小白に初めて会った時、寂しそうな子と思ったわ。
『……貴方は?』
『よ、よろしくお願いします。ここで、お世話になる予定です』
産まれてすぐに母を亡くし、寂しくないようにと、私にあてがわれた仔。
遠慮がちに、おずおずとしているあの子は、可愛らしく見えて。
『そんなに畏まらなくてもいいわ。しっかりと、着いてきなさい』
『あ、はい』
打ち解けるまで、そんなに時間はかからなかった。
私は小白のことを気に入っていたし、優しくする私には小白も心を開いた。
『今日も走りましょうか。コツ、教えてあげるわ』
『お願いします。まだ四足の走り方、慣れなくて』
『それ以外には慣れてるみたいな言い方ね。構わないけれど』
とはいっても、あの子はあんまり甘えなかったけれど。
甘えるのが下手なのよ、小白は。
どうしても遠慮がちになってしまうし、数少ない甘える時間でも、あの子は申し訳なさを覚えてしまう。
本当の母親に申し訳ない、とでも思っているのかしら?
小白は真面目だから、そう思っていそうね。
『もっと甘えてもいいのよ? ほら、お腹も減ってるでしょう?』
『いや、大丈夫なんで。大丈夫なんで乳を押し付けないでもらえるとありがたいです』
なんで分かるのかは簡単。私はあの子の親代わりだから。それに尽きるわ。
だから私は遠慮しない。壁を作ろうとする小白を目一杯甘やかして、寂しくならないようにする。
なんというか、放っておけないから。
(本当に、どうしてかしら? 今までいろんな子を見てきたけど、小白みたいな子はいなかった)
甘え下手で、他ともあまり馴染まない。
優しくて真面目。自分の本心を決して話そうとはしない。
だからこそ……あの子はとても寂しそうに見えた。
あの子が別の場所に隔離された後も、心配でならなかった。
(あの子、大丈夫かしら? 他の子と、仲良くやれているのかしら?)
「ブルル……」
「メジロラモーヌ、今日はちょっとナイーブなのかな? そろそろ種付けの時期だし、注意しておかないと」
他の子達の輪に入れているか? いじめられてたりはしないか?
毎日きちんとご飯を食べているか? 人間を困らせては……なさそうね。聡い子だから。
叶うならば様子を見に行きたい。
柵を超えて、あの子に会いに行きたい。
考えた回数は多い。実行に移そうともした。
(でも、ダメね。迷惑がかかるし、何より)
体力的な問題と、運動能力の点から断念した。
自分の体のことは、自分がよく分かっている。
年々衰えていくのが。少しずつ弱くなっていってるのが、嫌でも分かってしまう。
心配する気持ちから、鳴いてしまう日もあった。
その結果、人間を心配させてしまうことも。
「ラモーヌ、子離れはいつもあっさりとしているのに」
「小白だけは別だな。なにか、感じ取るものがあるのかもしれない」
小白のことを考えなかった日は、一日もないわね。
しっかりやれているか心配で、気が気でなかった。
『……仕方ないわ。それに、小白は優しい子だから。きっと大丈夫よ』
だから、自分に言い聞かせて。
小白は問題ない。元気に過ごしていると決めつけて。
私は、放牧地でゆっくりし続けていた。
その後、小白には二度会う機会があった。
一度もなくてもおかしくないのに、人間の計らいで二度も会うことができた。
一度目は、去年の夏。
久しぶりに会ったあの子は、すっかり色が抜け落ちていて。
傍目には別の馬なんじゃないか? って思うくらい、変わっていたわ。
でも、すぐに分かった。
あの子は小白だって。私が愛を向けた小白に間違いないって、確信できた。
『あら、小白! 随分と久しぶりね』
『なんで即バレしたんですか。あの頃から大分白くなったのに』
『私が小白のことを分からないなんて、あるわけないでしょう? ここには休暇? なら、ゆっくりしていくのよ。走ることを忘れて、たくさん甘えて頂戴ね?』
『この大きさで甘えるのはちょっと』
相変わらず小白は遠慮がちだったけど。
久しぶりに会えて嬉しかった。元気にしているみたいで、ホッとした。
ただ……あの子は相変わらず真面目だったわ。
休暇で戻ってきたはずなのに、次のレースがあるからとほとんどの時間を走り回っていた。
全くもう、休暇の意味を分かっているのかしら? あの子は。
『小白、ずっと走りっぱなしじゃない。少しは休憩しなさいな』
『あ~……でも、次のレースが』
『私が休憩しなさい、と言っているのよ。休憩しなさい』
『……あい』
しゅんとする姿は可愛いけれど、申し訳ないと思うけど。
休暇なのだからしっかり休んで欲しい。
心を鬼にして叱った。効果があったのか、その後はしっかり休憩をとるようになったわね。良かったわ。
二度目は、今年の5月。
海外遠征をするから、その前に休暇ってことで、あの子はこっちに戻ってきた。
『お久しぶりです、ラモーヌさん』
『久しぶりね、小白。ゆっくりしていくのよ』
『勿論そのつもりで。またラモーヌさんに怒られたくないので』
活躍はこっちでも耳に入ってきていたわ。
大きいレースをたくさん勝って、いまだに誰にも負けていない。
現役最強で、だからこそ遠い異国の地に目を向けたって。
誇らしい気持ちだった。
あの子の良さを分かってくれる人間がたくさんいて、たくさんたくさん褒められて。
『トレセンではグルーヴさんと仲が良くてですね~』
『そう……ところで、その子はオスかしら? メスかしら? もしメスだとしたら、私の前に連れてきなさい。見定めてあげるから』
『何を見定める気ですかラモーヌさん。つか無理ですよ』
仲の良い子もたくさんいるみたいで、本当に安心したわ。
……だからこそ、なのでしょうね。
(最近は、体を動かすのも億劫になってきた。前みたいに、動けなくなってきた)
もういいのかもしれない、なんて思うようになったのは。
本当はもっと生きていたい。生きて、小白の活躍を耳にしたい。
あの子と一緒に暮らしたい。寂しがり屋のあの子が、寂しくならないためにも。
でも、意志や思いとは裏腹に、私の体は少しずつ動かなくなっていく。
昨日できたことが今日はできなくなり。
今までは問題なかった餌の量も、食べられなくなってきた。
嫌でも分かってしまう。
(私は、ここまでなのね)
自分の死期が近いことを。
病気やケガじゃない。
生きたいと思えば、生きれるのかもしれない。
けれども……体は少しずつ、動かなくなっていく。
『それじゃあ小白。あんまり離れたところに行っちゃダメよ? 私はもう少しゆっくりしておくから』
『あ、はい。ラモーヌさんもごゆっくり』
一緒に走ることも難しくなった。
寝るふりをしつつ、走る小白を見つめる。
(……綺麗ね)
白くなったあの子が走る姿が、目に焼きついて。
いつまでも見つめていたい、なんて気持ちが湧いてくる。
人間が虜になる理由が、よく分かる。
(あの子はよく、私のことを魔性なんて言ってるけど)
『貴方も十分、人間を惹きつける魔性の魅力を持っているわ、小白』
私の血を、継いでいるのね……貴方は。
それからまた、月日は流れて。
もう、今が何時なのかも分からなくなった。
正確には、考えることもなくなった。
体が動かせない。動かしたくても、動かせない。
少しずつ、瞼が重くなっていく。世界が暗闇に落ちていく。
眠る……のではない。
これはきっと、迎えが来たということ。
薄れゆく視界と意識の中で浮かんできたのは……小白のこと。
(小白……貴方はきっと、これからもたくさんの人間を魅了していくのね)
真面目で優しい子。
甘えるのが下手で、誰にでも遠慮してしまう子。
(きっと、たくさん愛される。愛されるでしょうけど。そこに私はいない。それが、どうしても寂しくて、悔しい)
『私ももっと、貴方に愛を与えたかったわ』
できる限りの愛を与えてきたつもり。
でも、全然足りない。もっともっと、小白に愛を教えてあげたかった。
なんでこんなに気に入っているのか?
自分の子でもないのに、どうして愛を向けるのか?
その理由はない。
ないけれど……そもそも愛するのに理由なんていらない。
ちょっとした後悔。もっと小白を愛したかった。
そんな小白に、ありったけの思いを込めて。
『これからも頑張るのよ……小白。私の可愛い可愛い、息子……。どこにいようとも、私は貴方を応援している。強く、逞しく、永く生きてねっ』
愛しているわ、小白──
◇
9月某日。
とある一本のニュースが、競馬界に広まった。
【メジロラモーヌ死去。死因は老衰】
かつての三冠牝馬メジロラモーヌ。
ファンを魅了した魔性の青鹿毛が、メジロの牧場で亡くなったというニュースだ。
「22歳……まだまだ長生きしてほしかったけど」
「老衰、か。どうしようもねぇよな」
「うおおぉん……メジロラモーヌ~っ」
一世を風靡した名馬の死に、ファンは悲しみに暮れた。
そしてこのニュースは、栗東トレセンにいる生江康夫の耳にも入る。
「メジロラモーヌが、か」
「ニュース、見ましたか」
深い関わりがあったわけではない。
調教師として携わったわけではない。
ただ、無視できない要素が1つ。
シャーロックの存在だ。
「確か、メジロラモーヌはシャーロックの母親代わり、やったよな?」
「……はい。裕二さんからそう聞いていました」
浮かない表情、震える声で答える俊之。
康夫と考えていることは、同じだった。
ラモーヌはシャーロックの母親代わりだった。
たくさんの愛情を注いでいたことも、シャーロックもまた懐いていたことも聞かされている。
「シャーロックはラモーヌに気を許しとった。ラモーヌもまた、シャーロックをかわいがっとった」
「ですね。放牧の時も、わざわざ2頭を一緒の放牧地にしていたと」
「気が安らぐんやろうな。特例措置として許しとった。そんだけ、2頭の仲は良かったんや」
聞かされているからこそ、やるせなさに怒りを覚える。
「ホンマに……ホンマにっ! シャーロックがなにしたって言うんや!?」
「……テキ。あまり大声は」
「生みの親を生まれた時に亡くして! 今度は育ての母親が亡くなったんやぞ!? 神さんはどんだけシャーロックのことが嫌いなんや!? なぁ!!」
その怒りをぶつける先がどこにもないことに、無力感を覚える。
振り下ろそうとしている拳は宙をさまよい、今にも机に叩きつけそうになっている。
「あぁそうやな、ラモーヌもえぇ歳やったかもしれん! やけど、やけども……っ!」
「っ、テキ」
「まだ連れて行くんは早すぎるやろうが……っ!」
しかし、その拳が振り下ろされることはなく。
どうしようもない現実に、諦める他ないことを突きつけられ。
力なく、机に置かれた。
あまりにも無情な現実。
生みの親に続いて、育ての親も亡くしてしまった。
兄弟はいない。メジロコナンが遺した仔はシャーロックのみ。
シャーロックの孤独は、さらに深くなってしまった。
同じ境遇の馬は、他に探せばいるかもしれない。
別に、メジロシャーロックだけではないのかもしれない。
だとしても、やるせなさを覚えるのが人だ。
「ホンマのホンマに……シャーロックが、可哀想やんか……」
康夫の力ない呟きに、声にこそ出さないが俊之も同じ気持ちを抱いていた。
涙を浮かべる康夫。
ただ、悲しんでばかりはいられない。
やれることを、やらないといけない。
「……俊之。ラモーヌの死は絶対に口にしたらアカン。周りのスタッフにもよう言い聞かせとけ」
「当然です。テキの口からも」
「俺からも周知させとくわ。他の調教師にもお願いして、徹底的に隠す」
特に、メジロシャーロックに知られるわけにはいかないと。
絶対に隠すべきだと、そう考えていた。
「シャーロックは賢い。やから絶対、ラモーヌの死を知ったら悲しむ」
「ストレスで悪い影響が出る。そうならないためにも、隠さなければいけない」
「その通りや。レース前やとか、そんなこと関係あらへん。これ以上シャーロックが気負い過ぎひんよう、最善を尽くすべきや」
賢いからこそ理解してしまう。
ラモーヌの訃報を聞いて、ストレスを抱えて。
また、春天の時のようになるかもしれない。
そう考えたら、隠すことが最善だと判断した。
「とにかく、今すぐにでも共有するで。場所にも気をつけるんや。どこでシャーロックが聞いとるか分からんからな」
「勿論。テキこそ気をつけてください。やらかすとしたらテキの方です」
「じゃかあしいわアホ! やらかすかい!」
俊之のからかいに少しだけ気を楽にしつつも、早めの周知を心掛けた。
幸いにも、他の調教師達も協力してくれた。
メジロラモーヌのことは、調教の際には口外しないと。
できる限り話題にしないと、そう約束してくれた。
また、調教師から騎手にも伝えられる。
絶対に口にしてはいけない、と。
騎手側も了承。全面的に協力してくれた。
おかげで京都大賞典を目前に控えた今日も、メジロシャーロックはいつも通りの状態をキープしている。
「協力的で助かるわ、ホンマに」
「調教でお世話になっているから、ですか。ありがたい限りです」
繋がりに感謝する2人だった。
……だが所詮。それはトレセン、ひいては調教師や騎手、競馬に携わる人間での約束事。
「頑張れよシャーロックー! 天国でメジロラモーヌが見守っているぞー!」
「あ」
京都大賞典当日。
人間からの、ファンからの声援は。
止めようがなかった。
やるかやらないかで言われたらまぁ絶対やる人はいる。