今とんでもなくヤバい状況にいると気づいたのは、向こう正面に入った時だった。
(ただマークされているだけじゃない、囲まれてるぞコレ!)
最初はめっちゃマークされてるな~、別にいつものことか~、なんてのほほんとしていた。
そんなのほほんとした空気は、向こう正面に入った瞬間消え去った。
《向こう正面に入りました。タップダンスシチーが3馬身のリードで逃げている。2番手続いてテレグノシス、スズカマンボそしてストーミーカフェと続いて、5番手の位置にメジロシャーロックだ。内にハットトリック、外にゼンノロブロイ。先行集団はかなり固まっていますね》
《ハットトリックの後ろにはハーツクライ、最内につけて様子を窺います。アドマイヤグルーヴも似た位置にいますよ》
《最後方にはスイープトウショウとスティルインラブ。追込の牝馬2頭が最後方だ。それにしても、これで怖いのはタップダンスシチー。タップダンスシチーが快調に飛ばして逃げています》
ヤバいヤバい、めちゃくちゃヤバい。
今俺が置かれている状況は、とんでもなくヤバい。
(抜け出すための隙間がほとんどない! その上、俺自身から仕掛けることができねぇ!)
例えるなら2000年有馬記念。俗にオペラオーシフトと呼ばれる、あの陣形だ。
抜け出す隙間がない。マークが集中しすぎた結果、包囲網を形成されていた、テイエムオペラオーと同じ状況だ。
オペラオーはあの状況からでも抜け出せた。
問題は……俺も同じことができるかと言われたら、怪しいってところ。
(本格化を迎えても、俺の末脚は切れ味がある方じゃない! 瞬発力勝負はまずできねぇ!)
どこまでいっても、俺はステイヤータイプの馬だ。
エンジンを温めるのに時間が掛かるし、一瞬で抜け出して勝つなんて芸当はできない。
中山と東京という違いはある。けど、テイエムオペラオーみたいな抜け出しは、俺には無理だ。
おまけに、囲まれているだけならまだ良かったかもしれない。
更なる問題がここで浮上してくる。
(つか、誰もタップダンスシチーを警戒してねぇじゃねぇか! あの馬楽逃げさせたらどうなるか、忘れたわけじゃねぇだろうな!?)
逃げているのがタップダンスシチー、という点だ。これが非常にまずい。
タップダンスシチーと言えば、ジャパンカップの9馬身差勝ちが思い浮かぶ。
アレは先頭を楽逃げさせた結果、誰も追いつけずに敗北したというレースだ。
逃げ馬を楽に逃げさせてはいけない。そのことがよく分かるレースでもある。タップダンスシチーが逃げ馬かどうかは、ちょっと議論の余地が残るけども。
誰も警戒していない。つまりタップダンスシチーの望むペースで走れている、ということ。
そうなるとどうなるか? 待っているのは、バカでも分かる結果だけだ。
(俺を警戒するあまり、他がおざなりになってたらどうしようもねぇだろ! そんだけの相手って認識されてるのは嬉しいけどよ!)
いやまぁ、実際俺みたいな奴がいたら俺も警戒すると思う。
というか、誰だってマークする。しない方がおかしい奴だし。
(タップダンスシチーだけじゃねぇ。後方で控えているであろうスイープやスティルさん、グルーヴさんにハーツもそうだ! あっちのマークが薄い場合、すっ飛んでくる可能性がある!)
俺にマークが集中しているということは、他のマークがおざなりということ。
3とか4じゃきかない。出走している馬ほぼ全てが、敵になっているとみていいだろう。
考えろ、考えろ。
この状況でどう勝つのか? どう走るのが正解か?
(まずやるべきことは、タップダンスシチーの楽逃げを許さないことだ。ただでさえ2000mのレース、そのまま逃げ切られる!)
ひたすらに考える。
どうすればこの状況を打破できるか? どう動くのが正解であるのか?
俺が勝つためにはどうしたらいいのか?
考え抜いた末に、出した結論は。
(……一か八か。過去最大級の大博打を打つしかねぇってことか!)
上手くいけば勝てる。ただし失敗すれば、確実に掲示板外に沈むことになる、最悪の博打を打たなきゃいけねぇってことになった。
運次第になる。俺が勝つためには、運を手繰り寄せなきゃいけねぇ。
その運を絶対に掴むためにも、俺は動く。
囲まれている状況で動く。
丁度外を走っているゼンノロブロイが抑えるそぶりを見せた。
その一瞬を、叩く。
(っ、そうだな。俺が突っ込んで来たら、動かざるを得ない。問題は、お前が今下がろうとしたことだ! その動きが欲しかった!)
向こう正面で控えようとしたゼンノロブロイとは逆に、俺はペースを上げる。
下がったことで、一瞬だが進路ができた。
その進路を取るため、俺は進出を開始する。
だが、向こうも歴戦の猛者。
すぐさまペースを上げて、俺が取ろうとした進路を塞ぐように立ち回る。
これでいい。
(俺が動いたことで、周りも動かざるを得ない。少しずつ、少しずつペースを乱す!)
ゼンノロブロイだけじゃない。
周りの焦りを誘発させる。
(少ししか動けないが、その少しで十分だ。少しずつ穴を広げて、勝利のためのどでかい風穴を空けてやる!)
内のハットトリックも、前を走る3頭も。
とにかく焦らせる。俺が率先してペースを乱し、この包囲網を崩す。
(俺をマークして有利になるポイントはたくさんある。その中で特にデカいのは、ペースを乱さないって点だ)
一定のタイムを刻むラップ逃げ。
俺をペースメーカーにすれば、とりあえず乱れることはなくなる。一定のラップを刻むことができる。
大逃げや幻惑逃げをすることもあるが、俺は基本ペースを乱さない。
だからこそ、安心してマークができる。
なら今回は、それを利用してやる。
(あえてペースを乱して、陣形をかき乱す! この包囲網に穴を作ってやる!)
勘づく騎手もいるだろう。
後はそこからの反応次第。マークを止めるか、それでもついてくるか。
運が絡むというのはこのこと。これで動かない選択を取った場合……俺はほぼ詰みだ。
(つっても、俺がめちゃくちゃ頑張ればいい話だ。頑張れば頑張った分だけ、相手は動かざるを得なくなる!)
覚悟しとけ。絶対にお前らを動かしてやるからな。
あ、ちなみに岳さんは俺の意図をくみ取ったのか、特に手綱を絞ったりはしてない。
薄々勘づいていたんだろうな、この人。囲まれてるって。
はたまた俺と同じタイミングで気づいたか。
なんにせよ、俺の頑張りがこの後の結果に直結する。
やるしか、ない。
◇
向こう正面に入ったタイミング。観客は気づいた。
「先行集団のペース、ちょっと早くなってきてないか?」
タップダンスシチーの4馬身後ろ。
テレグノシスを先頭にした先行集団の動きが、少しずつ乱れていることに。
《向こう正面を走ります。ここで一息入れたいタップダンスシチー、しかし後続がそれを許さない。テレグノシスを先頭にした先行集団、お前のことも忘れていないぞと、タップダンスシチーを追いかけ始めました》
《ですが、一息入れたいのは先行集団も同じです。息を入れないこの判断が吉と出るか凶と出るか》
《メジロシャーロックは先行集団真ん中の位置、真ん中の位置でレースを進めます。外にはゼンノロブロイ、内にハットトリック。内からも外からも、前からも後ろからもマークされる1番人気。後方集団は悠々とレースを進めます》
ペースが早くなったことに気づく。
一人が気づけばまた一人。どんどん周りへと広がっていく。
「確かに早いな。これは、ハイペースで流れるぞ」
「ってなると、後方集団が有利だな。まぁでも、シャーロックなら何とかしてくれるだろ」
「いや~、スイープトウショウにスティルインラブの末脚も侮れないからな。厳しい勝負を強いられるかもしれん」
後方有利の展開になりつつあること。
それでもシャーロックなら何とかなるだろうという期待。
ファンはまだ、メジロシャーロックの勝利を少しも疑っていなかった。
だが、序盤からメジロシャーロックに注目していたファンは嫌でも気づく。
「なんか、包囲されてない? シャーロック」
「あ、やっぱり気のせいじゃなかった! メジロシャーロック、ずっと囲まれてる!」
包囲網を敷かれていることに。
とんでもなくまずい状況にいると、理解してしまう。
ただ、怒号をあげる、なんてことはなかった。
理性が働いたのもあるが、天覧競馬ということを覚えていたからだ。
天皇陛下が見ているのに下手なことは言えないしできない
そう認識しているからこそ、怒りを抑えることしかできなかった。
「クソ~、頑張れシャーロック! 負けるんじゃないぞ!」
「オペラオーの時並みだなアレは。すげぇまずい状況だ」
「いや、でも、メジロシャーロックだ! どんな不利な状況でも、一発逆転してくれるさ!」
代わりに応援の言葉を贈る。メジロシャーロックを激励する。
天皇賞春秋連覇の偉業に向けて頑張れと、ファンは応援し続けた。
圧倒的不利な状況。
シャーロックの手綱を握る岳寛は、広い視野で冷静に状況を俯瞰していた。
(落ち着け。ここで僕が焦っても状況は好転しない。とにかく、シャーロックとの呼吸を合わせるんだ)
周りを逐一確認。
統率が乱れたところを狙い、シャーロックの進路を確保する。
0.1秒たりとも気を抜かない。とにかく頭を働かせて、勝利への道筋を見出す。
別に囲まれる状況を想定していないわけではなかった。
むしろ、囲まれる確率は高いだろう、と思っていた。
けれども、避けようがない。
(瞬発力のないシャーロックを抑えるには、序盤でどうにかするのが一番だ。今回はそこを突かれた)
「厄介だよ、本当にっ」
唯一と言ってもいい弱点を突かれ、思わず悪態をつく。
包囲網を敷かれている現状に、怒りを覚える。
ただ、今はとにかく最善手を打たなければならない。
少しでも判断をミスったら終わり。勝ちの目がなくなる。
その時が、やってきた。
《向こう正面半分を過ぎました。タップダンスシチーとの差を詰めた、4馬身の差が2馬身に変わりますテレグノシス。隊列も乱れ始めました、テレグノシスを追いかけるゼンノロブロイ前目に勝負をします。ゼンノロブロイと代わるようにスズカマンボが後方へ、メジロシャーロックの隣につけようとしますがっ、ここでメジロシャーロック仕掛けます!》
《ゼンノロブロイの後を着いていくつもりですね。メジロシャーロックが真ん中の位置を捨てました!》
《向こう正面半分を過ぎたこの段階で動いた1番人気メジロシャーロック! 前で走る集団が一気にペースを上げ始めました! マークしているメジロシャーロックを追いかける! 前には行かせないぞと動くテレグノシス、そしてゼンノロブロイ!》
ゼンノロブロイが前につけようと動いた。
スズカマンボが下がろうと後退してきた。
その一瞬。
少しも空かなかった進路が開く。
勝利へと繋がっている道が見え始める。
ここで行くしかない
岳とシャーロックの思考が一致し、迷わず空いた進路を進んだ。
当然、シャーロックをマークしていた他馬はペースを上げる。
振り切られないように、自由にさせないために、徹底的にマークする──岳とシャーロックの狙い通りに。
取れる選択肢は、1つしかなかった。
(消耗戦しかない……! それも、かなり分が悪い消耗戦だ!)
「やれるかい? シャーロック!」
『やるしかねぇだろ! それしか勝ち筋がねぇんだから!』
開けた視界。
タップダンスシチー目がけて一直線に駆け出す。
楽に逃げようと思っていたタップダンスシチー。
しかし、メジロシャーロックがそれを許さない。
テレグノシスも逃がすわけにはいかないとペースを上げ、先行集団がタップダンスシチーへと襲い掛かる。
その結果、息を入れることが難しくなった。
スタミナを削られ、走り切るだけのスタミナを消耗させられる。
《まもなく第3コーナーのカーブへと入ります。先行集団が仕掛けてきました、タップダンスシチーとの差を2馬身へと詰めます。逃げたいタップダンスシチー、たまらずペースを上げる! ペースを上げたまま第3コーナーのカーブを曲がります、タップダンスシチーが先頭!》
《メジロシャーロックはテレグノシスの後ろにつけましたね。いえ、それだけではありません!》
《おっとここでメジロシャーロックがスズカマンボに並びました! 最内を走るスズカマンボ、その隣にメジロシャーロック! そして、瞬く間にスズカマンボを躱しましたメジロシャーロックが単独3番手!》
逃げるしかなくなった。
逃げるタップダンスシチー。追いかける後続。
その中で、後方勢はまだ控えていた。
前との差を詰めるのはそこそこに。末脚を研ぎ澄ませる一頭の牝馬。
《スイープトウショウも上がっていきます。ペースが早くなったことに勘づいて、スイープトウショウも前に出始めました。スティルインラブはまだ動かない、スティルインラブはまだ動かない!》
スティルインラブだけは、まだ動かなかった。
(ウフフ……シャロという極上の餌を捕まえるにはァ、ここで仕掛けるわけにはいかないのォ)
我慢を覚えた彼女。
鞍上からの指示が出ていないため動かない。気性の悪さを見せない。
結果、牝馬三冠の時よりもはるかに強くなっている。油断ならない一頭として紹介されるくらいには。
後方でスティルインラブが牙を研ぎ澄ませる一方、メジロシャーロックは……相変わらずギリギリの勝負を強いられていた。
なんとか包囲網を抜け出せたが、依然としてマークされていることに変わりはない。
集中するマークの中、タップダンスシチーを追いかけている。
旗色は……悪い。
(くっそ、いつも以上にスタミナを消耗してやがる! 当たり前だけど!)
心の中で悪態をつくシャーロック。
その理由は、スタミナの消耗だ。
抜け出すために自分からペースを乱した。
思い通りの展開にするために、いたずらに体力を使った。かなりの無茶をした。
さらには、ロングスパートを仕掛けている。東京競馬場で、だ。
その代償とも言うべきか、シャーロックのスタミナはいつも以上に消費している。
走り切るだけのスタミナが残っていない。それだけの消耗を強いられていた。
他にマシな戦法はなかったのか? 楽な道筋はなかったのか?
思わずにはいられないが、不必要な情報と切り捨てる。
今はただひたすら前へ。勝つことだけに意識を集中する。
(タップダンスシチーがめちゃくちゃ粘っている、がっ。あの状況なら直に落ちる! 息も入れられなかったからな!)
相手のスタミナを計算に入れ、自分のスタミナなら十分届くと判断。
(周りも、おそらく大丈夫だ! 懸念するのはゼンノロブロイ、そのゼンノロブロイもステイヤーってわけじゃない!)
他の警戒も怠らない。消耗戦ならば自分に分があると確信している。
(後は……俺の気力次第。俺が、どこまでやれるかだ!)
見据えるのは自らの勝利のみ。メジロシャーロックの気持ちは、少しも切れていない。
勝利への視界は良好、とは言えない。
それでもただ、勝利を目指して。
《大欅を超えて第4コーナーを走ります! ここでメジロシャーロックが2番手テレグノシスに並びました! 内にはスズカマンボ、2番手で集団を形成する! メジロシャーロックの後ろにはハーツクライだハーツクライだ、ハーツクライが中団から抜け出してメジロシャーロックの後ろに控えている!》
メジロシャーロックは走る。
春天の時よりも状況が悪い。天皇賞で運がない子。