天皇賞・春はメジロシャーロックがペースを握る。
ビッグゴールドとトウカイトリックの2頭が詰め寄るが、それだけ。
マークをしているが、執拗には攻めない。
理由は一つ、息切れするからだ。
メジロシャーロックのペースに飲まれた結果、最後の直線で脚を残せないのが一番まずい。
自分の脚を溜めつつ、メジロシャーロックをどうにかして躱す。
恐ろしく難しいことだが、やるしかなかった。
勝ち筋は、これしかないのだから。
《メジロシャーロックが先頭で走ります。第2コーナーから向こう正面へ。半馬身後ろにトウカイトリック、外にビッグゴールド。2頭が追従、2頭の2馬身ほど後ろにアイポッパー、ハイフレンドフライ、リンカーン。先行勢はこの位置につけている。集団はバラけましたね》
《そうですね。各々がつきたい位置取りについた、といったところでしょうか? ここで気になるのはディープインパクトの位置ですが、これはちょっと前目ですね》
《2番人気ディープインパクトは中団の位置。後ろから5頭目といったところか。先行集団の後ろ、リンカーンの3馬身離れた位置。この位置につけているのがデルタブルースだ。デルタブルースに続きます、ナリタセンチュリー、アドマイヤモナーク。そして一番外を走っている、今日はこの位置だディープインパクト》
メジロシャーロックを削ることに集中しすぎてはいけない。
自分達が騎乗する馬の、最も得意とする場所で勝負することが重要。
そうしなければ、勝負の土俵に上がることすら許されないのだから。
レースに出走するだけで、否が応でも注目しなければならない。
無視したくても無視することを許さない。逃げ切られてしまうから。
マークしたらしたで、メジロシャーロックが作り出すペースに飲み込まれてしまう。
ペースを乱され、脚を削られ、首を垂れるように失速する他ない。
並の馬では太刀打ちどころか、近づくことすら許されないのだ。
メジロシャーロックのレースは芸術と呼ばれている。
ターフというキャンバスに自らの勝利を描く。
他の馬を意のままに操り、勝利を彩る演出として起用する。
逃げだけではない。前の位置でも、中団でも、後ろでも、最後方でも。どこだろうと勝利を目指せるのだ。
どこでも実力を発揮できる。どの位置でも勝利を掴んできた。周りを魅了するように。
だからこそ芸術。だからこそ観客は飽きない。
他と隔絶した強さを持っているからこそ、圧倒できる実力があるからこそ成立する美しさ。
メジロシャーロックのレースは、芸術と言ってもいいだろう。
そして、そのことをよく知っているからこそ。
(もう少し前につけたいけど……この位置が限界だ。これより前に出たら、ディープの追いたがりを制御できなくなる)
岳寛は歯がゆさを感じていた。
勝利を確実なものにするためには、もっと前で勝負したい。
でもできない。そんなもどかしさを。
《向こう正面を走る各馬。メジロシャーロックが悠々と逃げています。ちょっとスローペースでしょうか? 最初の1000m、通過タイムは61秒8、61秒8で通過しています。逃げるメジロシャーロック、追う12頭。マークは緩めでしょうか?》
《メジロシャーロックがステイヤーであることは周知の事実ですからね。メジロシャーロックが作り出すペースで勝負するよりも、自分達のペースを貫くことが大事だと、そう考えているのかもしれません》
《成程。向こう正面に入って落ち着きをみせます天皇賞。誰が仕掛けるか? どこで仕掛けるか。最後方はチャクラ、チャクラが最後方です》
やはり、メジロシャーロックは異次元なのだと。そう思わされている。
これ以上前に行けない、外を走っている理由は単純。
ディープの気性の問題だ。
(この中団でどうにか我慢が出来てる。これ以上はさすがに、前を走らせることができない。必ずペースを逸脱する)
前に行きたがるディープの気性。
周りの他の馬がいると、本気で走らなくなる問題。
これら2つを解決するための大外一気。
勝つために見出した最善策が、このスタイルだった。
(今でも制御でいっぱいいっぱい。多分だけど、先頭にシャーロックがいるって分かるんだろうな。シャーロックを追いかけようとしているし)
先頭を走るメジロシャーロックに追いつこうとしているのだろう。
楽しいから、嬉しいから。
それだけで走ろうとしていた。
ただ、指示を素直に聞いている。
行くなと指示したら、ちゃんと我慢してくれている。
これならばやりようはあると、気を引き締める。
ここで岳の脳内に浮かぶ、今日の作戦。
(ディープの強さを最大限発揮する、だけじゃない。いつもよりもずっと早く仕掛ける。それしか道はない)
メジロシャーロックという難敵を倒すために編み出したのは、とても策とは呼べない代物だった。
考えて考えて。考えた末に出した結論。
だが、どれだけの作戦を考えても意味はなかった。
何故なら、シャーロックほどの自由がディープにはないから。
シャーロックのように支配するようなレースはできない。
逃げでペースを守る精神性はない。
先行や差しの位置で、いろんな策を使って搦める自由さもない。
シャーロックの出来ることが、ディープにはできないのだ。
これは別に、ディープを責めているわけではない。
むしろディープは賢い方であることは、十分に理解している。
しかし、シャーロックは規格外。
自分でレースを組み立てることができる。
自分のペースを守ることができる。
そんな馬を前にして、作戦を立てようなんて無意味なことだった。
(シャーロックのレースは常に最善手。自分の実力を発揮するため、勝利のための道筋を描く。これが凄く厄介だ)
マークしても意味はない。
撹乱も何もかもが効かない。
隣で競りかけられても、最後の直線以外では動かない。
厄介極まりない。常に冷静に、自分にとっての最善手を打ち続けてくるのだから。
(……それでも、ディープが勝つにはこの方法しかない。仕掛けるべきは第3コーナーよりも手前。早仕掛けで、シャーロックを捉える!)
覚悟は決めている。
ディープインパクトの全力を、それ以上を発揮して勝つ。
岳の覚悟は決まっていた。
そして、その時が来る。
《まもなく先頭集団が第3コーナーに入ります。メジロシャーロックがじわりと上がってきた。ペースを上げるメジロシャーロック。やはり余裕のペースだったか、後続もしっかりついていくぞ。1馬身から先は離させません、ビッグゴールド、トウカイトリック》
《おっと、中団からディープインパクトが上がってきましたね。どうやらここで仕掛けるようです!》
《さぁここで動いたディープインパクト! 前も動いた、後ろも動いた! レース全体が動き始めました! 一気にペースが上がる天皇賞、まだ淀の坂だ、まだ淀の坂だ。上り坂をハイペースで駆け上がっている!》
第3コーナーの手前で、岳が手綱を動かす。
ディープインパクトが仕掛けた。
それとほぼ同時。寸分狂わぬタイミングで。
《メジロシャーロックが逃げる、メジロシャーロックが逃げる! 淀の坂をハイペースで駆け上がる! さぁここでメジロシャーロック、逃げで魅せるメジロシャーロックだ! ビッグゴールドとトウカイトリックとの差が、少しずつ開いていくぞ!》
メジロシャーロックも仕掛けた。
分かっていたかのように。ディープインパクトならばこのタイミングで仕掛けると、すべて理解していたかのように。
レース全体の流れが早くなる。
瞬間、岳は全てを察した。
(……やっぱり、君にはお見通しか。そりゃそうだ。僕だってそうする)
やはりシャーロックには、自分の作戦が看破されていた、と。
五分の勝負に持っていけると思っていたが、現実は厳しいと思い知らされた。
とはいえ、まだ負けたわけではない。
ディープインパクトの手綱を動かす。
一秒でも早く前に追いつけるようにと、鞭も入れて手綱を動かした。
もっと速く走ってもいい
やったー!
ディープインパクトの加速が始まる、なんて次元じゃない。
あっという間だった。
「っえ」
拍子抜けの声を上げる頃には追い抜かれていて。
一気に加速して前に並ぶ。
ペースをじわりと上げる馬が多い中で、ディープインパクトは。
《ディープインパクトが動きます! 下り坂で一気に加速するメジロシャーロック、葦毛の逃げ馬を捉えんとばかりにディープインパクトが一気に上がってきたぁ! さぁここで英雄が羽ばたきます! 一頭、また一頭と躱してく! 前を走るメジロシャーロックを捕まえに行く!》
《このスピードですよ! このスピードこそがディープインパクトです!》
《デルタブルースを躱した! まもなくリンカーンに追いつきます! 第4コーナーに入ったメジロシャーロック、英雄の足音はすぐそこまで来ているぞ!》
一気にトップスピードに乗ろうとしていた。
これだ。これが出来るからこそ、ディープインパクトは強い。
ステイヤーでありながら、驚異的な瞬発力を兼ね備えた規格外。
あっという間にトップスピードに乗ることができる。
それだけではない。
そのスピードを、持続することができるのだ。
瞬発力が高いのに、持続力も高い。
両立が難しいことを、ディープインパクトは両立させている。
確かにスタートは悪いかもしれない。
レースでの気性も良い方ではないし、併せられると気を抜いてしまう癖もある。
だが、悪い要素を全て帳消しにできるだけの強みがあった。
他馬とは次元の違うこのスピードこそが、ディープインパクトの神髄。
ディープインパクトをディープインパクトたらしめる、天からのギフテッド。
無敗の神メジロシャーロックに比肩する才能を持つと言われる所以だ。
ディープインパクトがあっという間に差を詰める。
第4コーナーの段階でリンカーンら先行集団を追い抜き、気づけばビッグゴールドとトウカイトリックの2頭に並んでいた。
岳の頭にあったのは、メジロシャーロックに追いつくことのみ。
(もうすぐで追いつける!)
そう思っていた岳の、目の前に見えてきたのは。
──推定5馬身は先を走っている、メジロシャーロックの姿だった
◇
岳さんの考えはなんとなく読めていた。
あの人は多分、小細工なんてしてこないだろう、と。
(そりゃそうだ。ディープは小細工ができるような、器用なタイプじゃない。どっちかというと、才能の暴力で押し切るタイプだ)
才能だけで他馬を圧倒できる。
それが出来るからこそのディープインパクトだ。
日本近代競馬の結晶と称された、サンデーサイレンスの最高傑作。
なら、俺はどうするべきか?
簡単だ。基本に忠実に、ただ淡々とレースを運べばいい。
(道中のペースはスローで。前半の1000mを61秒台で駆け抜ける)
それならば、風除けがないにしても大丈夫。
最後の直線、というよりはロングスパート。いつものことができる。
岳さんはきっと、ディープが最も強さを発揮できる舞台を整えるはずだ。
ディープが強さを発揮できる条件は? 大外から一気に捲ることだ。
やることは全て頭に叩き込んである。
(早め仕掛けで差を詰めてくる。なら、俺も早めに仕掛ける。大外から一気に上がってくる。なら、出来る限り他馬を外に振らせてロスを大きくする)
俺がロングスパートをすることで、後続はつられるはずだ。
俺のペースに着いてきている。最後に追い抜くためにも、離されるわけにはいかない。当然の道理。
第3コーナー前でペースを上げた。
コーナーでスピードを上げたんだ。よほどコーナリングが上手くない限り、他馬は外に振らされる。
馬群が膨らんだ。どうなるか?
ディープは、さらに外を回らざるを得なくなる。
馬群の合間を縫って上がってくるのは難しい。岳さん程の騎手でもだ。
そもそも、ディープの加速を最大限発揮するには大外一気しかない。
選択肢は限られているんだ。予想するのは簡単だ。
それでも、ディープならば先頭まで駆け上がってくる。
確信している。第4コーナーを回り切る頃、最後の直線を迎える頃には追いつくってな。
(確かに、加速力はあっちに分がある。瞬発力勝負で俺が勝てるわけねぇ)
じゃあ、どうするか?
これも単純。俺も加速を終えればいい。
加速に乗るのが遅いから、差は詰められる。
だが、それがどうした? 最終的に、追いつかれなきゃいいだけの話だ。
下り坂もある。第4コーナーを回り切る頃には、俺の加速は終わっている。
俺とディープのトップスピードは互角。
末脚の持続力も互角だ。唯一瞬発力だけ、俺はディープよりも明確に劣っている。
しかし──前で走る俺に、そんな不利は関係ない。
たっぷりと差をつけて走っていた。
最終的に追いつけないようにと、俺は計算しながら走っていた。
だからこそ。
《最後の直線メジロシャーロック先頭、メジロシャーロック先頭! ディープインパクト中々差を詰められない、詰められない! 3馬身から先を詰められないディープインパクト! 葦毛の馬が先頭で逃げている、メジロシャーロックが逃げている!》
これは、必然の結果だ。
◇
《メジロシャーロックが残り100mを通過! ディープインパクト追いすがる、ディープインパクト追いすがる! しかしその差は一向に縮まらない!》
《やはり強い! これが強さだ! 英雄の翼を溶かす神の威光! 探偵が解き明かした勝利の答えに死角なし! メジロシャーロックが先頭で逃げ続ける! その差は永遠に縮まらない!》
《これが強さだ、これが強さだぁぁぁ! 現役最強、世界最強馬メジロシャーロックの強さだぁぁぁ! メジロとして絶対に譲れない天皇盾! メジロシャーロックが圧巻の走りで今ッ! ゴール板を駆け抜けたァァァ! メジロシャーロック一着ゥゥゥ!》
《ディープインパクト敗れました! 先輩の三冠馬はやはり強かった! 無敗の三冠馬対決はメジロシャーロックに軍配! やはり強かったメジロシャーロック! しかし、負けて強しのディープインパクト。3着以下は大差をつけられたレース、やはりこの2頭が強かった!》
《これでメジロシャーロックは20連勝! ついに神馬にして最強の戦士シンザンを超えた! 20戦20勝、一度も負けることなく天皇賞までを駆け抜けました! この記録をどこまで伸ばすのか? どこまでお前はいけるのか!? 次の戦いが気になって仕方ありません!》
結論 最後方からぶっ飛んでこようが自分の加速を終えて同じスピードで走れば負けないよね