! いまだ後方集団の後ろ、最後方の位置にメジロシャーロック! 鞍上の岳寛、必死に手綱を絞っています、まもなく正面スタンド前を通過!》

 

 メジロシャーロックと岳寛が喧嘩をしていた。

 

 前で勝負をしたいメジロシャーロック。

 今は控えるべきだと手綱を絞る岳寛。

 相反するコンビの意見。今まで一度たりともなかった光景が、この大一番で起こってしまった。

 

 嘘だろ、と口にするファン。

 

「ホンマに大丈夫かいな!? ありゃ相当まずいで!」

「そもそもメジロシャーロックがあそこまで掛かったことがねぇ。かなりまずいぞコレ……!」

「マジかよ~!? 負けないでくれー!」

 

 ありえなかった光景を目の当たりにして、焦りを覚える。

 場所もよりにもよって。長距離かつ、メジロにとって特別な意味を持つ天皇賞。

 

《スタンド前を走る各馬。シルクフェイマスとビッグゴールドがペースを握ります。縦に長くなる隊列、ザッツザプレンティ、チャクラ、ヒシミラクルが先行集団を形成。最後方にはハーツクライとメジロシャーロック、メジロシャーロックは前に行こうとしている。その手綱を岳寛が必死に握っている!》

 

 あまりにも不安材料が揃いすぎていた。

 

 

 騎乗している岳寛はというと、手間取っていた。

 

(やっぱり、僕の予想通りだね! 君は出遅れて、絶対に焦るって!)

「落ち着くんだシャーロック! 落ち着いて!」

 

 普段ならば絶対にありえない、相棒の掛かっている姿。

 自分が冷静になって指示をする必要があると、手綱を必死に握っている。

 

 だが、意味をなしていない。

 なんとか前に行かないようにはしているが、いたずらに体力ばかり消耗していく。

 

「落ち着くんだシャーロック! 君はどこでも勝負ができる、タイミングを見誤ったらダメだ!」

 

 必死に呼びかけて、冷静さを取り戻すように指示をする。

 いつものスタイルに戻ってくれと、真面目で素直なメジロシャーロックになってくれと。

 岳寛は手綱を握っていた。

 

 当のメジロシャーロックは──冷静でいられるはずがなかった。

 

(邪魔すんじゃねぇよ岳さん! 俺は勝たなきゃいけねぇんだ! 勝って、勝ってリョーマに良い報告をするんだよ!)

 

 事故に遭った、自分のお世話をしてくれた人。

 今も目を覚まさない大切な人の目を覚ますためにも、負けるわけにはいかない。

 

(勝つんだ、絶対に勝つんだ! そうじゃなきゃダメなんだ!)

 

 観客の期待も乗っかっている。

 周りからの期待も背負っている。

 メジロの、天皇賞制覇の期待を背負っている。

 

(天皇賞は、メジロにとって特別なレースだ。絶対に取りこぼすわけにはいかない! だから、だから……邪魔しないでくれよ、岳さん!)

 

 もはや岳寛の声など、聞こえていなかった。

 

《第1コーナーを回って第2コーナー。隊列は落ち着いてきているか? 動きがなくなりました。しかし、最後方のメジロシャーロックは依然として前へ前へと行こうとしています》

《スタミナを余分に消耗していますね。大外を回っていますし、かなり消費しているでしょう》

《序盤から出遅れ。さらにはかかって焦りを覚えています。かなりまずい状況、これはかなりまずい状況だ。しかし、先行集団は逆に落ち着き払っている。冷静にレースを展開しています》

 

 最悪も最悪。

 勝つ以前の問題。レースにすらなっていない。

 掲示板に入ることすら怪しい、そんな有様のレースを──あのメジロシャーロックが展開している。

 

「いや、さすがにアレはっ」

「でも、メジロシャーロックならあそこからでも!」

「そう言いたいけどよ、さすがに」

 

 観客も不安が隠せない。

 あのメジロシャーロックが負ける。そんな、一抹の不安がよぎる。

 

「……負けんなー! お前はメジロシャーロックだろー!」

「絶対に負けたらあかんでー! お前に賭けとるんやー!」

「なんとかしろ岳ー! 平成の盾男ー!」

 

 もはや、どうしようもなかった。

 

 

 

 

 

 

 ……諦めない。絶対に、諦めてたまるものか。

 

(このままだと最悪の未来が待っている。天皇賞を負けてしまって、何もかもが最悪の状況に向かいかねない)

 

 そうならないためにも、僕は。

 

 いや、違う。

 他の理由がある。今のシャーロックが焦っていて、その焦りの原因が分かってて。

 その原因を取り除くための手助けをしたいと思っている。

 

 理由は簡単だ。

 

(僕は日本ダービーで、君に助けられた。僕のトラウマを、君が払拭してくれた)

 

 かつて悪夢に苛まれていた僕を、君が救ってくれた。

 大逃げで走ることで、スズカに囚われていた僕を救ってくれたんだ。

 

 君はそんなことを考えていなかったかもしれない。

 それでも僕は、確かに救われた。君のおかげで、逃げで走らせることになんの躊躇いもなくなった。

 

 君に助けられた。

 だから今度は、僕が助ける番だ!

 

 手綱を通して、伝わってきているような気がする。

 このレースにかける、シャーロックの思いを。

 

絶対に勝たなきゃ

負けられない

だから邪魔をするな

 

 勝ちたいという気持ちが、負けたくないという強い意志が。

 

草薙さんのためにも

ファンのみんなのためにも

岳さん達のためにも

 

 その気持ちが誰によってもたらされているのかも。

 なんとなく分かる。シャーロックの気持ちが。

 

 だからこそ、だ。焦ってはいけないことを教えないと。

 

「シャーロック。君の気持ちは痛いほどよく分かるよ。草薙さんが大変なことになっていて、彼のためになんとかしてあげたいんだよね?」

 

 第2コーナーを走る。

 向こう正面半ば。そこがリミットだ。そこまでに何とかしなければいけない。

 

「それだけじゃない。観客が君の勝利を期待している。勿論、僕や康夫さんだって、裕二さんだって。君が勝つことを望んでいる」

 

 今も焦っている相棒を。どうにかして落ち着かせるためにも。

 

「期待に応えたいよね? みんなの喜んでいる顔が見たいんだよね? その気持ちは、僕にも分かるよ」

 

 僕の気持ちを、偽りのない本音を。

 

「だから──僕にも背負わせてくれないかな?」

 

 君にぶつけよう!

 

 僕も背負う。そういった瞬間だろうか?

 必死に絞っていた手綱が、少しだけ緩んだ。

 逆らうように引っ張っていた力がなくなり、楽になった。

 

 っよし、この調子だ。このまま続ける。

 

「今の状況はとてもまずい。出遅れたのもそうだし、君自身が気負い過ぎている。前に出てしまったら、最後に使う脚がなくなる」

 

 冷静に、落ち着きを取り戻させる。

 勝つためのプランを提示する。シャーロックは賢いから、口頭で理解できるはずだ。

 

「ここは落ち着くんだ。我慢を覚えよう、シャーロック。君ならできるだろう?」

 

 手綱を引っ張る力がどんどん0へ。

 僕に逆らっていた力が、気づけばなくなっていく。

 

「勝つんだ、シャーロック。僕の力だけじゃない、君の力だけじゃない」

 

 向こう正面に入る頃。シャーロックでは初めてとなる、京都競馬場の向こう正面を最後方で走りながら。

 

「──僕達の力で、天皇賞を勝とう。僕達ならやれる、僕達ならできる。だから、力を貸してくれ」

 

 手綱をしっかりと握りしめる。

 逆らう力は。

 すでになくなっていた。

 

 手綱を通して伝わってくる、シャーロックの感情は。

 

どうすればっ、いい?

 

 後悔と、次どうすればいいかの指示待ち。

 ここにきてようやく、シャーロックは落ち着きを取り戻した。

 

 よし、どうにかなった。

 

(冷静さを取り戻したなら、後はどうとでもなる)

 

 冷静になったシャーロックは最強だ。

 こうなればまず負けない。

 

 そう、たとえ。

 

(状況は最悪。いつものロングスパートは、短めになるな。だけど、どこで仕掛けるべきかはもう検討は終わっている)

「大丈夫だよ、シャーロック。僕がどこで仕掛けるべきかを指示するって、言っても。君なら察しがついていると思うけどね」

 

 絶望的な状況だろうと、僕とシャーロックなら問題なく勝てる。

 

 それだけの自信が、僕らにはあった。

 

「呼吸を合わせよう。向こう正面ではスタミナを回復することに徹するんだ。大丈夫、みんなここでは脚を溜めるからね。溜めないにしても、最後には脚が上がる。ここでブレイクタイムだ」

 

 喧嘩しなくなったからだろう。

 先ほどよりも視界はクリア。全体を見渡せるんじゃないか、ってぐらい余裕がある。

 

 もう、問題はない。

 

 勝利に向かって、視界良し。

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