天皇賞が終わってから1週間ほど。
あの日の疲れも癒えたので、また調教の日々だ。
「なんちゅうか、疲労の回復もえらい早いな、ホンマに。あの天皇賞の後でもう動けるんか」
「ディープインパクトも走れるようになっていますし、本当に凄いですねこの2頭は。もうこの先ないほどの幸運ですよ、この2頭が同じ時代にいるのは」
「そら間違いないわ、俊之。てか、この2頭みたいなんがまた同じ時代に生まれたらヤバいやろ」
「違いありません。それでは、今日の調教はラインクラフトの予定ですね。向こうはヴィクトリアマイルを控えているので」
初っ端クラフトちゃんで最高と思ったのはここだけの話。
ちなみに、調教では。
『やっぱり、シャーロックさんって併せるの上手ですよね。他の子と走ったらこうはいきませんし』
『よく言われるな、それは。俺としては普通にやっていることだけど』
『わ~! やっぱり凄いです、シャーロックさんは!』
大変癒された。本当に素直で良い子である。
気性難があてがわれることが多い、というかあてがわれることしかない中での癒し。クラフトちゃんしか勝たん。
……だからこそ、だが。
(運命、変わっていて欲しいけどな。望みは、薄いかもしれない)
この年だ。ラインクラフトの結末を知っているからこそ、やるせなさと無力感を覚える。
変わったこともある。しかし、変わらなかったことも相応にある。
メジロマックイーンやラモーヌさんの死がそうだ。運命をかなり変えたのに、あの2頭の死は避けることができなかった。
クラフトちゃんも、そうなる可能性が高い。もうすぐ……いや、よそう。
(変わっていてくれ。どうか、頼む)
『どうかしたんですか? シャーロックさん。私をジッと見て』
『……いや、なんでもないよ、クラフトちゃん。それよりも走ろうか』
『はい! よ~し、頑張るぞー!』
俺にできるのは祈ることだけ。歯がゆいな。
クラフトちゃんのことばかりではない。俺も次走を控えている。
俺の次走はエクリプスステークス。またイギリスに遠征だ。
なんでも、女王陛下がまた俺のレースを見たいと口にしていたとか。プレッシャーがえぐい。勘弁して本当に。
別に女王陛下の要請、というわけではない。
というのも、元々俺のレース選びには悩んでいたらしく。
今回の話は渡りに船。こっちとしても好都合だったんだとか。
「シャーロックのこと考えるんやったら、今後は海外転戦やな。日本で走らん方がええやろ」
「そうですね。特に、最近は他の陣営も」
「しっ! 俊之、シャーロックがおるんやぞ。あんま話すべきことやない」
「……すみません。軽率でした」
ちょっとばかり気になる反応もあったが、こうして俺の次走は決まったそうな。
去年もイギリスに遠征していたし、勝手も知ってる。
ノウハウがあるから、前回よりも不安要素はないはずだ。
ローテに関しては去年と同じ。
エクリプスステークスの後、キングジョージに出走。
その後は……凱旋門賞を予定しているんだとか。
ついに来たか、凱旋門賞。
(日本馬にとっての高い壁。これまで何度も挑んでは阻まれてきた、日本の悲願だ)
世界一決定戦、なんて呼ばれている凱旋門賞。
ついに、俺もこのレースに挑むことになる。
凱旋門賞に出走することもあってか、俺は日本に戻らずそのまま海外に滞在予定。
検疫期間は長くなるが、それでも間に合うだろうと判断したみたいだ。
60日ルールの期間を超過したら、検疫期間は3ヶ月。
凱旋門賞から3ヶ月も経ったら、もう国内のレースを年内に走ることは出来ない。
つまり……凱旋門賞が、実質俺の引退レースになる可能性が高い、ってことか。
(年内限り、ってのは前に聞いた。裕二さんは、俺を今年までって決めてるって)
凱旋門賞が引退レースとは、随分と華やかな舞台を用意してもらったもんだ。
世界一を決める舞台で、華々しく勝って引退。
なんとも絵になることだろう。負けでもしたら洒落にならないけど。
こうなると気になるのが種牡馬事情。
ま、まぁ大丈夫だろ。いろいろと。
(エルコンドルパサーだって、普通に引退した翌年に種牡馬やってたし。俺も普通にやれるか。大丈夫大丈夫)
それ以外の要素については知らん。もう諦めてる。
俺の血は希少、後世に残さないといけないレベル。
血を抜きにしても、現時点で20連勝しているバケモンの血統は是が非でも残したい。
多少の無茶をしてでも、早い段階で種牡馬として第二の馬生を歩ませるはずだ。
(そこから先、産駒の成績に関しては、俺にも分からんからなぁ。どうか良い感じに走ってくれ~!)
リーディング? ディープインパクトとかいうバケモンと争えと?
アイツは走りにばかり注目してきたが、産駒成績に関してもバケモンだぞ。
ジェンティルドンナにキズナ、サトノダイヤモンドとG1馬は数知れず。父としてもやべー奴がディープだ。
そんな馬相手にリーディング争いなんて高望みはしない。
こう、なんか細々でもいいから、血統を残せればいい。
ちょっと振り返ってあ、いたんだ。みたいな感じのを希望。
俺の名、というよりは、俺の母であるメジロコナンの名を残したいから。
(俺以外の子を残せなかった母さん。そんな母さんの名前を、俺を通して知って欲しいからな)
後、メジロ存続のためには俺が活躍馬を輩出することが必要不可欠。
俺の種牡馬成績がボロボロだった場合、メジロはちょっとの延命しかできない。
それだけは避けなければ! 俺じゃどうしようもないけど。
引退しても、考えるべきことは山積みだなぁ。
なまじ、自分じゃどうしようもないことまで考えなきゃいけない。
メジロの牧場存続の道のりは、まだまだ険しそうだ。最近は業績も回復して、良い感じに盛況らしいけど。
ま、今後のことはこれくらいか。
あ、そうだ。イギリス遠征に関してだが、今回も帯同馬が着いてくる。
俺が寂しくならないようにする相手。一緒に海の向こうに渡ってくれる馬のこと。
その相手というのが。
『フン。まさか、貴様と遠征することになるとはな』
『よう、ハーツ。久しぶりじゃねぇか。向こうのレースで勝ったみたいだな、おめでとう』
『当然だ。もう、貴様以外の相手に負けるつもりはない。無論、貴様に負けるつもりもない』
ハーツだ。ドバイシーマクラシックから帰ってきたコイツが、俺の帯同馬である。
同じレースに出走するから、一緒に遠征をどうか? と話を持ち掛けたのが始まり。
向こう側も快諾。こうして俺とハーツのイギリス遠征が決まったわけだ。
やたらとライバル視されているが、別に仲が悪いわけではない。
それなりに一緒にいるし、リラックスすることもある。
なにより、俺への対抗心からハーツの調子も上向くのだ。これほど最適なパートナーもいない。
『海外のレース。去年貴様は勝ったらしいな? つまり、貴様には向こうでの経験がある』
『別の場所だけどな。まぁあるっちゃある』
『俺の方が不利なのは間違いない。だが、俺は負けん。必ず貴様に土をつけてやる』
今もこうして、闘志をメラメラに燃やしているからな。
随分と好かれたもんで。悪い気分じゃねぇけど。
『貴様に何度でも挑んでやる。負けても挑む、勝手も挑む。何度でも何度でも、貴様を相手に俺は走る』
『そこまで執着されると逆にこえーよ。気合い入れすぎだろ』
『フッ、それだけの気概でいく、ということだ。覚悟しておけ……俺は、必ず貴様に勝つ』
なんかその執着が怖いけど。
俺、大丈夫だろうか? 割とマジで。
……でも、正直なところ、かなり嬉しかったりする。
何回だって挑むと、俺に挑戦すると言ってくれるハーツの言葉は、かなり嬉しい。
(最近じゃ、俺に挑む奴は少なくなってきた。それどころか、元々勝つ気のない相手も増えてきた)
俺に勝とうとしてくれる。
それが、なんて嬉しいことか。
俺だってバカじゃない。
ファンの声と、それ以外の声が違ってきていることなんて、勘づいている。
ファンは俺をちやほやしているが、競馬関係者はそうじゃない……ってことには。
別に責める気はない。
そりゃあ、俺みたいな奴を相手にしたくはない。俺だって嫌だ。
現役20連勝。日本どころか世界を相手に勝ってきた馬だ。
回避するのが当たり前、戦うことすらバカらしい。
その気持ちは、十分すぎるほど理解できるから。
(イクイノックスや、カーインライジングと一緒だ。そもそも戦おうという気すら起きない、そんな怪物。俺もその怪物達に、並んでしまっている)
タチの悪さでいえば、今挙げた2頭よりも酷い。それが俺だ。
偶然、本当に偶然だが聞いたんだ。
俺について話している、他厩舎の人間の会話を。
「にしてもな~、やっぱりヤバいよねメジロシャーロックは。あんなの誰も勝てるわけないよ」
「元のレーススタイルが強いのに、差しでも追込でも勝てる。挙句の果てに、囲まれても勝てるって証明しちまったからな」
「それだけじゃないよ。去年の春天、覚えてるでしょ? 出遅れて、掛かり散らかしても勝った。本当、どうしたら勝てるって話題は持ちきりだよ」
「こうは言いたくないけどさ……馬主の人達が回避を選ぶの、納得するよな。だって勝てるビジョンが見えねぇもん、あんなの」
多分だけど、休憩中だったんだろう。
誰にも聞かれていないと思っていた。周りに他の人間はいなかったから。
馬の耳は良い。離れた位置の会話でも、聞こえてしまう。
「海外でも出走回避を選ぶ陣営が増えてるって話、聞いてる? 凱旋門賞も、躊躇する陣営が多いんだって」
「あ~、メジロシャーロックが出走するから?」
「そう。名誉や誇りを捨てることになっても、シャーロックと戦うことを選びたくない。それが向こうの考えみたい」
「それだけの強さだから嬉しいけど……さすがに、そこまで行くと可哀想だよな。エクリプスステークスやキングジョージも、無事に開催されるのかね?」
「どうだろう? でも、女王陛下が見に来るみたいだから、数は集まると思うよ? それに、ハーツクライも出るみたいだし。どちらにしても、さすがにシャーロックが可哀想になってくるね」
聞きたくないことでも、な。
俺と戦うことを拒否する陣営が増えている。
今回の春天以降、特にその傾向が強くなった。
理由なんて一つしかない。ディープインパクトに勝っちまったからだ。
ディープインパクトも十分バケモノ側だった。同世代に敵がいないのは勿論のこと、アイツに土をつけたのはハーツだけ。
ド派手で、華があるスターホース。日本近代競馬の結晶とまで言われるんだ。誰もがその強さを認めている。
そんな相手に対して、俺は3馬身差で勝った。
レース内容も、文句の付け所がない完勝。まさしく実力差を見せつけた、と言っても過言じゃない。
そんな相手と、戦いたいと思うか?
無理だ。賞金を積むにはいいかもしれないけど、まず相手にしたくない。
慈善事業じゃないんだ。レースに出すからには勝ちたいと思うのが馬主心。自分の馬が負けて、嬉しい馬主なんてどこにもいない。
しかも、よりにもよって俺はファン人気が高い。
仮に負かしでもしたら……その先は、絶対に地獄だ。
(謂れのない誹謗中傷、陣営に対する批判。想像もしたくねぇ)
ミホノブルボンの三冠を阻んだライスシャワー。ペースを乱したとして批判されたキョウエイボーガン。
ディープインパクトを最初に負かしたハーツクライも、良い顔をされなかったと聞く。
もう言い逃れできない。俺はすでに、あのオグリキャップにすら比肩するレベルのアイドルホースになっている。
ちょっとのことがニュースになり、記者は血眼になって俺のことを取材しに来るんだ。
有名だから、金になるから、人々が求めるから。
市民のためという大義名分。そのためなら、アイツらは平気で他の馬を貶す。そういう人種だから。
俺が負けでもしてみろ。絶対に大変なことになるぞ。
そして大変だからこそ、他の陣営も尻込みする。
(俺の勝ち負けが、今後を左右するほどのレベルになっている。勝っても負けても、待っているのは地獄みたいな光景。相手になんて、したくないよな)
旨みがないんだ。俺を相手にして、良いことよりも悪いことばかりが目立つ。
戦う気持ちなんて、削がれるだろう。
結果、さっきのスタッフさん達みたいな考えが増えてきた。
俺と戦うことを回避する陣営の増加。その波は、海外にも広がっている。
いや~、強くなりすぎちまったな!
これも全部、岳さんとか康夫さん達のおかげ!
強くなりすぎてすいませんね、本当!
(……なんて割り切れたら、どんだけ楽だったか)
割り切れないから、こうして悩んでしまう。
ファンは俺のレースを心待ちにしているけど、陣営はそうじゃない。
陣営は戦いたくないけど、ファンは俺が戦う姿を望んでいる。期待している。
(俺自身、走るのがすごく好きだ。レースも、最近楽しくなってきた。強い相手と鎬を削るのが、とても楽しかった)
だけど、だけど……やっぱり、俺は走らない方がいいんじゃないか?
そう思わずにはいられない。
決めるのは裕二さん達とはいえ、だ。
俺だって、叶うならばずっと走りたい。
強い相手と走って、レースを楽しみたい気持ちはある。
でも、周りはそうじゃない。
俺と戦うことを、拒否するほどに嫌がっている。
俺が出るレースを、回避する選択を取っているんだ。
だから、引退するのは仕方ない。戦う相手が、いないのだから。
走るのが楽しくても、レースでバチバチに火花を散らすのが楽しくても。
相手がいなけりゃ、走ることすらできないんだ。
だが、ハーツは違う。
ハーツは今、俺に何度でも挑むと言った。
勝つまで挑戦すると。勝ってもまた戦いに来ると。
(……嬉しいこと言ってくれるな、コイツ)
ぶっちゃけ、レースで走るのを決めるのは陣営だ。
ハーツの思いは関係ない。無情だけどな。
けど、言われるだけで嬉しいもんだ。こういうのはな。
俺と戦ってくれる相手がいる、走ってくれる馬がいる。
それだけで、少しは救われた気分になる。
(ディープを強く追い返さないのも、同じだ。アイツは俺に懐いてるし、ずっと走ってくれるから)
『……なんだ? シャーロック。嬉しそうだな、貴様』
『ん~? そうか? ま、ちょっとな。とりあえずどうするよ? 走るか?』
『構わん。進化した俺の走りを、貴様に思い知らせてやる!』
『いや、軽くだからな? そこちゃんと分かっとけよお前』
この付き合いは、大事にしないとな。
いろいろとあるが、俺は問題ない。
上手くやれている。もうすぐイギリス遠征だ。
俺の勝利を願っているファンがいる。向こうのファンも、俺が来ることを期待している。芸術のようなレースを、待っている。
だから、頑張らないと。
主人公だってナイーブになることはあるさ。