我ながらバカにもほどがあると思う。
気が逸って、なんとしてでも勝たなきゃって焦って。
その結果、自滅するところだったんだから。
(朝日杯の時と一緒だ。あの時も、焦って自滅しかけた)
今は向こう正面。体力はかなり消耗してしまった。
走り切るには問題ないが、勝つってなるとちょいと厳しい。
そんなスタミナの量。
だけど、今これで済んでるだけまだマシだ。
これがもっと進んだところだと、ガチで詰んでいた。
そうならなかったのは、岳さんのおかげだ。
(岳さんが必死に呼びかけてくれて。俺の冷静さを取り戻してくれた。おかげで、勝率0パーセントになることだけは防げた)
多分だけど、レース前からずっと呼びかけていたんだろう。
なにか言ってるのだけは分かっていたし、レース中もずっと俺の手綱を絞っていた。
岳さんがいなければ、俺はすでに終わっていた。大事なレースを、最悪の結果で落としちまう未来になっていた。
感謝してもしきれない、が。それは今やるべきことじゃない。
今やるべきことは、勝つために何をすればいいのか? だ。
(向こう正面。ペースもかなりゆったりとしてきた。誰も仕掛けようなんて思わない、スタミナの回復に努めている)
そうなると、こちらとしても好都合だ。
こちらも遠慮なく、スタミナを回復させてもらうとしよう。
岳さんもそのつもりらしい。口頭で教えてくれた。
ここでスタミナをある程度回復。最後の勝負所に向けて、脚を溜める。
どこで仕掛けるが問題になってくるのだが……岳さんめぇ!
(俺なら言わなくても分かるだろう、じゃねぇんだよ! そこは俺にも教えろや口頭でよぉ! そういうとこだぞお前!)
俺なら仕掛けどころが分かるだろう、と何も言ってくれなかった。
つまり、俺は自分で仕掛けどころを見極めなければならない。
間違っていた場合、岳さんに手綱を締められるおまけ付きで。
もう本当に。この人の俺に対する期待値どんだけ高いんだよ。
2歳馬の頃なんて、重賞でペースを覚えさせようとするし。なんならG2とかG3はもはや公開調教みたいな有様だし。
俺ならできる、とか俺ならやれるとかさぁ。どんだけ俺に期待してんだよって話だ。
俺なら察しがついてるだろう? じゃないんだわ。これで間違っていた場合どうするんだよあんた。
(もう、本当に)
だけど、その期待は心地良い。
(俺ならできるって信じてくれているんだ。そうじゃなきゃ、わざわざ口にしない)
俺なら完璧に合わせられる。岳さんの考えと同じ答えを導き出せる。
だからこそ、岳さんは必要最低限のことしか口にしない。俺を信じているから。
なら、やるしかない。
しっかりとスタミナを回復する。前の馬を風除けにして、少しでもだ。
(リョーマはきっと、今も戦っている。生きるか死ぬかの瀬戸際で、踏ん張っているんだ)
《向こう正面半分を過ぎました。ペースを握るシルクフェイマスとビッグゴールドの2頭。隊列は縦に長くなりました、最後方のメジロシャーロックはどうでしょう?》
《落ち着きを取り戻しましたね。冷静にレースを展開していますよ》
《メジロシャーロックと同じ最後方の位置にハイアーゲーム。無敗の三冠馬は最後方でレースをしています。逃げ馬2頭を見るようにチャクラとヒシミラクル。2馬身のリードを保って進みます。ヒシミラクルの1馬身後ろは》
戦っているアイツを応援するために。
負けんじゃねぇぞって、踏ん張れって伝えるために。
(俺がここで、負けるわけにはいかねぇだろ!)
この天皇賞は、なんとしても勝たなきゃいけねぇ!
だが、あくまで気持ちだけに留めておく。
また暴走でもしたら、岳さんに手綱を締められちまうからな。
そう何度もやらかしてたまるか。キッチリと、今自分がやるべきことをやるんだ。
もうすぐ第3コーナー。淀の坂を迎える。
と、なると。
(ここで位置取りを押し上げる、だろ? 岳さん)
坂をゆっくりと上る集団。
俺は……それに倣う。俺も、上り坂をゆっくりと上る。
岳さんの手綱は動かない。鞭も入らない。つまり、これが正解だということ。
(そうだ。ここはまだ動かない。まだ、スタミナを回復しなきゃいけねぇ)
いつもだったら、ここで仕掛けても問題はなかっただろう。
だが今の俺は序盤のやらかしがある。ここから仕掛けるだけの体力がない。
となれば、動かないのが正解だ。
他の馬は位置取りを押し上げていく。
少しずつ、俺との差を広げていく。
(我慢、我慢だ。これは俺の不甲斐なさが招いたこと、必死に抑えろ)
勝つための道はもうこれしか残されていない。
ジッと、機会を窺う。
《各馬、淀の坂を上ります。ペースが上がってきました。少しずつ位置を前へ前へと、後方集団が動きを見せます。ですが最後方メジロシャーロックは動かない! 前との差が開いていくぞ!》
《ゆっくり上ってゆっくり下る、ですが少しゆっくり過ぎるような気がしますね。大丈夫でしょうか?》
《ペースを握るシルクフェイマス、ビッグゴールド。脚色はまだ衰えておりません。ですが先行集団ここで位置をあげてきました、シルクフェイマスもペースを上げる!》
まだだ、じっと耐えろ。
判断を見誤るな。もっと、もっと待つんだ。
勝負を仕掛けるべきは──下り坂!
(だろ、岳さん。俺の脚を諸々考えたら、下り坂で仕掛けることこそが最適解だ)
淀の坂を上る。
上った先、視界が開ける。
下り坂が、見えてきた。
(ッ! ここだぁッ!)
ここで仕掛ける。溜めていたアドレナリンを、気持ちを、衝動を。全て出し尽くすつもりで走る。
岳さんの手綱は動かない。鞭も入らない。
けど、気持ちだけは伝わってきた。
正解だよシャーロック
っは、そいつは良かった。
あんたほどの騎手に喜んでもらえて、こっちとしても嬉しい限りだよ。
感傷に浸る暇はねぇ。今は一秒でも早く、前に追いつく!
《淀の坂を上って下りますっとここで来たぁ! メジロシャーロックが動いた、メジロシャーロックが下り坂で加速する! じわじわとではない、一気呵成に上がってきたメジロシャーロック!》
《もうですか!? 序盤のことを考えるとまだ早いような気もしますが!》
《さぁここで来たぞメジロシャーロック! 他馬も慌てて加速しているか、後方集団が入り乱れる! 下り坂で仕掛けましたメジロシャーロック、この判断が吉と出るか凶と出るか! 先行集団は逃げ馬2頭に追いついた!》
は、こっちはコンマ一秒の誤差もなく動いている。
騎手と馬の呼吸が合っているんだ。その分早く仕掛けることができた。
他は違う。俺の動き出しに合わせられていないのがその証拠だ。
そりゃびっくりするよな。序盤荒れ放題のペースで走っていた奴が、下り坂で加速してんだから。
ここがベストだ。ここで動くのが正解なんだ。
(俺はエンジンの掛かりが早い方じゃない。瞬発力がない)
その瞬発力を補うための下り坂。
平地を走るよりも、下り坂の方が勢いをつけられる。
足りない加速を、少しでも補うことができる。
問題は大外を振らされるということ。
もっとも、その問題もなんの障害にもならない。
(元々後ろで走ってんだ。今更大外とか知ったことかよ!)
追込なんて一番外を回らざるを得ないんだ。
もう割り切ってんだよ、こっちは!
ある程度スタミナは回復した。
下り坂からのロングスパート。大体800mか。
かなり厳しい。序盤の消耗は、それだけ激しいものだったから。
知ったことじゃねぇ。
(死ぬ気で走れ俺! 絶対に、勝つんだろ!?)
できるかできないかじゃない。やるかやらないかだ。
やると決めたんだから突っ走れ。後先のことなんか考えるな。
自分の体力を、ロングスパートを。800m死ぬ気で持たせることだけを考えりゃいい。
《大外を回ってメジロシャーロック、メジロシャーロックが一番外を回っている! 周りは反応が遅れているぞ、ハイアーゲームも慌てて上がる!》
《動き出しはメジロシャーロックが上でしたね! ハイアーゲームを置き去りにしました!》
《先頭集団は第4コーナーを回ります! 猛然と上がっていくメジロシャーロック、内から併せるハーツクライ! メジロシャーロックとハーツクライの2頭が上がっていく!》
他は俺を慌てて追いかけている、が。本気では追っていない。
そりゃそうだ。ここで本気を出したら外に振らざるを得ない。慌てて追いかけるんだからなおさらだ。
3200mのレースで大外を回る……普通に考えりゃ、騎手は嫌がるよなぁ!
いや、一頭だけ。
たった一頭だけ、俺と同じような動き出しをする奴がいる。
そいつは内側から、わざわざ俺の方に寄ってくるかのように上がる。
外を走る俺に、内から併せる。
『貴様なら来ると思っていたぞ、シャーロックゥゥゥ!』
『ハーツゥ……!』
ハーツクライ。何かと俺に張り合ってくる、俺のライバル!
『序盤の腑抜けた走り、今の貴様の姿で許してやる! 今日が貴様の、敗北の日だ!』
『抜かせや! お前にまた敗北を味あわせてやるよ!』
ガンガンペースを上げる。
大外から、先頭集団へと襲い掛かる。
《大外からメジロシャーロックとハーツクライの2頭が上がる! 最後の直線、先頭に立っているのはビッグゴールドだビッグゴールドだ! 先行集団から伸びてくるのはスズカマンボ、団子状態で最後の直線に入ります! しかしこれは猛烈な勢いだメジロシャーロックとハーツクライ!?》
《まだ勝負は分かりませんよ! 京都の直線、最後の勝負どころです!》
《メジロシャーロックが来た! メジロシャーロックが来た! 序盤の不利も何のその! この盾だけは譲れないと、メジロシャーロックが追い上げてきた! それを許さないハーツクライ! 今度はもう負けていられないとハーツクライも競り合う!》
なぁ、リョーマ。
(お前が戦っているように、俺も今戦っているぞ)
激しいたたき合いを勝つために。
前を走る相手を追い越すために。
俺は、戦っている。
ぶっちゃけ、めっちゃ不利だ。いろいろ手を尽くしたけど、不利ってのは変わらない。
けどさ。俺、負けねぇから。
(俺は絶対に負けない。俺は、負けないからよ)
だから、だから!
『お前も負けんじゃねぇぇぇぞぉぉぉ!リョォォォマァァァ!』
お前も負けるな! 絶対に、生きて帰ってこい!
◇
暗い闇の中にいた。
暗い闇を漂っていた。
何時間? 何日?
何年? 何分?
どれだけの時間が経ったのか、分からない。
変わらない景色で漂う空間。
変化なんて起きない。そう思っていたのに。
(……なんだろうか?)
一筋の光が。
白い光が、目の前に落ちてきた。
なんだろうか? なんの、光だ?
分からない。けど。
(あたた、かい)
不思議な温かさを覚える。
温もりを、抱きしめられているかのような温かさを感じる。
気になって、光を手に取った。
瞬間、聞こえてきたのは。
負けるなリョーマ
少年のような声だった。
(……え?)
誰なのかは分からない。聞き覚えのない声。
頑張れ、負けんな
生きろ。生きるんだ
聞き覚えがないはずなのに。
どうしてか、知っているような声。
そう、この声は。
「しゃ……ろ……」
「っえ?」
シャロだ。多分、じゃない。絶対に、シャロだ。
シャロの声が聞こえる。シャロが、頑張っている。
分かるんだ。感じるんだ。今もシャロは、頑張っているって。
「が……ん、しゃ……ろ……っ」
「せ、先生! 患者さんが、草薙さんが!」
シャロが頑張っている。
だったら、俺がすることは決まっているんだ。
(シャロの、応援を。いつものように、いつもみたいに)
「しゃ……ろ……が、ん……ば……れ……っ」
「草薙さんが目を覚ましました! 急いできてください、先生!」
頑張れ、シャロ。負けるな、シャロ。
◇
最後の直線でハーツと競り合っている時、声が聞こえた気がした。
頑張れシャロ
リョーマの声が。病院で戦っているであろう、リョーマの声が聞こえてきた。
あぁそうだ。こんなものは幻聴だ。
リョーマはここにはいない。そもそも全力で走っているのに、周りに耳を傾けている余裕なんてもんはない。
「気張れやシャーロックー! お前がナンバーワンやー!」
「現役最強だシャーロックー!」
幻聴だけど……こんなにも頼もしく感じる声はない。
負けるなシャロ。頑張れ、頑張れ
あぁ、リョーマ。
『頑張るさ!』
気合い十分、やる気百倍。
絶対に、勝ってやる!
《メジロシャーロックの勢いが止まらない! 最後の直線に向いた段階では6馬身あった差、その差はすでに1馬身に収まっている! 先頭はスズカマンボに変わった残り100m! 残り100mでメジロシャーロックとハーツクライが突っ込んでくる!》
負けるか、負けられるか。
《メジロシャーロックが来た! メジロシャーロックが来た! ハーツクライも伸びてくる、ハーツクライも伸びてくるが半馬身勢いが足りない! メジロシャーロックがスズカマンボを捉えた! 抜き去った! 置き去りにしたァァァ!》
負けてたまるかァァァ!
執念が実ったのか、俺の意地が通ったのか。
《大逆転だ大逆転だ! メジロシャーロック大逆転だ! メジロとしてこの盾だけは譲れない、草薙厩務員のためにもこの舞台では負けられない! あらゆる逆境と不利を乗り越えて! メジロシャーロックが春の盾を賜ったぁぁぁ! これは見事な追込勝ちィィィ!》
《いや、凄いですよコレ! なんという強さでしょうか!?》
《凄まじい偉業、大偉業を成し遂げた! メジロアサマ、メジロティターン、メジロマックイーンから続く天皇盾! メジロシャーロックで四代目! 史上初の曾祖父祖父父仔四代天皇賞制覇を成し遂げました! あらゆる記録がかかった春の天皇賞、勝ったのはメジロシャーロックだぁぁぁ!》
勝ったのは、俺だった。
10万を超える人々の大歓声に讃えられて。
春の天皇賞を制したのは──俺だった。
◇
インタビューでは、いろいろとあった。
「初めてですわ、こないハラハラな気持ちでシャーロックのレースを観るのは。勝ったからええですけどね!」
(本当にすみませんでした康夫さん)
今回のレースについて、康夫さんに突っ込まれたり。
「最後方からのレースには慣れてますし、シャーロックなら別にできるかなって。実際できましたしね。やっぱり凄い子ですよ」
(あんたまたナチュラルに畜生発言しますね)
岳さんがナチュラルに畜生発言してたり。
いろいろとあったんだが、特に嬉しかったことが、1つある。
正確にはインタビューではない。
インタビューが終わった後。レースが終わって、引き返そうとしている時だ。
「や、康夫さん康夫さん! 大変です!」
厩舎のスタッフがやってきた。
急いで、それも嬉しそうな顔で。
一体どうしたのか。みんなが見守る中、出てきた言葉は。
「草薙さんが、草薙さんが目を覚ましました!」
「ホンマか!? アイツ、峠を越えおったんか!?」
「良かった、草薙さん……!」
俺達をさらに喜ばせるには、十分すぎる内容だった。
曇らせ「出番……」