エクリプスステークス
| 枠順 | 馬名 | 牡/牝 | 人気 |
| 1 | メジロシャーロック | 牡5 | 1 |
| 2 | ハッタン | 牡4 | 9 |
| 3 | デイヴィッドジュニア | 牡4 | 3 |
| 4 | オージールールズ | 牡3 | 4 |
| 5 | ノーテーブルゲスト | 牡5 | 7 |
| 6 | スノクアリミーボーイ | 牡3 | 8 |
| 7 | ノットナウケイト | 牡4 | 6 |
| 8 | ウィジャボード | 牝5 | 2 |
| 9 | ブルーマンデー | 牡5 | 5 |
| 10 | ロイヤルアルケミスト | 牝4 | 10 |
◇
7月8日、イギリスのサンダウン競馬場は、熱狂に包まれている。
《集中的にマークされている、メジロシャーロックがマークされている中、悠々と進みます。コースのど真ん中を走るメジロシャーロック、我が道を行きます。ロイヤルアルケミストにハッタン、ウィジャボードが徹底マーク。デイヴィッドジュニアも加わっているか? メジロシャーロックやはり警戒されています》
声を出しているわけではない。
それでも、視線は熱を帯びている。
ある一頭の競走馬に。再びこの地に帰ってきた、葦毛の馬に注がれていた。
メジロシャーロック。日本の競走馬で、昨年イギリスに突如として現れた大スター。
たった2走でイギリス国民の心を鷲掴みにし、虜にした。
「おぉ、やはり素晴らしいレース運びだ。あれほどマークされているというのにっ」
「全く問題にしていないわ。むしろ、あの包囲すらも想定内、ってところね」
「じりじりと、包囲網を抜け出す算段を立てている。シャーロックとタケのコンビなら、それくらいのことはやってのけるさ」
芸術的なレース運びに、気品のある馬体。
思わず応援したくなる馬生と、何から何まで話題性は抜群だった。
傍から見たら、メジロシャーロックは不利を背負わされている。
マークが集中した結果、包囲されるような形になっており、抜け出すのに手間取る状況だ。
あのまま続けば、メジロシャーロックは抜け出せずに負ける。並の馬ならば絶望的なシチュエーションだ。
もっとも、包囲されているメジロシャーロックは──並の馬ではない。
《最後の直線コースに入ります。直線コースに入ってメジロシャーロックが包囲網を抜け出した! 鮮やかに抜け出した、包囲などなかったと言わんばかりに抜け出した! なんと素晴らしい手口、前を走っていたブルーマンデーを躱して、メジロシャーロックが先頭に立った! ウィジャボードが追いかける!》
事実、なんでもないように抜け出してきた。
拍手を送る観客。
やはりか、と項垂れる調教師。
最後の勝負所で、正反対な反応を見せていた。
とはいえ、調教師達が項垂れるのも仕方はない。
包囲されていたメジロシャーロックが、いともたやすく抜け出したとなれば、絶望するのも仕方はないだろう。
おまけに、最後の直線で先頭に立った。
これがなにを意味するか? 分からない調教師達ではない。
「終わりだ、もう」
「この状況で打てる手などない」
「後はただ、メジロシャーロックにされるがままだね」
天を仰ぎ、それでもなお自分達の管理馬を信じて、レースを見守るしかなかった。
包囲されていたメジロシャーロック。
どうやって抜け出すことができたのか?
理屈自体は簡単だった。
(秋天で懲りたからな。絶対に囲まれんように、最内のポジションはハナから捨ててる)
まず、最内だけは絶対に走らないようにと決めていた。
一番囲まれたらまずい場所、抜け出すことが不可能に近くなる。
秋天で一度経験したからこそ、このポジションだけはダメだと覚えていた。
だからこそ、真ん中を選んだ。
真ん中を走り、マークする相手が走る場所を散らした。
(これなら、半分以上がマークしてこない限りは囲まれない。もし囲まれたとしても、やりようがある)
マークされることが分かっているなら、それを考えてレースをするだけ。
囲まれることすらも想定して、レースメイクをする。
そして実際に囲まれても……ペースを支配しているのは自分だとばかりに動き続けた。
様々な技術を駆使して、包囲網に穴を空ける。
《メジロシャーロックが先頭で走ります、残り1ハロン! ウィジャボードが追い縋る、ウィジャボードとデイヴィッドジュニアが突っ込んできました! メジロシャーロックとの差を詰めてくる、詰めてくるっ、が! メジロシャーロック追いつかせない! メジロシャーロック1馬身のリードを保ったままだ!》
無論、相応に疲れる。
囲まれていた上に、包囲網を抜け出すためにそれなりの無茶をした。
スタミナの消耗は避けられない状況だった。
それでも、最後の直線を走り切るだけのスタミナは残してある。
しっかりと計算し、時には前を走る馬を風除けとして利用して、スタミナの温存に努めた。
(へっ、これでも学習してあるんでねっ! あの時よか、スタミナは残ってんだよ!)
これも過去の経験から学んだこと。
苦い思い出が、受けた苦渋が。
メジロシャーロックをさらに強くしたのだ。
《ウィジャボードは陥落、ウィジャボードは陥落だ! デイヴィッドジュニアが単身追いかける! しかしこれは届かない届かない! やはりメジロシャーロックだ! 我らが名探偵には、すでに勝利の道筋が見えていた! メジロシャーロックがエクリプスステークスを制したァァァ! 圧巻の2馬身差勝ちぃ!》
結果、エクリプスステークスを2馬身差で勝利する。
英国遠征の初戦。昨年も制したこの舞台を、なんでもないように勝ってみせた。
海外遠征で苦戦する馬は多い。日本はおろか、欧州の馬も例外ではない。
気性に輸送の問題、現地の異なるレース観に戸惑うことが多く、勝つことは至難の業だ。
事実、日本も多くの馬が阻まれてきた。結果を残すことができず、惨敗するのも珍しくない。
そんな問題を、何の障害でもないとばかりに勝つのがメジロシャーロックである。
気性? 騎手の指示に従順かつ、暴れることなんてほぼない。
輸送? 今まで苦にしたことがない。今回の遠征でも、ケロッとしていた。
レース観? むしろ自分のペースに巻き込み、現地の芝にも対応し切っている。
なにもかもが意味をなしていない。
不利な条件がどれだけ重なろうとも、メジロシャーロックは万全の状態で走ってくる。
そんなこと、一年前から分かっていることだった。
拍手を送る観客。
「おかえりメジロシャーロック! 素晴らしいレースだったよ!」
「次のキングジョージも、楽しみにしているわ」
「今回の遠征も楽しんでくれ! 君達の旅路に、祝福があらんことを!」
誰もがメジロシャーロックを賛美し、次のレースに期待を膨らませる。
サンダウン競馬場に集まったほぼ全ての観客は、メジロシャーロックに釘付けだった。
……だが、それはファンの話。
「分かっていたことだが、やはり隙がないじゃないか」
「あの馬に弱点はない。相変わらずの完璧さだ」
「全てにおいて完成されている。並の馬どころか、トップクラスの馬だろうと対処不可能だ」
当たり前だが、調教師側はたまったものではない。
がっくりと項垂れ、現状の絶望さに頭を抱えていた。
今回のレースで分かったことはいろいろとある。
その中でも特に大きいのは、包囲網が全くの無駄であることだ。
つまり、ラビット等をけしかけても無意味。
それどころか、逆に利用されかねない。何をしても意味がないのだ。
昨年のレースから、ある程度の強さは分かっていた。
しかし……メジロシャーロックは、あの時よりもさらに進化している。
「真っ向勝負はダメ、包囲網もダメ、徹底マークもダメ……ハハ、何をすれば勝てるってんだい?」
「……無理だな。ウチの有力馬はもう引き上げる。あの馬には勝てないよ」
「元よりキングジョージに出走する気はなかった。だが、今回のレースでわずかな可能性も0になった。走っても勝てないんだ。当然の判断だと諦めてもらうしかない」
心が折れても、仕方なかった。
現時点における世界最強の競走馬。
そんな相手と走れるのは栄誉あること、枠が空いているなら出走する。
0ではないだろう。いるかもしれない。
だが、大半の陣営は同じ気持ちだ。
出走しても勝てない。1着が決まっているレースに、意味を見出すことができない。
管理しているお手馬を、馬主の大事な馬を。
負けると分かっていながら出すことなど。出来るわけがなかった。
メジロシャーロックがいるならば回避を選択する。
そう考えるのは、自然なことだった。
エクリプスステークスを制したメジロシャーロック。これで二連覇達成である。
本当なら喜ばしいことだ。両手を上げて喜ぶことだ。
しかし、歓喜の裏側で少しずつ……メジロシャーロックを蝕み続ける結果となった。
◇
エクリプスステークスが終わってから数日。
メジロシャーロックの様子は。
「今日も問題あらへんな。いやしかし、ホンマに回復が早いやっちゃ」
「そうですね。もう走り回れちゃうんですから。凄い子ですよ」
問題なし。今すぐにでもレースに出走できる、そんな状態だ。
「調教も、ハーツクライと一緒にやれとるからか調子がえぇ。こら、キングジョージ連覇はいただきかもしれんな」
「……そうは言いつつも、やっぱり気が気でないとか?」
「当たり前やろ柏崎! もう、もうごっつ震えとるわ! これで21連勝……一戦一戦がもうヤバいねん!」
調教師である生江康夫は、胃が痛くて仕方ないが。
遠征に着いてきている柏崎は、調教師の様子に苦笑いを浮かべている。
気持ちはとてもよく分かるからだ。
自分が同じ立場になったら死ねる。そう考えていた。
ちなみに、今回の遠征で着いてきたのは昨年も担当していた柏崎厩務員である。
草薙厩務員が復帰したのにどうしてか?
その理由は、あまりにもシンプル。
「草薙さん、英語喋れませんもんね。フランス語はもっと無理ですし」
「そらまぁ分かっとったことや。やからアイツやのうて、柏崎に声かけたんやし」
「最後まで怨嗟の声をまき散らしてましたね、草薙さん」
こっちの言葉を喋れないかつ、柏崎厩務員はペラペラ喋れるから。それに尽きる。
なお、担当を外されることを知った草薙厩務員は。
「シャロォォォ! 俺を置いていかないでェェェ!」
と、最後まで駄々をこねていた。
そんな草薙厩務員の姿を見て、メジロシャーロックは冷めた目をしていたとかしていなかったとか。
遠征の間にもいろいろあった。
ディープインパクトが宝塚記念を7馬身差で圧勝したり。
イギリスの女王陛下が直筆の手紙をメジロシャーロック宛に送ってきたり。
「今思い出しても心臓がきゅう、ってなるわ。ホンマにえらいこっちゃやで」
「私達全員飛び上がりましたもんね」
とんでもないことが起きているが、もうそういうもんだと諦めて受け入れることにした。
そしていざ遠征へ。
こちらの厩舎も受け入れ態勢は万全であり、さながらVIP待遇のような扱いを受けていた。
ハーツクライも同様の待遇である。最初こそ興奮気味だったハーツクライだが、VIP扱いに満足したようだ。
体調も問題なし。仕上がりも絶好調。
鞍上にも岳寛が戻って、完全な状態での出走となったエクリプスステークス。
結果は、2馬身差の快勝。着差以上の実力を見せつけた、と紙面では評されていた。
「相変わらず、な~んも問題にしてへんで~、みたいに勝つわな、シャーロック。勘違いしそうになるわ」
「凄い馬ですよね。シャーロックみたいな馬に携われて、私一生分の幸運を使い果たしちゃったかもです」
「そんなん俺もや。調教師人生で1回あるかないかの馬が、2頭もやで? 神様に感謝……したいんやけどなぁ」
結果と人気に関しては好調と言ってもいいだろう。
数値や周りからの声で、明らかになっている。
しかし、それだけではない。良いことばかりではない。
康夫が深い溜息を吐きたくなる事情が、今の欧州競馬界には広がっている。
その事情というのは、レースの回避。
「凱旋門賞、また回避を仄めかす陣営が出たらしいわ。シャーロックが出るんやったらウチは出しませんで~、ってな」
「また、ですか。これで何件目でしょう?」
「5件目。登録数は多いし、まだ出走する気でおる陣営は0やない。けど、このペースやったら怪しいかもしれん」
キングジョージではなく、秋の凱旋門賞。
世界一を決める舞台として有名なレースを、回避する陣営が後を絶たなくなっていた。
理由は語るまでもない。メジロシャーロックが出走するからである。
世界最強の競走馬。2005年度のレーティングはぶっちぎりトップの138*1。対象レースはキングジョージである。
今回のエクリプスステークスも、高レーティングがつくこと間違いなし。
キングジョージに関しても、シャーロックがどのようにして勝つか? だけが注目されている現状だ。
欧州はメジロシャーロックの強さをよく知っている。
それどころか、エクリプスステークスでさらに進化している姿を見せつけられた。
もはや隙はなくなった。それが調教師達の見解である。
そんな馬を相手にしたいか? 負けると分かっていて、お手馬を出したいか?
答えは、Noだ。
「気持ちは分かるわ。痛いほど分かる。俺かて、同じ立場やったら出走させるん躊躇するしな」
「康夫さん……」
「ディープの金古さんにもな、凱旋門賞どうか? って声かけたんや。本来やったら、ディープもキングジョージも予定しとったからな。返答、なんやったと思う?」
黙って首を横に振る柏崎。その先の言葉は、なんとなく予想がついていた。
「シャーロックがおるんやったら、無理やて。天皇賞で思い知らされた言うとったわ。世界の壁っちゅうやつを」
「……でも、シャーロックが特別強いだけで」
「そんなん、金古さんもよう分かっとる。分かっとるはずや。でもな」
乾いた笑いを浮かべる康夫の表情で、全てを察していた。
「主戦騎手やなかった、ディープの体調は万全やった、なにもかもが上手くいっとった……それでも、結果は完敗や。そら、心にクるわな」
「それ、はっ」
「俺かて驚いてんねん、天皇賞の結果は。まさか、完勝までするとは思わんかったから」
元々、ディープインパクトは脚質的に不利であることは分かっていた。
それでも、好条件が整っていた。非凡な才能から、勝てるのではないか? と期待をしていた。
その結果が……3馬身差の完敗である。
「ディープは国内集中、そんまま引退や。海外レースは使わん、そう言うとった」
「……シャーロックに、心を折られた、と」
「そこまでは分からん。やけど、あれほど完成された馬に絶望しとっても、不思議やないな」
ディープですら敵わなかった。
この事実が、あまりにも重くのしかかる。
海外遠征に乗り気だったオーナーが、諦めるくらいには。
もはや、メジロシャーロックをまともに相手どろうとする陣営はないに等しい。
それだけの強さを、発揮してしまった。
「……可哀想なやっちゃな。シャーロックはただ走っとるだけやのに、どんどん離れていってもうてる」
「絶対の強さが、シャーロックを孤独にしている」
「ホンマに、恨みたくなるわ。どんだけシャーロックを孤独にしたら気が済むねん、ってな。母親喪って、親代わりも喪って。父親も喪ってもうた。これ以上、なにを取るっちゅうねん」
少しずつ、シャーロックは孤独になっていく。
だが、それでも。
まだ挑もうとしている陣営は、いた。
「やから、ハーツは最後の砦かもしれん。ハーツの陣営は、シャーロックに勝つ気でおる」
「気合い、凄く入ってましたもんね。ロメール騎手も、絶対に勝つ、って」
「せや。ハーツはな、クラシックからず~っと戦ってきたんや。シャーロックのことはよう知っとる」
ハーツクライ陣営だ。
帯同馬として、一緒にキングジョージに挑むライバルとしてきたハーツは、シャーロックに勝とうとしていた。
やる気が漲っている。
調教も真面目に取り組み、好タイムを連発している。
鬼気迫る、とでも言うべきか。鬼を宿そうとしている。
(あの気迫は、ライスシャワー以来や。本気で勝とうとしとる。キングジョージで、全てを出し尽くすことになってもえぇ、って程に)
康夫は身震いした。
ハーツの調教風景は、かつてメジロマックイーンを倒したライスシャワーを思い出すようなものだったと。
ならば、やることは一つ。
「俺らも万全に仕上げるで。万が一にも、シャーロックを負けさせんためにも。万全の態勢を整えるんや」
「はい、テキ! 餌も奮発してあげないと!」
「せや、しっかり食わしとき!」
こちらも負けじと、最高の仕上がりで相手をする。
それだけだ。
こっちでも回避される模様。悲しいね。