伝統の一戦、キングジョージが終わった。
アスコットは静寂に包まれている。
とてもレースの勝敗が終わったとは思えない、そんな空気感だった。
人気薄の馬が勝ったのか? 圧倒的一番人気の馬が飛んだのか?
違う。勝ったのは圧倒的一番人気の馬、順当に勝ったのだ。
では、どうして誰も口を開かないのか? 称賛の言葉を贈らないのか?
その理由は──感動に打ち震えているからである。
素晴らしいレースだったから。その感動の余韻が、まだ残っているからだ。
メジロシャーロックのレースは芸術と呼ばれている。
他馬をコントロールして、意のままに操るレース。キャンバスを彩る色とし、自らの芸術を完成させてきた。
無論、今回もそうなるだろうと思っていた。
メジロシャーロックが見事なレースを魅せて、いつものように一着を取る。そう確信していた。
現実は、出走した7頭による原始的な殴り合い。
作戦も芸術もあったものではない。誰が一番最初にくたばるかの消耗戦、ノーガードの戦いだった。
それが1頭や2頭ならともかく、出走馬全員である。
逃げ馬も、先行馬も、差し馬も、追込馬も例外なく。ただ前だけを見据えて走っていた。
野蛮だ、美しくない。
最初こそそんな考えが浮かんでいたが、レースが進むにつれて消し飛んだ。
野生に溢れる走りが素晴らしく、また違う芸術性を見出す。
心を打ち抜かれるような、気づけば熱中している、震えるレースだった。
その余韻がまだ抜けていない。
アスコット競馬場の静寂は、観客の心がまだ戻ってきていない証拠だ。
どれだけの時間が経ったか。
時間にして1分か2分。
しかし、体感時間は1時間かそれ以上。
静かな空気を切り裂いて、流れてきたのは……拍手と賞賛の言葉。
嵐のように巻き起こるそれは、アスコット競馬場全体へと響き渡る。
「素晴らしい、素晴らしいレースだった! 心が震える、感動するレースだった!」
「まだ前半が終わったばかりだ。しかし! 今年最大のベストレースが決まった瞬間だ! このレースを観れたことは、我々の人生で最大の幸運という他ない!」
「お疲れ様、お疲れ様! とても素晴らしかったわ!」
勝者だけではない。
レースに出走した全ての馬を讃える。
最高だった。もう一度観たい。
そんな思いを込めて、観客はいつまでも讃えていた。
そして、観客と言えば当然この方も。
「うふふ! 凄い、凄いわ、本当に! シャーロックだけじゃない、みんな素晴らしかった!」
女王陛下。
今回の顛末に、拍手を送りながら笑っている。
「それにしてもあの子、ハーツクライ。あの子も良いわね~! それに、日本にはもう一頭いるのでしょう? 才能ならシャーロックに比肩する、ディープインパクトが!」
「……そうですね。どうも、海外戦にはまだ目を向けていないようですが」
「その子のレースも観たいわ~! どうにかして観れないかしら?」
「ご自重ください」
ついでに、競馬のために日本に行くことすら考えていた。
ボディガードらに全力で止められたため、未遂に終わったが。
女王陛下も満足するレース結果。
関係者は誇らしい気持ちになった、かもしれない。
出走馬、勝ち馬のメジロシャーロックはというと。
(へっ、やべぇなっ。アスコットでバカみてぇな消耗戦することになるとは、考えもしなかった)
『だけど、あぁ。楽しくて仕方がねぇ』
今回のレースを振り返っていた。
最高だったと、心躍る戦いだったと、嘘偽りなく応えることができる。
それだけのものだったと、確信していた。
その要因となったのはやはり、ハーツクライ。
『俺のこと大好きかよ、アイツ。めちゃくちゃなことやってきやがって。本当に、とんでもねぇ野郎だ』
日本から一緒に来た友で、ライバル。
何度も自分を追い詰め、その度に肝を冷やした……最大のライバル。
今回もやはり、最優先で警戒して正解だった。
警戒して、真っ向勝負を受けて立ったからこそ、今回の勝利がある。
終わった後しみじみと、そう思わされていた。
そんなメジロシャーロックの下に、ハーツクライが歩み寄る。
目は血走っており、先ほどまでの激走が目に見えて分かる消耗。
もっともそれは、メジロシャーロックや他の馬も同様なのだが。
『やってくれたな、お前。ホント、無茶しやがるぜ』
『抜かせ。貴様に勝つためならば、俺はなんだってしてやる。例え貴様の土俵だとしてもな』
『あんな坂でバカスカ飛ばしやがって。つか、コーナーから飛ばしてたじゃねぇか。普通ありえねぇよあんなの』
『ありえない、が必要だった。それこそが、貴様に勝つためのラストピースだと思っていたからな。もっとも、それでも勝てなかったわけだが』
『へっ。そう易々と勝ちを譲るかよ。俺はまだまだ、現役最強だ』
それでも、終わればノーサイド。
さっきまで戦っていた敵は友に。
お互いの健闘を讃え合っていた。
それは、この2頭だけに留まらず。
『チっ、やっぱ最強は伊達じゃねぇか。俺も、やれる方だと思っていたんだがな。自信を無くしそうになる』
『でもま、楽しい勝負だったよ。ぼくも、あんなに無我夢中で走ったのは久しぶりだし』
ハリケーンランにエレクトロキューショニスト。
エンフォーサーにチェリーミックス、マラーヘルもまた。
出走した全頭、7頭が集まって、全員の走りを讃えていた。
『お前強すぎ。もっと加減しろ』
『無茶言うな。悔しかったら俺より強くなるこったな』
『フン、相変わらずの上から目線が。俺が貴様の余裕を崩してやる』
『おーおー、やってみろよ。俺は負けねぇぞ?』
最高の舞台で、最高の勝負を演出した7頭。
拍手と喝采に包まれながら、大団円で終えることができた。
キングジョージ6世&クイーンエリザベス・ダイヤモンドステークス勝者、メジロシャーロック。連勝を22に伸ばす。
◇
キングジョージが終わって数日が経った。今日も俺は元気です。
正確には、疲労がちょっと残ってるけど。ま、問題ない程度には回復している。
調教はできんけどな。
あのキングジョージだが、世間での評判はそれはもう凄いことになっていた。
今世紀最大のベストバスト。今年最高のレースは決まったようなものだ、と話題沸騰中である。
「相変わらず、記事がエグいな~。どこもかしこも、こん前のキングジョージ一色や」
「そうですねテキ。でも、それだけ凄いレースでしたから! 私もう大興奮しててっ!」
「分かる、分かるで柏崎! ホンマに凄いレースやったわ! シャーロックのレース史上一言うても過言やないであれは!」
なんなら康夫さん達もコレだからな。どれほどのものだったか、容易に想像がつく。
つっても、冗談抜きに凄かった。当事者の俺ですら、そう思っている。
7頭全員が競り合うデッドヒート。
我先にと前に脚を出して、とにかく競り落とすことだけを考えていたレース。
久しぶりだった。本能のままに走るってのは。
(普段はもうアレだからな、本能のままに走ってたら負けるようなレースばっかだったからな。久しぶりだ)
なんだか懐かしかった。
それこそ、新馬戦を思い出すような展開。
がむしゃらに、自分の能力だけで勝ったような。そんな感覚だ。
小頭数、ってのが効いたんだろうな。
アレがもっと多かったら、こうはいかなかったかもしれない。
なんて、レースを振り返っていると。
「おっと、悪い柏崎。ちょいと出るわ」
「あ、はい。誰からでしたか?」
「あ~……ここでは言えんな。やけども、大丈夫ではあるみたいや」
「そう、ですか。最終判断は?」
「もう決まっとる。まぁ安心しとき。悪いようにはならん」
康夫さんがどこかに出かけるみたいで。
足早に厩舎を出ていった。何があるのやら?
おっと、今はレースのことだ。
う~ん、何度思い出しても素晴らしい。
願わくば、俺も観戦者側で見たかった気持ちがある。
(大興奮間違いなしのレースじゃねぇか! クッソ~、俺も観客視点で見てぇ~!)
めちゃくちゃ興奮している。
あのレースをもう一度、と、気持ちが沸き上がっていた。
そんな気持ちになれたのは、間違いなくハーツのおかげだろう。
アイツが俺と競り合ってきたからこそ、あのレースは成り立った。
ハーツがいなければ、あんな展開にはならなかったと断言できる。
レース中ずっと感じていた。
アイツの勝ちたいという気持ちを。
俺に負けたくないという感情が、伝わってきていた。
そして、それと同じくらい伝わったのは楽しさ。
レースを楽しむ、走ることが嬉しいという、真剣勝負では見られないもの。
まるでディープのような、そんな気持ちが伝わってきたんだ。
それは俺も同じ。というか、あの場で走っていた全員が同じ。
走ることが楽しくて、ずっと競り合っていたいと思うほどのレース。
疲れることが分かっているのに、苦しいことが見えているのに。
それでもずっと、同じ時間を共有していたい。
そう思わせるほどだった。
(アイツには感謝してもしきれねぇ。まだ俺が、そんなレースができると分からせてくれたのだから)
本当に、アイツはすげぇ奴だよ。
陣営も陣営だ。
回避する陣営が多い中で、まだ真っ向勝負を選んでくれたんだ。
それだけでも嬉しい。戦ってくれるんだから。
(岳さんとロメールさんもな、レース後にはお互いを讃え合っていた。良い光景だったわ)
……でもあの2人、10数年後にはトンチキCMに出まくるんだよなぁ。
主にどこぞのアプリゲームのせいで。誰が言ったか、競馬のためならば何でもする男と、競馬のためなら何でもする男のためなら何でもする男。
いや、嫌いじゃないしむしろ好きだけど。なんかちょっと複雑だわ。
最高の激戦だった。
それは間違いない。
だけど、この先を知っている身としては……複雑だ。
(ハーツはキングジョージの後、喉なりが発覚する。それによって引退に追い込まれることも)
全力のアイツと走る機会はもうない。そのことを知っているから。
ハーツの次走は、史実通りならジャパンカップ。
凱旋門賞を走り終わった後のディープとの再戦、有馬以来の対戦に、競馬ファンは沸き立っていた。
だが、ハーツは10着惨敗。
その理由が、喘鳴症によるものだ。
(病気は仕方ないとはいえ、このキングジョージが最後の戦いになったのか)
これ以上走らせるべきではない。
実績としても十分であったことから、ハーツは引退することになる。
それが史実通りの道筋だ。
だが、俺はまだ希望を捨てちゃいない。
俺という異分子がいることで、史実とは違う結末を迎える馬がいることを知っているから。
(それこそ、ユニさんがそうだ。本当なら宝塚記念すら走れなかったのに、この世界では走ることができた)
『スティルさんもそうだ。秋天だけじゃない、香港カップを走って、勇退した。変わっている史実だってある』
勿論、変わっていないこともある。
ラモーヌさんやマックイーンの死。これは避けようがなかった。
それと同じくらい、変わっていることがある。
競走成績や、引退時期の変化。ポジれる要素だってあるんだ。
ということは、だ。
ハーツの喘鳴症という運命だって変わる。
それが、俺の希望だ。
(……こうして考えると、俺も俺でアイツのこと大概好きだな)
まぁ、友達だから無事でいて欲しい、って気持ちの方が大きいんだけど。
また一緒にレースで走れるかもしれない、なんて考えているのも事実である。
実際どうなるかは分かんないけど。
先のことについて考えていると、康夫さんが戻ってきた。
戻ってきたんだが、あんまりよい表情じゃないな。何かあったのか?
一体何を言われるのか。ちょっとドキドキして待っていると。
「……帰国や。一旦、日本戻ることが決まったわ」
え? なんで?
◇
あれからいろいろ事情を聞いたところ、レースの影響を考えてのことらしい。
キングジョージは激走だった。俺の脚に影響が出ている可能性が否定しきれないとか。
いや、うん。
(こっちの病院で診ればいいのでは? ないことはないだろさすがに)
なんか疑問が残るんだよな、この采配。
わざわざ凱旋門賞を諦めるほどか? って思わずにはいられない。
一応、まだ両睨みではあるらしい。
日本には戻るけど、凱旋門賞の出走自体は匂わせている。
確定出走が匂わせに変わった、ぐらいだ。
心配になる気持ちは分からんでもない。
元々、史実でもこのキングジョージはヤバかったしな。
(ハーツは喘鳴症、エレクトロキューショニストは心臓病で急死、ハリケーンランも惜敗が続いた。史実時点でも結構ヤバいな、今年のキングジョージ)
おまけに、今回は史実以上にヤバい展開だった。
万全を期すため、念には念を入れて。
一度日本に戻る判断をした、のかもしれない。
だとしても、思い切った判断というか。
(凱旋門賞は日本馬の夢だ。半ば呪いと化しているし)
ほぼ諦めるなんて、裕二さんも凄い判断をするというか。
よっぽど心配されているのか、俺。
……当然か。こんな戦績残してるバグみたいな馬、万が一があったら怖いし。
慎重に進めるのは当然かもしれん。
こうして日本に帰ることになった俺だが。
俺が帰るとなれば当然、ハーツも帰るわけで。
『ようハーツ。俺ら日本に帰るらしいぞ』
『……らしいな。人間がそんな話をしていた』
俺達はイギリスから日本へ帰ることになった。
つってもな~、どうすんだろうな次のレース。
このままキングジョージで引退、なんて可能性もちょっとあるし。
どうなるんだろうね、俺の今後。
てか、いやに静かだなハーツの奴。
いつもはうるさいくらい俺に絡んでくるくせに。
俺が帰国の話題振った時も、やたらと気落ちしているように感じたし。
何があったんだ、コイツ?
『どうかしたのか? ハーツ。イギリスから離れるのが嫌だとか?』
『……そういうわけではない』
『じゃあなんだよ? すげぇ落ち込んでるじゃん』
『……』
本当に何があったんだよ。怖いんだけど。
いつもだったら。
「フン、貴様に勝つための戦略を練っていたところだ」
とか
「心配される筋合いはない。まぁ、その心だけは受け取っておいてやる」
とか言いそうなもんなのに。
なんも言わねぇんだもんこいつ。
あぁ、とか、うん、とか空返事ばっかで、心ここにあらずというか。
ここまでくると心配の方が勝るわ。
『マジで何があったよ? いつものお前らしくねぇぞ?』
だから、聞くことにした。
力になれるんだったら、力になりたいからな。
『……そう、か。確かに、そうかもしれんな。俺らしくない』
『おう、お前らしくねぇ。話してみろよ、ちょっとは楽になるかもしれんぞ』
『……貴様だからこそ、話したくないのだが。仕方がない。もう、どうしようもないのだから』
どうしようもない? 一体、何のことで
『どうも俺は、屈腱炎とやらになったらしい。もうレースでは走らせない、このまま引退だと、人間どもがそう話していた』
……え?
良かったねシャーロック君。喘鳴症にはならなかったよ。