いつも以上に削られたスタミナ。
消耗が激しく、圧倒的不利なことは間違いない。
それでも、勝ちを狙える段階まで来ていた。
開けた進路を突き進み、ゼンノロブロイと一緒に位置を押し上げる。
メジロシャーロック。
意図せぬ包囲網を敷かれていた葦毛の馬は、今先頭へと追いつこうとしていた。
《最後の直線に入ります、最後の直線先頭で入ってきたのはタップダンスシチーだタップダンスシチーだ! タップダンスシチーが逃げているが、これは旗色が悪そうだ!》
《息を入れる暇がありませんでしたからね。後続から上がってくるアドマイヤグルーヴとスイープトウショウ、あっと中団からはヘヴンリーロマンスが見えます!》
《先行集団はっ、メジロシャーロックが来た! メジロシャーロックが来た! メジロシャーロックとゼンノロブロイが上がっていく、その後ろにはハーツクライがつけている! メジロシャーロックがタップダンスシチーに襲い掛かります、東京の坂に入りました!》
東京の坂。高低差は2m。
そんなものは、メジロシャーロックにとってはないも同然の坂だった。
(向こうの坂に比べりゃはるかにマシなんだよ! ねぇようなもんだ!)
欧州で経験した坂道の走り方。
全く苦にせず、一呼吸の間にグングン上がっていく。
今出せるトップギア。前との差をグングン詰めていくが──後方から。
『ようやくゥ、この時が来たわァ……全部、ゼェンブゥ! 喰らってあげるゥゥゥ!!』
スティルインラブが、ぶっ飛んできた。
比喩でも何でもない。文字通り、他よりも隔絶としたスピードで上がってきたのだ。
大外をぶん回して上がっていく。
中団で控えていた馬を置き去りに、先行集団には目もくれず。
標的はただ一頭。葦毛の競走馬メジロシャーロック。
メジロシャーロック目がけて、牝馬三冠を勝ち取った紅の怪物が躍動する。
《坂を上る各馬、ここでタップダンスシチーに追いついたメジロシャーロック! メジロシャーロックが先頭に変わりますがっ、後方からスティルインラブだスティルインラブだ! 復活を遂げた三冠牝馬が襲い掛かる! ゼンノロブロイはどうか? ゼンノロブロイはやや苦しいか! メジロシャーロックの後ろからハーツクライが並ぼうとしている! ハーツクライが内から上がってくる!》
無論、スティルインラブだけではない。
先行集団以外、というよりはメジロシャーロックよりも後ろに控えていた馬。
中団、後方に控えていた馬達が一斉に駆け出してくる。
メジロシャーロックをマークしていた馬のほとんどは崩れていた。
ペースを乱され、めちゃくちゃになったリズムで走った結果、ずるずると落ちていくことになる。
これができるのだ。
マークされたことを逆手にとって、相手のスタミナを逆に削る。
崩れたペースで走ることで、周りのペースを乱したのだ。
人馬の呼吸が合っていなければできない。騎手の思考と馬の思考が一致していなければできない。
これが出来るからこそ、メジロシャーロックは最強と呼ぶに相応しいのだ。
もっとも、代償は安くない。
《坂を上り終わって先頭はメジロシャーロックだ、ハーツクライとゼンノロブロイに1馬身のリードを保って逃げている! だがこれは苦しいか!? これは苦しいかメジロシャーロック! ハーツクライがじわじわ差を詰めてくる、猛烈な勢いで後方からスティルインラブが飛んでくる! もう追いつくぞ、もうスティルインラブが追いつくぞ!》
《スティルインラブだけではありません、アドマイヤグルーヴにヘヴンリーロマンスも来ています! いえ、後方で待機していたのが一気に押し寄せてきましたよ!》
《勢いは完全にスティルインラブだ! 先行勢は総崩れ、タップダンスシチーこれはさすがに粘れない! さぁスティルインラブがその差を1馬身まで縮めた残り200m! これはメジロシャーロック厳しいか!?》
完全にスタミナが枯渇していた。
3200mを、掛かった状態で走り切ったスタミナが。
欧州の芝でも問題なく走れていたメジロシャーロックは。
(やっべぇ……か、過去一苦しい……っ! 大逃げの時よりも、春天よりも、キングジョージよりもずっとだっ)
すでに、スタミナ切れを起こしていた。
(そりゃそうだ。あんなガタガタのペースで走ってりゃ、スタミナが保つわけねぇ。まさか、2000m走り切るだけの体力を持たせらんねぇなんてよっ)
相手のペースを乱すために、自ら乱れたペースで走っていた。
無茶なチェンジオブペースも積極的にした。陣形を、包囲網を崩すためにあらゆる手を尽くした。
その結果、2000mで息切れを起こした。普通ならば絶対にありえない状況を、生み出してしまった。
そしてその状況を、観客たちは理解する。
「あぁ!? や、ヤバいよ~! 負けないでー! シャーロックー!」
「スタミナ切れ!? 3200m走り切れるのに……クソ、負けるなー! 頑張れー!」
「あんだけマークされてたんだから当たり前だろ! 頑張ってくれー! シャーロックー!」
「しゃーろっくまけないでー!」
せめて、せめて自分達にできることを。
応援の声を飛ばそう。少しでも力になることを信じて、メジロシャーロックを応援しよう。
ファンにできることは、それだけだった。
……しかし、応援の声で状況が好転するわけがない。
《ついにハーツクライが並んだ! ハーツクライがメジロシャーロックに並ぶ、ハーツクライが並んだ並んだ! 後方からスティルインラブ、アドマイヤグルーヴは少し厳しいか!? 抜け出しに手間取っているアドマイヤグルーヴ! スイープトウショウも来ている! 後方待機の馬が一斉に上がってきました!》
《ヘヴンリーロマンスが良い位置につけていますね! いよいよ大詰めですよ!》
《ゼンノロブロイも粘っている、粘っているがっ、これは厳しいか!? メジロシャーロックはもう無理か!?》
完全に並ばれた。
ハーツクライに並ばれ、スティルインラブに抜き去られようとしている。
観客の頭に、1つの言葉がよぎった。
終わった
諦めと、憐憫。
もし、包囲網が敷かれなかったら?
もし、万全な勝負ができていたら?
もし、実力を完全に発揮することができていたら?
そう思わずにはいられない。それだけのことをされていた。
競馬にもしもはない。たらればなんてものは存在しない。
結果が全て。目に映る景色が全てなのだ。
「……っ」
天皇陛下が静かに見守る中、メジロシャーロックは抜かれ──なかった。
《粘る! 粘る! メジロシャーロック粘る! メジロシャーロック粘っている! 並ばれはしたが抜かせない抜かせない! 意地でも抜かせない! メジロシャーロックが力を振り絞っている!》
『そうだな……お前は、そういう奴だッ!』
『シャァロォ、やァッぱり貴方はァ、最高の獲物だわァ!!』
粘る。懸命に粘る。
絶対に抜かせない。意地でも前には行かせない。
強い意志を放ち、ハーツクライとスティルインラブと並んで走る。
観客の表情が驚愕に染まる。ありえない景色を目のあたりにしているからだ。
確かに、もしもはない。たらればも存在しない。
だからこそ、目の前の景色こそが真実であり現実だ。
しかし、それでも信じることは難しいだろう。
メジロシャーロックが──並ばれてから本領を発揮するなんて。競り合いでこそ真価を発揮するなんて。
『抜かせるかよぉ……っ、意地でも、お前らに抜かれてたまるかよぉ!!』
『黙れ! 俺が抜き、貴様に勝つ! 貴様に土を付けるのは、この俺だっ!』
『勝つのはワタシ、ワタシがァ、勝つのォ!』
3頭。決着はこの3頭に委ねられる。
アドマイヤグルーヴは抜け出せたがもはや届かない。
スイープトウショウは距離が足りない。
ヘヴンリーロマンスとゼンノロブロイは、届くための力が残っていない。
《3頭が並ぶ、3頭が並ぶ! 内のハーツクライ、外のスティルインラブ、そして真ん中メジロシャーロック! メジロシャーロックが優勢か!? メジロシャーロックが優勢だ! 残り100を切ったメジロシャーロック優勢優勢!》
他の後続も同様だ。3頭に追いつくための時間、距離、力なにもかもが足りていない。
決着は3頭の手に。
差して差し返され……とはならない。
一度たりとも差し返すことを許さず。
ただ力で抑え込み、枯渇したはずのスタミナを限界まで絞り出して。
《メジロシャーロック! メジロシャーロックだ! メジロシャーロックが天皇賞春秋連覇を成し遂げたぁぁぁ! 天覧競馬となった秋の天皇賞、天皇陛下の御前で勝利を掴み取ったのは、メジロシャーロックだぁぁぁ!!》
メジロシャーロックが、2頭を抑え込んで勝利を掴んだ。
◇
大歓声に包まれる東京競馬場。
勝者を祝福する喝采が響き渡り、凱旋を見守る。
勝ったのはメジロシャーロック。今回圧倒的不利を背負っていたはずの葦毛が、レースを制した。
そしてまた、今回も記録づくめの勝利である。
《これで【皇帝】シンボリルドルフの記録を塗り替える、G1・8勝目! ついに皇帝の記録が塗り替えられました! テイエムオペラオーでさえも抜くことが叶わなかった最多G1勝利、メジロシャーロックがG1・8勝目を記録しました!》
4代目にして初代無敗の三冠馬シンボリルドルフ。
【皇帝】と呼ばれる競走馬が記録した最多G1勝利数7。
その記録を塗り替える、8勝目のG1勝利。
《父メジロマックイーンが成し遂げられなかった、天皇賞春秋連覇の偉業! 春を制し、秋も制して! その息子が父の忘れ物を取りに来ました! これで天皇賞春秋連覇です!》
天皇賞春秋連覇。数えるほどしか例がない偉業を、メジロシャーロックが成し遂げた。
父が取れなかったタイトルを、父が成し遂げられなかったことを、息子がやり遂げたのだ。
関係者にとっては感無量だろう。
《さらには、天覧競馬での勝利! メジロシャーロックが見事、天皇陛下の前で勝利を掴み取りました!》
天覧競馬での勝利も外せない。
約106年ぶりとなる天覧競馬。天皇陛下の前で見事なレースを披露した。
レースを観戦していた天皇陛下はというと。
「これは、これは。凄い馬ですね、メジロシャーロックは」
「自分でレースを組み立てて、周りを巻き込んで。まるで一つの芸術作品を見ているようでした」
「素晴らしい馬ですね。ぜひとも、近くで見てみたいものです」
朗らかに笑って、メジロシャーロックの勝利を讃えていた。
観客は大満足、天皇陛下も大満足のレースだった。
……だが、岳寛とメジロシャーロックは?
渦中の、今回最も不利を受けていたコンビはどうか?
《そして、メジロシャーロックと岳寛はっ、と。お辞儀をしています。ヘルメットを脱ぎ、天皇・皇后両陛下に深々と頭を下げています。メジロシャーロックも、同じように頭を下げています》
表面上は普通だった。
天皇・皇后両陛下にお辞儀をして、まるで絵画のような美しさの一場面を演出。
応えるように天皇・皇后両陛下が手を振り、セレモニーが終わるその時まで待っていた。
インタビューでも普通だった。
「僕とシャーロックなら何とかできますよ。あれくらい」
「キツいと言えばキツいですけど、どうにかなったんで。それ以外に言うことないです、はい」
「まぁ勝ちを狙いに行った結果だと思ってるので。別に言及する気はないです」
……いや、普通ではない。
言葉尻からは怒気が見え隠れしており、今回の包囲網に怒りを覚えているのがよく分かった。
あくまで傍目の印象であり、本気で怒っているかどうかは分からないが。
インタビューを終えた後、岳は調教師の康夫と馬主の喜多野裕二から労いの言葉を貰う。
「ほんっっっまに、ほんっまにお疲れさん、寛君。むっちゃ心臓に悪かったわっ」
「ありがとう、寛君。無事に走り終わってきてくれて」
2人からの言葉に、岳は苦笑いを浮かべていた。
「えぇ、何とかなってよかったです、本当に。まさか、あそこまで包囲されるとは」
「馬主席で、他の馬主さんから謝罪を貰いましたよ。最悪なことをしてしまって申し訳ない、と」
「……まぁ、わざとではないと思いますので。実績を考えたらマークは集中しますし、結果的に包囲される形になった。そう思っていますから」
これには岳自身の過去の騎乗もある。
テイエムオペラオーが出走した2000年有馬記念で、岳も結果的に包囲網を敷く一因となっていた。
そんな気はなかったとはいえ、勝ちを狙った結果、今回メジロシャーロックを包囲していた騎手と一緒のことをしていたのである。
なので、強くは怒れない。その言葉は自分に返ってくるから。
「さすがに、土下座までされるとは思わなかったですよ。そこまでしなくても、と言っても聞き入れてくれませんでしたし」
「ま~、天皇陛下が見守っとる中であないなことになったらなぁ。俺も同じ立場になったら土下座しますわ」
「僕も、他の騎手から同じように謝罪されましたよ。フェアプレーに欠ける行為だった、と」
まぁ、思ったより怒っていない、というのが現実だ。
確かに思うところはあるが、心理的に理解できる部分がたくさんある。
だからこそ、怒ったりはしない。
自分も同じ立場なら、似たようなことをするかもしれないから。
なので、この話はこれでおしまいだ。
「それで、次走はどないしますか? ジャパンカップと香港ヴァーズの両睨みっすけど」
「……香港ヴァーズを予定しています。せっかくの招待ですから」
「分かりましたわ。それじゃ、次走は香港ヴァーズっちゅうことで」
「お願いします」
次走の相談を軽くして、別れる。
各々がやるべきことを、次に向けて準備すべきことをする。
(今回の勝利で、より決定的になった。しかし、それでも……天皇賞連覇の夢は、捨てられない)
(この先、どうなるかやな。少なくとも、えぇ方向には向かわなさそうや)
(……分身出来ないかな?)
一抹の不安を抱えながら。
エンペラーズカップ100年記念第132回、天皇賞・秋勝者。メジロシャーロック。シンボリルドルフ超えのG1・8勝。天皇賞春秋連覇。連勝記録を17に伸ばす。
ちなみに2着はハーツ、3着はスティルです。つか競り合いに鬼強いとかコイツの隙がマジで瞬発力以外にない。