ヂェーヴィチ協会員が行く。~ねじれ幻想郷回遊録~ 作:哲学の階のロッカー
「はぁ……!はぁ……! クソ、なんだって……!」
成人男性にしてはやや小柄な体躯の人影が行く。彼の綺麗な銀髪と碧く鋭い視線は仄暗い裏路地の中ではよく目立った。傷一つないやや童顔のその顔も裏路地には似つかわしくないと言わざるを得なかった。
なんだってこんなことになったのか―――北部ヂェーヴィチ協会のフィクサー、イヴァンは何度心の中でその言葉を唱えたか。けれど、返ってくる言葉なんてあるわけがない。
右手でやたらと重たくて仕方のない鞄を持ち、全速力で高い建物の並ぶ裏路地を駆けていた。
直後、前方から破砕音。身の丈ほどもある槌で建物の壁を破壊しながら、目の前に対峙する大男を目にした瞬間、残念ながら舌打ちを止めることはできなかった。
「~~~~~!! ポルードニツァ、強力配達モード!」
[承認。ポルードニツァ、強力配達モード。配達予定時刻から逆算―――フェーズ2から開始します。デリバリーキャリア、出力上昇。迅速な突破を推奨します。]
無機質な機械音声によるアナウンスの直後、引きずっていた鞄の側面から緑色に光るエネルギーで構成された巨大な刃が勢いよく飛び出す。それを一瞥して確認した後、両手で鞄を抱えるように持ちながら大男へと突撃していく。
「―――邪魔だ!!」
フェーズ2から開始、の文言に心の中で悪態をつきながら、刃がついた鞄をまるで大剣を振るうかのように振り回した。大男が槌をこちらに振り下ろすよりも早く、両腕を容易く切り落としてのける。
「ッ!? ―――ガアア!?」
大男が腕を切られたことを認識した時には既に遅く、次の瞬間には強烈な前蹴りが腹部にめり込んでいた。その威力でとてつもない体躯をしているはずの大男が数mも吹っ飛ばされた。
「ま、待ちやが、れ……!」
大男が起き上がろうと地面に手をつこうとした時には、イヴァンは素早くこの場を離れようと走り去っていくところだった。
負け惜しみのような言葉と同時に右手を伸ばそうとするが、もう大男に伸ばそうとした手は残っていなかった。ただ中ほどでバッサリと切られた腕が大男の視界に映るばかりで、振り返りもしないイヴァンの歩を止めることは叶わず、大男は力尽きて路上に倒れ伏した。
***
「ようやく来た……この部屋だな!?」
[肯定。前方の部屋が配達予定座標です。速やかな入室を推奨します。]
廃墟と化したビルの一室の前まで辿り着き、機械鞄に確認を取るイヴァンの声は明らかにイラつきが混じっていた。そのまま軽く息を乱しながらも、バン!と勢いよく扉を蹴り開けて中に入っていく。
[配達予定座標に到着。]
家具も何もなくコンクリートの壁ばかりの部屋に機械音声が響く。辺りは静けさに包まれており、余計に無機質な声が響いている気がした。
それから少しだけ部屋の中で目線を動かしてから、誰も中にいないことに気が付いた。
「なんとか間に合ったが……アイツいないじゃないか。なんでこうなる?」
どこかに隠れているのかとも思ったが、障害物など何もない部屋ではどうやったって身を隠すことなどできはしない。
まだ合流場所を間違えていた方があり得る、とため息を吐きながら思い直した。それでもイヴァンの知る"アイツ"はそういった勘違いなどしないものだと勝手に思っていたのだが。
「おい、ロウゲツ! お前どこにいる!? このビルの中にいるなら返事しろ!」
しばらく逡巡した末、大声で相手のことを呼びかけることを選ぶ。このビル内に住み着いた"ネズミ"だの"捨て犬"だの呼び起こす可能性はあったが、そんなことよりもさっさと配達を済ませてしまうことの方がヂェーヴィチ協会のフィクサーにとっては重要なことであった。
だが、実際はそんな木っ端の返事すら聞こえてこない。静寂ばかりが返ってくるだけだった。
「……最悪、ここに荷物置いてけば依頼は達成だよな?」
[否定。依頼内容は配達物を依頼人に直接配達することなので、直接引き渡しが出来なければ依頼達成とはみなされません。ですが、依頼人は配達予定座標に現れないこと、並びにそのことに関する連絡が来ていない以上はこちらの不手際ではないので、配達予定時刻を過ぎたことに関するペナルティについては発生しません。]
「それさえ聞ければ今はいいか……」
アナウンスの言葉を聞いて、ようやく少しは気が休まると、イヴァンは部屋の壁に背を預け、緊張しきった身体を少しだけ緩めた。
ヂェーヴィチ協会のフィクサーにおいては、予定された配達失敗によるペナルティは果てしなく重い。例えそれが不慮の事故によるものであっても、場合によっては容赦なくそれが自身に降りかかることすらあるのだから溜まったものではない。それが発生しないと分かっているだけでも精神的に少し余裕が出来るというものだった。
だが、今のははあくまで予定時刻を過ぎたことに対するペナルティだけだ。もし、油断してどこかの組織の者に荷物を奪われたり、破損させられるようなことがあれば、すぐに最悪の結末は襲い来るだろう。
そういう意味では、この場でほんの少しでも気を緩めるという行為は遠まわしな自殺行為だと言えるだろう。だが、もう既に数日間ぶっ通しで走り続けてきた、この配達員にはその正論に従って常に警戒を続けるだけの体力は残されていなかった。
例え、それが取り返しのつかないことを引き起こすのだとしても。
[詳細不明な力場を検知。]
「……は?」
今までにない形のアナウンスに一瞬、思考が止まった瞬間―――もたれかかっていた壁の中から空間を突き破り、巨大な異様な掌がイヴァンの右腕を完全に掴んだ。
「なっ!?」
驚く暇もない。そのまま巨大な手はイヴァンの右腕を握りつぶさんばかりに力をかけながら、ズルズルと壁の中にできた異空間へとイヴァンを引きずり込もうとしていた。
「ッチ! 切断ガジェット!」
[承認。切断ガジェットに換装―――完了]
引きずり込まれる刹那、交わされる人と機械の言葉の押収。間一髪でそれが間に合い、機械鞄から飛び出した回転鋸を残った左腕で振るい、右腕を掴む異形の手を切りつける。
「―――硬いな……!」
デリバリーキャリアに複数搭載された武装はどれも生半可な威力ではない。にも拘わらずそれで切り付けた手は多少の傷は負ったものの完全に切断されることはなかった。
だが、どうやらこの異形の手(の持ち主)にも痛覚はあるようで、危害を加えられたことで嫌がるようにイヴァンの右腕を解放した。そのまま転がるように壁に空いた異空間から伸びる手と距離を取る。
「こいつは一体……いや、まずは―――」
不意を突かれた直後とは違い、イヴァンは冷静さを取り戻していた。突如現れた謎の敵対存在―――相手がどのような存在かは知れないが、間違いなくこちらに害意があり、更には見る限り異空間を移動する能力がある。間違いなく逃げることは不可能。ここで打破するしかない―――
「ポルードニツァ、突破ガジェット!」
[承認。突破ガジェットに換装―――完了]
回転鋸を仕舞い込むと、今度は鞄の側面の装甲が厚く変形した。そしてそのまま鞄そのものをハンマーのように扱い、異形の手へと叩き込む。叩き込んだ瞬間、側面部分に仕込まれたピストンが作動し、衝突と同時に打突を行い、破壊力を増大させる。叩き込んだ衝撃で周囲の壁にもヒビが入るほどの一撃が―――
「―――いない!?」
否、叩き込んだその時には異形の手は、壁に開いた異空間からはいなくなっていた。渾身の打突は壁を粉々にするだけで敵本体へは一切のダメージを与えられていない。
すぐにイヴァンが周囲の警戒へと意識を映した時、扉のすぐ傍に異空間が広がり、そこから先の手の持ち主がゆっくりと姿を現した。
それは手だけでなく、全身が異形の怪物だった。その巨大な黒い両手は宙に浮いていて、身体と手と繋ぐはずの腕の部分は丸ごと存在していない。水でできたヴェールのようなものに顔と身体の部分が覆われているように見えるが、その下に透けて見えそうなそれらのシルエットもない。ただ、そのヴェールの形はおおよそ人間の骨格からなる輪郭を保っているように見える。それでもやはり中身があるようには感じられない。
そこに在るはずなのに、無い。そんな曖昧な存在がそこにいた。
「まさか"ねじれ"……なのか?」
ねじれ。ふと口から漏れた言葉だったが、イヴァンは大して"ねじれ"なるもののことを知っているわけではない。ただそう呼ばれる怪物が、最近の都市では所々で発生しているという噂や報告を聞いたことがある程度だった。
確実に存在はしていると思える程度には普遍的な存在にはなりつつあるものの、直接遭遇するような事態を気の毒なほどの不幸だと呼べる程度には珍しい存在。それが一般的なフィクサーの一人であるイヴァンのねじれへの印象だった。
だが、それは今は目の前にいる。自身に襲い来る災害として確かにそこにいた。
目の前の対象に考えを巡らせていると、再び怪物が動き出す。それに合わせて、イヴァンも武器と化した鞄を構え直して―――
「ッ!? こいつ、足元から!?」
不意に足を掴まれる感覚。咄嗟に視線だけで下を見やれば、床下から開いた異空間からこちらの足を掴む、更に二つの異形の手が伸びていた。
「クソ、切断ガジェ―――」
突如、動きを制限された焦りから悪態をつきながら反撃しようと再び鞄の回転鋸を真下の手に振るおうとするが、イヴァンのその動きを見切っていたように、掴んだ足を無造作に振るようにして逆にイヴァンの態勢を崩してくる。
それがまるで本体が出てきてこちらを直接見ているが故に、正確な妨害が可能になったのだとイヴァンには見えた。そう考えが過った途端、全身水で出来ているはずのねじれから本当に視線のようなものが向けられているように感じられた。
《幻想……揺蕩い……沈み……》
「な、何……!?」
《沈み……沈み……忘却……潰え……》
「―――っ、なんだよ……これ……!」
今度は反撃の一手すら潰されたイヴァンの耳に脳に直接響き渡るような声が届く。それは女性のものであるように聞こえるが、その奥からは男性特有の低く重い音が混じっているようにも思える。とにかくそれはまるでイヴァンの心と意識に染みわたり、その言葉の通りに沈み込んでいくような感覚を覚えさせた。
故にイヴァンはゆっくりと潰えていく意識の中で、自分の身体自体も掴まれた両手に引きずり込まれていっていることに気づくことは無かった。
《現実……堕ち……幻想……へ……》
「…………」
完全に引きずり込まれるよりも前に、イヴァンは完全に意識を手放し、最早抵抗することもなく―――
〔警告。配達予定座標からの離脱を確認。直ちに戻ることを推奨。配達時刻を過ぎてもなお戻らなかった場合、処罰の対象になる可能性があります。〕
そうしてただ無情な機械音声の警告だけを残して、一人のフィクサーが人知れず裏路地から消えていった。
***
バッシャアアアアアン!!
唐突に湯煙の中に重く大きい水しぶきの音が響く。何かが高い所から落ちて、思いっ切り叩きつけられるように着水した音。飛び散った飛沫がまるで雨のように遅れて辺りに降り注ぐ。
この場にただ一人、温泉の縁に何をするでもなく水面を見つめてしゃがみ込んでいた緑髪の少女は驚いた様子もなく、その着水したものに目を向けた。
「……人間?」
意識も失って微動だにしない、緑色の厚着をした人間を少女は二つの眼でしかと眺めてから、溺れ死ぬ前に引っ張り上げた。
微かにその感触に人間は目を覚ましたが―――一体何が起きているのか、それもよく分からないままに再び意識を落とした。