実はこの作品、全体を通してまだ折り返しにすら到達してないんですよね。
勝ちたい相手がいる。絶対に、なにがなんでも。
そいつの名前はメジロシャーロック。とても目立つ色をしていて、人間はよく葦毛と口にしていた。
一目見た時に気づいた。コイツは強い、と本能で察した。
今まで見てきた中でダントツ。コイツ以上の奴はいないと、断言することができる。
事実、奴は強かった。
一度たりとも追い抜けたことはない。他も集まるレースで、俺はメジロシャーロックに勝てたことが一度もない。
俺の前にはいつもアイツがいて。俺のことなんて気にしてないとばかりに走る。
憎たらしい、腹立たしい。怒りが募る。
それと同じくらい──憧れる。
いつかあの次元に到達したいと、同じ領域で走りたいと。本気で願うほどに。
理由は分からない。怒りがどうして憧れになるのか、俺には全く理解ができなかった。
ただ、なんとなく思うのだ。
(アイツに、メジロシャーロックに追いつきたいと。アイツの到達している高みに、俺も足を踏み入れたいと……本気で思っている)
アイツが走っている景色は、どんなに素晴らしいのだろう、と。
純粋な好奇心が俺を刺激する。アイツを超えたいという野心が俺を突き動かす。
メジロシャーロックに追いつきたい。メジロシャーロックに負けられない。
それが俺──ハーツクライが目指す頂だ。
とはいえ、俺には何もかもが足りなかった。
考える力も、走りも、利口さも。アイツには到底及ばない。
及ばないからこそ、いつも負けている。
『クソっ、今日も負けたか……っ!』
『そりゃ俺の調整兼併走なんだから当たり前だろお前。逆にお前が勝ってどうする』
『次は負けん! 絶対にだ!』
『聞けよ人の話。いや馬だけども』
悔しさを覚え、次こそは勝つと意気込み。
そして、また負ける。
練習でも本番でも変わらない。アイツは……どこだろうと強かった。
皐月賞。アイツに追いつくどころか近づくことすら出来なかった。
日本ダービー。追いつきこそしたが追い抜くことは出来なかった。
菊花賞。ダービーで近づいた差は、一気に離されてしまった。
何度も負けていくうちに気づく。
(闇雲に挑んだところで、アイツに勝つことは出来ない。ならば、学ぶべきだ。何が必要なのかを、何を重点的に鍛えるべきなのかを)
このままじゃ、一生かかってもシャーロックには勝てないと。
俺はクラシック三冠と呼ばれるレースに全敗して、ようやく気付いた。
だから学んだ。強い相手と戦い続けて、何が必要なのかを。
その中には当然、シャーロックもいる。むしろ、アイツから一番教えてもらっていた。
『あん? スタミナ残すコツ? そりゃお前……を……して……だな』
『なるほど。だが、それだと……にならないか?』
『そうなった場合は……するんだよ。そうすりゃ……し、……もできる。取れる選択肢の幅も広がるってもんだ』
何を考えて走っているのか? 周りをどう捉えているのか?
我慢をするにはどうしているのか? どうすれば勝つことができるか?
シャーロックは隠さずに、全てを教えてくれた。
舐めている? 俺が勝てないと思っているから、アイツは舐めているのか?
(だとしたら、後悔させてやるだけだ。俺にいろいろ教えたことをな)
もっとも、シャーロックはそういう奴じゃない。
俺が聞いてきたから教えただけ。たったそれだけだ。
……まぁ、アイツの言っていることは、ほとんど分からなかったんだが。
いや、正確には分かる。分かるんだが、じゃあできるかって言われたらできない。
それほど高度なことを、アイツはやっている。
(それでこそ、俺が超えるべき壁だ。メジロシャーロックッ!)
『ねぇ、なんで俺を睨んでんの? 俺お前に悪いことした?』
『次こそは負けない。覚悟しておけシャーロック! 貴様を倒すのは、この俺だ!』
『聞けよ』
俄然燃え上がる。俺の闘志は、留まることを知らない。
学ばせてもらった。一つ一つのレースで、大切なことを。
《大阪杯を制したのはハーツクライだ! ハーツクライが大阪杯を制しました! 後方から見事に追い込みましたハーツクライ1着!》
一つレースを重ねる度に、強くなっていく実感が湧いてきた。
《大逆転だ大逆転だ! メジロシャーロック大逆転だ! メジロとしてこの盾だけは譲れない、草薙厩務員のためにもこの舞台では負けられない! あらゆる逆境と不利を乗り越えて! メジロシャーロックが春の盾を賜ったぁぁぁ! これは見事な追込勝ちィィィ!》
負けても学び、勝つための糧にする。
《これは見事だスイープトウショウ! 牝馬が夏のグランプリ制覇の偉業を成し遂げた! 宝塚記念を勝ったのはスイープトウショウだ! 最後の最後に差し切られたハーツクライ惜敗の2着!》
あらゆることから学べる。悔しさすらもバネにして強くなる。
《メジロシャーロック! メジロシャーロックだ! メジロシャーロックが天皇賞春秋連覇を成し遂げたぁぁぁ! 天覧競馬となった秋の天皇賞、天皇陛下の御前で勝利を掴み取ったのは、メジロシャーロックだぁぁぁ!!》
全てを己のモノに。その一心で、俺はレースを走り続けた。
その果てに、辿り着いた景色は。
《ハーツクライだハーツクライだ! ついにハーツクライが勝ち取ったG1の栄光! 海外の強豪アルカセットを下し! ジャパンカップを駆け抜けた1馬身差勝利! そしてなんと、芝2400mのワールドレコードを樹立! 初めてのG1勝利は、ワールドレコード2:22:0とともに! ハーツクライが初のG1制覇を成し遂げたァァァ!》
とても素晴らしいものだったと、俺は記憶している。
◇
初のG1、大舞台を制した日からさらに時が経ち。
俺は冬のグランプリと呼ばれる舞台、有馬記念に出走することになった。
昨年も出走した、が。結果は振るわなかったと記憶している。
(……まぁいい。今回勝てばいいのだから)
「ヨーシヨシ、落ち着いてるネ、ハーツ」
上の人間は嬉しいのか、俺の頭を撫でていた。
煩わしいのでやめて欲しいが、ここで癇癪を起こすわけにはいかない。
(人間に迷惑なのもそうだが、体力を消耗する。レースだけで十分だ)
腹は立つが、その気持ちは取っておく。
最後の勝負所に向けて。
……後は、そうだったな。
この舞台にはアイツがいる。
シャーロックを慕い、いつも引っ付いている、アイツが。
視線の先。小柄な体から感じる強大なオーラ。
俺の方がでかいはずなのに、向こうの方が大きいと感じてしまうほどの圧。
アイツが、アイツこそが──ディープインパクト。
シャーロックと同じ、無敗の三冠馬、と人間が話していた。
シャーロックと同じということは、シャーロック並に強いということ。
俺の心が、燃え上がるのを感じる。
(いいだろう。今の俺がどこまでできるのか、試してやろうじゃないか)
アイツと最後に走ったのは2ヶ月前ぐらいだが、それでも成長は感じている。
《有馬記念1番人気はディープインパクト! ここまで無敗、圧倒的な強さで三冠を制したサンデー産駒期待の星! 馬体に異常はなし、調子も絶好調と陣営は太鼓判です!》
《心なしか輝いているようにも見えますね。これは好走が期待できますよ》
《3枠6番での出走。このまま先輩であるメジロシャーロックと同じ、無敗で突き抜けることができるか? そうはさせまいと立ちはだかる歴戦の古馬。特にハーツクライが調子を上げてきています!》
《ジャパンカップでワールドレコードを樹立しましたからね。そのレースが評価されてか、今回の有馬記念は3番人気です》
仮想メジロシャーロックとして、挑ませてもらうぞ……ディープインパクト!
狭いゲートに入って、辛抱強く我慢して飛び出す。
まずは前の位置につける。それが俺のやるべきことだ。
(今までは後方だった。だが、前でも俺の脚を活かすことは出来る)
人間とシャーロックが教えてくれたこと。
前でも俺の末脚を発揮させる方法を、アイツらに教わった。
前で勝負するこのスタイルで、俺は勝つ。
《ジャパンカップと同じく前で勝負しますハーツクライ、現在3番手から4番手の位置。向こう正面を軽快に走ります各馬、ディープインパクトは変わらずの後方だ》
《折り合いはしっかりつけている様子。名手岳寛の手腕が光ります》
《向こう正面からまもなく第3コーナーへ。ここで一気にレースが動きます、逃げるタップダンスシチーを追う15頭! じわりじわりと追い詰めていきます!》
アイツがどこで仕掛けてくるのか?
それだけが気がかりだったが……杞憂だった。
(ッ、来る!)
気配を感じた。
後ろから上がってくる気配を、猛烈な勢いを。
凄まじいプレッシャー、前に出す足が竦むほどの圧を。
成程、ここで来るわけだな。
《ディープインパクトが上がっていく、大外からディープインパクトが上がってくる! ディープが来たぞ、ディープが来たぞ! ディープインパクトが上がってくる! 前は混戦模様っ、おっとこれはハーツクライが早々に抜け出したか!? タップダンスシチーへと襲い掛かるハーツクライ!》
『ディープインパクトォォォ!!』
無敗の三冠馬!
成程、確かに凄まじいな。
まだ離れているのに感じる。周りが止まって見えるようなスピードで駆け抜けていることだろう。
だが、しかし。
(俺も十分に脚を残している。五分以上に持ち込める!)
俺も俺で、やるべきことはやった。
後は……純粋な実力で決まる!
《第4コーナーを待たずしてハーツクライが先頭に変わりました! ハーツクライ先頭、ハーツクライ先頭! タップダンスシチーはここで陥落した! さぁハーツクライが先頭に変わって最後の直線、ディープインパクトが猛然と襲い掛かる!》
《コスモバルクとゼンノロブロイも良い位置につけていますよ! タップダンスシチーもまだまだ粘っています!》
圧が強くなる。
どんどん強く、全てをひれ伏させるような圧が。
『よーし、負けないぞー! 調子も良いから、どんどん走って行っちゃえー!』
無邪気な声と一緒に、蹂躙を開始した。
ディープインパクトの走りは純粋そのもの。
走ることそのものを楽しんでいるような、そんな走りだ。
確かに強い。
俺との差は縮まり続けている。逃げ切れるか怪しいラインまで来ていた。
底知れない実力を感じる。コイツはこのスタイルで強いのかもしれない。
なるほど。これは諦めが頭をよぎるのも無理はないな。
それだけの強さがある。これから先も、コイツは強くなり続ける。
それこそ、シャーロックのいる領域まで、だ。
……舐めるなよ。
(俺が感じてきた圧はこんなもんじゃない。全てを屈服させるような、追い抜くことを諦めさせるようなプレッシャーだ)
まだ発展途上だ。俺が受けてきた圧は、メジロシャーロックとはまるで違う。
アイツの強さはこんなもんじゃない。アイツは、もっともっと強い。
並んだ。
アイツが、ディープインパクトが隣を走っている。
《残り200mでディープインパクトがハーツクライに並んだ! ディープインパクトがハーツクライに並んだぁぁぁ! これは厳しいかハーツクライ!?》
『このままぼくが勝つよー!』
楽しそうに走って。
純粋に、勝ち負けではなく走ることを楽しんでる。
それなのに強い。楽しみながらも強い。
両立しないものを両立させている強さ。シャーロックとはまた違う才能。
あぁ、全くもって。
『調子に乗るなよガキがァァァ!』
『っえ?』
腹立たしいことこの上ない。
楽しむなとは言わない。悪いこととは思わない。
しっかり結果だって残している。文句のつけようがないはずだ。
じゃあ、何が許せないのか?
決まっている……俺自身に対する怒りだ。
異質な強さだからどうした? 俺が戦ってきた最強は、ディープ以下だとでもいうのか?
(このガキと、シャーロックが同じだと? 笑わせるなよ!!)
違う。なにもかもが違う。
アイツの強さはもっと恐ろしいものだ。全てを支配する、諦めさせるような強さだ。
俺の世代の最強は……ディープインパクトをはるかに超えている!
《ハーツクライが差し返した! ハーツクライが差し返す! ここまで末脚を温存していたのか!? ハーツクライが突き放す突き放す! ハーツクライがディープインパクトを突き放したァァァ!》
アイツの方がもっと強い。シャーロックの方がもっと強いんだ。
何度も走っている俺だからこそ分かる。
シャーロックが作り出す絶望を、支配を、全てを屈服させる圧を!
(それに比べたら、貴様程度なんでもない! この俺にっ)
『勝てると思うなよディープゥゥゥ!』
『うっ、くっ』
シャーロックの圧倒的な実力を、俺は間近で見てきたのだから。
《ハーツクライだハーツクライだ! ジャパンカップに続いてハーツクライが有馬記念を制したぁぁぁ! ディープインパクトの無敗記録はここで途切れました! 冬のグランプリ、年末の大一番を制したのはハーツクライだぁぁぁ!》
《いやぁ、凄いですね! 最後の最後でしっかり脚を残して差し切りましたよ!》
ここで負けたら、シャーロックに勝つなど夢のまた夢。
ディープに勝てなければ、シャーロックに勝つなど到底不可能。
だから俺は、ここで負けるわけにはいかない。
全てはそう、メジロシャーロックに勝つためだ。
(アイツに並んで、アイツに勝つ! その為にも、俺はもう負けるわけにはいかない!)
誰だろうと、ディープだろうと、だ。
走り終わった俺を見つめる……いや、睨む奴がいる。
『……むむむ~っ』
ディープだ。
俺に負けたのがよほど悔しいのだろう。ずっと俺を睨みつけている。
そんなアイツに対し、俺は。
『フン、この程度か。まだシャーロックには遠く及ばないな、ガキ』
『ッ! ふ、ふんだ! いいもんいいもん、ぼくもっと強くなるし! きみなんかに負けないぐらい強くなるし! いずれはシャロさんよりも強くなるし!』
『シャーロックより強くなるだと? 貴様のようなガキが? 笑わせるなよ』
『むーっ!』
煽ってやった。思いつく限りの煽りをアイツにかました。
ガキのように癇癪を起こすが、関係ない。
なんだか面白く笑えてくる。
「ディープ、落ち着いて。どうどう」
「ハハ、よっぽど悔しいみたいダネ。ハーツをずっと睨んでるヨ」
「初めての敗北ですからね。賢い子ですから、負けたのを理解しているんでしょう」
さて、シャーロックに面白い土産話ができた。
今度会った時話してやるとしよう。
史実だと絶不調だったディープだけどここでは絶好調、ですがハーツが勝ちました。いや、コイツ大分強化されてんな?