ハーツの言っていることが、分からなかった。
飛行機の揺れが気にならないくらい、俺は今困惑している。
『……え? いやいや、は? ど、どういうこと?』
我ながら情けないことを言っていると思う。
狼狽えてるし、整理がつかない。
でも、俺は信じたくなかった。
『今言った通りだ。俺はもう引退するらしい。貴様はどうか知らんが、少なくとも』
楽しい勝負を演出してくれた相手が。
あんなに競ってくれたライバルが。
俺に勝つと言ってくれた友達が。
『俺がもう、レースで走ることはない。そういう病気なのだから、仕方がない』
レースで引退せざるを得ない、だなんて。
なんでだ、どうしてだ?
ハーツは史実だと喘鳴症だったはずだ。決して屈腱炎ではなかったはず。
屈腱炎は不治の病。一度罹ってしまえば、この先一生つき纏う問題だ。
ユニさんや、史実のカメハメハも引退に追い込まれた。それほどの病である。
『治る見込みはあるらしい。走ることができるとも。しかし……万全の状態は不可能。それが人間の見立てだ』
『え、あ、うっ』
『それに、仮に治ったとして。その時にはもう、貴様はいないだろう。今年までなんだろう? 前に言っていたからな』
そんな病に、ハーツはなってしまった。
競走馬として走る道を、閉ざされたのである。
今もまだ、整理がついていない。
嘘だ、冗談であってくれと必死に、心から願ってしまう。
でも、俺程度の思いで状況が好転するはずもない。
ハーツの態度から、嘘でないことは確定的だ。
『なん、で』
やっと絞り出せた言葉は、疑問。
なんで屈腱炎になってしまったのか、その理由を知りたくなった。
分かるもんでもないのに。なにが原因なのか知りたくて、つい聞いてしまった。
ハーツは、少しの間考える素振りを見せた後。
『医者と呼ばれた人間の見立てでは、直接的な原因は分からんと言っていた。あくまで推定でしかないと』
曖昧な言葉で濁そうとしていた。
いつものハーツらしくない、はっきりとしない態度。
ハーツが嫌いそうな、逃げようとする姿勢だ。
諦められるはずがない。
『それでも! それでも教えてくれ! なんでお前が屈腱炎になったのか、原因を教えてくれよ!』
『……』
『なんでお前が……お前は良い奴なのに! 俺に挑んでくれた、数少ない相手なのに!』
教えてくれなければ、俺は到底納得できない。
『なんでだよ……なんでお前が、屈腱炎に……っ』
納得できない、のに。
『あくまで、医者と呼ばれる人間が語ったのは推察だ。そんな曖昧な情報を、教えるわけにはいかん』
『……そうかよ』
『あぁ、そうだ』
ハーツは、意地でも教えてくれなかった。
推察に過ぎないと、これだという原因が分からないからこそ、ハーツは絶対に教えないと、口を割らなかった。
めちゃくちゃ、頑固な奴だ。
その後、ハーツは寝てしまったのか大人しくなった。
飛行機の貨物、揺れる中で考える。
(なんで、ハーツは屈腱炎になったんだ? 史実だと喘鳴症だったのに)
史実とは異なる結末を迎えた、ハーツのことについて。
そもそも、ハーツの喘鳴症はもっと後に判明したはずだ。
明確な時期は分からねぇけど、キングジョージが終わってすぐ、ってことはないはず。
今このタイミング、ってのはちょっと疑問が出てくる。それが俺の結論だ。
それに、どうして屈腱炎なのかも分からない。
運命が変わってしまったから、ハーツを意地でもレースに出さないという世界の意思、なんてオカルトチックな考えも出てきたけど。
(だとしたら、他の原因もあるし。てか、それだったら考察もクソもない)
非現実的なので真っ先に除外した。さすがにそんなことはない、と思うし。
なんで屈腱炎なのか? どうして史実よりも引退が早まったのか?
その原因を、俺は知りたい。
逸る鼓動、どんどん大きくなる不安な気持ちを抱えながら、必死に考えを巡らせた。
まず考えたのは、屈腱炎になる原因だ。
元々詳細は不明とされているが、なりやすい傾向みたいなものはあったはず。
(脚に負荷をかけすぎるとよくない、だったよな? 炎症の一種だし)
それが、脚に負荷をかけすぎる、というもの。
要するに、無茶をし過ぎるとよくないしなりやすい、ってことだ。
ってなると、絞れるな。
次は、ハーツがそうなった原因だ。
元々勝ち気なアイツだし、不思議なことではない。
アイツに限らず、競走馬はそういうもんだ。負けん気が強く、闘争心が高い。
そりゃ、無茶をすることもあるだろう。
(キングジョージ前も頑張ってたしな、アイツ。その無茶が祟って、ってところか)
思わず吹き出しそうになる。
いつもいつも、勝つと口にしていたハーツのことを思い出して、微笑ましくなったから。
笑いそうになっているのに、楽しい記憶が甦ってきたのに、なんでだろうか?
答えが分かりそうなのに、どんどん不安が大きくなっていく。
それ以上考えるな、今すぐ戻れと言わんばかりに、膨れ上がっていく。
(そもそもどうして、アイツは無茶してたんだっけ? 勝ちたい、ってのは分かるけど)
けど、今更戻れない。
もう後戻りはできない、するわけにはいかない。
だって、だって。
(……あぁ、そっか。なんでハーツが口を割らなかったのか、どうして推察だと、曖昧な情報だと吐き捨てて教えなかったのか)
だって、ハーツが屈腱炎になったのは、レースで走れなくなったのは。
(いつもならバカバカしいと笑い飛ばすアイツが、なんで俺に教えてくれなかったのか)
他の誰でもない。
(その、理由は──)
『俺のせい、なのか?』
俺自身が原因だからだ。
そうだ、ちょっと考えれば分かるだろうが。
いつも俺に対抗心むき出しで挑んできて。
放牧だろうが構わず勝とうとしてきた、あのハーツだぞ?
(康夫さん達も言ってた。ハーツはすげぇ頑張ってるって)
無茶をする原因には心当たりしかない。
頑張りすぎてしまった理由は、たった一つしかないんだ。
そう、俺に勝つため。
俺に勝つために、アイツは……頑張ってきた。
(調教も、良いタイムを出しているって。うかうかしていられない、こっちも負けるわけにはいかない。いつもそう言っていた)
代償に、かなりの無茶をしたはず。
挑んで勝つために、無理を押し通してでも努力を重ねてきたはずだ。
一つ、一つ。
バラバラだった情報が繋がっていく。
点と点が線で繋がって、一つの答えを導き出す。
(そうだ……ハーツの屈腱炎の原因を作ったのは、一つしかない)
『は、ははっ。なにが、原因を教えてくれ~、だよ。そんなもん、俺が一番よく分かってるじゃねぇか』
ハーツがどうして屈腱炎になったのか? 喘鳴症から変わることになった要因は?
『俺が、原因だ……俺がハーツを、走れなくした……っ!』
俺しかいなかった。
俺がいたから、ハーツは屈腱炎になってしまった。
それしか、考えられなかった。
奥底から溢れてくる、後悔の感情。
せき止めていたものが流れてくる。目を背けていた事実があふれ出て止まらない。
『俺だ、俺が悪いんだ! 俺がハーツを屈腱炎にさせてしまったっ、俺が、ハーツが引退する原因を作っちまったんだ!』
自責に、自分に対する怒り。
何が楽しいだ、何が嬉しいだ。
そりゃ、挑まれている側は楽しいかもしれねぇだろうよ。
『俺が、ハーツに無茶させちまった……! 俺が、俺が……っ!』
けど、挑む側の気持ちを少しも考えてねぇだろうが。
俺のためにと無茶させといて、それでいて自分は楽しかっただと?
ふざけてやがる。言われた側だったら、ぶん殴られても文句は言えねぇ。
俺は、それだけのことをしでかしたんだ。
走ることが存在意義のサラブレッドに対する死刑宣告。
もう全力で走ることは出来ない、レースに出走は出来ない。
そうさせる原因を、俺は作ってしまった。
もう一度あんなレースをしたい? そのためにはハーツが必要不可欠?
調子に乗ってんじゃねぇぞ。烏滸がましいと思わねぇのか?
ライバルを、友達を走れなくしといて。
『俺が……悪いんだ……っ!』
なにが、楽しいレースがしたいだよ。
ハーツが頑なに口を開かなかったのも分かる。
俺のためだ。話してしまったら、俺が気に病んでしまうと知っているから、話さなかった。
自分が走れなくなった原因を作った奴なのに、そんなことされる資格なんて、ないのに。
(優しい奴だよ、お前は)
俺のことを、考えてくれていたんだ、ハーツは。
俺とは違って、気遣ってくれた。
優しいわ、本当。
そんな時だった。
『もっと』
ハーツの寝言だろうか? が、聞こえてきた。
一体、何を言うのか。
どんな言葉が出てくるのか。
出てきたのは。
『もっと走って、競いたかった』
純粋な願い。ありふれた祈り。
けど、その願いは、俺のせいで叶わなくなった。
『あの舞台で、走りたかった』
『あ、あ……あぁ……っ!』
『もっと、ずっと長く』
ハーツの、言葉は。
俺を突き落とすには。
『走りたかった、なぁ』
『──ッ!!』
十分すぎた。
◇
あれから、どれだけの時間が経ったか。
気づいたら日本に着いていた。
それどころか、検疫厩舎だった。
ここから3週間過ごすことになる。
ルール以内に帰ってこれたから、だな。本来なら、もっと長く過ごすはずなのに。
「う~ん、2頭とも輸送疲れの影響が出とるな。まぁ長旅やったし、これは仕方ないわ」
「ひとまずはゆっくりさせましょうか。折り合いを見て」
「おう、頼むで」
康夫さん達の会話を盗み聞きつつ、ハーツへと目をやる。
『とりま、しばらくはゆっくりするか』
『フン。俺は今すぐにでも』
『お前一応屈腱炎だろうが。大人しくしとけっての』
表面上は普通だ。
気を遣わせまいと、いつも通りの振舞いをしようとしてるんだろう。
俺には、そんなことされる資格はないというのに。
けど、気取られるわけにはいかない。
俺が不安だと、心配させてしまう。ハーツの気遣いが無駄になる。
だから、いつも通りだ。
元から得意だからな、こういうのは。
そう、得意だ。
「お~し、2頭とも輸送疲れがなくなって来とるな。順調順調!」
「特にシャーロックが凄いですね。数日も経てばケロッとしてましたよ」
「やろ? シャーロックはごっついからな~!」
隠し通すことなんて、自分の気持ちを押し殺すことなんて。
「柏崎もお疲れさん! どや? 2頭の調子は?」
「あ、康夫さん。ハーツはちょっと大人しいですけど、シャーロックはもういつも通りですよ。輸送疲れなんてなかった~、みたいにピンピンしてます」
「前回もそうやったなぁ、シャーロックは。輸送にも強いわ、ホンマに」
俺はできるのだから。
検疫厩舎での日々。
変わり映えはしないが、一つだけ栗東とは違うことがある。
設備の問題じゃない。
いろんな噂だ。世間でのニュースとかを、ここでは聞く機会が多い。
(特に、俺が日本に帰ってきた本当の理由とかをな)
どうして遠征を取り止めたのか。
凱旋門賞の出走を、曖昧に濁しているのか。
その本当の理由が判明した。
あのキングジョージ以降、俺はさらに避けられるようになったらしい。
原因やはり……ハーツとの一件だろう。
(俺がハーツを屈腱炎にしたようなもんだ。そりゃ、戦わせたくないわな)
凱旋門賞回避を視野に入れる陣営が、あのキングジョージでさらに増えた。
欧州内だけじゃない。日本も例外じゃないし、いろんな国中で同じようなことが起きている。
唯一、今回キングジョージで走ったハリケーンラン陣営だけは意欲的だったらしいが……陣営一つじゃあな。
エレクトロキューショニストは、そもそも走らないと前から明言。チャンピオンステークスが視野だと決めていた。
他も似たようなもんだ。別のレースを目標にしているから、凱旋門賞には出ない。そう口にしていたらしい。
強すぎる。囲んでも無駄。脇役を強いられる。
そこに加えて、ケガさせられることも加わったら、出走させる陣営なんて、いなくなるわな。
(キングジョージは激走だった、影響が出ていても全くおかしくない、か)
当然のことだが、俺が原因とする報道は1つもなかった。
ハーツ陣営のコメントでも、俺の名前は一度も出ていなかったらしい。
あくまで原因不明、詳細は分からない、か。
……そう言うしかねぇよな、実際のところ。
それで凱旋門賞だが、出走登録を済ませている馬はそれなりにいる。
その中で出走に意欲的なのは……たったの1頭。ハリケーンランの陣営だけだ。
イギリスだろうがフランスだろうが、そこに例外はない。
メジロシャーロックが出走する。それだけで、他陣営は回避を視野に入れていた。
そんな状況だ。
裕二さんだって、凱旋門賞に出す気はなくなる。
(2頭だけの凱旋門賞とか、誰が見たいんだって話だよ。ま、俺が出るんだったら、見るファンはいるんだろうけどよ)
見るファンがいる、ってのが、かなり厄介だった。
関係者は俺と同じレースに出したくない。
観客は俺が出るレースを観たい。
ズレが、どんどん大きくなってきた。
前までは、観客の圧力に屈する陣営もいただろう。
けど今の状況は、それすらもなくなった。
俺を相手にするぐらいなら、臆病者の烙印を押された方がマシ、とまで言い切る陣営まで出てきたんだ。
他も強くは言い返せない。
だって、逃げている陣営の気持ちはよく分かるから。
俺みたいな奴を、相手にしたくない気持ちが……分かってしまうから。
(勝てねぇ上に、ケガもさせられる。そんな馬、相手にしたくねぇよな。俺だってヤダよ)
俺ももう、疲れ果てていた。
気分でこうも変わるなんてな。我ながらびっくりだよ。
キングジョージの後はあんなに走りたかったのに、もう一度あんな勝負がしたいと思っていたのに。
ハーツが屈腱炎になった。
それだけで、俺の走りたい気持ちは──消えかかってしまっていた。
◇
だけど、それは許されない。
(少なくとも後一回。ファンは、俺が走ることを望んでいる)
ファンが俺の走りを期待している。
ファンは俺が走ることを望んでいる。
俺が無事でいることを……祈っている。
【メジロシャーロック緊急帰国。原因は不明】
【メジロシャーロックに緊急事態発生!?立ち込める暗雲】
【凱旋門賞の出走は回避か?喜多野オーナー「他のレースも視野に」】
そうだ、俺はまだ期待されている。
その期待を、裏切るわけにはいかない。
望まれていることから、逃げるわけにはいかない。
(やるしかない)
ファンが望んでいるのだから。
(目を背けるな。前だけを見るしかない)
ファンが期待しているのだから。
『俺は、走るしかない』
例え闘志の炎が消えかかっていたとしても。
俺は、走るしかないのだから。
決意を固めてますよ。前向きになってますね。良かったですね。