イギリス国民は口にする。
「ついにこの日がやってきた」
世界中の競馬ファンが口にする。
「上半期の最強が決まる戦いだ」
誰一人として例外なく、心が昂っている。
興奮が抑えきれない。この日をずっと待ちわびていた。
家族と過ごす誕生日のように。年に一度のお祭り、特別な日であると。
例年以上に盛り上がりを見せていた。
7頭の馬がアスコット競馬場に集う。
選ばれた精鋭たちが、世界中から集まった強豪が一堂に会する舞台。
キングジョージ6世&クイーンエリザベス・ダイヤモンドステークス。
イギリスのアスコット競馬場で開催される、欧州の上半期最強決定戦。
その舞台の日が、やってきたのだから。
◇
キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス
| 枠順 | 馬名 | 牡/牝 | 人気 |
| 1 | エレクトロキューショニスト | 牡5 | 4 |
| 2 | ハーツクライ | 牡5 | 3 |
| 3 | メジロシャーロック | 牡5 | 1 |
| 4 | ハリケーンラン | 牡5 | 2 |
| 5 | エンフォーサー | 牡4 | 5 |
| 6 | チェリーミックス | 牡5 | 6 |
| 7 | マラーヘル | 牡5 | 6 |
◇
アスコット競馬場の客入りは例年以上。
好天に恵まれる中、発走の時を今か今かと待ちわびる観客。
「ついに来たわね、この日が」
「前回のレースから待ちきれなかったよ。メジロシャーロックのレースがね」
「さぁて、今回の名探偵は、一体どんな名推理を披露してくれるのかな?」
そのほとんどが、メジロシャーロックに対する応援だった。
21連勝を記録している、世界最強の競走馬。
日本だけに留まらず、イギリスでも凄まじい人気を誇っている。
輝く葦毛の馬体に、国民は釘付けになっていた。
否、国民だけではない。
「調子良さそうね、メジロシャーロックは。今日のレースは観に来れて、本当に良かったわ~」
女王陛下。イギリスのトップも、今回のレースを観戦に来ていた。
無表情のボディガードとは裏腹に、目を子供のように輝かせ。
視線は一頭の競走馬へ。メジロシャーロックへと注がれている。
「楽しみだわ。今回のレースは、一体どのようなものになるのかしら?」
女王からも期待されていた。
視線は観客だけではない。
今回対戦する相手、騎手からも集中している。
(本当に、どうやって勝ったものか?)
(映像で確認したけれど、全然隙が無いね。まさにパーフェクトだ)
会場中の視線を独り占めしていた。
その中で一際鋭い視線を向けるのは、ハーツクライに騎乗する騎手。
ロメール騎手。日本にも短期で来たことがある、フランスの若手だ。
メジロシャーロックの馬体をじっくりと観察する。
余すことなく。少しの粗も見逃さないように。
(……完璧、ダネ。本当に、嫉妬しそうになるくらい完璧ダ)
「寛さんが羨ましいヨ。あんな馬に騎乗できるなんてネ」
見つけられなかったのか、溜息を吐くことになったが。
それも一瞬のこと。すぐに顔つきを変え、戦う戦士の目へと。
標的を定め、勝つことに集中し始める。
(やれるだけのことはやっタ。今日がメジロシャーロックの、敗北の日ダ)
絶対に勝つと、完璧にして最強の競走馬を負かすと。
心に誓っていた。
秋天で初めてシャーロックに対峙した日のことは、今でも覚えている。
ハーツクライが悔しそうにしていたことも、全部だ。
気性の荒いハーツクライが真面目に調教を受けている姿。
勝利のためにと努力を重ねてきたことも、レースを重ねるごとに闘志が滾っていくのも知っている。
ディープインパクトは下した。後は、メジロシャーロックだけだ。
メジロシャーロックさえ倒せば、ハーツクライこそが最強馬として君臨することになる。
(ハーツクライの素質は一級品。それこそ、シャーロックにだって負けなイ)
ロメールはハーツクライを信じている。
シャーロックにだって負けはしないと、本気で思っている。
漲る闘志はこの時のため。
鬼を宿したと言わんばかりの気迫は、キングジョージ制覇のため。
極限までそぎ落とした肉体は、メジロシャーロックを下すため。
全てを懸けて、ハーツクライと陣営はこのレースに臨んでいる。
(追い切りでモ、好タイムを記録シタ。なによリ、あれだけ頑張ったんダ)
「全てはこの時のため二。勝とウ、ハーツ」
ならば、後は自分が結果を出すだけ。
ロメールはハーツクライの首を撫で、気合いを入れていた。
対するメジロシャーロックは、いつも通りだ。
闘志はいつも以上に溢れているが、興奮しているわけではない。
コントロールし、静かに時を待っている。
静かに、それでいて燃えるものを感じ取ったのか。
岳はふっと笑い。首を撫でた。
「気合は十分だね、シャーロック。それじゃあ、今日もいつも通り──勝ちに行こう」
「ブルル(おうよ)」
その目に見据えるのは勝利のみ。
誰が相手だろうと関係ない。
いつもの実力を発揮するだけだ。
返し馬が終わり、出走馬がゲートへと入る。
《ゲート入りが進みます。アスコット競馬場、キングジョージ6世&クイーンエリザベス・ダイヤモンドステークス。芝12ハロン、天候は晴れ、馬場状態はGood to firm*1の発表です。最注目はやはり、3番枠のメジロシャーロックでしょう。21連勝中の世界最強馬。その記録を伸ばすため、キングジョージの謎を解き明かしに来ました》
興奮が抑えきれない観客。
中には紳士・淑女にあるまじき振舞いをしそうになる者がいそうなほどだ。
それだけ、今回のレースを楽しみにしている。
鋼の理性で堪える観客。
《立ちはだかるは世界から集った精鋭。昨年の凱旋門賞馬ハリケーンランは4番枠からの出走。日本からきたもう一頭、メジロシャーロックのライバルでドバイシーマクラシック覇者ハーツクライは2番枠。ドバイワールドカップ覇者エレクトロキューショニストは1番枠。内側に有力馬が固まっていますっと、ここで今、大外枠のマラーヘルがゲートに収まりました》
最後の馬がゲートに入り、まもなくその時がやってくる。
一秒、二秒。
永遠にも感じられる待ち時間。
静寂の空気を切り裂いて──ゲートが開く。
同時に、7頭の馬が一斉に飛び出してきた。
遅れはない。揃った綺麗なスタート。
《態勢が整って今っ、スタートしました! 始まりました伝統の一戦キングジョージ。芝の最強馬決定戦が今幕を開けました! 揃って綺麗なスタート、ペースメーカーはやはりメジロシャーロックか? いや、これはハーツクライも行くっ、エレクトロキューショニストも行く! ハリケーンランも行きます、違います! これは全馬行きます!》
綺麗なスタートを切って、全員が我先にとハナを奪いにいった。
異様な光景だ。
序盤の下り坂を一気に駆け降りる7頭。
我先にと、先頭は譲らないとばかりに競っている。
これには観客も疑惑の目を向けた。
「いつもと違うわね。どうしたのかしら?」
「分からない。一体、どんな意図があるのか」
「おそらく、メジロシャーロックを対策に来ているんだろうが」
騎手の意図が読めない。
どんな考えで、どれだけの勝算を持って作戦を立てているのか。
全くもって見当がつかなかった。
とはいえ、全員が行く素振りを見せるならと。
メジロシャーロックは控える素振りを見せた。無理に行く必要はないという判断だ。
《まだ無理をする段階ではない。メジロシャーロックは控えます。先頭に立つ勢いは外から上がるチェリーミックス、チェリーミックスがハナを奪いました。団子状態で進むレース、チェリーミックス、最内エレクトロキューショニスト、マラーヘル、ハリケーンラン、エンフォーサー、メジロシャーロック、ハーツクライと続きます》
だが、シャーロックが下がったのと同じタイミング。
ハーツクライも下がった。
シャーロックと同じだけ、ぴったりと横にくっつく。
「……そう来るつもりか」
それだけで、ある程度の意図を察した岳寛。
瞬間の迷い。一瞬で判断を下す。
(そっちが競り合う気なら、いいよ。こっちも付き合ってやろうじゃないか)
ハーツクライは、メジロシャーロックととことん競り合う気だ。
そう考えた岳寛は、望むところだと手綱を握り締める。
小細工は使わない。というより、使う必要がない。
無理に体力を消耗するよりは、このままのペースを維持。
本当の勝負どころが来るまで、温存しておくべきだ。
撹乱はしない。無駄な体力の消耗は避けるべき。
ひとまずはスウィンリーボトム目がけて走る。最初のコーナー、その時まで。
《スウィンリーボトム目がけて走る7頭、先行争いはまだ続いています。チェリーミックスがハナを握る、エレクトロキューショニストの前に出るマラーヘル。ハリケーンランはどうか? ハリケーンランはちょっと抑えるか。エンフォーサーが前に出ます。最後方はメジロシャーロックとハーツクライの2頭だ》
じっくりと、機会を窺っていた。
◇
……やべぇな。
(ハーツの気合が尋常じゃねぇ。隣を走ってるだけで、めちゃくちゃ圧がある)
今まで受けたことがない、ハーツのプレッシャー。
これまでのレースで、一番と言ってもいい。
俺を徹底的にマークするつもりなんだろう。
俺の動きに合わせようとしているのだから。
普通、そういうのは難しいはずなんだが。
(標的を俺だけに絞って、なおかつやる気の発生源だからこそ、か。この徹底マークは)
前で走るのではない。
後ろで追いかけるのでもない。
隣だ。
闘争心を一番刺激される隣を走って、ハーツは俺をマークしている。
絶対に逃がさないとばかりに。
こうなると、かなり厄介だ。
(じわりと突き放すこともできない、意識外で仕掛けることもできねぇ。成程、効果的じゃねぇか!)
俺の前を走るんだったら、誰かを壁にして抜け出すことができる。
俺の後ろを走るんだったら、気づかないようにペースを上げて出し抜くことができる。
だが、隣ってなるとそうはいかないか。
(些細な動きも見逃さない、ってばかりに見てくんな、向こうの騎手。さすがはロメールさんだよ!)
ハーツの気性を抑えつつ、俺達の動きを封じる。
下手に仕掛ければ自滅一直線。負けることが確定的になる状況だ。
アスコットの舞台で消耗戦を仕掛けるか?
最後の直線で末脚を爆発させる方法を取るか?
(選択肢はかなり限られてくる……どこで仕掛けるか、ってのが肝だ)
一秒一秒で変わる状況の中、最適解は何かを考える。
周りの状況を考えつつ、隣で尋常じゃないプレッシャーを放つハーツの相手をし続ける。
つか、マジでやべぇな。
精神的に削られ続けている。いつもは苦にしねぇのに、今回ばかりはそうも言ってられねぇっ。
(それだけハーツの圧がヤバい。冷や汗がダラダラだよ)
執念、か。
俺に勝ちたいという思いが、これまでの敗北のツケを返してやるとばかりに滾っている。
気を抜けば飲まれる。飲まれずとも、俺のスタミナを着実に削っている。
多分、岳さんも気が気でないだろうな。
(俺と同じだけの圧を受けてんだ。楽じゃないだろうよ)
それだけの相手に、俺達がしたわけだ。
間違いなく、これまでで一番の強敵。
ディープとは別ベクトルの強さ。
油断すりゃ即敗北。
……は、上等じゃねぇか。
(真っ向勝負でくるってんなら、受けて立つだけだ)
『全力でやり合おうじゃねぇか、ハーツゥゥゥ!』
お前の圧には屈さねぇ。
俺は俺の力で、お前に勝つ。
今回もまた、俺が勝つ!
裂帛の気合。
その気合に応えるように。
『貴様には負けんぞ、シャーロックゥゥゥ!』
ハーツもまた、俺と競り合いに来た。
《まもなくスウィンリーボトム、隊列は落ち着いてきたか? 先頭を走るのはチェリーミックス、そしてマラーヘル。マラーヘルの後ろはエレクトロキューショニスト、エンフォーサーと来てっ、ここで最後方の2頭が少しずつペースを上げてきたか!? なんと、なんとスウィンリーボトムを待たずして、メジロシャーロックとハーツクライがじわじわと上がっていく!》
場所がどこだろうと関係ねぇ。
俺とハーツの勝負に、時間も場所も関係ねぇんだよ。
お互いの体と体がぶつかり合う距離感。
手綱を締めることを諦めた岳さんとロメールさん。
いや、このまま行かせた方がいいと判断した。
常識的に考えりゃ、オールドマイルコースでぶっ放そうなんざバカだ。
絶対に体力がもたない。上り坂しかないんだから当たり前だ。
それでも、今の俺達には関係なかった。
あれこれ理屈をこねるんじゃ、ハーツの気迫に屈することになる。
作戦だとか支配だとか、芸術なんてもんはこの場では捨てろ。
『スタミナで俺に勝てんのかよ!? ハーツゥ!』
『俺より後れを取っている分際で、図に乗るなァ!』
ただ、隣を走るコイツに勝つためには。
ペースを乱すことじゃない。
罠に嵌めることでもない。
この舞台を制するために必要なのは──勝負根性だ。
極限の消耗戦。後先考えないデッドヒート。
これが、ハーツクライに勝つための最適解。
俺と岳さんが選んだ、勝利への道筋だ。
ハーツクライに勝つ。考えることはたったそれだけ。
シンプルに、愚直に。
隣を走るハーツを、競り落とすことだけを考えていた。