キングジョージもいよいよ最後の直線。
後続が前との差を徐々に詰め始め、レースが最終局面に入ったことを報せる。
《先頭を走るセレブレートマジック、リードは3馬身。3馬身のリードを保ちながら走っているがっ、ここで上がってきましたメジロシャーロック! メジロシャーロックが上がってきました、それに続くように周りも置いていかれまいとペースを上げる!》
後ろだけではない。前の方でも動きがあった。
2番手に控え、集団に囲まれていたメジロシャーロック。
本レースの1番人気が進出を開始した。
当然、周りでマークしていた馬も続くように上がっていく。
3馬身の差を詰めていくメジロシャーロック。
その時、観客はふと思った。
「メジロシャーロック。囲まれていた割には、なんというか」
「楽、そうね? いえ、なんとなくだけど」
囲まれて、スタミナを削られ続けていた。
決して楽ではないレースだったはずだ。間違いなく、このレースで一番苦しい立場にいるはずだ。
なのに感じるのは……余裕。
まるで気にしてないとばかりに他馬のマークを振り払い、悠然と上がっていく姿。
その姿にファンは、余裕を感じた。
気のせいだ、と断じるファンが多い。
あれだけマークされているのに、今も囲まれているのに。
余裕なんてあるはずがない。自分達の勘違いに過ぎない。
そう断定し、心の中でメジロシャーロックの勝利を祈る。
──その勘違いが誤りであり、自分達の抱いた余裕が真実であったことに気づいたのは、残り800mを切ってからだ。
《メジロシャーロックが前との差を詰めます、メジロシャーロックがどんどん詰めていく! セレブレートマジックなんとか逃げ粘ろうとしていますが、メジロシャーロックが差を詰めてきました! すでに差は1馬身もありません! ブレイブリーアラン、フォルダーカウントが競り合おうとしていますが、メジロシャーロックの勢いが止まらない!》
囲んでいた3頭を振り払い、セレブレートマジックを躱そうと上がっている。
すでにスパートをかけているのであろう。ニューベリー競馬場でロングスパートを披露している。
じわりじわりと上がり続けるスピード。いまだトップスピードに至ってはいない。
セレブレートマジックは疲労が溜まっている。逃げていたスピードを維持できず、下がり続けている。
となれば、追いつくのは訳ない。残り600mを迎える前に、メジロシャーロックがセレブレートマジックを捉え──先頭へと躍り出た。
《ここでメジロシャーロックが先頭に変わります! メジロシャーロックが先頭、メジロシャーロックが先頭に変わりました! 上がっていくメジロシャーロック、喰らいつくブレイブリーアラン、フォルダーカウント! 後方からアザムールにバゴがすでに差を詰めてきている、2番手集団を捉えた! 早めに抜け出したエスワラーが、メジロシャーロックへと襲い掛かります!》
2番手集団との差は5馬身ほど。
抜け出す余裕があるメジロシャーロックに対し、ブレイブリーアランとフォルダーカウントはスタミナが残っていなかった。
これは、同じ位置にいたポリシーメーカーも同様である。
そう、3頭はスタミナが残っていなかった。末脚を思うように発揮できず、喰らいつくので精いっぱいといった様子。
なのに、メジロシャーロックは。
「マークされて、これか」
他を突き放すだけの余裕があった。
後方集団が上がってこようが関係ない。
もうすでに、勝利の謎は解き明かしている。
後は推理通りに事を進めるだけ。単純な仕事。
そう思わせるほどの余裕さ。そんな気持ちを抱かせるほどに、他を圧倒している。
ニューベリーに集まったファンは立ち上がる。
もっとよく見たいと、その姿を収めたいと全員が立ち上がる。
先頭を走る葦毛の競走馬。
あまりにも鮮やかに、美しいほど軽やかに駆け抜ける姿。
他が必死に追いかける中、たった一頭だけ隔絶とした差を見せつけるように駆け抜ける、その姿に。
「ビューティフォー……」
全員が、同じ言葉を漏らした。
女王も同じだった。
立ち上がりこそしないものの、表情は驚きで染まっている。
「……凄い」
シンプルな言葉が漏れ出る。
無意識のうちに拍手を送る。
そして、理解した。
(なんて言えばいいのか、分からない。けれども、これは分かる)
「周りのペースさえも、彼は支配していたっ」
今回のキングジョージは、メジロシャーロックによって支配されていたことを。
マークを意に介さず自分の走りを貫き。
むしろマークしてきた相手の冷静さを奪い、自らの手駒のように動かして事を運ぶ。
全体を支配し、自らが思い描いたレースを創造する。
(前の子は走り切るだけのスタミナを。後続の子は、追いつくための距離を与えない。その全てを計算していた……とでもいうのかしらっ)
身震いする。寒気が走った。
日本からやってきた名探偵の、あまりの神業に。
人馬一体で作り出した、とんでもない画に。
女王の口から、無意識のうちに漏れ出た言葉は。
女王だけではなく、この場で観戦していたファンの口からも出てきて。
今回のレースで、観戦に来ていたファンが理解したことは。
「彼のレースは、芸術だわっ」
メジロシャーロックのレースは1つの芸術である。
岳寛とメジロシャーロックは突き進む。
《残り400を切りました、2番手以下との差を6馬身つけて走るメジロシャーロック! これは凄い、これは凄いぞ! 日本の名探偵がまたも大立ち回り! 活躍を許さないとマークしていた相手を振り切って、素晴らしいレースを披露している!》
勝利のために、栄光を掴み取るために。
多幸感に支配されない。全能感に溺れない。
この気持ちは──誰にも邪魔させない。
「シャーロック、最後まで気を抜かないでね」
誰に言ってやがる。問題はない
周りに誰もいなくても、気を抜く素振りは一切見せない。
油断なんてものは微塵も存在しない。ひたすらに、堅実に。後続との差をキープし続ける。
《200を切った、200を切った! これはまたも逃げ切るか、またも逃げ切るのかメジロシャーロック! アザムールが猛然と追い上げてきた、追い上げてきているが、メジロシャーロックの勢いは全く衰えていない! エスワラーは力尽きたか後退、上がってくるのはノーズダンサー! 先頭はメジロシャーロック変わらず、6馬身のリードを保ち続けている!》
後続は絶望しかないだろう。
(何故、何故さっきから距離が縮まらない!? こちらも、万全の末脚を発揮しているというのに!)
(前で走って、まだ走れるスタミナがあるというのか!? 彼のスタミナは、無尽蔵だっていうのかい!?)
(クソ! もっと徹底しなければ勝てない……いや、徹底したところで、勝てないとでもっ)
距離が縮まらない上、落ちても来ない。
自分達と同じだけの末脚を発揮している。前で走っていたというのに。
控えていた自分達と遜色がない脚を、落ちていった馬と競り合いながらも残していた。
どういう原理なのか? どんな魔法を使ったのか?
疑問が尽きない。果たして、どうするのが正解だったのかと。思わずにはいられない。
しかし、考えたところで現実は覆らない。
《決まった決まった、完全に決まりました! メジロシャーロックが6馬身のリードを保ったまま、保ったまま駆け抜ける! 探偵がまたも勝利の謎を解き明かした! イギリス伝統の一戦で、名探偵の見事な推理が披露された!》
はるか前方にいる葦毛の馬を、呆然と見つめることしかできなかった。
《メジロシャーロック、メジロシャーロックだ! メジロシャーロックが圧巻の6馬身差勝利! キングジョージを制したのは日本の競走馬、メジロシャーロックだぁぁぁ!》
拍手が巻き起こるニューベリー競馬場。
日本馬初の大偉業が、ここに達成された。
◇
興奮が収まらないファン。
あまりにも鮮やかな勝利に、イギリス国民も日本人も盛り上がっていた。
「凄い、なんて芸術的なレースだったんだ! 思わず見惚れてしまったよ!」
「素晴らしい、なんて素晴らしいんだ! 彼のレースは、まさしく芸術のようだった!」
「ターフのキャンバスに描く、名探偵の素晴らしい画! あぁ、虜になっちゃう……!」
恍惚とした表情を浮かべ、メジロシャーロックを手放しで称賛する。
それだけのレースを披露したのだ。メジロシャーロックは。
また、昨今の暗い雰囲気を吹き飛ばしてくれた。
「勇気を貰ったよ、メジロシャーロック。君のレースのおかげで、いつも通りの日常を取り戻せそうだ」
「本当にこのレースを観に来てよかった。絶対に屈してなるものか!」
「ありがとう、メジロシャーロック。君の強さは、我々の心を奮い立たせてくれた!」
テロによって起きた被害は軽くはない。
住民に暗い影を落としたことは確かである。
それでも、前を向く強さを見せてくれた。
メジロシャーロックが描いた芸術が、イギリス国民の心を奮い立たせた。
日本の馬が、イギリス国民の心を射抜いたのである。
それは、女王も同じ。
「……ねぇ、私決めたわ」
決意の籠った目でメジロシャーロックを見据える。
その表情は楽し気で、子供のように無邪気だ。
その顔に見覚えがあるSPは、嫌な予感を感じつつも聞き返す。
「……なにを、でしょうか?」
SPからの言葉に、女王は。
「あの子のために繁殖牝馬を見繕いましょう! 良い肌馬を見つけないと!」
「……はぁ」
「絶対にメジロシャーロックの種付け権を獲得してみせるわ! 逐一状況を把握して、種牡馬入りの情報を逃さないようにしないと! これから忙しくなるわよ~!」
「程々にお願いします。まだ片付けなければいけない問題がたくさんありますので」
楽しそうに、そう答えた。
まぁ、メジロシャーロックのレースは女王すらも虜にしたのである。
たった一走。されど一走。
芸術的なレース運びに支配する強さ。
何よりとても目立つ、葦毛の逃げ馬だ。
元々馬が好きな女王。こうなるのも当然というべきか。
イギリス国民はおろか、女王すらも虜にしたメジロシャーロック。
素晴らしい強さを発揮して、キングジョージを制した。
インタビューでは、驚き顔の生江康夫調教師が通訳を交えつつ答えている。
「いや、ホンマに。あっさり勝ってびっくりしとりますわ。さすがはシャーロックですわ!」
嫌味に聞こえるかもしれないが、実際あっさり勝ったので何も言えない。
近代競馬発祥の地、本場のG1、長い歴史と伝統を誇るキングジョージ。
その舞台を何でもないように勝ったので、興奮するのも当然だ。
口から出てくるシャーロックへの賛辞。
記者は……止めるどころかむしろエスカレート。
「今後も欧州で走らないか」
「我々はいつでも歓迎する」
「これからも素晴らしいレースを期待している」
メジロシャーロックの強さに心を奪われていた。
岳寛はというと。
「僕とシャーロックならこれくらいはできるかなって。囲まれてましたけど、特に問題には思わなかったですね」
「なんでって? そりゃあシャーロックならこれくらいはできますよ」
「次は日本に戻る予定ですけど、負けないように頑張りたいですね」
相変わらずのコメントを残していた。
ただ、その胸中ではある思いが渦巻いていた。
(今回シャーロックに騎乗していて、改めて強さを実感した)
全てを高い水準で誇る万能さ。末脚の切れ味以外欠点がない、完璧な競走馬。
こちらの指示に即座に応える柔軟性と頭の良さ。
なにもかもが理想ともいえる……最高の馬。
新馬の頃から競馬を教えた。
一から十まで。自分が持てる技術の全てを教え込んだ。
その全てを、メジロシャーロックは吸収した。自らの糧にした。
断言できる。メジロシャーロックは現役最強の馬であると。
(現役最強は間違いなく君だ、シャーロック。君以上の馬は、世界中どこを探してもいないだろう)
だからこそ、岳は思う。
(そんな君に──別の馬で、願うならディープで挑んでみたい。そう思っている)
最強だからこそ挑みたい。自分の実力を試してみたい。
自分が育て上げた最強の馬に、真っ向から挑戦したい。
そう考えていた。
(……でも、彼に別の人が騎乗するのは嫌だな。分身の術、出来そうにもないし)
ついでにまだ見ぬ騎乗するであろう人のことを想像して、嫉妬を覚えていた。
しかも分身出来たりしないだろうかと、とんでもないことを考えている。周りからすれば勘弁してほしい考えだ。
良からぬことを考えている岳寛。
記者に上機嫌に対応している生江康夫。
そんな2人の様子を見守りつつ、柏崎楓に撫でられながら、メジロシャーロックは考えていた。
(今回のレース、我ながら凄かったな。すげぇ満足感、ってーの? とにかく凄かった)
自分の実力が、思ったよりすごくなっていたことに。
多幸感に加えて全能感。なんでもできそうな気がした。
その結果として、キングジョージでの6馬身差勝利を叩き出した。
(日本馬が勝ったことないレースを、こんなに楽勝するとは。はは、俺ってやっぱ)
『ディープ寄りのバケモノ、ってか、下手したらディープ以上にヤバい可能性があったりしてな?』
その事実に──歓喜を覚えた。
自分は強いのだと実感した。
これから先、今回と同じような実力を発揮できるかは分からない。
だが、すでに決めている。
(あの全能感を忘れないようにしねぇと! アレを使いこなせたら、俺はもっと強くなれる!)
『っうし! 次は日本に戻って秋の天皇賞、その前に前哨戦だな。頑張るぞ!』
あの全能感を自分の力に変えてやると。
そう心に誓ったメジロシャーロックだった。
あらやだお強いわこのお馬さん。