スウィンリーボトムを超える前に、レースが動いた。
後方に控えていたメジロシャーロックとハーツクライ。
日本の2頭が突如として、ペースを上げ始めたのである。
勢いよくコーナーを曲がる2頭。
見事なコーナリングを披露しているが、スピードに乗っているためかやや外を回る。
距離のロスが激しいだろう。誰もがそう見ていた。
しかし、2頭にとってそんなことは関係ない。
見据えるのは前だけ。有利不利は一切合切考えない。
《ハーツクライとメジロシャーロックが上がっていきます、一気に位置を押し上げる2頭先頭に追い付こうかという勢い! ハリケーンランは躱した、先頭を走るチェリーミックスとマラーヘルを追いかける! ハーツクライとメジロシャーロックが上がっていくぞ!》
「ここから一気に上がるつもりか?」
「いくらなんでも無茶苦茶だわ!」
あまりの光景に、観客は我が目を疑った。
あのまま控えていれば、理想通りの展開を描けたはず。
いつものように周りを支配して、思うがままに動かしていたはずだ。
芸術的なレース支配能力。イギリス国民を魅了してやまない、メジロシャーロックのレース。
そのレースは今、影も形もない。
あるのはただ、本能が赴くままに駆け抜ける姿のみ。
いつもの美しさや気品は欠片も感じられない。野蛮な姿だった。
野蛮。そう、野蛮だ。
理性や知性を感じさせない走りなど、野蛮極まりない。
いつもの美しさが少しもない。
なのに。
「目がっ、離せない」
「……もっと近くで見たいわ。あの戦いを、もっと近くで。それこそ間近で!」
釘付けになる。片時も目を離したくないほどの感情に駆られる。
いつもと違うのに、自分達を魅了した走りとはかけ離れているのに。
どうしてだろうか? 本能的なメジロシャーロックの走りに、観客の目は釘付けだった。
それは、女王陛下も例外ではない。
「ふふふ、あんなレースもできるのね。やっぱり、あの子は凄い馬だわ」
口で称賛の言葉を述べながら、視線は片時も外していない。
ずっと、メジロシャーロックとハーツクライの2頭へと注がれている。
「あの子は確か……シャーロックの、日本のライバルだったわね。何度も何度も、シャーロックを追い詰めた強敵」
微笑みを浮かべ、レースを観戦していた。
周りのことを無視して上がる2頭。
瞬く間に上がり、先頭を奪って。
2頭だけの争いになる──ことはなかった。
レースが一変する。
《あっとここでエレクトロキューショニスト、エレクトロキューショニストも動いた! エレクトロキューショニスト、デルトリも手綱を動かす! それだけではありません、少し遅れてハリケーンランだハリケーンランだ! ハリケーンランも動いたぞ! 一気にレースが動いた! 先頭2頭は当然、追いつかれまいと必死に逃げる。オールドマイルコースで、オールドマイルコースの上り坂を各馬一気に駆け上がる!》
ハーツクライとメジロシャーロックが上がってきた。
ならば自分達が上がらないわけにはいかない。
そう言わんばかりに、内側で控えていたエレクトロキューショニストも動いたのだ。
エレクトロキューショニストだけではない。
一度は様子を見ようとしていたハリケーンランも、置いていかれてたまるかとペースを上げる。
昨年の凱旋門賞馬。世界2位のレーティングを叩き出した欧州最強の一角が、2頭を追いかける。
どうして控えないのか?
暴走ペースで動いているのは分かっている。控えていれば、あっという間に抜け出すことだってできるはずだ。
なのに、どうしてそうしないのか?
理由はシンプルであり、全員が同じ考えを抱いていたから。
(ここで動いたということは、勝算があるということ。勝算なしに、暴走はしない)
(こちらも動かなければならない。さもなくば、間違いなく逃げ切られる!)
メジロシャーロックがここで動いた。
だとすれば、そこには何らかの意図がある。勝利に繋がる考えが。
なら、動かないわけにはいかない。
これ以上好き勝手にはさせない。玉座から引きずり下ろす。
全員の考えが一致していた。
苦汁を舐めさせられた。欧州最強の座に、欧州外の馬が君臨している。
許せるはずがない。プライドが、これまで積んできたものを考えたら、許せるわけがなかった。
追いかけない選択肢はない。
このレースを勝つため、欧州最強の座を取り戻すため。
エレクトロキューショニストらも、ハーツクライとメジロシャーロックの競り合いに参加しようとしていた。
その結果、起こったことは。
《先頭を走るのはチェリーミックスとマラーヘル、ハイペースだ、ハイペースで駆け上がる! 後続から凄まじい勢いで迫ってきている、これは当然か! 3番手争いはエレクトロキューショニスト、ハーツクライ、メジロシャーロック。最内のエレクトロキューショニスト、真ん中のメジロシャーロック、大外のハーツクライの陣形だ! そのすぐ後ろにハリケーンラン、ハリケーンランがここだ!》
オールドマイルコースを、ハイペースで駆け上がる7頭の競走馬の争いだ。
2頭だけの競り合いにはならなかった。
7頭が、ただ一頭の例外なく先頭を奪おうと走る。
駆け引きも作戦もあったもんじゃない。
あるのはただ、野生の本能のみ。
観客は、相変わらず釘付けだった。
言葉を発することすらも忘れて、目の前の光景に没頭する。
知性を微塵も感じさせない走り。
感じるのは──楽しさ、面白さ。
作戦と駆け引きがせめぎ合う、普段のレースとは違った美しさ。
本能の赴くままに。魂と魂が、意地と意地がぶつかり合う戦い。
「は、はは、こんなレース、しばらくぶりじゃないか? とても、とても楽しいよっ」
「違いないわ。気づいたら、手がっ」
「震えている。こんなレースを観れて、僕らはとても幸せだ!」
観客は没頭していた。
7頭が作りだしている、原始的な戦いに。
小細工無用の殴り合い。真正面からのぶつかり合いに。
一瞬すら目を離すことができずにいた。
◇
気づけばとんでもないことになっていた。
ハーツだけじゃねぇ、他もペースを上げている。
『これ以上貴様らに、デカい顔をされてたまるものか!』
『テメェなんかに負けるかよ! 俺が最強だ!』
内にはエレクトロキューショニスト。
後ろにはハリケーンラン。
欧州の最強格が近くを走っている。
とはいえ、俺が見ているのは……ハーツのみ。
『いつもいつも、放牧の度に喧嘩売ってきやがって! 勝てた試しあんのかよお前!』
『抜かせ! 高いところから見下ろす貴様が気に食わん! 大人しく俺達と同じところに落ちるがいい!』
『落としてみろや! 俺はまだ、落ちる気はねぇぞ!』
喧嘩をしながら上がっていく。
エレクトロキューショニストも、ハリケーンランも。
7頭全員で、オールドマイルコースをハイペースで上がる。
《隊列は変わりません。変わりませんがこれは凄いペースで進んでいます! 誰が抜け出すかではありません、もはや誰が着いてこれなくなるかの叩き合いだ! 先頭を走るチェリーミックスとマラーヘルはまだ大丈夫、まだ大丈夫だ。先頭をキープしています2頭、1馬身のリードを保っています》
後先のことなんて考えてねぇ。
一体何時ぶりだ? そんなレース。
少なくとも、ここ最近じゃねぇことは確かだな。
《3番手争いは人気を集めている4頭。断然一番人気のメジロシャーロックはここにいます。最内エレクトロキューショニスト、真ん中メジロシャーロック、大外ハーツクライ、少し後ろにハリケーンラン! しかしハリケーンランこれはエレクトロキューショニストとメジロシャーロックの間に来たか? ハリケーンランがエレクトロキューショニストとメジロシャーロックの間に割って入る!》
マークされることが常だった。
囲まれることが珍しくなくなった。
だから、考えなきゃいけなかった。
包囲網を抜け出すための作戦だったり、周りを出し抜くためのチェンジオブペースだったり。
とにかくずっと考えていた。勝つための作戦を。
今は違う。
前へ、とにかく前へ足を出すことしか考えていない。
誰よりも早く駆け抜けることを。
この場で一番早いのは、俺であることを証明するために。
ただ、駆け抜ける。
《まもなく最終コーナー。先頭はチェリーミックスとマラーヘルまだ粘る、まだ粘る! しかし、その差がじわじわと詰まってきているぞ。最後方に控えていたエンフォーサーも徐々に上がってきている! メジロシャーロックら4頭はチェリーミックスに追いつくぞ!》
勝利のために。
◇
憧れはいつしか妬みに変わり。
妬みはまた、憧れに変わった。
メジロシャーロック。
何度も挑んでは敗れ、一度たりとも勝てたことのない友。
強く、気高く、ボスに相応しい。
そんな馬だ。
向こうは俺をライバルと呼ぶが、周りからすればライバルとは思われていないだろう。
当たり前だ。実力が拮抗しているならともかく、俺が勝てたことは一度もないのだから。
(それでも貴様は、俺をライバルと呼ぶのだろう。いつまでも自分に挑んでくれる、大切な相手として)
速くて強いシャーロックは皆の憧れだ。
挑むのではなく、崇拝するやつの方が多い。アイツを畏れ敬い、挑もうとしなくなる。
アイツが……孤独になっていく。
そんなこと、許せるはずがない。
(貴様ら、雄だろうが。雄ならば、何故挑まない?)
強い相手に挑まないことはおかしい。
勝てないからと諦めるのは、バカバカしくて笑い飛ばしたくなる。
(挑む権利は平等にある。その権利を放棄するなど、死んでいるも同然だ)
俺はまだ死んでいない。シャーロックに挑み続けている。
勝つためにここに来た。友に、ライバルに──シャーロックに勝つために。
誰に笑われようが構わない。
身の程知らずだろうが知ったことか。
(全てを削ぎ落せ。シャーロックに勝つことに集中しろ)
俺は、今日ここで。
『貴様に勝つ!! 覚悟しろシャーロックゥ!』
《最後の直線、最後の直線に入りました! ここで先頭が変わります、先頭が集団ごと入れ替わる! チェリーミックスとマラーヘルに変わって、メジロシャーロックを中心とした一団が先頭に立ちましたぁぁぁ!》
メジロシャーロックに勝つ!
だが、一筋縄ではいかない。
『おいおい、俺らを忘れてもらっちゃ困るなぁ! 日本勢が、あまり勢いづくなよォ!』
『負けない……負けない……負けられない! 誇りにかけて、ぼくは負けられない!』
シャーロック以外の馬。ここまでずっと競り合い続けてきた、強敵手。
そして。
『上等じゃねぇか。俺だって、お前には負けねぇよ、ハーツゥゥゥ!!』
大本命。
俺の友で、ライバルと呼んでくれる──メジロシャーロック。
あぁ、やはり貴様は強い。
俺は全力を出しているというのに、引き離すことができない。
ずっと競り合い続けている。
俺は限界が近いというのに、向こうはまだまだ余力があるとばかりに粘っている。
だが。
《最後の直線を駆け抜けます、まだ4頭が集団だ、4頭が集団だ! エレクトロキューショニストがわずかに前に出たか? いや、メジロシャーロックが前に出る! メジロシャーロックが前に出た! スタミナ勝負はメジロシャーロックに軍配が上がるかっ、いや! ハリケーンランも負けていない、外からはハーツクライだハーツクライだ! まだ分からない、まだ分からない!》
(どこまでも、強い。それでこそ、倒しがいがあるというもの!)
そんなこと、関係ない。
勝つためにここに来たんだ。今日こそは勝つと誓ったんだ。
その為に努力を重ねてきた。あらゆる無駄を削ってきた。
全ては今日、この時のために!
『俺の全力を、受けてみろシャーロックゥゥゥ!』
気合いと根性で、スタミナを補う。
走り切るんだ。残り200m。
あとちょっとの距離を、どうか走り切らせてくれ。
《ハーツクライが前に出る! ハーツクライが前に出る残り1ハロン! 残り1ハロンを切ってハーツクライが前に出た! 半馬身か!? 半馬身前に出たか! 追いかける3頭、いや2頭! エレクトロキューショニストとハリケーンランが後ろに、メジロシャーロックはハーツクライに競り合う! 差はない、差はないぞハーツクライとメジロシャーロックの2頭だ!》
隣を走るコイツを競り落とす。
ただその一心で、俺は駆け抜ける。
勝ちたい。
負けたくない。
もうこれ以上、敗北を重ねるのはごめんだ。
頭によぎるのは敗北の記憶。
苦汁を舐めさせられた。涙を流す日もあった。
もう負けない。ひたすらに、それだけを。
なのに、どうしてだろうか?
苦しいはずなのに、辛いはずなのに。
(楽しいっ)
どうしようもなく、楽しいという気持ちが溢れてくる。
嬉しい、楽しい。
命の際で、魂がぶつかり合うこの場所で。
シャーロックや他と競い合うことが、どうしようもなく楽しく感じている。
なぁ、貴様はどうだ? シャーロック。
貴様は、この勝負を……楽しいと感じているか?
聞くまでもないことだ。
走りを通して、アイツの感情が伝わってくる。
アイツだけじゃない。ここにいる他の奴らの気持ちも、伝わってくるようだった。
そう、この勝負が。
どうしようもなく楽しい!!
楽しくて仕方ない、という感情が。
楽しい時間を、一秒でも長く共有したい。
《メジロシャーロックとハーツクライに並んだ! エレクトロキューショニストとハリケーンランが並んだ! チェリーミックスとマラーヘルは根性で追い縋ろうとしている、エンフォーサーが2頭を躱して前を捕まえに来たが、これは距離がどうか!?》
けど、その時間は。
《4頭がまた並ぶ! 4頭がまた並ぶ! 激闘は終わらない、終わってほしくない! さぁ4頭が並んだアスコット競馬場、キングジョージ6世&クイーンエリザベス・ダイヤモンドステークス! 後方からチェリーミックスらが追いついてきたぞ! 抜け出すか!? 並ぶか!? 躱すか!?》
あっという間に終わるもので。
(あぁ……やっぱり……)
隣を走るアイツが。
ずっと焦がれていた、憧れが。
『貴様は……本当に強いっ。シャーロック』
俺達の前に出た、その瞬間。
《メジロシャーロックがわずかに抜け出したァァァ! スタミナ勝負ではない、根性勝負を制したのはメジロシャーロックだァァァ! やはり強かったメジロシャーロック、これこそがメジロシャーロック! しかし、しかし! 周りも強かった、まさしく強者だった! 1着から7着、その着差は全て5馬身以内に収まる大激戦! 2着のハーツクライはハナ差、3着のエレクトロキューショニストはクビ差での決着です!》
楽しい時間は、終わりを告げた。
無事に決着ゥゥゥ!